(増補版)622E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年3月〜1895年3月)

題:(増補版)622E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年3月〜1895年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1895年3月16日、参議総長の小松宮彰仁親王を征清大総督に
 任命した。
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1895年3月16日、孫文らが興中会を組織し、清朝打倒運動を
 開始した、そして、広東攻撃を計画した。
  その後、広州で蜂起を計画したが失敗し、孫文は、日
 本に亡命した。
  興中会は、孫文が中心となって、ハワイの華僑らと、
 1894年に結成した革命的秘密政治結社だった。
  宣言で、清朝打倒、中華の回復、共和政体樹立(合衆
 政府の創立)を掲げた。
  1895年には、香港に本部を移し、拡大改組し、広東で
 武装蜂起を試みたが、計画が密告され失敗に終わった。
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1895年3月20日、下関の春帆楼で日清講和会議が始まった。
  日本は伊藤・陸奥の両全権で、中国・清は李鴻章で、
 第1回会談が開かれた。
  前回は、清国が、講和のために交渉するには国書では
 なく、全権委任状が不可欠であることを理解していなか
 った・・そのため会議が成立しなかった。
  講和の会談前には、本国の元首、または、政府が授け
 るこの証書があって、その身分が代表であり権限がある
 ことを証明することと、それを確認することは必然なこ
 とであった。
  後日、この不備を、清国の全権講和使節だった二人は
 認めている。
  この不備は、アメリカ駐清公使に要請して書いた「西
 洋方式による国書の原稿を下書き委託した」ところにあ
 った。
  そして、特別な権限を授ける証明も欠如していた。
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1895年3月23日、澎湖島の上陸
  台湾の西方約50kmにある澎湖島に、日本陸軍が上陸し
 た。
  大本営は、1月中から澎湖島への軍隊派遣の準備を進め、
 海軍の連合艦隊と共に、2月1日に、そのための混成枝隊
 (支隊)が編制された。
  混成枝隊の主力部隊は、3月8日に、広島の宇品港を出
 発し・・、
  翌3月9日に、下関で残りの部隊と合流し、佐世保港
 海軍連合艦隊司令長官・伊東祐亨海軍中将の指揮下に入
 り、艦隊と共に台湾方面に向った。
  3月20日、澎湖島の沖合に到達し、上陸地点を島の東南
 部に決定し、
  3月23日、連合艦隊の沿岸砲台への攻撃と、陸軍部隊の
 上陸作戦を開始した。
  そして、澎湖島の中心地の馬公方面に向かう・・これ
 に対し、清国守備隊も迎撃し、激しい戦闘となる。
  3月24日、艦隊による援護の砲撃を受けながら、馬公攻
 撃を開始。
  深夜、清国軍は降伏を申し出て馬公が陥落した。
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1895年3月24日、清国の全権大使の李鴻章が狙撃された。
  3月24日午後3時、李鴻章と日本の内閣総理大臣・伊藤
 博文、外務大臣陸奥宗光が3回目の会談を行った。
  そして、会談を終えた李鴻章が、旅館への帰る途中、
 日本の暴徒(自由党員の小山豊太郎)に狙撃された。
  講和交渉に訪れた使節団の代表が銃撃されるという不
 祥事、国際的非難が日本に集まった。
  その後の講和交渉でも日本側は譲歩を余儀なくされた。
  幸いなことに、李鴻章の怪我けがは命にかかわるもの
 でなく、引接寺内に留まったまま治療を続けた結果、傷
 は快方に向かったため、講和交渉が決裂するといった最
 悪の事態は回避された。
  下関市民から李鴻章へのお見舞いとして、大きなガラ
 ス水槽に海水を満たし、魚や蛸(たこ)を入れて引接寺
 の病室に搬入したという話が伝わっている。
  この裏道が今も残る「李鴻章道」で・・、
  交渉は順調に進み、1895年4月17日、下関条約が調印さ
 れた。
  李鴻章狙撃事件(氷川清話)
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1895年3月28日、鉄道局判任以下宿直及徹夜食料支給方を制
 定(公達第133号)
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1895年3月30日、日清休戦条約が調印された。
  3月24日の第3回会談の帰途、李鴻章が狙撃され負傷す
 る事件が起ったため、日本側は休戦に応じ・・
  3月30日、休戦条約が締結された。
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  (今日の言葉)
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  題:38°線が無くなる・・対岸に北朝鮮の核が来る・・
   そして、日本を裏切るNHK・・中国に利する放送をするNHK・・
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紀元前2万数千年、ネアンデルタール人が絶滅した。
  そして、我々=現生人類(ホモ・サピエンス)の時代
 となる。
  ホモ・サピエンスは、現生人類が属する種の学名で・・
  ヒト属で現存する唯一の種(ネアンデルタール人など
 すでに絶滅した多くの旧人類も含む)
  そして、このホモ・サピエンス絶滅危惧種なのか?
  核保有国が次々と増えて、今後の生存可能性は低下し
 ている。
  この我々=ホモ・サピエンスの祖先が、生まれた地=
 アフリカの地を出て、世界へ広く分布し、生息するよう
 になったが・・、
  この我々のホモ・サピエンス(現生人類)の前に、ア
 フリカを出た人類は・・多く居た。
  その我々のホモ・サピエンスの直前にアフリカを出た
 人類が、「ネアンデルタール人」・・
  最近、科学の進歩で、このネアンデルタール人の遺伝
 子が、我々のホモ・サピエンスの血の中にあることが分
 かった。
  絶滅したネアンデルタール人の遺伝子が・・
  現世に生きるのは「我々=ホモサピエンス(現生人類)
 だけか」と思われていたが、ネアンデルタール人と我々
 =ホモ・サピエンスは交雑し、結婚していた。
  「ネアンデルタール人は、絶滅していなかった」ので
 ある。
  我々の血の中に、その血は受け継がれ・・生存してい
 たのである。
  近代科学、遺伝子研究の発達が、そのことを知らしめ
 た。
  (参考)ネアンデルタール人は、約40万年前に出現し、
     2万数千年前に絶滅したとみられるヒト属の一種
     と説明されている。
      新しい学説では、4万年前に絶滅したという説
     もある・・が・・
      遺骨(化石)から得られたミトコンドリア
     NAの解析結果に基づき・・、
      ネアンデルタール人は、我々の直系先祖では
     なく別系統の人類であるとする見方が有力であ
     り・・
      両者の遺伝子の差異は、他の動物種ならば別
     種と認定されるレベルであり・・、
      ネアンデルタール人ホモ・サピエンスは混
     血できなかったとする考え方が有力であった・・
      しかし・・、
      2010年5月7日のサイエンスに、われわれホモ・
     サピエンスのゲノムに、ネアンデルタール人
     遺伝子が数%混入しているとの説が発表された。
     ・
     ・
     ・
354年11月13日、アウグスティヌスが生まれた(〜430年8月
 28日、76歳)
  アウグスティヌスは、キリスト教が「教父」と呼ぶ、
  また、「聖」を付けて「聖アウグスティヌス」と尊称
 で呼ぶ・・その様な人である・・が・・
  アウグスティヌスには、次の言葉がある・・、
  「人間の性欲こそ、悪を制して善を選べない良い例で
 はないか・・」。
  放蕩生活をしていたアウグスティヌスだからこの様な
 ことを言うという言葉となっている・・
  この言葉は、キリスト教の根本教義である「アダムが、
 禁断のリンゴを食べて以来、人間に原罪が生じ、人間は
 罪を犯す様に生まれた」というキリスト教の根本教義を
 説明する時に、彼の口から出た・・のだが・・
  論拠の乏しいこの様なキリスト教の言葉は・・アダム
 のリンゴの「あり得ない話=神話」を信徒に正しい様に
 思わせ、洗脳し、マインド・コントロールし、原罪があ
 るからと、物事を悪い方向にばかり思い至らせている・・
 積極的・前向きには考えられないように仕向けている。
  アウグスティヌスでさえも、「性欲・・悪を制して善
 を行なう事は出来ない」と言う始末となる。
  この「聖」が付くほどのアウグスティヌスも、若い時
 の自堕落な経験が交って・・さらに、キリスト教の洗脳
 された頭から出てしまった言葉だった。
  若い時に、何人もの女性を泣かせ、たぶらかし、手籠
 め(てごめ)にする様な生活だった。
  男性と女性が、お互いに思いやり、尊敬し、尊敬され・・
  尊敬し合って愛し結婚に至り、幸せな家庭を築いて行
 くという前向きなプロセスを想像することのできない頭
 とされている。
  キリスト教性悪説マインド・コントロールされ・・
  アウグスティヌスでさえ、こような言葉となる・・考
 えとなる・・
  キリスト教性悪説には感化されない様に・・
   ・
   ・
1837年、大英帝国の絶頂期(1837年〜1901年)を代表する
 首相ベンジャミン・ディズレーリは・・、
  「世界は、舞台裏を知らない人には想像もつかない人々
 によって支配されている」と述べている。
  その人たちのことを、キグリー教授は、「国際銀行家」
 と特定している。
  (参考)キグリー教授:キャロル・キグリー(1910年
     11月9日〜1977年1月3日)は、アメリカの歴史学
     者、文明進化の研究者。
      ジョージタウン大学の教授を務めた。
      多数の本を出版し、秘密結社なども研究した。
  その銀行と言っても、庶民が貯蓄や商業活動用の口座
 を開く民間銀行とは違う銀行で・・、
  イギリスでは「マーチャントバンカー」、
  フランスでは「プライベートバンカー」、
  アメリカでは「投資銀行家」と呼ばれ、企業に資金を
 提供する。
  産業革命発祥の地であるイギリス金融界を牛耳るのは・・、
  N・M・ロスチャイルド&サンズ社、
  ベアリング・ブラザーズ、
  J・ヘンリー・シュローダー、
  モルガン・グレンフェル
  ハンブロス、
  ラザード・ブラザーズなど・・17社。
  これらの企業が本社を置くのは、ロンドンの中心部の
 約2キロメートル四方ほどの自治体を形成するシティ・オ
 ブ・ロンドン・・、
  ここに、ロンドン証券取引所イングランド銀行(理
 事の多くは17のマーチャントバンカー)、ロイズ本社な
 どがある・・
  そして・・
  19世紀から現在まで続く金融センターとして、ニュー
 ヨークのウォール街とともに世界経済を牛耳り、手玉に
 取っている。
  そして、日々、変化する金(ゴールド)価格を決める
 のが、5人のマーチャントバンカー達・・、
  1919年9月に設立されたThe London Gold Market Fixing
 Ltdでの値段がゴールドの世界基準価格となる・・
  ここの値段は・・、
  サミュエル・モンタギュー商会、
  シャープス・ピクスレイ、
  ジョンソン・マセソン、
  モカッタ・ゴールドシュミットが、
  N・M・ロスチャイルド&サンズ社に集まり・・、
  N・M・ロスチャイルド&サンズ社が議長になり・・、
  午前10時半と午後3時の2回、値決めする。
  (参考)金の固定:ロンドンの金の固定は、専用の会
     議回線を通じて行われる金価格の設定・・、
      これは、以前はLondon Gold Market Fixing
      LtdのメンバーによってNathan Mayer Rothschild
     &Sonsの前で開催され・・
      ベンチマークは、 ロンドンの地金市場の各営
     業日の2回決定される。
      これは、ロンドン地金市場のメンバー間の契
     約を解決するための価格を固定するように設計
     されている。
  これら5人の銀行家は、17のロンドンのマーチャントバ
 ンカーのメンバー・・、
  N・M・ロスチャイルド&サンズ社は、イギリス・ロ
 スチャイルド本家で・・、
  ほかの4社は、ロスチャイルドの遠戚。
  長い間、世界のゴールド価格を左右して来たN・M・
 ロスチャイルド&サンズ社が、2004年に、金価格設定業
 務から撤退した。
  この時、他のメンバーも交代し、現在、ゴールド価格
 を決定しているのは・・
  スコシア・モカッタ(レバスコシア銀行の小会社)、
  バークレイズ・キャピタル
  香港上海銀行USAロンドン支店、
  ソシエテ・ジェネラル(フランスの大手金融機関、ロ
 スチャイルド系)、
  ドイツ銀行の5社。
  議長は、1年ごとの交代制になり、1か所に集まらず、
 電話を使って・・アメリカ・ドル、イギリス・ポンド、
 ユーロの三つの通貨で値決めされる。
  ゴールドの価格は・・、
  「市場の需要と供給で決定されるのではない」。
  (参照)https://inumimi.papy.co.jp/inmm/sc/kiji/1-1060689-84/
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1924年頃、毛沢東は、プロパガンダ(嘘宣伝)に洗脳され
 ていた。
  毛沢東は、若い時(31歳、1924年頃)、中国・国民党
 に入ってプロパガンダの宣伝戦をやらされて居た。
  この時、毛沢東は、共産党から追放処分を受けていた。
  この時、孫文の後継者と言われた汪精衛に目を付けら
 れ、中国・国民党の中央宣伝部長代理の地位を与えられ
 た。
  そして、国民党の雑誌である「政治週報」の編集長の
 役まで昇進した。
  毛沢東が、日本に対して「あること、無いこと、嘘ば
 かりの嘘宣伝をやる」ことになるが、その様な性癖は、
 この時、身につけた。
  日本は、これに、大分(だいぶ)、してやられ、苦し
 められた。
  南京事件を、様々な欧米のジャーナリストを使って
 「さも、あったように作り上げた」
  その様な嘘作りの国民党宣伝部に、毛沢東は、鍛(き
 た)えられた。
  (参考)汪兆銘(汪精衛):おうちょうめい、1883年
     5月4日〜1944年11月10日、中華民国の政治家・
     革命家。
     (中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的)
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1950年代前半、毛沢東は、アメリカによる日本への原子爆
 弾投下に魅了された。
  そして、原子爆弾を持ちたいと強く願い続けた。
  毛沢東は、1950年代前半を通じて、すべての会議にお
 いて、「中国による原爆所有」について言及していた。
  しかし、毛沢東は、外交的配慮から、それを誤魔化す
 ため・・対外的には原爆への渇望を隠蔽し・・、
 「原爆など不要、人民に頼るべき」と発言していた。
  1946年には、「張り子の虎」発言を行っている。
   スターリンは、中国への技術供与を了承しなかった。
  1949年8月29日、ソ連最初の核実験が成功した。
   この成功により、アメリカによる「核兵器独占」は
   終わった。
  1950年6月25日、朝鮮戦争が始まる(〜1953年7月27日)
  1953年2月2日、アメリカ合衆国大統領アイゼンハワー
   が、一般教書演説において、中国への原爆投下の可
   能性について言及し、中国に対して核使用による脅
   迫を行った。
    そのため、毛沢東には、スターリンに対して、原
   子爆弾の技術提供を要求する口実ができた。
    毛沢東は、中国の核物理学者の銭三強を、モスク
   ワへ派遣するが、ソ連はこれを拒絶した。
    しかし、銭三強は、以降も、ソ連の核研究施設に
   入れてもらうよう交渉を三ヶ月も続けた。
    1950年の中ソ友好同盟相互援助条約には核兵器
   関する協定は含まれていなかった。
    スターリンは、中国に核兵器を持たせたくなかっ
   た。
  1953年3月5日、スターリンが心臓発作で死去する。
    スターリンの死後、ソ連指導部は、西側諸国との
   緊張緩和を目指し、中国へも停戦に協力するよう説
   得を始めた。
    しかし、毛沢東は、原爆を渇望するあまり、朝鮮
   戦争の継続に固執した。
    アメリカ軍が、細菌兵器を使用したというプロパ
   ガンダを巡って、ソ連政府は、中国政府を威嚇して、
   毛沢東は、1953年5月に、ようやく朝鮮戦争の停戦に
   応じた。
    毛沢東が、朝鮮戦争終結に同意したため、ソ連
   新クレムリンは、中国に大型工業計画を売却する。
  1953年6月15日、これを受けて、この日、毛沢東は、
   軍事大国を目指した第一次五ヵ年計画を提起した。
  1954年7月、中国は、台湾侵攻を開始した。
   これは、再びアメリカとの対立を作ることで、ソ連
   に原爆製造技術を要請するためにしたことであった。
  1954年9月3日、金門島へ砲撃を開始した。
  1954年10月1日、ソ連代表ニキータ・フルシチョフが、
   訪中した(スターリン時代には考えられないこと)
    フルシチョフは、15企業の売却と5億2000万ルー
   ブルの借款を約束した。
    原爆については、毛沢東が強く交渉し、ソ連側は、
   中国の原子炉建設援助を不承不承承諾した。
  毛沢東は、核技術をソ連から買うために、「なけなし
 の資金」を投げ出した。
  その為、中国農民たちが飢餓状態になるという「飢餓
 輸出」が冷酷に行なわれた。
  中国を崇拝する日本の中国研究者の加々美光行でさえ・・、
  「毛沢東の大躍進や文化大革命は、毛沢東の決定的な
 誤りによる大失政である事は誰も疑わない」と言う如く
 であった。
  多くの中国国民の方々の人間性が破壊されるばかりの
 施策が行なわれた。
  毛沢東は、都合が悪ければ「中国国民党に行くような
 人間」で、また、粛清もするような人物である。
  この毛沢東中国共産党は、スパイを多用した。
  その酷い例が・・、
  中国国民党に送り込まれた中国共産党のスパイは、出
 世をし、中国共産党軍との戦いで、わざと敗けてばかり
 していた。
  (参考)胡宗南:こそうなん、中華民国の軍人、国民
     政府に属した・・それまで軍功を上げていたが・・
      1930年11月、第1軍第1師師長に事実上任命さ
     れ・・その後、長征中の中国共産党(紅軍)
     討伐のため、胡宗南は陝西省南部でこれを
     迎撃したが、大損害を被って突破を許してしま
     う。
  胡宗南が敗北を続けたのは、中国共産党周恩来によ
 って中国国民党に送り込まれた中国共産党のスパイとし
 て胡宗南の機密秘書となった熊が、何年にもわたって、
 胡宗南の作戦をすべて中国共産党側へ知らせていたから
 だった。
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2000年、「GRU帝国第一巻」(コルパキジ、プロホロフ
 共著)が、モスクワで出版された。
  GRUは、ソ連軍諜報本部情報総局のことで、張作霖
 爆殺はソ連が実行したもので、日本がやったように見せ
 かけた・・と書かれている。
  その記述・・、
  「『グリーシカ』機関の実行したいくつかの工作の中
 でも、一番世間を騒がせたのは、1928年6月の張作霖爆殺
 だった。
  張作霖は、北京政権を牛耳り、露骨な反ソ連姿勢をと
 っていた。
  特別列車が爆破された時、張作霖の乗っていた車両の
 隣の客車にはイワン・ヴィナロフ(ティンゴンの部下)
 が乗車しており、事件現場の写真を撮った。
  謀殺は周到に計画され、日本軍の特務機関がやったよ
 うに見せかけた」。
  張作霖が、ソ連にかなり恨(うら)まれていたのは事
 実で・・、
  張作霖は、1927年4月、北京のソ連大使館に踏み込み、
 中国国民党ソ連が組んでいることを示す証拠を押収し
 たうえ、中国語に翻訳して大部の冊子として公表してば
 らしていた。
  また、1920年代、1930年代のソ連は、暗殺をするのが
 日常茶飯事だった。
  ソ連諜報部には、その様なことをする組織がたくさん
 あった。
  また、この様なやり方が、まったく一致している。
  この関連情報には、まだ未公開部分(公表不許可の
 部分)がある。
  ソ連の諜報やプロパガンダは盛んに行なわれていた。
  日本は、「世界制覇の野望がある」と偽装された事件
 さえある。
  その様なことが書かれている「田中上奏文」があると
 でっち上げられた。
  この「田中上奏文」も、ソ連KGBの前身のOGP
 U(国家合同警察本部)が偽造した文書だと判明してい
 る。
  この「田中上奏文は、偽造文書とはっきりした」が、
 残念なことに、東京裁判の時は、前記の様な事が、まだ、
 不明で・・、
  この「田中上奏文」は重要視されてしまった。
  因みに、「田中上奏文」に、どんなことが書かれてい
 たかというと・・、
  日本が共同謀議して、「支那を征服せんと欲せば、ま
 ず満州・蒙古を征せざるべからず。
  世界を征服せんと欲せば、必ずまず支那を征服せざる
 べからず」・・と書かれていて、
  この文書を天皇陛下へ上奏されたとでっち上げられた。
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2018年1月10日、38度線が無くなる・・韓国が北朝鮮に飲み
 込まれる可能性が大きい・・
  https://www.youtube.com/watch?v=B5vMbIJewV4
  韓国が無くなってしまう!
  藤井厳喜氏が語る。
  (参考)藤井 厳喜:ふじい げんき、1952年8月5日〜
     日本の国際問題アナリスト、評論家、シンクタ
     ンク経営者。
  韓国が無くなる可能性が大きくなった。
  南北の朝鮮統一は、韓国が無くなる形となる。
  文在寅ムン・ジェイン)韓国大統領が、それを望ん
 でいる・・
  表面は、朝鮮民族統一と美しく言っているが・・
  北朝鮮に「取り込まれてよい」としている・・
  一国二制度の方式がとられる・・
  高麗民主連邦共和国金日成が提唱した南北朝鮮の統
 一方法)による・・
  一民族・一国家・二制度・二政府の下で連邦制による
 統一・・
  軍事は統一・・
  トップは、とりあえず北と南に居るが、アメリカ軍を
 韓国から追い出す事を目的とする・・
  統一されて北朝鮮の脅威がなくなれば、アメリカ軍の
 居る理由が無いというのが、その理屈で論理で行われる・・
  過去に、アメリカ軍が、朝鮮戦争で血を流して韓国を
 守ったという貢献・意義の話は・・雲散霧消している・・
  雲散霧消(雲や霧が消えてしまうように、物事が一度
 に消えてなくなる事・・
  朴槿恵(パク・クネ)は、北京に尻尾を振って行き、
 天安門の上から閲兵までするという親中国のそぶり・・
  これに、アメリカは、大変びっくりした・・
  ここまでするか?・・の状態・・
  韓国は、日本の共産圏との緩衝地帯という状況ではな
 くなった・・
  そして、アメリカ軍が、韓国から出るとなると・・
  韓国にある核兵器から何までも、持って出るアメリ
 軍となる・・韓国から引き上げるアメリカ軍となる・・
  THAADミサイル(弾道弾迎撃ミサイル・システム)
 も持って帰る・・
  設置に大反対していた中国は・・にっこり・・
  こうなったら朝鮮戦争で亡くなったアメリカ兵の4万人
 の流した血=韓国を守った血は何だったのかになる・・
  大侮辱状態となる・・
  しかし、だらだら続けるわけにも行かない・・
  韓国は、アメリカの植民地と言って良い状況だったが、
 その韓国にナショナリズムの核(心棒)が無くなってい
 る・・
  核(心棒)が無くなった国=韓国を助ける事は出来な
 い・・
  経済援助・軍事援助も、結局、無駄になる・・
  南ベトナムも、それ(国家の核・心棒)が無かったか
 ら・・滅びた・・
  韓国も、今、国軍が腐敗している・・
  軍備も不備が多い・・
  手榴弾も正常に働かない・・
  自走砲も機能しない・・
  弾が逆に発射する状況・・
  危険な所に行く場合、親の許可を得ることがなされる
 事が慣習化しているという状態・・
  携帯で許可を得る兵に、上官がその携帯電話に出て説
 明するという状態・・
  軍ではない状態・・
  マティス国防長官も、この様な状況を見ている・・
  かつては、立派な軍人も居た韓国・・
  その様な軍人は、パージ(追放、公職から締め出すこ
 と)され、居なくなった・・
  残ったのは、利権あさりをする様な輩の状態・・
  売春斡旋や保険詐欺をする状態・・
  国民の信頼も失われている・・
  国の心棒の軍が、このありさまの韓国・・
  アメリカは、軍人が社会で尊敬されている・・
  韓国の愛国心が失われている今日(こんにち)になっ
 てしまった・・
  今、韓国の核(心棒)が無くなっている・・
  北朝鮮は悪いが、金というアイデンティティ(帰属意
 識)はある・・
  その点、何も無い韓国は、止めた元大統領を打ちのめ
 す様な国になってしまった・・
  韓国は、漂流状態・・
  北朝鮮は、核兵器は放棄しない、そのポーズはしてい
 るが・・
  文在寅韓国大統領は、アメリカとはまったく何も合わ
 ないという大統領・・
  選挙の時から親北朝鮮を表明していた・・
  だんだん親北朝鮮の方向へ進んで来た韓国・・
  財閥が叩きのめされている・・
  庶民に、財閥に対する怨嗟の声が満ちている・・
  サムスン財閥解体が取りざたされている・・
  文在寅韓国大統領も、財閥に否定的・・
  庶民の声に乗って動いている状態・・
  財閥が無くなったら韓国経済は終わる・・
  韓国の求心力も無くなる・・
  その財閥も、ほとんどが外国資本となっている・・
  サムスンも、ほとんどが外国人株主・・
  サムスンが儲けても、韓国の儲けにならない状態・・
  韓国の恨みの文化が、爆発する・・
  韓国GDPの2割を稼いで来た財閥がこの状態・・
  これが無くなったら後に何が残るの?という状態・・
  この最悪事態が起きれば、外国資本が総引き上げとな
 る・・
  韓国経済が、大変な状態となる・・
  今、輸出先が、中国で支えられている・・
  自由貿易を謳う中国は嘘・・
  意図的貿易をしている中国・・
  意図:目論見や目的や考えをもって「わざとするさま」・・
  WTO違反の中国・・
  中国に頼る韓国・・
  だから、言うべきことも言えない韓国・・
  昔の中国の冊封体制が思い出される状態・・
  サムスンの投資も空回り・・
  日本憎しをやることだけで韓国がまとまるという国状・・
  昔のまとまる「反共産の手」は使えなくなっている・・
  残されたのは反日だけ・・
  反共産をしなければ、北の核兵器の脅威もなくなる・・
  北朝鮮がやって来た「対南工作」が功を奏し始めてい
 る・・
  マスコミ、教育界(特に大学)、労働組合が、じわー
 っと親中国・親北朝鮮になった(日本もか?)・・
  韓国の一番の保守系新聞の朝鮮日報でさえ、親中国・
 親北朝鮮・・
  「親アメリカは、ほとんど無い」という状態・・
  大量の工作員がやって来た事が、この様な状況を作っ
 た・・
  日本のマスコミもこの状態・・
  日本以上が韓国・・
  言論の自由だと言ったって親中国・親北朝鮮になるた
 めの発言・・
  国防上で、アメリカや日本と連携する意思も無くなっ
 ている・・
  1976年、カーター大統領も引き上げる発言をしている・・
  韓国は、同盟国の名に値するか?・・
  信頼できるか?・・
  同盟の価値があるのか?・・
  一国二制度の道へ進むだろう・・
  これは、現政権の文在寅韓国大統領の公約・・
  国民へ、一国二制度でやると公約した・・
  38度線は、対馬朝鮮半島の間に来る・・
  北朝鮮テポドンやノドン・ミサイルは、この対馬
 対岸まで来る・・
  竹島にも配備されるのか?・・
  日本の防衛構想は、それを前提にしなければならなく
 なっている・・
  対馬海峡の防衛強化・・
  緩衝地帯のない状態を、日本はこれから経験する・・
  北朝鮮核兵器が、ここまで来る可能性が生じる・・
  アメリカにとっての緩衝地帯の喪失ともなっている・・
  南ベトナムと同様に進む韓国のこの先・・
  アメリカの兵士の血でタイの共産化が防げた・・
  シンガポールの先まで共産化しただろう・・
  ASEAN東南アジア諸国連合)を守った血だった・・
  日本の赤化も守った・・
  今、ひしひしとその波が押し寄せる日本だが・・
  民主党民進党の政権が続いたら(実際は、3年で終わ
 ったが)、とうなっていたか?、赤化していたのでは?・・
  そして、日米安保は解消されていただろう・・
.
2018年12月、起きてもいない南京事件を、「あった、あっ
 た」と言いたい中国政府
  2018年12月のニュースを見ていたら、中国政府が、中
 国国民に、「その日に車のクラクションを鳴らせ」とか、
 「黙とうせよ」とかの命令「法律を作って、無理にやら
 せようとする中国政府となっている」。
  中国国民の声も放送されて居たが・・「法律を作って
 無理に強制するのは意味が無い」と言っている映像が放
 送されていた。
  中国政府は、南京事件が「あった、あった」とは言う
 が・・中国政府は、「このようにして南京事件が起こっ
 た」とは言わない。
  起きてないことが、「言えるわけがない」。
  無理に言おうとすると・・
  「自国軍の中国軍が、日本軍を恐れて逃げて来る中国
 軍の自国軍を、逃げないようにと、日本軍と戦わせよう
 と、中国軍が、自国軍を銃撃して殺す」という話ばかり
 が出て来る。
  だから、中国政府は、「あった、あった」とだけを言
 うばかりとなる。
  中国は、スパイをあちこちに行かせるが・・、
  こんなスパイから「南京事件がでっち上げられて行く」。
  中国国民政府の宣伝部が、中国共産党に繰られていた。
  南京戦の時、邵力子(しょうりきし)は、中国共産党
 勢力から中国国民政府の蒋介石政権へ送り込まれ、中央
 宣伝部の部長になる。
  そして、プロパガンダ工作を盛んにする・・南京事件
 もでっち上げる。
  (参考)邵力子:しょうりきし、1881年〜1967年、中
     国の政治家。
      上海の震旦(しんたん)書院を卒業。
      1908年、中国革命同盟会に入り,
      1910年、『民主報』創刊。
      1916年、上海の『民国日報』の編集長兼発行
       人となり、同時に大学で教えた。
      1919年、国民党加入。
       中国共産党創立時の党員であったが脱党し、
       国民革命期には国民革命軍総司令部秘書長
        (1927〜31) 、黄埔軍官学校秘書長となり、
       蒋介石の信頼が厚かった。
      1928年、国民党中央政治会議委員
      1932年、甘粛省政府主席、
      1933年〜1937年、陝西省政府主席に選ばれ、
       抗日戦争中は国民党宣伝部長、
      1940年、ソ連駐在大使。
       国民参政会秘書長を歴任。
      1948年、国民党革命委員会に参加して国共和
       平を主張
      1949年、人民政治協商会議に出席。
       国民党革命委員会常務委員、
      1954年、全国人民代表大会常務委員会委員(
       広東省代表)、人民政治協商会議全国委員
       会常務委員などの要職にあった。
.
2018年12月12日、まったくおかしいNHKの番組
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教が「日本を
 貶(おとし)める」ように、NHKも日本を貶める行為
 を年がら年中している。
  キリスト教は、「日本の国歌・君が代の斉唱に反対」
 したり、「日本の国旗の日の丸の掲揚に反対」したりし
 ているが・・、
  NHKも、あらゆるNHKの放送する番組で、日本を
 貶める行為や工作をしている。
  その一例が、「クローズアップ現代」である。
  2018年12月12日(22:00〜22:25)のこの「クローズ
 アップ現代(辺野古移設)」について申し上げれば、
  この番組の80%の時間が「反対論の主張」に割(さ)
 かれているという大変不公正な異常状態。
  このNHKの番組のほとんどの放送の時間が、反対に
 ついて放送しているという状況・・
  「反対する市民の発言」が次々と続くという状況で、
 その反対論がほとんどと言って良い番組の放送状態・・、
 市民の賛成論は「まったくない」という不公正な放送番
 組の作り方であった。
  ただ、政府が説明している状態だけという「偏頗なN
 HKの番組の作り方」で、「賛成論がまったく無い」「
 賛成論を欠如した」という番組だった。
  普天間の危険性を無くすために、沖縄県の方々の基地
 負担を無くすために、この様な行動をしているという視
 点の放送が「ほとんど聞こえて来ない」というNHKの
 番組の作り方であった・・
  市民の賛成論を「削った」「まったく無くした」とい
 う番組だった。
  NHKの2人の解説員までが反対論で、また、NHKア
 ナウンサーまでが反対論で・・放送できる状態が成立し
 ない不公正な番組だった。
  日本国民を片寄った偏頗な方向に洗脳しようとする番
 組の作り方であった。
  完全に「放送法違反の番組」だった。
  日本を裏切るNHK・・結局、中国に利する放送だっ
 た・・
  (参考)偏頗:へんぱ、片寄って不公平なこと。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)621E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月〜1895年3月)

題:*(増補版)621E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月〜1895年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年2月23日、全国の官設鉄道の線路名称を統一した。
  創業以来はじめて東海道線信越線・奥羽線北陸線
 の線路名称を定めた(鉄第366号、28年度から施行)
.
1895年2月24日、キューバ革命
  民衆が、ハバナで蜂起した。
  アメリカ・スペイン戦争・・スペイン領キューバの独
 立戦争に、1898年、アメリカ合衆国が介入した。
  そして、スペインを破って、スペインの植民地を奪っ
 た。
  アメリカの「帝国主義戦争」だった。
  1895年2月、キューバでホセ・マルティ指導の第二
独立戦争が始まった。
  革命軍は、島の東半分を解放した。
  1897年秋には、革命政府を樹立した。
  スペインは、大軍を派遣し、残虐な鎮圧作戦を行なっ
 た。
  長い間つづいた戦いのため、島は荒廃した。
  一方・・、
  同じくスペイン領のフィリピンでも、独立の機運が高
 まっていた・・
  しかし、『民族自決の原則』は何のその・・アメリ
 とスペインの帝国主義の乱暴行為が、ここでも始まった。
  1896年8月、独立革命が勃発(ぼっぱつ)した。
   その後、一時は挫折(ざせつ)したものの・・
  1898年に入って、また、再燃した。
  アメリカは、キューバに約5000万ドルの投資と、年
 間1億ドルを超える貿易の利益を持っていた・・
  また、ラテンアメリカ市場と、中米の地峡運河地域へ
 のルートの要所を押さえるのに好適な『カリブ海の要衝』
 として、キューバへの『戦略的関心』をアメリカは抱い
 ていた。
  キューバの動乱は、このアメリカの利益を脅(おびや)
 かした。
  アメリカ政府のマッキンリー大統領は、革命軍を承認
 しなかった・・そして・・利益確保のため、武力行使・・
  1898年初めに、アメリカの一方的介入だった・・武力
   行使行動が始まった・・
  1898年2月、デローメ事件と、メイン号爆沈事件が起
   きた・・うさん臭い動きだった。
  これらの事を利用した「イエロー新聞」の扇動によっ
 てアメリカ世論は激高させられた・・そして・・
  アメリカ経済界の主流が・・戦争支持への転換などが
 あり・・政府も同意を固めさせ・・政府はこの様な世論
 に動かされた・・
  (この様なイエロー新聞などの動きには、日本も被害
 を受けている・・このイエロー新聞に、南京事件がでっ
 ち上げられて、日本も濡れ衣を着せられた・・起きても
 居ない南京事件が「あったとされた」)
  こうして段取りを整えられた状況の中で・・
  1898年4月11日、アメリカのマッキンリー大統領は、
   議会に開戦教書を送った。
   開戦の大義名分が整ったとした。
   これは、キューバ共和国を支援するためではなく・・
   この様な美名のものではなく・・『アメリカ自身の
  利益』を守るために干渉する意図が明らかにされてい
  た・・本音が現れていた。
  議会での激論のすえ、平和回復後、キューバを独立さ
 せるという「自分を納得させる」条件付きで戦争介入が
 承認された。
  1898年4月25日、アメリカが正式に宣戦布告した。
   最初の戦闘は、フィリピン戦線でのアメリカのデュ
   ーイ提督麾下(きか)のアジア艦隊によるマニラ湾急
   襲と、スペイン艦隊撃破であった(1898年5月1日)。
  (参考)ジョージ・デューイ (1837年12月26日〜
1917年1月16日) 、アメリカ海軍の軍人。
      この米西戦争のマニラ湾海戦で英雄となり、
     アメリカ海軍史上でただ一人、海軍大元帥(海
     軍主席提督)の地位を与えられている。
  デューイは、その後、フィリピン人の独立闘志アギナ
 ルドのフィリピン革命軍を『利用して』マニラを包囲し
 た。
  そして、この後に到着したアメリカ地上軍が、1898
 年8月13日、マニラを侵略した。
  しかし、フィリピンの独立軍であるアギナルド軍は、
 可哀想に『利用されただけだった』。
  アギナルド軍は、、マニラから排除され、マロロスへ
 退去させられた。
  一方、カリブ海戦線では、キューバサンティアゴ
 略が主目標とされた・・
  1898年6月末、アメリカ陸軍1万6000が、キュー
バ革命軍を援助するという『名目』のもとに上陸した。
  また、アメリカ海軍も、サンティアゴ港脱出を図った
 スペイン艦隊を撃破した。
  最後に、アメリカ軍と革命軍は、サンティアゴを攻撃
 し・・、
  1898年7月16日、陥落させた・・が・・、
  革命軍は、降伏条約の調印参加を拒否された・・
  ここでも、『革命軍は利用されただけだった』。
  こうして戦闘は4か月で終わった。
  1898年8月12日、休戦協定がなり・・舞台はパリ
講和会議へ移った。
  フィリピンとキューバの代表を『ここでも排除した』・・、
  1898年12月10日、アメリカとスペインだけの間で
結ばれた講和条約は、スペインがキューバを放棄し、フ
ィリピン、グアム、プエルト・リコアメリカに割譲し、
アメリカはスペインに2000万ドル支払うことを約した。
  主役に居ない『演技となった』・・
  このアメリカ・スペインの勝手な舞台劇の末に、アメ
 リカは、戦争中に併合したハワイをも含めて『一大植民
 地帝国』を実現した。
  アメリカは、この様にして世界強国としての帝国主義
 の道に乗り出した。
  しかし、キューバとフィリピンの『本来の所有者であ
 る革命軍』は、アメリカ軍政下で押しつぶされた。
  そして、その国々は、アメリカの保護国と植民地とに
 されてしまった。
.
1895年2月26日、「私設鉄道株式会社ニ関スル件」(法
律第4号)を公布した。
  第一条:私設鉄道株式会社ハ各株式二付十分ノ一以上
   ノ払込ヲ為レタルトキハ其ノ登記ヲ受クルコトヲ得
.
1895年3月1日、京浜および京阪神区間の定期運賃を改
正した。
  学生下等定期乗車券を発売、定期乗車券購求者心得を
 制定、定期乗車券発行規約改正
.
1895年3月4日、流星雨が出現し、愛媛県に隕石が落下
した。
  重さ約71kg。
.
1895年3月6日、鉄道敷設法改正、
  北陸線舞鶴から小浜を経て敦賀に至る鉄道追加(法律
 第11号)
  羽越線および岩越線として新発田から米沢に至る鉄道
 および新津から若松を経て白河本宮付近に至る鉄道追加
 (法律第12号)
.
1895年3月15日、平安遷都1100年紀念祭
  平安神宮創建鎮座式が行われた。
  有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁親王(たるひとしんの
 う・・後に、小松宮(こまつのみや)彰仁親王(あきひ
 としんのう)と交替)を総裁にむかえて行われた。
  会長に近衛篤麿、副会長に佐野常民が就任した。
  平安遷都千百年紀念祭協賛会を設立し、国務大臣も関
 与する国家的な行事となった。
  平安宮朝堂院正殿の大極殿(だいごくでん)を模した神
 殿などが岡崎(現:左京区)の地に造営された。
  桓武天皇を奉祀する平安神宮が1895年3月に完成し
た。
  官幣大社に列せられた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:そして、その国々は、アメリカの保護国と植民地とに
   されてしまった。 
    そして、アイヌを先住民としたいキリスト教の勢力は・・、
   「古来から、アイヌは、北海道に住んで居た」としたい
   のであるが・・しかし、それは嘘で、プロパガンダである。
.
紀元前15万年、日本は大陸とつながっていた。
  この頃のリス氷期末期、日本は樺太ともつながり、ま
 た、朝鮮半島や中国とも繋(つな)がっていた。
.
紀元前15万年〜紀元前7万年、対馬海峡ができる。
  対馬朝鮮半島の間の対馬海峡ができた。
.
紀元前4万年、アフリカを発したホモ・サピエンスが、日
 本列島に到達した。
  この中にアイヌが居る訳はない・・
  アイヌを日本列島の先住民にしたいキリスト教勢力は、
 この中にアイヌが居たことを証明しなさい!
  日本列島に現生人類(ホモ・サピエンス)が現れるの
 は4万年前〜3.5万年前と考えられていて・・
  紀元前3万3000年、日本列島の後期旧石器時代は、
約3万5000年前に始まり、縄文時代へと移行する
約1万5000年前までの約2万年間という長い長い
期間、続いていた。
    この長い期間の間、日本に到達したホモ・サピエ
   ンスは日本列島中を移動し、交雑し、結婚した。
  紀元前3万年、沖縄の洞穴で発見された子供の骨は初
   期現代型新人の特徴に一致する。
   歴史的資料としては、種子島の横峯遺跡から約3万
   年以上前の土層(地層)から、日本国内最古の調理
   場跡が発見されている。
  紀元前2万3000年頃、世界最古の釣針
   日本の『沖縄県』で発見された貝殻製の釣針。
  紀元前2万年、この頃、海面が最も下がった、現在よ
   り120メートルも低下していた。
   本州と四国、九州、それから屋久島、種子島も陸続
   きで、また、ロシアと北海道も陸続きで・・、
    縄文人の祖先たちやマンモスは、ユーラシア大陸
   から歩いて日本にやって来た。
  紀元前2万年、最終氷期の寒冷期で、海面が120メー
   トル以上も低下していた。
  紀元前2万年、日本最古の後期旧石器時代の住居跡。
   日本の住居跡遺跡が整った形で発見された。
   大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡」
  紀元前1万8000年頃、世界最古の土器
   中国『湖南省』で発掘された約1万8000年前の土
   器
   また、日本の『大平山元I遺跡』の縄文土器(約1
   万6500年前)や・・
   太平山元遺跡(青森県外ヶ浜町):日本最古とされ
   る約1万6500年前の土器が出土した集落遺跡
   愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射
   性炭素年代測定により14,500年前と測定された。
   人骨が発掘された。
.
紀元前1万年対馬と九州との間の対馬海峡ができた。
.
紀元前3200年、縄文人は日本中くまなく居て、当然、北
 海道にも住み、その縄文遺跡の一つ・大船遺跡は・・
  遠いアフリカから、はるばる日本に人類が来たように、
 古くて、そして、長い年月をもつ縄文人時代の歴史にお
 いて、縄文人は日本中を移動していた。
  北海道の中にも、当然、その縄文人の遺跡があり・・
 その一つが、この大船遺跡で・・
  アイヌを先住民としたいキリスト教の勢力は・・、
 「古来から、アイヌは、北海道に住んで居た」としたい
 のであるが・・しかし、それは嘘で、プロパガンダであ
 る。
  大船遺跡は、太平洋に面した海岸段丘上に立地し、縄
 文時代前期後半から中期後半(紀元前3,200年〜紀元前
2,000年頃)の大規模な集落遺跡。
  100棟を超える竪穴建物跡からなる住居域と大規模な
 盛土遺構があり、
  その南西には、墓や貯蔵穴を含む100基以上の土坑墓
 群が確認される。
  北海道・北東北の縄文遺跡群は、津軽海峡を挟んだ日
 本列島の北海道・北東北に位置し、
  縄文時代の各時期(草創期、早期、前期、中期、後期、
 晩期)における、人々の生活跡の実態を示す遺跡となって
 いる。
  (集落跡、貝塚、低湿地遺跡)や、祭祀や精神的活動の
 実態を示す記念物(環状列石、周堤墓)で構成された17遺
 跡からなる考古学的遺跡群となっている。
  縄文時代を彷彿とさせる植生や地形など、豊かな自然
 環境が保全されている遺跡が数多くある。
  また、周囲のガイダンス施設や資料館では、発掘調査
 の状況や、縄文人の傑作とも言える土器や土偶などの遺
 物が数多く展示されている。
  1、大船遺跡(函館市):大型の竪穴住居が特徴的な
    大規模集落遺跡
  2、垣ノ島遺跡(函館市):国内最大級の盛土遺構を
    持ち、異形土器などが出土した集落遺跡
  3、キウス周堤墓群(千歳市):掘り下げた土を周囲
    に環状に盛った大規模な周堤墓
  4、北黄金貝塚伊達市):保存状態の良好な埋葬人
    骨や動物遺体が各種出土している貝塚
  5、入江・高砂貝塚洞爺湖町):周辺の自然環境、
    生活や生業(なりわい)、人類学的形質や葬法を
    あらわす貝塚
  6、鷲ノ木遺跡(北海道森町):北海道内最大規模の
    環状列石
  7、三内丸山遺跡青森市):人々の縄文時代観にも
    大きな影響を与えた我が国を代表する集落遺跡
  8、小牧野遺跡(青森市):大規模な土地造成と特異
    な配石によって構築された環状列石
  9、大森勝山遺跡(弘前市):全国でも数少ない縄文
    時代晩期の環状列石
  10、是川石器時代遺跡(八戸市):漆・木製品の優品
    が数多く出土した集落遺跡
  11、田小屋野貝塚(つるが市):日本海側における数
    少ない貝塚
  12、亀ヶ岡石器時代遺跡(つるが市):亀ヶ岡文化の
    名称の由来となった代表的な集落遺跡
  13、太平山元遺跡(外ヶ浜町):日本最古とされる約
    16500年前の土器が出土した集落遺跡
  14、二ツ森貝塚七戸町):東北地方有数の大規模な
    貝塚
  15、御所野遺跡(一戸町):焼失した土屋根住居が確
    認されている大規模集落遺跡
  16、大湯環状列石鹿角市):万座・野中堂の2つの
    大規模環状列石を主体とする我が国を代表する遺
    跡。特別史跡になっている。
  17、伊勢堂岱遺跡(北秋田市):4つの環状列石を主
    体とする大規模な祭祀遺跡
  18、長七谷地貝塚青森県八戸市):東北地方に数少
    ない縄文時代早期の貝塚
     ・
      ・
      ・
1877年、インドで飢饉が起き、500万人が死んだ。
  この原因は、イギリスが、インドの方々へ食料を作ら
 せなかったからだった(イギリスが儲かる綿花を作らせ
 た)
  ヨーロッパの列強諸国は、アジアの都市・沿岸地方に
 おける貿易で利潤を得るのが目的であった・・
  18世紀後半の産業革命を迎えると、原料の供給地と製
 品の市場として広範囲な植民地を直接支配する。
  土地の集約的耕作と輸出用換金作物の大規模栽培は、
 白人の資本の投下によるプランティションで行われたが、
 それはタダに近い土地で、低廉な労働力を使い、莫大な
 収益をあげた。
  マレーのゴム、インドの綿花というように・・、
 特定の一次商品を宗主国に輸出し、完成消費財を植民地
 へ輸入させるという経済構造に変質したため、従来の自
 給型農業が壊滅し、決定的な変化を被った。
  その結果、水田の減少や、失業者の増加により、飢饉
 に際して、多くの犠牲者を出すようになった。
  ジャワでは、なんと人口33万の町が12万に減少した。
  インドでは、イギリスの支配の後に、明らかに飢饉が
 増加し・・
  1877年の南インドの飢饉では500万人が死亡した。
  1943年での犠牲者は、ベンガル地方だけで340万に
も達した。・・イギリスの罪悪は極悪だった・・
  また、大規模農業の急速な開発によって、大量の労働
 者を必要とした列強の宗主国は、大量の移民政策をとっ
  た。
  インドネシアでは、中国人苦人(クーリー)が・・1860
 年の20万人から1930年の123万人と6倍に増加した。
  マレー半島では、鉱山労働者に中国人、ゴム園労働者
 にインド・タミール人が大量に移入させられた。
  これらの移入させられたアジア人は、現地社会と融合
 せず、固有の習慣や宗教を保持したため、複合社会がで
 きあがってしまった。
  また、植民統治では、この移入させたアジア人を金融
 と流通機構に登用したため、上部に白人支配層が、次に
 華僑やインド人などの外来アジア人が、最も人口の多い
 現地民が最下層の地位におかれるという階層社会が造ら
 れた。
  この大量の移民政策の結果、例えば、マレーシアでは、
 マレー人52%、華僑39%、インド人12%という複合
民族国家となってしまった・・複合社会が形成された・・、
  戦後も、深刻な民族対立の原因となった。
  ヨーロッパ列強諸国は、植民地支配への反乱について
 は、きびしい虐殺と弾圧でのぞんだ・・救いを待つアジ
 アの方々だった。
  イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱の様に、
 徹底的な弾圧を加えるという対応をした。
  当時のイギリスの『タイムズ』紙は報じた・・
  「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院
 をたたきこわせ」。
  「白人殺害1に対し、老若男女を問わず1000人の暴
 徒を死刑にせよ」・・と報じ、報復を訴えた。
  事実、イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃殺撃
 や焼き殺しなど、珂責ない虐殺や弾圧を行った。
  フランスのベトナム支配は、監獄をつくることから始
 まった。
  1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人の
ベトナム人が逮捕され、サイゴンの監獄は満員となり多
くの囚人が殺され、死亡した。
  1945年に、ホーチミン国家主席が読み上げた独立宣
 言には、その怒りが込められている。
  「…彼らは学校より多くの監獄を建て、容赦なく愛国
 者を殺害し、蜂起の民を血の川に溺れさせた・・」
  アメリカとて例外ではなかった。
  米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕
 掛けて8万人の陸軍部隊を送り込み、全域を強制的に制
 圧した。
  また、1906年アメリカ式の土地制度などに反発し
 たイスラム系住民の反乱の時は、アメリカ軍は住民らの
 砦を包囲して、戦闘員から女子供をも含めて600人全員
 を皆殺しにしてしまった。
  列強のアジア支配の例として、オランダの350年間に
 わたるインドネシアの卑劣な支配の特徴を、ASEAN
 センターの中島慎三郎理事長は次のように分析している。
  ①オランダの安全と利害に関係ない限り放任し、人民
   を文盲のままにして各地の土侯(サルタン)を使っ
   て間接統治した。
    徹底した愚民政策を強(し)いた。
  ②才智にたけたアンボン人とミナハサ人とバタック人
   を訓練し、キリスト教に改宗させて優遇し、警察官
   や軍人として登用した。
    そして、女性を性奴隷的にして、オランダ人とイ
   ンドネシア人の混血児を作り、中間階級として使っ
   た、また、民族の分断を画策した。
  ③社会の流通経済を華僑にやらせ、経済搾取によるイ
   ンドネシア国民の憤慨と憎悪を華僑に集まるよう仕
   向けた。
  ④インドネシア人の団結を恐れ、一切の集会や団体行
   動を禁止した。
    3人のインドネシア人が立ち話することすら許さ
   ず、禁を犯せば反乱罪で処罰した。
  ⑤インドネシア国民の統一を阻止すべく、全国各地域
   で用いられていた320の種族語をそのままにして、
   一つの標準語にまとめる企ては絶対に許さなかった。
.
1898年、この年の頃から、アメリカは、日本を警戒し始め
 た。
  日露戦争の時までは、アメリカは、日本寄りにいた・・
  日露戦争終結は、アメリカによってできた。
  いつからアメリカは、「日本潰しのアメリカ」になっ
 たのか?
  櫻井よしこ氏は、「日清戦争日露戦争の中間で、
 1898年の米西戦争の後だ」と言われる。
  「アメリカのその様な気持ちが、日露戦争の日本勝利
 で、一層強まった」と言われる。
  ルーズベルト大統領は、ロシアを破った日本を小さい
 ながら注意しなければならない国だと思いはじめた。
.
1900年、アメリカはハワイを得たいと、それまで行われて
 来ていた日本人移民に難癖をつけた。
  日本人移民は、アメリカのハワイ属領制実施の1900
 年から著しく増加した。
  日本政府は、差別的法律が制定されるのを防ぐため、
 1907年、1908年、日米紳士協約を結び、自主的に移
民を制限した。
  しかし、アメリカ人移民によるハワイのアメリカ化は
 酷い状況にあった。
  その様な状況で、日本人移民の移民問題は解決されな
 かった。
  日米通商航海条約の、旧条約の終了と同時に有効とな
 る新条約を結び、留保条項を削除し、関税自主権を完全
 に回復した。
  日本政府は、同時に紳士協約の維持宣言をアメリカ政
 府に伝えたが、アメリカは、1924年、排日移民法によ
 り紳士協約を一方的に廃棄した。
  1939年7月26日、アメリカは、自国の行為は沈黙
して、日本の中国での行動だけに抗議し、条約の廃棄を
通告した。
  野村吉三郎(きちさぶろう)外相は、グルー駐日大使と
 暫定協定締結を試みた。
  しかし、成功せず、1940年1月26日失効した。
.
1919年、この年に、K・ハラ―が、ミュンヘンで結成した
 ドイツ労働党を、ヒトラーが、民族主義社会主義を巧
 みに接合させて・・、
  1920年に、「国家社会主義ドイツ労働者党」と改名
   した。
  1921年ヒトラーが党首となり・・
   1923年、ミュンヘン一揆を企てて投獄され、党は解
   散したが、ヒトラーの出獄とともに大衆政党として
   再出発した。
  1925年の党員数はわずか2万7000人に過ぎなかっ
たが、
   その後、群小右翼団体を吸収して・・膨張した。
  1929年には、党員数が17万6000人、
  1930年9月、ヒトラーは力を付けて来て、総選挙で
18.3%を獲得し・・第2党となる。
  1931年には、党員数が80万6000人
  1932年7月、総選挙で37.4%を得て、第1党に躍
進した。
   軍部や財界と取引を行ない・・膨張する。
  1933年には、党員数が390万人とふくれあがり・・
  1933年1月、政権を獲得した・・卑劣な行為をして
行く・・そして・・
  「ヒトラーのモデルはアメリカだった」という書評が、
 読売新聞(2018年12月9日)に掲載された。
  本の著者は、ジェイムズ・Q・ウィットマン、
  書評の著者は、藤原辰史氏(京都大学准教授、農業史
 研究者)
  以下は・・その抜書き・・
  ナチスがヨーロッパ各地で振るった壮絶な暴力は、遠
 い国の遠い過去の事で、自分には関係ない、と思いがち
 だ。
  そもそも子供たちの前で親を殺したり、子供を拷問に
 かけたり、収容所に送ったり、ガスで殺したり、沼に投
 げ捨てたりというようなナチスの残虐は確かに普段の暮
 らしからは想像しがたい領域にある。
  本書は、こうしたナチスの暴力の根拠となった人種主
 義のアイディアの最大の源泉がアメリカであると主張す
 る。
  私たちがいまなお政治、経済、軍事的に強く依存し、
 その文化を存分に味わっている、好感度の高い国である。
  ヒトラーは、「数百万人ものインディアンを銃で撃ち
 殺して数十万人まで減らした」としてアメリカへの讃美
 を惜しまなかった。
  ナチスは、人種法を制定するにあたって、アメリカの
 移民法や異人種間の結婚に重罰を与える法律、黒人の選
 挙権、移動の自由、職業の選択を制限する制度を学び、
 それを人種法構築に応用したのだった。
  ナチスの著述家たちは、アメリカを「移民立法を通じ
 てその血を蘇(よみがえ)らせようとしている」と褒(
 ほ)めたり、
  「自身の至上性を維持」しそれを未来永劫(えいごう)
 確保するために「外国人種分子の流入を防ぐ」ことに共
 感を示したりする。
  アメリカ白人至上主義が無ければ、ナチスはこれほど
 までにエスカレートしなかったかもしれない・・云々・・
.
1931年、強い対日経済制裁を唱えた対日強硬論者のアメリ
 カのスタンレー・ホーンベックが大きな影響を与えた。
  彼は、日本の真珠湾攻撃直前にあっても、「日本には
 アメリカを攻撃する能力はない」という主張を繰り返し
 た。
  そして、また、彼は、極東問題の専門家として、ルー
 ズベルト大統領に助言したほか、、コーデル・ハル国務
 長官に対しても大きな影響を与えた。
.
1937年8月13日、第二次上海事変が始まる。
  この日の前日・1837年8月12日未明、アメリカに
大規模に支援された中国正規軍本隊が上海まで前進した。
  中国軍の屈指の精鋭部隊である第87師、第88師な
どの約3万人が、国際共同租界の日本人区域を包囲した。
  この様な奇襲を受けるとは予想してなかった日本軍は、
 上海陸戦隊が2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦
 隊が300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊が1200、
出雲の陸戦隊が200、他320の計4000人あまりであっ
た。
  昭和天皇陛下は、常に話し合いを重視され、妥協を促
 される方だった。
  そして、「平和論も出しなさい」と言われる方だった。
  この第二次上海事変の時も、この様に行動なされた。
  第一次上海事変でも、日本軍は過激な行動に至らぬよ
 うにと、事前に、軍に言われて居られた。
  実際、日本軍は自制していて、白川義則大将は、上海
 派遣軍を率いて十九露軍(中国・国民党軍)を撃退した
 が、深追いはしなかった。
  そして、停戦に至っていた。
  これも、昭和天皇陛下のお言葉に依る行動自制だった
 ことは明らかで・・これは、国際連盟でも評価された。
  しかし、この様な停戦の中、膨大な「金と武器」の支
 援が、アメリカによって中国・国民党へなされて・・支
 援されて・・
  そして、この支援に支えられた中国・国民党軍は、膨
 大な日本包囲網を構築して、攻撃を仕掛けた・・、西安
 事件(1936年12月)後の活動など・・暗躍した。
  そして、この度、大々的な攻勢を日本に仕掛けたが・・
 あたかも、完全に、アメリカの代理戦争の様相だった。
.
1942年3月3日、日本海軍が、生死の危うい危険水域で
決死のイギリス兵救助を行なう。
  https://www.youtube.com/watch?v=waT94w434vM
  2018/02/05 に公開
  「正論」2008年10月号掲載 ジャーナリスト・恵
隆之介氏の論文:「敵兵を救助せよ」のそれから/わが
武士道精神の光輝と英国人元兵士の報恩の物語。
  日英両国に咲いた高貴な友情を語る・・から引用
  私は、2003年(平成15年)6月13日、朝7時30
分のNHKラジオ、ロンドン発ワールド・リポートを聞
いて驚嘆した。
  それまで昭和の全ての軍人を批判的に論じた司馬史観
 に傾倒していた私は強い衝撃を受けた。
  このレポートは次の内容であった・・
  大東亜戦争中、ジャワ海の制海権争奪に敗れた米英豪
 連合軍艦隊の残存艦艇は、日本艦隊の隙をついて同海域
 からの脱出をはかった。
  1942年(昭和17年)3月2日午後2時頃、2隻の
イギリス海軍艦艇は、インド洋への脱出を試みてジャワ
海北西海域において日本艦隊に捕捉され相次いで撃沈さ
れた。
  両艦の乗員合計約450人は、脱出し漂流を開始するが、
 約20時間近く経過した翌1942年3月3日、午前10
時頃には、生存の限界に達していた。
  赤道下の強烈な太陽光、欠乏する水分、サメ襲来の恐
 怖で、現代の日本人では理解できないほど極限状態に達
 していた。
  一部将兵は、自決のため劇薬を飲もうとしていたまさ
 にその時、単艦で哨戒行動中の日本海駆逐艦「雷」(
 艦長・工藤俊作中佐)に偶然発見された。
  サー・フォールは、いよいよ機銃掃射を受けて最期を
 迎えると覚悟したところ、「雷」は救難活動中の国際信
 号旗を掲げて直ちに救助活動に入ったのだった。
  甲板に引き揚げられたイギリス海軍将兵を感激させた
 のは、汚物と沈没艦艇の重油で真っ黒になったイギリス
 海軍将兵を、小柄な日本海軍「雷」の乗員達が嫌悪する
 ことなく、両脇から真水とガソリンで一人一人を丁寧に
 洗浄する光景であった。
  220名乗務の駆逐艦が、敵将兵450人を救助した。
  通常なら反乱を恐れてここまでは救助しない、しかも
 この海面は敵潜水艦の攻撃・跳梁が激しかった。
  まさに、決死の敵兵救出劇だった。
  さらに、「雷」は、潮流に流され四散しているイギリ
 ス海軍将兵を一日中・・終日をかけて救助した。
  たとえ1人でも発見すると「雷」は必ず艦を停止し、
 総員で救助した。
  中には艦から投下された縄ばしごに自力で上がれない
 将兵もいたため、日本海軍「雷」の乗員が飛び込んで救
 助する光景もあった。
  「雷」乗員は、敵将兵に供与する艦載の被服が底をつ
 くと、自らの分まで進んで提供した。
  サー・フォールは、この光景に「自分は夢を見ている
 のではないか」と何度も腕をつねったと言う。
  それだけではない、救助活動が終了した頃、日本海
 「雷」の艦長は、イギリス海軍士官だけを前甲板に集め
 た。
  そして、こう英語でスピーチした・・
  「自分は、イギリス王立海軍を尊敬している。
  今回、貴官らは勇敢に戦った。
  貴官たちは、今日は日本海軍のゲストである」
  そして、彼らに、士官室の使用を許し、友軍以上の処
 遇をした。
  ラジオのNHKのリポーターは、興奮を抑えながらも、
 なぜこのような美談が、戦後の日本に伝わらなかったの
 か不思議でならないと発言して中継を終えた。
  さらに、彼は、サー・フォールが、「これこそ日本武
 士道の実践」と発言したことをも付言した。
  この様な行為を、アメリカやイギリスが行なった例が
 あるのか・・??
  敗けが決まっている国に原爆を落とすという卑怯な行
 為はしても、この様な行為はした事はないであろう。
.
1945年8月17日、インドネシア独立戦争(〜1949年12
月27日)
  独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず
 再植民地化したいと侵略を始めたオランダとの間で戦争
 が発生した。
  1945年から1949年までの4年5ヶ月にわたる戦争
で、80万人が犠牲になった。
  オランダは、これは「警察行動」だと屁理屈を言った。
  また、イギリスも侵略をし、この戦争に加わった。
  日本の正義の兵士たちは、大東亜戦争(第二次世界大
 戦)が終わった後もインドネシアに残り、再びインドネ
 シアの国を植民地にして甘い汁を吸いたいと蹂躙する目
 的でやってきたオランダ軍と戦った。
  インドネシアの独立軍に加わって、大東亜の地=イン
 ドネシアの地を、欧米列強の収奪から救おうと、命を投
 げ出して戦った。
  この時、日本軍の残した兵器が大いに役立ち、インド
 ネシアは独立を勝ち得た。
  このインドネシア独立軍と共に戦って戦死した日本兵
 たちは、今、インドネシアの英雄墓地に祀(まつ)られ
 眠っている。
  (参考)1949円12月にインドネシア連邦共和国
成立し・・、
      さらに、連邦構成国が、インドネシア共和国
     に合流して・・、
      1950年8月15日に、単一のインドネシア
共和国が誕生した。
  敗北して去って行ったオランダは、その後、日本を恨
 んだ。
  インドネシアの方々へ酷いことをして来たキリスト教
 国のオランダは、その後、インドネシアへ謝罪の一切を
 していない。
  逆に、インドネシアの独立を助けた日本の悪口を石碑
 にして、インドネシアに立てたりしている。
  恥の上塗り行為をしている。
  まったく韓国と同じ下劣な行為をしている。
  (参考)恥の上塗り:はじのうわぬり、恥をかいた上
     に、また、恥をかくこと。
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1978年12月、中国の改革開放政策
  中国の新たな指導者となった訒小平(とうしょうへい)
 は、1978年12月に、体制転換の政策を打ち出した。
  それまでの計画経済と社会主義を二本の柱とする体制
 から、実質的な市場経済と資本主義を柱とした体制へ、
 中国は転換を図った。
  それまでの中国は、頑(かたく)なに「米国駆逐」を
 口にしていた・・、
  ・・が、しかし、その表現は消えて・・経済発展路線
 に主軸を移した。
  「豊かになれる者から豊かになれ」、そして、「他を
 牽引(けんいん)せよ」となった。
  「米国駆逐」の旗が降ろされ、日欧米の資本を積極的
 に導入したい、また、、資本確保や国外からの技術移転
 など成し遂げたいとなった。
  アメリカを駆逐する敵だという看板を下ろしたが・・
  しかし、今、中国が、以前、持っていた「アメリカと
 いう国を駆逐し、乗り越える国」と見ていた方針は、取
 り下げたという意思表示は無く過ぎて来たが・・、
  その点を自由主義陣営もはっきりと確認することなく、
 自由主義陣営も「中国も豊かになれは、その方針は変わ
 るだろう」と、自分に都合よく期待をしていた・・
  相手に勝手に期待をかけていた。
  しかし、経済発展を遂げた・・経済発展の果実を得た
 中国は、以前の方針が・・アメリカを乗り越えようとす
 る現実の姿・世界が見えて来た。
  自由主義陣営に、中国の社会システムを、また、政治
 システムを同調する様な行動は一切なく・・、
  中国の今までの政治システムが良かったから良くなっ
 たのだぐらいのことを国民にプロパガンダしている。
  「我が方針は間違っていなかった」という自信ととも
 に、「中国は、アメリカの地政学的優位性に挑戦し、中
 国にとって有利な国際秩序を作ろう」という「挑戦し、
 変えようとする姿」が、はっきりして来た。
  アメリカに対抗する姿となって来た。
  「米中新冷戦」の時代に入ったと言われている。
  中国は、中国に都合の良いように変えたい・・、
 そして、アメリカが構築してきた国際秩序を塗り替えよ
 うとしている。
  また、安全保障の面でも、中国の空海軍力の近代化で、
 また、長く続いて来た多大な軍事費の投資で、伝統的戦
 闘空間では、アメリカの一方的な優位性は脅(おびや)
 かされるという状況になった。
  過去の話とは今は違うという状況となった。
  新しい戦闘域である「潜水艦を中心とする水中戦の領
 域」、また、電子線の領域、宇宙戦領域、サイバー戦領
 域、無人兵器戦領域、指向性エネルギー兵器戦領域、そ
 の組み合わせの戦争領域・・それらの新しい米中の競争・・
 その冷戦の時代に入った。
  そして、中国の経済が大きくなって、今、この様な多
 大な投資ができる中国となって・・台頭して来ている。
  しかし、中国の不自然な国家資本主義はそのままで・・
 塗り替えずにいる・・
  アメリカは、その状況を許したことに反省をしている。
  南シナ海の中国の軍事基地の構築の様に、「国際秩序
 の無視の行動」も許さざる行為であるが・・はっきりと
 追及する必要性が明確に存在するが・・不透明な世界と
 なっている。
  この地域は、中国の構築した軍事施設の完全撤去の後
 に、完全に元の環境へ戻したことにより終了し、
  そして、それによって、中国の世界の立場が受け入れ
 られるのであるが・・
  また、世界は中途半端な状況で済ますのだろうか?
  今まで「逃げポーズだったアメリカ」が、ことの重大
 さに気付いて来ている。
.
1994年、中国の毛沢東の「化けの皮が剥がされる結果と
 なった本=毛沢東の私生活」が世界各国で同時出版され
た。
  毛沢東の化(ば)けの皮が剥がされて来ている。
  李志綏(りしすい)が書いた『毛沢東の私生活』を読
 めばよく分かる。
  (参考)李志綏:りしすい、中華人民共和国の医師。
      1954年から1976年の毛沢東の死去まで個
人医師を務めた。
      毛沢東の親友だという。
      アメリカへ移民の後、毛沢東の伝記である「
     毛沢東の私生活」を書いた。   
      中国国内では出版禁止となっている。
      曾祖父は清朝の御医(皇帝の主治医)
      「毛沢東の私生活」の本には中国のプロパガ
     ンダの凄(すさ)まじさが書かれている。
      また、この本の元となった膨大な日記は、迫
     害を恐れて文化大革命の最中に、自ら焼却炉で
     処分したと述べている。
      中国は、この本の内容を打ち消そうとしてい
     るが、毛沢東と李志綏との親しげに一緒の写真
     が多数発見され、中国の打ち消しにとって分の
     悪い状況となっている。
  毛沢東の独裁者ぶり、如何に汚いか、嫌な人物で唾棄
 すべき男かと・・、満州事変、支那事変など、日本軍と
 中国・国民政府軍を戦わせようとしたか、その消耗戦を
 拡大させるため、コミンテルンの謀略や策略を一緒にや
 って戦争を拡大させたか・・「二十世紀最悪の独裁者」
 と言われる。
  ユン・チアン氏の著作の「マオ」でも毛沢東の神話は
 完全に崩されている。
  「古い文化や風習を一掃するのだ」と美しく始められ
 た文化大革命も大失敗で、国民の多くが殺され、毛沢東
 の権力が劉少奇訒小平に移りつつあった状況を取り返
 そうとしたための行動だった。
  そして、この男は、戦勝国でも何でもないのに戦勝国
 に居座った。
.
1995年、原爆が投下されて50年、この年、原爆投下につ
 いての世論調査がなされている。
  質問文は、「アメリカが広島・長崎に原爆を投下した
 ことは、その当時のアメリカとしては正しい選択だった
 と思いますか、それとも間違った選択だったと思います
 か」である。
  以下は、その結果・・(NHKの調査)
       正しい選択・・まちがった選択
  日本・・・・8.2%・・・・・57.8%
  アメリカ・ 62.3%・・・・・25.7%
  韓国・・・ 60.5%・・・・・19.1%
  ドイツ・・・4.3%・・・・・66.2%
  これは、マスコミの報道姿勢に影響されているとコメ
 ントされている。
  特に、アメリカは、原爆投下を批判する言論が高まる
 ことを恐れ、大戦後に原爆投下の正当性を擁護する政府
 の公式見解が、積極的に流布され、洗脳され、世論操作
 がなされた。
  そして、日本の言論や教育が偏向していると批判する
 記事が掲載された。
  そして、その矛先が、日本の政治家や歴史家に向けら
 れ、操作されていると批判した。
  そして・・
  2005年に同様な調査が行われた・・(NHKの調査)
  質問文は、「太平洋戦争の末期に、アメリカが、広島
 と長崎に原爆を落としたのは、正しい判断だと思います
 か。それとも間違った判断をしたと思いますか」である。
  その結果・・
                日本・・アメリ
  明らかに正しい判断だった・・ 0.9%・・22.3%
  たぶん正しい判断だった・・・14.6%・・34.3%
  たぶん間違った判断だった・・33.4%・・21.5%
  明らかに間違った判断だった・38.5%・・14.7%
  わからない、無回答・・・・・12.7%・・ 7.2%
  そして・・
  2015年に、アメリカのビュー・リサーチセンターが
調査した・・
  質問文は、「ご存じかと思いますが、アメリカは1945
 年8月、第二次世界大戦終結間際に日本の都市である
 広島と長崎に原爆を投下しました。ふり返って見ると、
 あなたは1945年に日本の都市に原爆を使用したことを
正当だったと思いますか。それとも正当ではなかったと
思いますか」である。
  その結果・・
             日本・・アメリ
  正当だった・・・・・・14%・・・56%
  正当ではなかった・・・79%・・・34%
  わからない、無回答・・ 7%・・・10%
  そして・・
  参考までに・・
  1945年8月10日から8月15日にかけて、ギャラッ
プ社が世論調査をしている。
  質問は、「あなたは新しい原子爆弾を日本の諸都市に
 対して使用したことに賛成しますか、賛成しませんか」
 である。
  その結果・・
  支持する:85%・・支持しない:10%・・わからない
 5%だった。
  まだ戦争も集結していない敵国・日本の状態であった。
  そして、原爆の本当の恐ろしさも実感できなくて、知
 らない状況で、アメリカの正当化の洗脳も受けていない
 という時期だった。
.
2005年〜2006年、「マオ、誰も知らなかった毛沢東」と
 いう本が、世界各国でほぼ同時に出版された。
  この本は、中国はもとより、旧ソ連、東方諸国などの
 多彩な史料、そして、存命する関係者への取材資料など、
 詳細に調べ上げ、徹底的に何年何月何日という日時まで
 詰めに詰めたことによって、毛沢東の人物像を明確に浮
 かび上がらせた。
  ここまでされれば、反駁のしようのない毛沢東の実像
 が描かれ、この本によって毛沢東の人物像は大きく崩さ
 れ、変わった。
  大人風に見える周恩来にしても、ただただ毛沢東の権
 力の前に膝まづくだけの人物でしかなく・・、
  毛沢東だけでなく、その周辺の人物像も同時に崩れ去
 った。
  また同時に、中国の悪政ぶりの数々もあぶりだされた。
  神格化した毛沢東は、「過去の偶像」と成り下がった。
  日本にいる左派やマスコミの毛沢東崇拝者たちが、た
 くさん居るが、その馬脚を表わし「似非(えせ)者」と
 なった。
  ムキになって本書を批判しているが、空虚なその必死
 の批判が、かえって、この本の痛撃が、当を得ているこ
 とを証明している。
  また、粛清(しゅくせい)の嵐に怯(おび)える中国
 国民の悲惨な現実が詳細に書かれ、中国共産党の支配が、
 如何に苛酷かも分かる。
  中国の国際的な諜報活動が、中国側の資料だけでなく、
 ロシアの公文書や回想録も多用し、ソ連コミンテルン
 の陰謀にも踏み込んでいる。
  毛沢東の虚像の数々をデッチ上げて来た日本のマスコ
 ミや左派専門家の化けの皮が剥がされた。
  共産主義の苛酷さがバレ、人民が圧迫され搾取されて
 いる実態が暴かれた。
  毛沢東中国共産党は、結局、苛酷な農民支配の独裁
 集団でしかなく、また、内部抗争の渦巻く集団でしかな
 い。
.
2011年、中国から1万8000人が国外逃亡・・? 
  汚職マネーが流出する。
  東洋経済誌が報じる・・
  2000年末から2011年までの間に、中国の検察当局
は国外逃亡した職務犯罪(汚職や背任など)の容疑者を
1万8487人検挙した。
  また、最高人民検察院最高検)によると、5年間(
 2005年、2007年、2009年〜2011年)で、不正に蓄
財された財産は541億9000万元(約7000億円)に達
した。
  しかし、国外逃亡した汚職官僚(国有企業職員を含む)
 は少なく見積もっても1万〜2万人はおり、持ち出され
 た資金は1兆元(約13兆円)を下らないという見方が
ある。
  逃亡犯のあまりの多さに、国民は「逃げ得」ではない
 かと感じている。
  昨年(2011年)、中国人民銀行中央銀行)の「腐
 敗資産の国外持ち出しに関する調査報告書」が社会に衝
 撃を与えた。
  報告書には、中国社会科学院の調査資料として、
 「1990年代半ば以降、汚職官僚や国有企業幹部の国外
 逃亡数は1万6000〜1万8000人。
  持ち出された額は8000億元(約10兆円)」という
数字があった。
  後に、別の政府機関から「データが間違っている」と
 指摘があり、共産党中央紀律検査委員会の関係者も「
 8000億元という金額は正確ではない」とするが、この
 数字は実にショッキングだった。
  北京大学「廉政建設研究センター」主任の李成言氏は、
 「国外逃亡官僚は少なく見積もって1万人近くいて、持
 ち出し金額は約1兆元(約13兆円)」と推計する。
  李氏は「1人平均1億元で試算した。国外で国内より
 いい生活を送るには十分な資金が必要になる。1人で数
 億元を持ち出した汚職官僚も多い」と話した。(以上)
  また、別の史料では・・
  中国共産党幹部が、海外へ不正に持ち出した金が20兆
 円以上だという。
  汚職によって得た金を自国の中国ではなく海外へ持ち
 出し逃亡を図っている。
  昔から汚職は、この国では花盛りの伝統の文化とはい
 え、今・現代もなお、盛んに行われている。
  また、今までこの様な中国経済に群がって、利益を得
 よう、利益が得たいと必死になっている諸外国も居た。
  必死に、その中国自体も、自国の存続を図りたいと巨
 大な、そして、莫大な軍事費を使って来ている。
  この様な金が何処から生まれているのか?
  中国は、必死に人民元を刷り、その金が世界のどこか
 の国で蓄積させようとしているが、その帳尻には3800
 兆円以上の借金となっているという。
  日本は、約1000兆円の借金があると言うが、それ以
 上に日本国民が蓄積して来た資産があり、その収支はマ
 イナスとはなっていない。
  しかし、中国は問題である。
  どの様にバランスしているのか?
  アメリカも「借金大国」であるが、アメリカは、せっ
 せとアメリカ国債を刷って、その帳尻をゼロにしようと
 している。
  そして、そのアメリカ国債をせっせと買って、アメリ
 カを支えてあげているのが日本となっている。
  日本は、この様にアメリカ国債を買える状況にある。
  しかし、この様に、アメリカは、借金国債を刷って明
 確に帳尻を合わせている事を世界に明確に示しているが、
 曲者(くせもの)は中国である。
  はっきりしないのである。
  中国で儲けようと、また、儲けたいと諸外国の企業が
 中国に乗りこみ、金を流入させているから、悪い中国の
 帳尻を緩和させているが・・、
  その中国の怪しい状況に、今・現在、資金を中国から
 引き上げ始めている。
  しかし、中国は、とぼけて相変わらず軍事力強化をせ
 っせとして「金をつぎ込んでいる」。
  輪転機を廻して人民元を刷って帳尻りを合わせている。
  一握りの共産党員の支配階級、その汚職と富の一人占
 め、その結果が、20万件もの民衆の暴動の発生が1年
 間で起きている。
  しかし、中国は、その様な実態は、ひた隠しにして世
 界へ平然と振る舞っている。
  チベット民族や、ウイグル民族や、内モンゴル民族の
 事はネットにも記せない状況として「ひた隠している」。
  かつて、この様な状況にあった共産・ソ連が、ある日、
 突然と崩壊したように、この共産国・中国も、突然と崩
 壊する可能性がある。
  その時、中国へ持って行った種々の企業や人々の資産
 も、取り戻せなくなる可能性が存在している。
  だから、不正をして得た中国共産党幹部は、せっせと、
 今、海外へ不正に金を持ち出している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)620E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月〜1895年2月)

題:(増補版)620E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月〜1895年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年2月1日、第一次講和会議
  経過は・・
  1894年11月上旬から米、英、露が調停のための斡旋を
   開始する。
  1894年12月4日、伊藤博文内閣は、「威海衛を衝(つ)
   き台湾を略すべき方略」を大本営に提出する。
  1895年1月31日、清国使節の張蔭桓と邵友濂が講和のた
   めに広島に到着した。
  1895年2月1日、陸奥宗光は、この日の会談において、
   清国使節の両者の持っている書簡は『全権委任状で
   はない』、さらに、『地位についても不十分な状態』
   で、これでは講和会議を開催する事は出来ず、また、
   講和を結ぶことができないとした。
    伊藤博文は、清国使節団の随員・伍廷芳に、李鴻
   章か恭親王を全権大使として求めた。
  結局、日清講和会議が広島で始まるが、清国側の信任
 状不備が理由で、会議は進まなかった。
,
1895年2月2日、日清戦争における威海衛制圧。
  威海衛の戦いは、1895年1月12日から始まっていたが、
  1895年1月25日、大山巌第2軍司令官が栄城県に到着し、
  1895年1月26日、さっそく、第2師団を左縦隊(内陸側)
   にし、また、第6師団を右縦隊(海岸線)に並進する
   作戦を開始した。。
  1895年1月30日、第6師団は、百尺崖・摩天嶺での激戦
   を行ない・・威海衛湾の南岸要塞群を攻略した、移
   動する距離、約60km。
  1895年1月30日の同日、第6師団の攻撃にあわせて、第
   2師団は、南岸要塞群の西側、鳳林集の東南高地を攻
   略する。
    清国軍は、防衛線の一角を破られたこともあって、
   威海衛市街とその周辺、北岸要塞群などを放棄した。
   そして、撤退を始めた。
  1895年2月2日、第2師団は、清国軍撤退で無抵抗状態に
   なった北岸要塞群などを制圧した。
    この威海衛湾の山東半島側を、日本軍が制圧した
   結果・・、
    湾の出入口にある要衝が制圧され、劉公島と日島
   の守備隊や、北洋艦隊の残存艦艇14隻は孤立するこ
   とになった。
.
1895年2月5日、この日の午前3時20分、前日の2月4日の夜か
 ら闇にまぎれて、清軍によって仕掛けられていた防材を
  かわし、威海衛湾内へ入ることが出来た日本海軍の水
 雷艇部隊は、北洋艦隊の砲撃をものともせず予定してい
 た通り、攻撃を開始した。
  その魚雷攻撃は至近距離から効果的に行ない・・北洋
 艦隊の旗艦「定遠」を大破させた。
  危険状態となった清国兵は反乱状態となる。
  北洋艦隊へ軍事顧問となっていた外国人顧問は、清国
 北洋艦隊の丁提督に降伏を求めた。
  また、「来遠」「威遠」等の3隻を撃沈させ、
  1895年2月9日の明け方にも、日本軍は、水雷艇部隊を
 威海衛湾内へ入れて、2回目の襲撃を行った・・
  そして「靖遠」を撃沈した。
  1895年2月11日、降伏を拒否していた丁汝昌提督は、李
 鴻章に宛てて「艦沈ミ人尽キテ後チ己(や)マント決心
 セシモ、衆心ハ乱レ今ヤ奈何(いかん)トモスル能ワサ
 ル旨と決別の打電を行った。
  そして、その後に、服毒自決した。
  1895年2月12日、「定遠」艦長と劉公島の地上部隊指揮
 官も自決した。
.
1895年2月12日、清国の北洋艦隊が降伏した。
  長崎で、その威容で日本に圧力をかけ、また、長崎市
 内で日本を馬鹿にして暴れ回った清国の北洋艦隊は、こ
 の日に、降伏した。
.
1895年2月19日、清国が、李鴻章を講和全権に任命した。
.
1895年2月22日、べースボールが野球と翻訳される。
  中馬庚(ちゅうま かのえ、1870年〜1932年)野球選
 手・教育者。鹿児島の生まれ。旧姓、今藤。
  第1高等学校野球部で二塁手として活躍した中馬庚は、
 1895年発行の「第一高等学校野球部史」で、「ベースボ
 ール」を「野球」と訳した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:実態は、「地主が中国共産党員にすり替わっただけ」。
    かえって「国民党時代より厳しく搾取が行われている」。
.
12世紀、満州民族が存在した。
  満州は・・、
  渤海(ぼっかい)・金朝・後金・清朝を建国した満洲
 民族や・・、
  夫余(ふよ)・高句麗を建国した濊貊(わいはく)族、
 鮮卑(せんぴ)・烏桓(うがん)・契丹(きったん)・
 奚(けい)などモンゴル民族・・の地である。
  現在の中国の漢民族には関係のない地である。
  尚、現在の中国は、地域名称として「満洲」を使うこ
 とを禁止している・・かわりに「中国東北部」を使うよ
 うにせよとしている・・必死に自国領との印象付けをし
 ている・・これは、歴史を無視したプロパガンダ政策で
 ある・・
  満州の地を、太古から不可分の中国人(漢民族)の固
 有の地としたいからである・・まったく歴史的事実を無
 視している。
  また、満州語は、中国・清朝では公用語であった。
  しかし、現在に至り、中国政府の同化政策によって、
 話す人が極めて少なくなっている・・話す人を消してい
 るからである・・消滅の危機となっている言語である。
  どんな同化政策が行われたのか??
  今・現在、」ウイグルを同化させようとしているが、
 虐殺と監禁である・・そして、ウイグル語を話せなくす
 る教育である・・
  そもそも、この満州の地は、もともと、中国(漢民族
 が目もくれない「不毛の地であった」「化外の地であっ
 た」。
  太古(たいこ、おおむかし)の時代、紀元前1046年〜
 紀元前256年には、今の中国の地には周(しゅう)が存
 在した・・
  その頃には、粛慎(しゅくしん、満州に住むツングー
 ス民族)が遊牧していた・・漢民族なんか「まったく関
 係ない」・・
  (参考)鮮卑:せんぴ、紀元前3世紀から6世紀にかけ
     て中国北部に存在した遊牧騎馬民族
      五胡十六国時代南北朝時代には南下して北
     魏などの王朝を建てた。
  (参考)烏桓:うがん、紀元前1世紀から紀元後3世紀
     にかけて中国北部(現在の内モンゴル自治区
     に存在していた民族。
      「三国志」などでは烏丸と表記された。
  (参考)契丹:きったん、4世紀から14世紀にかけて、
     満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧
     の民族。
      10世紀初頭に、現在の中国の北部に帝国を建
     国し、国号を遼(りょう)と号した。
      しかし、12世紀に入り次第に勢力を強める女
     真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に
     滅ぼされた。
      契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中
     央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建て
     た。
  (参考)奚:けい、4世紀から10世紀頃までモンゴル高
     原東部から中国東北部にあるラオハムレン(老
     哈河)流域とシラムレン(遼河の支流)流域に
     存在していた遊牧民族
      初めは庫莫奚(しゃまくけい)と呼ばれてい
     た。
  以上の様に、漢民族の「かの字もでない」という地で
 あって・・中国が主張する様な領土ではない。
  満州という地は、「中国とまったく関係のない地」で
 あることは明らか・・、
  万里の長城のはるか北方に位置していて、中国自身が
 「化外の地(けがいのち)だ」として・・
  「化外の地」は、中華思想では、中国の権力・法律が
 行き届いていない地方だと言った。
  さらに言うが・・今・現在の中国の漢民族が、領有権
 を主張できるような地ではない。
  だから・・その様な地であるから、中国は、万里の長
 城を築いたのであった・・ここを国境としたのであった。
  また、朝鮮・韓国では、この地に朝鮮族が居たという
 ので、小学校では、この満州を「我が領土だ」と教えて
 いる。
  日本は、この地を「五族協和」として、一番多い満州
 族の建国を助けた。
  今・現在、漢民族の中国が「我が領土だ」としている
 が、まったく、その根拠がないからだった・・
  リットン調査団も、中国の地だなんて言わなかった。
  日本の行為を認めていた・・
  領土欲を持つロシアが、南下政策をとって・・ここの
 権益を奪い、まったく関係ない中国と関係を持ったのが
 問題の発端だった。
  そして、領土欲あるロシアは、大連などの不凍港が欲
 しいと利権を漁った。
.
1789年、この年のベトナムの書によると・・、
  ベトナムのタイソン(今のビンディン)で一揆を起こ
 し、ベトナムに侵略していた中国の清に打撃を与え、駆
 逐した将軍・グェン・フェ(玩恵将軍)・・、
  また、ベトナムの南部と北部に分裂していた状態を終
 わらせて統一したグェン・フェ(玩恵将軍)・・
  この将軍は、象を調教し、有力な戦闘武器として確立
 した。
  そして、その象兵が、重要な戦闘力を持つ軍団で、象
 を有力な武器として活用した。
  中国の清軍と戦う時、百頭ほどの牡(おす)象を先陣
 に配置した。
  この様な象軍団を見慣れていない清軍の騎兵隊侵略軍は、大
 いに、驚ろき、恐れた。
  清軍の戦陣は、混乱状態に陥(おちい)った。
  象は、戦時の勝敗を決める重要な部隊であった。
  1頭の象の背中に180㎏ほどの大砲を載せたりもした・・
 また、60㎏の大砲を2丁乗せる場合もあった。
  象使い2人が、象の背中に乗って、その大砲を撃ち放
 った。
  敵の規模に応じて、象の数を数十頭の場合もあれば、
 数百頭の場合もあった。
  象の調教師は重んじられた。
.
1930年代、この頃の中国共産党は、中国農民の方々のお蔭
 で存続していた・・存亡の危機でもあった・・
  例えば、占領した中央ソビエト区(江西省福建省
 南部境界域)では、10万人以上の紅軍兵士と、多数のソ
 ビエト政府の人員を養うには食糧が不足した。
  その為、農民たちへ、中国共産党は、苛酷な国民政府
 時代以上の税をかけた・・中国農民方々は苦しめられた。
  この中国共産党軍の取った作戦といえば・・「敵が進
 んでくれば・・我退く」だった。
  格好良く言えば「遊撃戦術」であるが・・敵が強いと
 なると、その世話になっている農民方などの「保護すべ
 き住民」を捨て去り、置き去りにして、サッサと逃げ、
 退却し、逃げ去って行った・・まったく無責任な軍隊だ
 った。
  南京の場合も、南京の住民を置き去りにして逃げ去っ
 た(この場合、中国国民党軍)。
  プロパガンダされている事・・共産主義だから科学的
 であって、住民を大切にする共産党だ・・なんて、まっ
 たくのプロパガンダ(嘘宣伝)で・・、
  洗脳され、頭に詰め込まれた思いで・・、
  こんな中国共産党軍が、延安の中国の奥地の奥地に隠
 れていた。
  日本軍とまともに戦ったことのない中国共産党軍だっ
 た。
  格好良く「日本軍と中国国民党軍の消耗を待っていた」
 と言うが、「これも嘘」、兵が激減して戦える状態では
 なかった。
.
1933年3月4日、ルーズベルトが、アメリカ大統領になった。
  ・・が、この大統領は、非常に中国贔屓(ひいき)の
 大統領だった。
  ルーズベルトの家系は、中国貿易に従事し、儲けて来
 ていた・・その様な環境に生まれた大統領だった・・当
 然、ルーズベルトの家庭環境は『親中国』だった。
  ルーズヘルトは、母親から何度も、快速線「クリッパ
 ー号」に乗って香港を訪れたことを、幼い頃より何度も
 聞かされていた(幼いルーズベルトは、親中国の洗脳頭
 となった)。
  そして、ルーズベルトは、海軍省に居た時、日本を仮
 想敵とする『オレンジ・プラン』の立案にかかわった。
  大統領就任後の初閣議で、「対日戦争は、一つの可能
 性だ」という表現を使った・・アジアの情勢を語った。
  中国の蒋介石夫人の宋美齢は、アメリカの反日世論を
 煽(おあ)りまくった。
  また、戦争のきっかけとなったハル・ノート文案作成
 に積極的に関与したアメリカ人のハリーホワイトは・・
 ソ連のスパイだった。
  ルーズベルト大統領のアメリカは、中国と、がっちり
 結びついていた。
.
1930年代、日本の満州経営は下降線をたどった。
  アメリカは、「中国に遅れてやってきた国」だった。
  アメリカは、「中国を開放せよ」と言った。
  これは、「アメリカにとって」、中国は開放されてい
 ないと叫んでいるようなもので・・
  遅れてしまったので、アメリカには開かれてないと言
 っているようなものだった・・
  遅れて来て、中国のうまい汁が吸えないという叫びだ
 った。。
  アメリカは、必死に中国とのつながりを持とうとした。
  満州の鉄道利権を狙った。
  満州での鉄道を含む各種の権益の租借権は、もともと
 中国の清国が、ロシアに対して与えたものだった。
  そして、日露戦争で戦勝した日本は、賠償金の代わり
 に、ロシアの持つ満州の権益の租借権を得た。
  侵略で奪ったというのは、日本を貶(おとし)めるプ
 ロパガンダ(嘘宣伝)で、この様な満州の鉄道利権を日
 本から奪おうとするのがアメリカで・・アメリカは、日
 本の利権を狙った。
  その様なアメリカと関係を持った中国は、様々な形で、
 日本の権益行使を妨げようとした。
  そして、変な・・馬鹿々々しい屁理屈を言った。
  例えば、鉱山の採掘権を持つ日本に、「ある鉱物の採
 取権は確かに日本に与えたが、その他の鉱物は採っては
 いけない」・・と・・
  この様な採掘ができる訳は無い。
  採掘する鉱石には、様々な鉱物が含んでいるのは常識・・
  例えば、鉄鉱石を採掘しても良いが、同時に出る「イ
 オウ」などは採ってはいけないという様な理屈であって・・、
  「ベニスの商人」で、「肉を切り取ってもいいが、血
 は一滴も流してはいけない」というようなもの。
  また、アメリカが、日本の満州鉄道の路線を敷いてい
 るのと並行して、アメリカが線路を敷くのを許可した。
  常識でも、この様な事をしてはいけないが・・
  日本は、ちゃんと中国と話し合って、条約で、この様
 な行為はしてはいけないと・・条約で契約していたので・・、
 中国がアメリカに許可した行為は、日本との条約違反行
 為だと抗議した・・「止めさせることは出来た」が・・
 この様な不法な妨害をするという状況だった。
  しかし、日本の満鉄の輸送に対抗する新しい鉄道網を
 建設し始めるという状況だった。
  1930年代には、満鉄を核とする日本の満州経営は下降
 して行く。
  後から来たアメリカは、先行して美味しい汁を、すで
 に吸っているイギリスやドイツの権益を狙うという事が
 できずに、日本の権益を狙うという姿だった。
  また、日本は、国際社会への説明が下手で、不十分だ
 った。
  中国やアメリカなどの宣伝に対し、不器用な日本だっ
 た。
  日本は、中国のプロパガンダにもやられたが・・アメ
 リカは、自国民に「日本を悪役に仕立て、その悪訳ぶり
 をいやというほど吹き込んだ(アン・フェアなアメリカ)
  これが、第二次世界大戦の素因の一つとなった。
.
1937年11月28日、南京事件を捏造(ねつぞう)する中国
  この日に、20万人の人が、南京に居ることが発表され
 ている。
  日本軍が南京を攻めて、南京に入るのが1937年12月13
 日であるから、その半月くらい前の南京の人口である。
  この人口数は、中国人の警察庁長官の王固磐が、開か
 れた記者会見で発表した人口数であった。
  また、日本軍の南京入城の5日後の1937年12月18日には、
 南京国際委員会という「南京の住民が集まっていた安全
 区を管轄する委員会」が、「南京の人口は、20万人」と
 発表している。
  (中国は、今・現在、日本軍が、南京で30万人殺した
 と言っている・・これは、嘘だとはっきりしている)
  また、日本軍が入城した1週間くらいの後の1837年12月
 21日には、南京外国人会が、「南京の20万市民」と言及
 している。
  そして、1938年1月14日には、国際委員会が南京の人口
 を25万人に増えたと公表している。
  日本軍が、食糧を配ったり、種々の住民のための行為
 をしているので、住民が戻って来たのだった。
  日本軍は、南京の方々へ、食料を配ったりして、大変、
 配慮をしている。
  上智大学教授の渡部昇一氏も、南京陥落から1ヶ月後に
 日本軍は、約25万人の住民に食糧をを配ったという記録
 があると言われている。
  また、占領後、日本軍は、民間人に化けた中国兵(便
 衣兵:べんいへい、一般市民を盾にして隠れる卑怯な兵)
 と本当の民間人を区別するため、ひとりひとりと面接を
 したうえで、民間人と認められた人々に「良民証」を発
 行している(1937年12月から1938年1月)。
  60歳以上の老人や10歳以下の子どもは兵士ではないか
 ら、その間の年齢の人々に良民証を発行し、その発行数
 が16万人に達した。
  南京国際委員会のメンバーとして南京にいたルイス・
 スマイス教授は、南京の日本大使館の外交官補・福田篤
 泰氏に宛てた手紙の中で、「この数によれば南京の人口
 は25万〜27万人程度だろう」と書いている。
  この様に南京入城後、南京の人口が増えたりしていて、
 良好な、そして、安定した状況だとすぐわかる・・
  この様な状況の中で、中国の言う「南京虐殺が起きる
 訳がない」。
  中国は、それも30万人だと、勝手、気ままに大きく増
 やした嘘の人数を世界に言いふらしている。
  南京事件があったという発端は・・「作られた嘘だ」
 とはっきりしている・・
  イギリスの新聞「マンチェスター・ガーディアン」の
 中国特派員の記者ティンパーリーは、「最悪の嘘つき記
 者」だった。
  ティンパーリーは、中立的立場の欧米人ジャーナリス
 トを装っていた。
  この男の実態は、蒋介石の国民党に雇われた『工作記
 事を書く記者』だった。
  南京事件をでっち上げた。
  最初に書いたのもこの記者だった。
  国民党は、ティンパーリーへ書くための情報(嘘の捏
 造情報)を与えた。
  この様な記事が世界へ流れて行き、南京事件は捏造さ
 れた。
  ティンパーリーでさえ、国民党へ行く前は、この様な
 虐殺記事は書いていない。
  そして、ティンパーリーは、国民党から与えられた情
 報で二冊の南京事件の本を書いた。
  そして、その中でも書いた向井、野田両少尉の百人斬
 りの記事(東京日日新聞の記事)を、東京の英字紙であ
 るジャパン・アドバタイザーが転載し、世界へ広まった。
  日本が酷いことをしているという印象を与えた。
  向井・野田の二人は、この記事を証拠とされ戦犯とし
 て死刑となった。
  しかし、これは、ジャパン・アドバタイザーでも「一
 対一の刀の斬り合い」と書いている・・百人斬りではな
 い・・この様に、これは、普通の戦闘行為だった・・ね
 つ造された・・
  ティンパーリーが、「殺人競走」というタイトルを付
 けた・・嘘記事を書いた。
  この事から「普通の戦闘行為」とは受け取られ無い、
 酷(むご)い行為が行われているという事になって行っ
 た・・
  あたかも戦闘以外で、民間人を殺戮して行ったという
 様に受け取られる・・嘘記事が事実の様になってしまっ
 た。
.
1945年8月8日、日本とソ連との間には日ソ中立条約が締結
 されていた(1941年4月)・・しかし、ソ連はその条約を
 一方的に破った。
  そして、1945年8月8日に満州南樺太(現:サハリン
 南部)などに攻めて来た。
  この時、6歳11ヶ月のなかにし礼氏は満州にいた。
  その時のことを、読売新聞(2018年11月5日)に記して
 いる・・以下はその文・・
  その日はやって来ました。
  1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍が満州に進撃。
  2日後、牡丹江に編隊を組んだ無数の飛行機が来襲しま
 した。
  耳をつんざく大音響とともに、わが家の向かいの陸軍
 の兵舎から火花と黒煙が上がりました。
  家の前で遊んでいた私は慌てて家の中に逃げ、母の胸
 に飛び込んだのです。
  夜になると、北の空が真っ赤になっていました。
  ソ連の戦車部隊が迫っていたのです。
  運悪くこの時、父は新京(現:長春)に出張中。
  しかし、「逃げる」と決断した母は、つてを頼り、軍
 人やその家族を退避させる軍用列車に乗せてもらう手は
 ずを整えました。
  母はしんを抜いた帯に札束を詰め込み、何重にも私の
 体に巻き付けました。
  6歳の子供が大金を持っているとは誰も思わないという
 計算からでした。
  避難列車を待つ日本人でごった返す牡丹江駅前通りを
 抜け、人目を避け離れた場所に止まる列車に母と姉、使
 用人たちと共に乗り込みました。
  「これは遠足みたいなもので、またここに帰って来る
 んだ」。
  まだ、そう思っていました。
  翌朝、列車は突然止まり、誰かが「敵機来襲」と叫び
 ました。
  皆われ先に外へ飛び出し、身体の小さな私はとっさに
 座席の下にもぐりました。
  ソ連機は列車に向けて機銃掃射を繰り返しました。
  それが終わり、我に返ると、目の前には頭を射抜かれ
 血を流している軍服姿の男が倒れていました。
  あと数十センチ銃弾がすれていたら、私が死んでいた
 のです。
  おびただしい死体は、生き残った者によって外に放り
 出されました。
  それにすがって泣きわめく家族・・。
  死体が原野に落ちると、現地人が集まり、服や金歯な
 どをはぎ取る。
  天国だった満州はわずか1日で地獄に変わったのです。
  しばらく進むと、ソ連機の再度の襲撃で列車は動かな
 くなり、代わりに用意された無蓋の貨車に乗り換えまし
 た。
  おそらく先行した軍用列車も同じ目に遭ったのでしょ
 う。
  線路脇には行けども行けども丸裸の死体がころがって
 いました。
  中国人の運転士はたびたび列車を止め、先に進むのに
 金品を要求しました。
  目的地のハルピンに到着したのは、15日昼ごろでした。
  しかし、私たちはなかなか列車から降ろしてもらえま
 せん。
  突如、銃声が激しく鳴り響き、馬にまたがった満州
 たちがホームに押し寄せ、何かを叫びました。
  それを聞いた日本の軍人が立ち上がり、「皆さん、日
 本が戦争に敗けました」と言ったのです。
  「私は中国語が少しわかりますが、今から満州軍が日
 本人を支配すると言っています」。
  貨車の中にはすすり泣きの声が広がりました。
  母も姉も泣いていました。
.
1945年8月28日 中華民国で、中国国民党蒋介石らと、中
 国共産党毛沢東とが会談した。
  重慶で会談が始まって・・
  1945年10月10日、双十協定が成立したが・・
  会談は事実上決裂し、国民党と共産党は内戦に突入し
 た・・
  この両者には、とうてい理解しえない国の将来に対す
 る基本的考え方の違いがあった。
  各地で小競り合いの戦いが起こり・・
  1946年7月には、本格的な内戦へと突入した。
.
1958年8月、ご都合主義の中国。
  中国は、自分に都合が良いことを一部の人間が決める
 という国である。
  憲法があったって、自分の憲法だけれども無視した。
  憲法だろうが、法律だろうが、そんなものあったって
 「糞、くらえ」となっていた。
  1958年8月、毛沢東が、北載河で、各省の共産党書記を
 集めて演説を行った・・それには・・
  「法律に依拠して多くの人を治める事は出来ない」と・・
  中国憲法軽視の発言をはっきりとする・・
  「憲法は、私が参加して制定したものだ。しかし、私
 は記憶していない」と・・(心には、はっきり、知るも
 のかの心がある)
  それでは、何によって統治するのか?・・というと・・
  毛沢東は言う・・
  「我々の毎回の決議が総べて法律なのだ」と・・また・・
  「会議も法律だ」と・・だからと言う・・
  「我々の各種の憲章に基づく制度は、大部分、90%は
 関係当局が作ったものだ・・我々は、基本的にはこれら
 に依拠しない」と・・
  「依拠するのは決議と会議の結果だ」・・そして言う・・
  「我々は、我々のものに依拠する」と。
  まったく呆(あき)れる・・その日に思ったことが憲
 法だの発言となっている・・
  「我々が決めた憲法や法律に依拠する」とすべきだ。
  この様に、中国は、一握りの者たちの胸三寸で決める
 国である。
  格好良く「人治主義だ」なんて言うが、中国は、その
 日の風向きによって右にも左にも行く一握りの王様の国
 なのである。
  「全国人民代表大会(略称:全人代)」なんて、格好
 良く、大勢集まっているが・・顔見せで、既に、決定さ
 れたことを「シャンシャン総会」の様に党員の手帳を決
 議の時に上げるだけの会議・・
  (参考)全人代は、共産党を中心とする大会主席団、
     全人代常務委員会、国務院などが提出した議案
     や予算を審議する。
      議案や予算の「否決に至った例はない」と説
     明されている。
  反対をしようものなら、今後がどうなるか?・・非常
 に怖いことになる。
  結局、一部の者たちに都合のよい統治となる。  
  憲法無視を公言する国=中国。
  1944年に、中国は、臨時憲法と言える「共同綱領」を
 決めるが・・有名無実・・
  ここには、「表現の自由」があり・・「デモ行進の自
 由」があるが、こんなことは、中国で事実無根・・
  やられているのは・・官製のごますり行為ばかり・・
  「言論の自由」があっても・・「表現の自由の保障」
 があっても・・絵に描いた餅となっている・・
  そんなことを自由にやったら、当局による逮捕が待っ
 ている。
  近代国家ではない・・人民は虐(しいた)げられてい
 る・・
.
1958年、第二次五ヵ年計画開始の頃から、毛沢東は、「大
 躍進」と称する工業・農業の大規模な集団化による大増
 産政策を進めた。 
  1958年、人民公社が設立された。
  数億の中国の農民たちは、土地を放棄させられた。
  人民公社に集団化させられ 、農民たちの生産意欲は低
 下した。 
  農民たちには無理なノルマが課された。
  (参考)ノルマ:基準、特に、各個人・工場等に割り
     当てられた、労働の基準量。
  ノルマを達成でき なかった現場指導者たちは水増しし
 た嘘の報告をした。
  その報告を受け取った毛沢東は、実態を把握しないま
 ま、更なる増産を命令した。
  中国は、その様な悪循環に陥(おちい)って行った。 
  毛沢東は 、数年間で経済的にアメリカやイギリスを追
 い越すのだと、夢見て実施させていた。
  しかし、結果は、数字だけの達成で・・事実は、推計
 で2000万人から5000万人の餓死者が出るという大惨事の
 大失敗に終わった。 
.
1959年4月27日、毛沢東大躍進政策が失敗に終わり、この
 日に、責任をとった形で毛沢東は退き、代わり中国の第
 2代国家主席劉少奇(りゅう・しょうき、〜1968年10月
 31日)がなった。
.
1961年、毛沢東が、訪中した日本の議員団へ御礼を言った。
  その御礼は、「日本の資本家や日本軍は、良いことを
 してくれました。もし感謝するのなら、私は、むしろ、
 日本の軍閥に感謝したいです」と言った。
  これは、毛沢東中国共産党軍が、中国国民党軍に大
 敗北し、30万人近い勢力だったのが、その10分の1の3万
 人くらいになり、消滅寸前であった時・・、
  そして、中国奥地へと逃げ、またさらに、奥地へと逃
 げていた時、日本と戦ったことも無い毛沢東の軍は、コ
 ミンテルンの指令で息を吹き返した。
  抗日運動も高まる。
  コミンテルンは、「日本軍と戦う国民党軍と共同して
 民族統一戦線を作れ」と、中国共産党へ命令する。
  この命令に従った中国共産党は、劣勢でもあった。
  中国国民党軍と、その劣勢の内戦を中止でき、階級闘
 争も止め、これによって中国国民の支持も集めることも
 できた。
  そして、中国国政に参加する道も見い出せた。
  第二次国共合作は、毛沢東の起死回生となった。
  後押しした形になった日本軍だった。
  「日本軍に助けてもらった」状況から、毛沢東の感謝
 の言葉となった。
.
1966年〜1976年、中国の文化大革命
  多くの知識人が迫害され、また、中国国民の方々が大
 虐殺された。
  この時、湖南省の零陵地区内の十県で1万人が、直接、
 殺害された。
  この様な事が中国のあちこちで起きていた。
  1980年代、初期の文化大革命は終了するが、この様な
 虐殺が非常に多く行われていたことが分かった。
  共産党の内部調査によると、地方の人々の2000万人以
 上の人々が、殺害されていた。
  中国には、2200の県があるが、中国の行なった文化大
 革命は、国民を多数を殺害していた。
  葉剣英副主席は、「文化大革命では2000万人が死に、
 1億人が酷(ひど)い目にあった」と言った。
  アメリカの著名な中国専門の研究所で、中国人留学生
 たちは、皆、バリバリの共産党員で、日本批判ばかりを
 展開していた。
  南京事件について、その嘘の反論主張ができない日本
 人留学生たちだった。
  そのアメリカ人の教授は、中国人留学生たちへ言った・・
 「そうは言うが、君たちの国・中国では、大躍進や文化
 大革命で1000万人単位で人が死んだ。
  何故、君たちは、それについて何も話さないのだ。
  南京で死んだという30万人の事を、本当だ、嘘だと言
 うつもりはないが、1000万人に比べたら非常に少ないで
 はないか」と。
  バリバリの共産党員の中国留学生たちは、一同、黙っ
 てしまった。
.
1976年1月8日、周恩来が没した。
  周恩来が没すると、訒小平の運命は暗転した。
  清明節の1976年4月4日から5日未明にかけて、江青らの
 四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われ
 ていた周恩来追悼デモを弾圧した・・すなわち第一次天
 安門事件。
  この事件において、周恩来追悼デモは反革命動乱とさ
 れ、訒小平は、このデモの首謀者とされて、再び失脚し
 た。
  訒小平は、すべての職務を剥奪された。
  しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世
 友に庇護された。
  1976年9月に、毛沢東が死去すると・・後継者の華国鋒
   を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後・・、
  1977年に、訒小平は、三度目の復活を果たした。
  1978年、日中平和友好条約を結び・・、
  1978年10月、日本を訪れた訒小平は、新幹線への乗車
   で日本の経済と技術力に圧倒された。
  1978年11月、シンガポール外資誘致の実態を見学。
   これらの海外視察から帰国した訒小平は、第11期3中
   全会(1978年12月)において、それまでの階級闘争
   路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」と
   いう政策を打ち出した。
  その代表的な経済政策のひとつが、「改革・開放」政
 策の一環である経済特区の設置で、一部地域に限り外資
 の導入を許可・促進することで経済成長を目指すという
 この政策は、その後、きわめて大きな成果を収めた。
  しかし、政治面では共産主義による中国共産党の指導
 と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経
 済政策を取った。
  生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ
 黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」と言った。
  1984年3月、訪中した当時の中曽根康弘首相は、訒小平
   ら中国指導部と会談して第二次円借款の実施や、中
   日友好病院、日中青年交流センター設置などで一致
   し、訒小平は経済協力の拡大を呼びかけ、沿海部の
   経済特区指定も重なり、これ以降、日本の対中直接
   投資は本格化した。
    このお蔭で今の中国がある。
.
1981年、中国の胡耀邦総書記は、大躍進政策によって「中
 国の全国で2200万人が、非正常な死亡をした」と言った。
  中国は、この頃、農民に今までにない重税を課した。
  清朝もやらない、また、国民党時代でもやらなかった
 重税を農民に課した。
  農民から収奪して工業化を進めようという思惑だった
 が、共産主義という民主性を欠いた政治システムだった
 為、悲惨な死者が現出した。
  本「マオ」では、この死亡者数を「劉少奇は、3800万
 人近い人数を確認している」と記している。
  卑劣にも、この時、農村から奪った食料は、都市部へ
 供給されていた。
  農村の方々の生産意欲は激減した。
.
1990年代から、中国は、各地方の独立採算制を実施した。
  中国の地方の下部組織に、「行政の人事」「事務」「
 財政の権限」などを委(ゆだ)ねた。
  その結果、「行政部門が肥大化」し、その費用を「農
 民たちへの恣意的な課税(自分勝手な課税)」をして対
 処した。
  農民たちへ尻拭い(しりぬぐい)をかぶせた。
  また、この地方の役人たちは、「自分の身内をどんど
 ん地方政治組織の官職に就けた」。
  これは、中央の「国家の命令を無視」して行われた。
  また、この給料をまかなうため、「人頭税という法律
 に無い税金を勝手に作り、その費用まで農民から巻き上
 げた」。
  この様な暴挙に耐えかねた莫大な人数の農民が暴動を
 起こした。
  また、村を捨てて都市へ逃げ、流出した。
  この様な町へ逃げた農民の方々が、「安い労働者とな
 った」。
  この安価な労働者を求めて、アメリカや日本などの先
 進諸国の投資が、活発に行われた。
  この先進国の活発な投資は、中国の製造業の繁栄をも
 たらし、支え続けた。
  あまりにも多い地方からの安価な労働力の供給は、何
 時までも続く「低賃金の厳しい労働環境で雇用できる」
 という雇用者側に都合のよい状況を作った。
  労働者は、不満を言うものなら、すぐに新たな労働者
 が雇用された。
  権力を握る役人天国が現出した。
  自分の身内にまで、その立場の優位さを享受させられ
 たし、また、資本家から賄賂が流れて来て結託した。
  しかし、中国には「これらを正す法が無く」、整備さ
 れてなかった。
  一部の権力者へ、富が、どんどん集中した。
  まったく封建時代そのままの中国だった。
  この様な中国の地方の腐敗・・資本主義などと呼べる
 代物ではまったくなかった。
.
2018年11月19日、中国が必死にGPSの衛星を打ち上げて
 いる。
  この日の発表では、四川省の衛星発射センターから、
 独自開発の衛星測位システム「北斗」を構築する18、19
 基目の衛星を搭載したロケット「長征3号乙」を打ち上げ
 た。
  北斗は、アメリカのGPS(全地球測位システム)に
 対抗する中国独自のシステムとして構築が進められて来
 た。
  何故? 中国独自のシステムが必要なのか?
  仮の話・・中国の大陸間弾道弾の正確な飛行にはGP
 Sとのデーターのやり取りが必要・・その時、その部分
 をアメリカのシステムに頼っていたらどうなるか?
  中国は、独自のシステムが必要と判断したのだろう。
  例えば、中国の大陸間弾道弾が、自国に落下でもする
 ようなことを予測したのか?
  何発も発射した大陸間弾道弾の一発でも、自国へ落下
 となったら大変だと考えたのか?
  肝心な飛行にかかわる所である。
  いざとなったら何が起きるか分からない。
  その総てが、中国へ落下という事も起きるかもしれな
 い。
  大陸間弾道弾を持たなくても、この技術分野の技術を
 持っていれば、問題回避ができるとも言える。
  急速に進む現代の技術・・予測不能な部分である。
.
2018年11月19日、日本の江崎グリコが、液体ミルクの製品
 化に成功した。
  2019年の春に、国内販売が開始される見通し。
  これは、乳幼児液体ミルクが、災害時の救援物資とも
 なる。
  日本栄養士会の作る組織は、災害時の救援物資として
 備蓄する取り組みを進めるとし、2018年11月19日に発表
 した。
.
2018年11月19日、日本は、ブルキナファソに対し、食糧支
 援を決めた。
  資金返還を求めない無償の資金協力・食糧援助である。
  安倍首相は、この日、ブルキナファソのロシュ・カボ
 レ大統領と首相官邸で会談をして、決定した。
  大雨や干ばつなどの天変地異で、食料不足が深刻化し
 ている状況の救済を決定した。
  また、共同声明で、今後、インフラ(社会資本)整備
 の支援も日本は行っていくとしたと発表した。
.
2018年、中国の失敗。
  結果を見れば「中国の社会主義革命は失敗と言える」。
  「経済的不平等が存在」し、また、「人権抑圧が存在
 する」。
  社会主義で経済的平等と人間性の回復を目指したが、
 目指す過程で、その逆の「経済的不平等」と「人間抑圧」
 が、皮肉にも発生した。
  目的こそ崇高であったが、その遂行で「2000万人の死
 者が出た文化大革命」が出現した。
  あまりにも悲惨な経過を経なければ、実現されないと
 され、多くの犠牲者を出した。
  もう、この大参事で失敗だとして中止すべきであった・・
 が、しかし、社会主義化は続けられ、現在でもその「極
 端な格差社会は無残」としか言いようは無い。
  そこには、まず、中国共産党の支配を正当化するため
 の「卑劣な嘘」の存在と、その嘘を隠す嘘の行動が、さ
 らに、結果を悲惨なものにした。
  「建国神話」からその嘘は、すでに始まっていた。
  「中国共産党が日本軍を打ち破った」と言う嘘、そし
 て、「中国国民を守った」という嘘。
  「中国共産党が土地改革をした」という嘘。
  「中国農民を解放した」という嘘。
  ことごとくが嘘となっている。
  中国共産党ではなく、「中国国民党だった」。
  そして、「生産構造は、実は、まったく変わっていな
 い」。
  「中国の社会制度は、今も昔も封建的な地主制度的支
 配関係を基盤としている」。
  「社会主義革命が起きたと思い込まされて来ただけ」。
  「中国研究者でさえ『封建残余だ』と言っている」。
  「『残余』などではなく『根幹だ』とさえ言われてい
 る」。
  「社会主義の衣を着た封建王朝だとさえ自嘲的に言わ
 れている」。
  「中国の人口の0.01%のほんのわずかな中国共産党
 が支配し、選挙もない」。
  「そのわずかな者たちが、極めて大きな特権を独占し
 ている」。
  「その奴らが蓄財している」。
  1950年に、「中華人民共和国土地改革法を公布したで
 はないか?と反論するかもしれないが、これは、内容通
 りに受け取ったら大間違い。
  確かに「地主階級の法権的搾取の土地所有制を廃止し、
 農民的土地所有制を実施」するとされているが、これで、
 「農民が地主から解放された」と評価するのは大きな誤
 り。
  ここに、「共同農業経営」という美名の元に出現した
 のが「中国・共産党国家」という「超巨大地主」だった。
  「農民へ土地を渡すというのも嘘」。
  実際は、「中国共産党官僚が、徹底的に管理し、利益
 を吸い上げた」。
  実態は、「地主が中国共産党員にすり替わっただけ」。
  かえって「国民党時代より厳しく搾取が行われている」。
  「共同経営だと言ったって、農民の人たちが収穫の中
 から自分の分の分け前を取り分けられないようにされた」。
  日本では、「その様な実体が分からないから喝采して
 いた」。
  「実態は、体よく、効率よく、搾取されるシステムの
 土地改革だった」。
  しかも、「農民は、住居移転や移動の自由を禁止され、
 奪われた」。
  「ただ働き、搾取される奴隷だった」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)619E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月〜1895年1月)

題:(増補版)619E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月〜1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年1月20日、威海衛の戦い(〜1895年2月12日)
  日清戦争における戦いで、日本の陸海軍が共同で行っ
 た作戦。
  制海権を完全に掌握するため、威海衛に立てこもる中
 国・清の北洋艦隊の残存艦艇の撃滅と海軍基地の制圧を
 行った。
  日本の勝利で終わった。
  1895年1月20日、「八重山」など4艦の艦砲射撃による
 援護のもとに、第1野戦電信隊と海軍陸戦隊が山東半島
 端の成山角灯台を制圧した。
  そして、電信線を切断した。
  つづいて、第2師団の歩兵第16連隊を先頭に第一次揚陸
 部隊が、栄城湾の東端に上陸し、栄城県城を制圧した。
  1895年1月21日の翌日、第2師団の残りが上陸し・・
  1895年1月22日、第6師団が上陸した。
  1895年1月25日、大山巌第2軍司令官が栄城県に到着。
  1895年1月26日、第2師団を左縦隊に、第6師団を右縦隊
   に並進した。
  1895年1月30日、第6師団が、百尺崖・摩天嶺での激戦
   をへて威海衛湾の南岸要塞群を制圧した(移動距離
   約60km)。
    また、第6師団の攻撃にあわせて第2師団が、南岸
   要塞群の西側、鳳林集の東南高地を制圧した。
    中国・清軍は、防衛線の一角を破られたこともあ
   り、威海衛市街とその周辺、北岸要塞群などを放棄
   し、撤退。
  1895年2月2日、第2師団が、北岸要塞群などを無抵抗で
   制圧。
    威海衛湾の山東半島側が日本軍に占領された結果、
   湾の出入口にある要衝、劉公島と日島の守備隊、北
   洋艦隊の残存艦艇14隻が孤立することになる。
    また、1月30日、占領した百尺崖砲台にて望遠鏡で
   敵情視察中の歩兵第11旅団長大寺安純少将が敵艦の
   砲撃を受け戦死し、『二六新聞』記者遠藤又市も死
   亡。
    孤立しても、劉公島と日島の守備隊、北洋艦隊の
   主力艦は健在であり、視界に入る日本軍を「定遠
   の30センチ砲などで砲撃した。
    日本軍は、当初、陸軍が小口径の陸上砲で応戦す
   るが、北洋艦隊の主力艦による艦砲射撃は圧倒的で
   あり、地上からの攻撃による北洋艦隊制圧は難しい
   と判断された。
    海軍(連合艦隊)に応援を要請し、海軍は水雷艇
   部隊を威海衛湾内へ突入させて襲撃する作戦を決行
   した。
  1895年2月5日午前3時20分、2月4日の夜から闇にまぎれ、
   清軍によって仕掛けられていた防材をかわして威海
   衛湾内へ侵入した日本海軍の水雷艇部隊は、予定ど
   おり襲撃を決行した。
    衝突事故を起こしながらも魚雷攻撃を行なった。
    北洋艦隊の旗艦「定遠」が大破、「来遠」「威遠」
   等3隻を撃沈、
  1895年2月9日、明け方、日本軍は水雷艇部隊を威海衛
   湾内へ突入させ、2回目の襲撃を行い「靖遠」を撃沈。
   この攻撃において、日本軍は、水雷艇を突入させる
   だけでなく、日本艦隊の艦砲と制圧した湾対岸にあ
   る砲台の備砲が北洋艦隊の牽制を目的とした支援射
   撃を行った。
    威海衛湾に安全な場所が無くなった清軍の水兵が
   反乱を起こした。
    清軍の陸兵と、清国へ派遣されていた外国人軍事
   顧問は北洋艦隊の丁提督に降伏を求める。
  1985年2月11日、降伏を拒否していた丁提督が、李鴻章
   に宛てて「艦沈ミ人尽キテ後チ己(や)マント決心
   セシモ、衆心?乱今ヤ奈何(いかん)トモスル能ワ
   サル旨」と決別の打電を打ち、後に服毒自決した。
  1985年2月12日、「定遠」艦長と劉公島の地上部隊指揮
   官も自決。
  抗戦派幹部の自決後、包囲されていた清側は、伊東祐
 亨連合艦隊司令長官丁汝昌名義の請降書(2月12日付け)
 を提出した。
  1895年2月14日、清軍の降伏と陸海軍将兵の解放につい
   て両軍が合意し、
  1895年2月15日、調印が行われた。
  1895年2月17日、清の陸兵すべてが日本軍の前哨線外に
   解放された。
    また、商船「康済号」が丁汝昌の亡骸と清国海軍
   将兵1,000名余りと、清国側の外国人軍事顧問将校を
   乗せて威海衛湾から出航。
    作戦を完了した日本軍は、劉公島だけを保持する
   こととし、砲台など軍事施設を爆破した。
    作戦に参加した第2・第6の両師団は、第二期作戦に
   そなえて旅順に移動。
  なお、伊東長官が鹵獲艦船の中から商船「康済号」を
 外して丁汝昌の亡骸を最大の礼遇をもって扱い、
  また、清の将兵の助命嘆願を容れたことは、当時の世
 界常識として例を見ない厚遇であった。
.
1895年1月、北海道炭砿鉄道が、北海道移民を無賃輸送とし、
 また、その携帯日常品(家具・衣類・農具)も無賃輸送し
 た。
  そして、すべての乗客で60マイル以上の乗客に対して、
 運賃の5割引を実施した。
.
1895年1月、樋口一葉の小説「たけくらべ」が、雑誌「文学
 界」で連載がはじまり、評判となった(〜1896年)
  森鴎外幸田露伴斎藤緑雨に激賞された。
  東京下谷大恩寺前を舞台に、
  遊女となる運命が予定されている大黒屋の美登利と竜
 華寺の跡取りになる内気な少年・信如との淡い恋を中心
 として、
  田中屋の正太郎などを交え、
  酉の市(とりのいち)などの風物も描かれ、
  吉原の花街近くに住んで、思春期にさしかかろうとす
 る少年少女の姿を、
  吉原遊郭周辺と四季の移りかわりを背景にして、抒情
 的に描く・・、
  明治文学の中でも、最も完成度が高い短編と言われる。
.
1895年1月、『小国民』、手旗信号の個所が機密維持法違反
 で告発さた。
  また、後に、治安妨害の理由で発禁に、1895年11月『
 少国民』になる。
  『小國民』の内容は、歴史、地理、理科、修身読み物、
 子どもたちの投稿文から成った。
  科学読物に重点が置かれ、事実に基づいて書くことが、
 基本的姿勢とされた。
  しかし、「海軍の信号」という絵入り手旗信号の記事
 により、海軍の機密維持法違反で告発された。
  さらに、「嗚呼露国」が治安妨害に当たるとして発行
 禁止処分を受けた。
  2ヵ月後、『少國民』と改題し発行を続けた。
  しかし、発行元の学齢館が経営不振に陥り、発行所が
 北隆館に移った。
.
1895年1月、ロシアの暗躍
  日清戦争の当時、西欧米の列強はまったくの門外漢で
 あったかと言えば、当然、中国や朝鮮半島に利権を持っ
 ている西欧や米の列強は、まったくの門外漢であるはず
 はなかった。
  朝鮮自体が、中国の冊封体制により、長らく属邦化政
 策がなされて来ていて・・
  朝鮮は、その中国の政策から抜け出したいとロシアに
 接近していた。
  1885年4月15日には、巨文島事件が起きる。
  イギリス東洋艦隊が朝鮮の巨文島(くもんとう)を占
 拠していた。
  これは、朝鮮に進出しているロシアを阻むために、イ
 ギリスが行なった。
  この様に日清戦争は、単純に日本と中国の清との対立
 という構図で行われたのではなかった・・そして・・
  ロシアが、不凍港が喉から手が出るくらい欲しいとい
 う理由の一つを上げれば・・、
  1895年当時、ロシアのウラディヴォストーク港は、冬
 期の4か月間結氷し、この間、ロシア太平洋艦隊は、日本
 の港湾で過冬していた。
  ロシアが、この状況を解決しようと画策するのはこの
 一例をもってしても分かる・・そして・・
  1895年1月、ロシアは、英仏に対し日本に講和を勧告し、
 かつその条件を開示すべく申し入れることを提議した・・
  イギリスは、直ちにこれに応じ、露仏と共に、対日申
 し入れを行った。
  結局、英露協調は、4月初めの下関講和会議において、
 日本が提示した講和条約案(遼東半島割譲を含む)に反
 対しないという決定をイギリス政府が下したことにより、
 崩壊した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国が、100万人以上を原爆投下をして殺していた(2008年)
.
1934年初頭、この頃から投入された中国の中央軍、広東軍、
 湖南軍135万に紅軍は耐えられず、この年の1934年11月か
 ら江西中央ソビエト区を放棄して紅軍(中国共産党軍)
 は「長征」を開始した。
  この当時の共産党の実質的最高指導者は毛沢東ではな
 く秦邦憲(しんほうけん)だった。
  (参考)秦邦憲:1931年1月〜1935年1月の中国共産党
     の最高指導者の一人だった。
      モスクワに留学している。
      秦邦憲は、コミンテルンより派遣された軍事
     顧問オットー・ブラウン(中国名:李徳)の提
     言を鵜呑みにし、塹壕戦を展開した。
      1934年4月の広昌(こうしょう、江西省撫州市
     に位置する)失陥(しっかん、攻め落とされ失
     うこと)に際して、1万以上の兵力を失うという
     大敗を喫し、瑞金(ずいきん、江西省贛州市に
     位置する県級市)の陥落は避けられない情勢と
     なった。
      1934年7月から、ばらばらと福建省方面などへ
     と脱出する。
      南下を始めた共産党軍は、明確な目的地は無
     く、ただただ逃げ惑う軍団だった。
      1934年12月には、3万余りの兵力に激減してい
     た。
      1935年1月、遵義会議(じゅんぎかいぎ、中国
     共産党中央政治局拡大会議)で指導権を毛沢東
     に奪われた。
  そして、その毛沢東中国共産党軍が、蒋介石の中国
 国民党軍に大敗して、その存亡が危ぶまれていて、延安
 という中国の奥地の奥地へ逃げ込んでいたその頃・・中
 国国民党の蒋介石は、抗日運動家を逮捕したりして居た。
  抗日する中国国民を捕まえていたのである。
  日本に迎合しようとする蒋介石だった。
  それは、日本に敵対すると中国沿岸部の経済建設が出
 来なくなると考えていたからだった。
  経済建設に「日本の力を借りたい」と考えていた。
  都市部に基盤を置く蒋介石・国民党は、この方針を重
 要と考えていた。
  そして、1936年12月12日、蒋介石が張学良に監禁され
 るという西安事件が起きる・・これが転換点だった。
  そして、中国共産党から「内戦停止」と「一致抗日」
 を迫られる。
  そして、その翌年の1937年9月に、第二次国共合作が成
 立する。
  日本との協調路線の流れが変わる西安事件だった。
  そして、1937年7月7日には、中国側の発砲で盧溝橋事
 件が起きている。
  この事件の時は、日本と国民党軍は戦戦を拡大させな
 い様にとの協定を結び、戦闘も収まっていた。
  しかし、1937年8月、上海で戦いが始まる。
  アメリカに武器を援助された蒋介石の大部隊が、上海
 の「イギリスの租界などもある国際租界」の中の日本租
 界に攻めてくる。
  そして、南京まで戦いは続いて行く。
  中国の泥沼の長い戦争が始まる。
  国際租界がある上海という地域は、世界の関心の集ま
 っていた地域だった。
  蒋介石は、その世界的な注目を集まる状況を利用しよ
 うとした。
  そして、日本を貶(おとし)めるプロパガンダを盛ん
 に行う。
  まったく関係のない中国共産党が(中国国民党が関係
 しているのに)、今・現在に至っても「起きてもいない
 南京事件をでっち上げてプロパガンダしている」。
  また、この当時、今・現在とは違う世界のつながりが
 あった・・ポイントは、イギリスがナンバーワンで、ア
 メリカが育って来ているという状況だった。
  日英と日米・・
  そのナンバーワンのイギリスと日本は日英同盟(1902
 年以来)の関係にあった。
  軍事力も強大化して来たアメリカは、イギリスという
 ナンバーワンの国を「乗り越えたいとする国」だった。
  1922年のワシントン会議第一次世界大戦後の会議)
 で、アメリカは、この日英同盟の関係を潰したかった。
  そして、この会議で、日英同盟は廃棄させられた。
  日本にとって不利な状況となった。
  日本とイギリスの繋(つな)がりが無くなった。
  そしてまた、これは、これは、アメリカの「イギリス
 の力も削ぐという目的」でもあった(日本の力を削ぐと
 いう目的だけではなかった)
  日英が同盟してくっついていては、アメリカにとって
 都合のよくない不利な状態だった。
  大きな植民地の領土を持つイギリスは、何しろ強大で、
 大き過ぎた。
  イギリスは、この広がり過ぎたイギリス帝国の領土に
 ついて、日本を頼りにしていた。
  中国大陸において、イギリスは日本に統治を頼み、日
 本の軍事力に期待していた。
  そのような関係(日英同盟の関係が深化する関係)を
 アメリカは恐れていた。
  日本とイギリスは、まったく敵対する関係なんていう
 関係ではなかった。
  アメリカはこれを恐れ、ワシントン会議日英同盟
 解消に努めた。
  この後の歴史の流れは・・日英同盟が米英同盟の流れ
 になって行く。
  これが、アメリカの戦略だった。
  幕末から世界をリードして来ていたイギリスの国際社
 会が、アメリカの主導となって行く。
  アメリカの軍事力が、イギリスを凌駕(りょうが、他
 の者を越えてそれ以上になること)して行く。
  18世紀は、イギリスの植民地だったアメリカだった。
  それが、20世紀には、アメリカが、イギリスを軍事援
 助した。
  この様な歴史の変遷の中で、アメリカを仰ぎ見る様に
 なったイギリスは、1943年、次のような事を言う・・
  (イギリス首相のウィンストン・チャーチルの言葉)・・
  「イギリス政府は、同盟国(アメリカ)との協力は惜
 しまないが、イギリスの植民地統治はあくまでもイギリ
 ス政府がこれを維持する。
  植民地共同統治のごとき思想には、断じて賛成できな
 い」と。
  アメリカに、イギリスの植民地を盗み取られることを
 恐れたチャーチルの言葉だった。
  アメリカは、イギリスの植民地さえ得たいと思ってい
 た。
.
2008年、中国が、100万人以上を原爆投下をして殺していた。
  札幌医科大学の高田教授が、カザフスタンのデータと
 NEDIPS、RAPSの計算システムにより分析して、
 100万人以上の死傷者、被曝者がでたと推論した。
  (参考)NEDIPS:科学シミュレーション用のデ
     ータフロー計算機・・
      文献、特許などの情報をつなぐことで、異分
     野の知や意外な発見などを支援する新しいサー
     ビス
      データ・フロー・イメージ処理システム(NEDIPS)
     におけるSARデータ処理
  中国の行なう核実験の中でも、「地表核爆発」は、地
 表物質(砂礫など)と混合した核分裂生成核種が大量の
 砂塵となって、周辺および風下へ降下するため・・、
  空中核爆発と比べて核災害の範囲が大きくなる。
   (参考)核分裂生成核種:核分裂によってできた核
      種、またはそのような核種(核分裂片)から
      放射性の崩壊によってできた核種をいう。
  このような危険な実験を、中国は、ウイグル人の居住
 区で行った。
  また、実験場から1000キロ離れたカザフスタン、キル
 ギスタンでも、人体が影響される放射線量となっている。
  核実験は、1996年まで行われ、現在も、東トルキスタ
 ンの人々の健康被害と環境被害とは続いている。
.
2008年4月26日、北京五輪聖火リレー中の長野県で、中国
 政府に動員された中国工作員や在日中国人留学生などの
 中国勢力が、中国政府による弾圧に抗議するチベット
 方々へ暴力行為に及んだ。
  国際問題的であったので日本の警察などの公権力も控
 えめであったが、逮捕者も出た(但し、中国人に対して
 は逮捕をしなかった・・逮捕されたのは日本人だけ)。
  中国国旗が何本もはためく長野県の公道は、さも中国
 によって日本が占領された如くであった・・
  その様な中で行なわれたのが、中国勢力によるチベッ
 ト民族の方々への弾圧のごとくの行為で、今・現在、チ
 ベットで起きていることが日本でも起きている様だった。
  中国の公権力の者が私服を着て参加していたと言われ
 ている。
  この状況は、完全なる中国による日本の主権を侵害し
 ている行為だった。
  メディアの調査によると・・中国人参加者2000人とい
 う数字や・・、また、長野駅前だけでも1万人を超える数
 だったともいう。
  また、警察発表では4000人の中国人留学生が長野に集
 まったとされている。
  バスツアーで6万2千人の応募があって、ツアー個人旅
 行を含めて1万人が参加したとの推測もある。
  中国人学生だけでなく、明らかに中国マフィアと思わ
 れる風体の者もいたと言われる・・
  自動車から大きな中国国旗を何本もはためかせて、長
 野県の公道を疾走する中国人の姿・・
  日本を、さも従属国の如くの行為だった・・堂々とし
 た行動という声もあり・・まったく日本を馬鹿にした行
 動だった。
  また、道路交通法違反のハコ乗りで、長野県の公道を
 走り回る中国に、何もしない日本の警察に長野市民から
 の抗議の声が沸いた。
  (参考)ハコ乗り:走行中の乗用車の窓から身を乗り
     出すこと。
      道路交通法の違反行為。
      よく知られたな話として、鈴木宗男氏の箱乗
     り選挙運動が、一時期、問題とされ騒がれた。
  特に、長野駅周辺で危険行為を繰り返す中国人・・そ
 して、無視状態の日本の警察官の大群・・
  街頭で暴力を振るう中国人は、日本の警察官に制止を
 されても無視するという態度の中国人だった・・「日本
 の官憲なんて関係ない」という態度だった・・
  長野駅前のバスロータリーの・・街の中のその高台に、
 中国国旗を何本も立てて・・その何本も旗をはためかさ
 れるという状態は、日本が占領され、占領完了の様であ
 った・・武器こそ持っていないから良いようなものの、
 勝ち誇ったような中国人たちであった・・
  日本のバスなどの交通機関は最徐行・・長野の街には
 大声の中国語が響き、騒いでいた・・
  チベット国旗もはためくが、中国国旗に圧倒されてい
 た・・
  中国人だけが行なう暴力行為に、見ている日本人から
 は、「中国人は中国に帰れ」のシュプレヒコールが沸い
 た・・
  この騒ぎで日本側に19人の負傷者が出た・・
  長野県という日本の主権のある地で、白昼の街中で、
 堂々と中国人による不正(違法行為や暴行)が繰り返さ
 れていた。
  日本の官憲は何もしないで通してしまった・・
  常識ある日本の知識人たちは立ち上がった。
  その一人である「殴る・蹴るをされたジャーナリスト
 の水間正憲氏」は、その不正をテレビで説明した・・
  「フリー、チベット」と言っている人たちへ中国国旗
 で殴りかかって来る中国人・・
  また、直系5cmの金属棒で殴りかかって来る戦闘的な
 中国人・・
  中国のこの類を専門とする集団という風体だった・・
  この輩は、相手に抗議するという事なしに、いきなり
 襲い掛かって来る集団だった・・
  頭という急所を狙って殴りかかる行動だった・・
  頭部挫傷と首の頸椎捻挫の負傷者もいる・・もっとひ
 どく殴られた人も居るという状態・・
  https://www18.atwiki.jp/nihonnkiki/pages/28.html
  日本政府は、中国大使館が招集をかけ、旗や横断幕の
 準備をしたと確認している。
  ここで、優遇される留学生が問題となる・・
  2008年3月25日、参議院文教委員会で谷岡郁子議員が
 質疑した・・
  国費留学生の給付総額223億円
  大学院:17万円(月額、学部:13万4千円(月額)
  ※留学生の大半が中国人という状態
  さらなる優遇策は・・日本政府は、留学生に、この「
 奨学金(返還不要)」を与えている。
  長野の聖火リレーに集結し、この様な状況を起こした
 中国人留学生の多くも、この恩恵を受けているだろう。
  しかし、日本人学生には厳しい日本の政府で・・「奨
 学金」という名のローンを押しつけている。
  また、この事件で、旅行業免許がないのに「不特定多
 数」へ呼かびかける行為をした・・中国人留学生で組織
 する「全日本中国留学生学友会」(李光哲会長)が、26
 日に長野で行われる聖火リレーに向けて2000人を動員し
 て行う大規模ツアーが、旅行業法に抵触する可能性があ
 ることが分かった
  テレビ朝日 2008年4月24日(ワイドスクランブル)で、
 中国人の旅行業法違反の疑いについて報道された。
  NHK総合、2008年2月14日、スピルバーグ氏が、北京
 オリンピックの美術顧問を辞退した・・これに対して、
 中国は遺憾の意を示した。
  映画監督のスティーブン・スピルバーグ氏が、中国の
 スーダンダルフール紛争に対する姿勢に対して北京オ
 リンピック開会閉会式の美術顧問を辞退する声明を発表
 した。
  アルピニスト野口健氏は・・
http://megalodon.jp/2010-1010-1035-58/blog.livedoor.jp/fuji8776/archives/51052593.html
  平成20年3月22日付の「チベット動乱〜北京五輪出場へ
 の条件〜」 「チョモランマは私にとっての聖地でもあり
 ます。 中国にとってタブー中のタブーであるチベット
 問題について発言を繰り返せば、二度とチベットに入れ
 なくなるかもしれない。
 すでにその手の忠告がないはずもない。ひょっとすると、
 もう二度とチョモランマに帰れないかもしれない。私の
 故郷が一つ奪われてしまうかもしれない。
  極めてデリケートなテーマだけに正直、発言に躊躇も
 したが、しかし、現場を知っている人間は逃げられない。
 そして、語らないことは加担する事と同じだ。
  確かに一登山家に出来る事は限られている。しかし、
 私にも何かが出来るはず。そうせめて声を上げ続けてい
 きたい」
  実際、これ以降、中国政府は、野口健氏へ入山許可を
 出さず、野口健氏を支えていたスポンサーが降りるとこ
 ろも現れた。
  しかし、野口健氏は臆することなく人権侵害への抗議
 の声を挙げ続けている。
  当日のテレビニュースや翌日の朝刊等には、日本側の
 負傷者のことは一切出なかった。
  それどころか、中国側にけが人が出たと伝えた。
  これは、中国が軽いケガでも救急車を呼び、日本側は
 簡単に救急車を呼んではいけないという良識が働いたと
 いう差が出た。
  日本側は、当日、長野中央警察署に2名が被害届を出し
 ているが、けが人の発表は、消防側にあるため日本人は
 ゼロとなった・・中国側の作戦勝ち。
  TBSの取材が来た・・チベットサポーターの1人が、
 「日中記者交換協定があるから映せないのか?」とアナ
 ウンサーに聞いた。
  TBSアナウンサーは、「はっ?勝手に叫んでれば?」
 と吐き捨てて消えた。
  (参考)日中記者交換協定には、「日中双方の記者は
     駐在国の外国新聞記者に対する管理規定を遵守
     する」、
      また、「駐在国が外国新聞記者に与えるのと
     同じ待遇を受けるものとする」。
      付属文書として、「日中両国は、政治の体制
     を異にするけれども互いに相手の立ち場を尊重
     して、相侵さないという原則を確認した」・・
     などとある。
  TBS、2008年4月13日、サンデーモーニングのコメン
 テイター浅井信雄氏の捏造と思われる発言・・
  「聖火リレーは大成功とイギリス新聞は報じた」と。
  (実際の大騒ぎの状況を口にしないで、実情がまった
 く伝わっていないコメント)
  浅井氏のコメントは・・
  「英紙タイムズは、聖火リレーは大成功と書いている。
 つまり、マスコミは騒ぎになったことを繰り返し報道す
 るが、全体としては成功と英国の一流紙が書いている」
 と、この様な発言をした・・
  しかし、実際は全く逆で・・
  以下のような英国各紙の報道となっていて、TBSの
 浅井氏はとんでもない嘘つきコメンテーターとなってい
 る。
  聖火リレーの妨害は「民主主義の勝利」と英各紙は好
 意的に報じた・・
  タイムズ(The Times)は、「中国は今回のデモで、五
 輪を自分たちの都合で捉えることは できないと気づいた
 はずだ」。
  「聖火リレーは、あらゆる権利を象徴するもので、中
 国の栄光を示すためのものではない」。
  「むしろ(ロンドンでの聖火リレーは)チベット問題
 への抗議を浮き彫りにしただけでなく、統制の及ばない
 不穏や混沌を内在するのが寛容な社会の本質だというこ
 とを示す機会となった」との評論を掲載した。
  しかし、日本のテレビの「日本テレビ」は・・、
  チベット人が、中国人にかまれたと言うと笑って去っ
 て・・流血したと騒ぐ中国人の主張を取材し、血をふき
 取ってティッシュ日本テレビのカメラに向け、「みな
 これ見てよ、中国人の血よ」と言う始末。
  NHKは、リレーの途中で妨害が相次いだと報道・・
 抗議ではないと報道した・・また、亡命チベット人をた
 だの台湾人と報道した。
  チベットからの亡命者であることを隠したNHKだっ
 た。
  また、中国人の日本人に対する暴力などは一切報道し
 ないNHKで・・中国寄りのNHKだった。
  日本政府の高村正彦外務大臣は・・、
  「中国人もチベット人も一人も逮捕されてないんです
 よ」と、何もなかったと言いたいような態度だった。
  また、テレビ朝日報道ステーション(2008年4月18日)
 で・・高村正彦外務大臣は・・、
  「中国側は、アジアの中でチベット問題に注文を付け
 ているのは日本だけだ」と言って、事実と違う、中国寄
 りの代弁者の様な発言だった。
  長野県警は、中国人の暴力行為を多く見ていながら逮
 捕しようとまったくしなかった。
  それは、長野県警の警備の3000人を上回る中国人の数
 に対してその様な態度をとったのか?
  または、「中国国旗を掲げていると逮捕できない」と
 判断したのか?
  集団で暴行を加えていても、旗竿のアルミパイプで暴
 行していてもまったく逮捕せず・・
  日の丸を持っている日本人さえ旗を持っていると攻撃
 対象になった・・日本という国の中であるのに・・
  中国人は、大声で「中国は一つ」と叫んでいた・・そ
 して、「日本を潰せ」という声で叫んでいた・・
  日本人が抗議すると、その抗議された日本の警察官は
 「逮捕すると暴動になるから」と逮捕しない理由を言っ
 た・・だから、長野県警は「日本人だけを逮捕した」。
  中国政府、および、中国大使館は、日本の警察を褒め
 た・・
  日本のマスコミも中国にしばられていて・・、
  また、日本の警察も中国に縛られていて・・
  これが日本かというような・・日本が、中国にがんじ
 がらめにされている・・そして、正義が通らなくなって
 来ている・・
  この様な事が、日本の中心である東京で起きる可能性
 を日本は、この時、知った・・
  「外国人に参政権を与えよ」という陰謀の叫びもある
 日本となっている・・
  この時のこのような事態で、駐日の中国大使館には、
 このような力があることを知らしめ、長野で実証された・・
  青山繁晴氏は、この重大性を知っていて・・「長野聖
 火リレー」と呼ばずに、『長野事件』と呼ぶべきだと言
 った・・「これは事件」という認識・・
  2020年の東京オリンピックの時も、この様な事は起こ
 るだろうと予測される・・
  より発展した形で起きる可能性が大きい・・
  テロ事件が併発することが恐れられている・・
  「暴行を堂々としている中国人を逮捕しなかった長野
 県警」は、悪い先例・先行事例を与えてしまった。
  国家が持っている主権、その主権を行使する警察が、
 怖気(おじけ)づいたという事例となってしまった。
  中国の毒餃子事件の時も、苦しんでいる被害者が居る
 のに・・福田総理は、「中国は前向きにやっているのだ」
 とおべっか発言をした・・この様な日本となっている。
  それに対して、怒りの声を発した大臣・議員・官僚は
 わずかだった・・
  中国の属国化している日本が・・そこにある・・
  逆に、日本の警察は、チベット支援者の行動を法的な
 根拠がないのに制限する行為に出た。
  そして、逆に、同じことを、「中国人たちに許した」
 という筋の通らないことをした・・
  それを指摘する日本人に対し「無視する警察だった」。
  「明らかに、中国人を優先する警察」に怒りの声を上
 げて抗議する日本人たちだった。
  しかし、逆に、その日本人に対して、「脅したりする
 警察」だった。
  自動車から身を乗り出して中国国旗を掲げて走る違反
 行為に何もしない日本の警察だった。
  日本の警察官が、この明らかな道交法違反行為に、「
 何の違反をしているの?」ととぼける始末・・
  中国人も、日本の警察を馬鹿にして、無視し、制止も
 何もあったもんじゃない状態・・
  チベット国旗を掲げただけのオートバイ運転手には国
 旗を降ろすようにと言う警察・・
  中国へのゴマすり警察の姿・・
  式典会場の隅に追いやられたチベット支持者たち・・
 式典が見られないという状況・・
  移動したいと言うと「移動許可」は出してないと言う・・
  中国人たちは、式典会場のそばに陣取っているという
 異常さがあった・・
  日本の警察は、「何があっても中国人を逮捕しない」
 という怪しい話が事前に知られていた模様・・
.
2017年、インドには、今でもインドの土地を所有するイギ
 リス人が居る・・
  植民地時代からの収奪者となっている。
  昔、インドの方々を虐(しいた)げ尽くしたイギリス・・
  このイギリス人が・・こんな昔から・・今も・・大き
 な茶園を経営し、所有する大地主におさまって居る(名
 義上での大地主で経営者・・利益収奪者)。
  インドの方々は、皆、お茶を飲む習慣を付けられ、こ
 のイギリス人ブルジョアのフトコロが潤っている。
  そして、このブルジョアイギリス人は、イギリスのグ
 ラスゴーの豪邸に住んでいる。
  インドに住みもしないイギリス人が、金だけはインド
 から巻き上げている。
  遠い昔から、インドの方々のものであるものを収奪し
 て、今なお利益を収奪するイギリス。
  この様な外国人所有の土地には、目から火が出るほど
 の税金をかければ良いのに・・、
  日本も、北海道や沖縄などに・・いざという時に拠点
 にしようとする土地が外国人に買われている・・特に中
 国・・この様な土地には・・べらぼうな税金を掛けよ!
.
2018年、日本政府へのお願い文
  題:アイヌは先住民ではありません。
    決議のお願い・・
.
  拝啓
  御公務、ありがとうございます。
  アイヌは先住民ではありません。
  種々の歴史的史実が示す様に・・少し、歴史を調べた
 だけでもその事実が判明します。
  しかし、キリスト教が支援したりして、国連機関など
 はプロパガンダされて、間違った認識を持っています。
  その間違ったアイヌへの認識を持つ国連機関の日本へ
 の働きかけから、日本はその対処に明確な態度を避け、
 不明確な決議などをしております。
  ここで、明確に、「『アイヌは先住民ではない』とい
 う決議」をして戴きたい。
  お願い申し上げます。      敬具
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)618E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月〜1895年1月)

題:(増補版)618E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月〜1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年1月14日、日本領の尖閣諸島編入した。
  尖閣諸島は、閣議決定沖縄県編入された日本固有
 の領土で、周辺海域に石油資源などが埋蔵されている可
 能性が指摘された1970年代になって、急に、中国が領有
 権を主張するようになった・・主張すればいいというな
 ら誰でも何でも言える・・この逆のことだって言える。
  古来から日本領だった尖閣諸島は、現在、日本が有効
 に支配しており、領土問題は存在していない。
.
1895年1月15日、有栖川宮熾仁親王薨去、61才。
  有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんの
 う、1835年2月19日〜1895年1月15日)有栖川宮9代親王
  有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第一王子。
  1851年(嘉永4年)(16歳)仁孝天皇皇女・和宮親子内
   親王と婚約したが、和宮内親王が将軍・徳川家茂
   降嫁のため沙汰止みとなった。
  1858年(23歳)日米修好通商条約の調印に反対して尊
   王攘夷(そんのうじょうい)運動を支持し主張した・・
  1864年(29歳)国事御用掛に任ぜられたが・・攘夷(じ
   ょうい)論を主張・・以来国事に奔走。
  1864年8月26日(29歳)禁門の変長州藩士に荷担した
   ゆえをもって謹慎を命ぜられた。
   この後、国事御用掛を罷免され謹慎の身となる朝譴
    (ちょうけん、おとがめ) を受けた・・が・・、
  1867年12月(32歳)王政復古とともに新政府の総裁職
   に就任した。
  1868年1月27日(33歳)鳥羽・伏見の戦い(〜1868年1
   月30日)・・
  1868年2月(33歳)戊辰戦争では、征東大総督として官
   軍を率いて東下、江戸に入り・・鎮定に功を立てた。
   のち兵部卿福岡藩知事、元老院議長・参謀総長
   を歴任した。
  1877年(42歳)西南戦争では征討総督となり、
   戦後、陸軍大将となる。
  1889年(54歳)参謀総長に進み、
  1894年7月25日(59歳)日清戦争(1895年4月17日)に
   は広島大本営に軍務をとったが・・、
  1895年(61歳)病を得て没した。
   陵墓は東京都文京区大塚5丁目豊島岡墓地
.
1895年1月15日、播但鉄道(ばんたんてつどう)の寺前駅
 長谷駅間が開通した。
  播但鉄道は、現在の西日本旅客鉄道JR西日本
  播但線の大部分が私設鉄道だった。
  兵庫県の播磨地方と但馬地方を結ぶ鉄道として建設さ
 れた。
  山陽鉄道の国有化と同時に官設鉄道の一部となった。
  1876年、現在の姫路市飾磨と生野銀山の間には生野鉱
   山寮馬車道が整備された。
  1887年、内藤利八、浅田貞次郎ら地元の数名が馬車鉄
   道で結ぶ計画を兵庫県知事に提出、「生野ヨリ(中略)
   飾磨港ニ達スル」経路で鉱山と港を連絡する意図で
   将来は蒸気鉄道にする計画だった。
.
1895年1月16日、ハワイ人王政派が武装蜂起した
  アメリカの工作によって危うくなったハワイ・・先住
 し、ハワイの領有権のあるハワイ人の王政派が武装蜂起
 した。
  しかし、アメリカ軍によって短期間で鎮圧され、虐殺
 行為が行われた。
  この武装蜂起を支援したとしてリリウオカラニ女王が
 逮捕され・・幽閉された。
  原住民の大虐殺の後、ハワイを完全に乗っ取った。
  1865年5月9日、アメリカで南北戦争が終わる布告が出
 された。
  この南北戦争が終わった頃から、アメリカ本土では肉
 や砂糖価格が急騰した。
  このためサトウキビの栽培に適したアメリカ周辺の島
 がアメリカの餌食となる。
  アメリカの砂糖商人たちは、襲いかかるようにその島々
 の土地を買った。
  そして、すさまじい勢いで開発されていった。
  1860年代で、アメリカの白人たちは、すでにハワイ全
 土の4分の3の土地を取得した。
  そして、その土地をサトウキビのプランテーション
 して行った。
  南のキューバ島と、西のハワイ島が欲しいアメリカ。
  その島々が餌食となり、砂糖商人たちの儲けの金庫と
 なった。
  今(2018年)、日本の北海道が同様に中国に買われて
 いる。
.
1895年1月20日、日本軍が、山東半島に上陸した。
  清国艦隊の北洋艦隊の拠点である威海衛の攻撃を行う
 ために海から山東半島へ進み、栄城湾からの上陸を行っ
 た。
  軍艦からボートに乗り換えて上陸を行った。
  この作戦が行われる2日前の1月18日に、連合艦隊司令
 長官の伊東祐亨海軍中将が本国の大本営に送った電文で
 は・・
  「翌日(1895年1月19日))の午後1時に、陸軍の運送
 船を護送して栄城湾に向かって出発する」ことが伝えら
 れている。
  また、作戦が行われた4日後の1895年1月24日の大本営
 が陸軍次官の児玉源太郎陸軍少将へ送った電文では・・、
  栄城湾からの山東半島上陸作戦に参加した薩摩丸から
 の報告内容として・・この作戦において、陸軍部隊の揚
 陸に先行して、海軍の陸戦隊が上陸したことや・・、
  この時に清国軍からの攻撃があったこと、戦闘の後に、
 順次運送船が到着し、陸軍部隊の揚陸が進められたこと
 が伝えられている。
.
1895年1月22日、ハワイ王国が滅亡した。
  リリウオカラニ女王が廃位させられて、ハワイ王国
 滅亡した。
.
1895年1月28日、九州鉄道の川尻駅松橋駅間が開通した。
  その後、熊本方面と天草・島原との連絡のために、1899
 年12月25日に、宇土駅から三角駅までが開通して、宇土
 駅が分岐駅となった。
.
1895年1月28日、関西鉄道柘植駅奈良駅間の建設免許状
 が下付された。
  奈良鉄道によって京都駅〜木津駅〜奈良駅間が開通し
 た。
  関西鉄道奈良線と名付けられているが全区間京都府
 内にある。
.
1895年1月29日、高等女学校規程が公布された。
  文部省令第一号 (明治28年文部省令第1号)
  高等女学校規程ヲ定ムルコト左ノ如シ
  明治二十八年一月二十九日文部大臣 侯爵西園寺公望
  高等女学校規程
  第一条 高等女学校ノ学科目ハ修身、国語、外国語、
      歴史、地理、数学、理科、家事、裁縫、習字、
      図画、音楽、体操トス又随意科目トシテ教育、
      漢文、手芸ノ一科目若クハ数科目ヲ加フルコ
      トヲ得
      外国語、図画、音楽ハ府県立学校ニ就キテハ
      文部大臣ノ許可ヲ受ケ其ノ他ノ学校ニ就キテ
      ハ地方長官ノ許可ヲ受ケテ之ヲ欠クコトヲ得
      又生徒ノ志望ニ依リ之ヲ課セサルコトヲ得
  第二条 高等女学校ノ修業年限ハ六箇年トス但土地ノ
      情況ニ依リ一箇年ヲ伸縮スルコトヲ得
  第三条 高等女学校ノ第一年級ニ入ルヘキ者ハ修業年
      限四箇年ノ尋常小学校ノ卒業生若クハ之ト同
      等ノ学力ヲ有スル者トス (以下略)
.
1895年1月31日、京都で、わが国最初の路面電車が開業した
 (電気鉄道のはじめ)(2月1日説あり)
  京都電気鉄道が東洞院塩小路下ル(京都駅近く)〜伏
 見下油掛(京橋)間を開業した。
  当初は、停留場の概念がなく、電車は任意の場所で乗
 降扱いを行なった。
  この市街路面電車の歴史は、1978年9月30日(昭和53年)
 までの83年間だった。
  民営の京都電気鉄道会社(京電・きょうでん)が、東洞
 院(ひがしのとういん)塩小路(しおこうじ)下るの七条停
 車場(しちじょうていしゃじょう、京都駅)と伏見町(ふし
 みちょう)下油掛(しもあぶらかけ)間の営業を開始し、当
 時、先走りの少年が居た。
  開業の6か月後の1895年8月、雑踏や街角、そして、橋
 上では、電車の先五間(約9メートル)以内を先行して、昼
 は旗、夜は提灯をもち、「電車がきまっせえ。あぶのお
 っせえ」と叫びながら、線路を走る告知人がいた。
  告知人は、12歳から15歳の少年で、先走りと呼ばれた。
  この告知人制度は、府令第六十七号電気鉄道取締規制
 によるもので・・
  仕事は、危険な上に、汗とほこりにまみれての重労働
 で、少年が電車にひかれる事故が相次いだ。
  そのため、告知人制度は廃止に至った。
  また、動力の電気は、琵琶湖疏水(びわこそすい)の水
 力発電によって電力が供給されていた。
  そのため、疏水の流れが止まると、京電も休業となっ
 た・・疏水止まれば電車も止まる・・
  この京都の路面電車(京電)は、1912年6月、京都市
 電車の営業が開始され、激しい客取り合戦が繰り広げら
 れる様になった。
  1918年7月(大正7年京都市が京電を買収し、競合区
 間の路線が統一された。
  そして、大正中期から昭和初期まで、市電の黄金時代
 が続いた。
  そして、また、1959年〜1964年から、市電と競合する
 市バスや会社バスが増加した。
  更に、自動車も多くなりはじめ、路線の自由がきかな
 い市電の経営は行き詰まりを見せた。
  1970年3月31日、日本最古の路面電車路線だった伏見線
 (塩小路高倉・しおこうじたかくら)と中書島・ちゅうし
 ょじま)間と、稲荷線(勧進橋・かんじんばし)と稲荷間
 が廃止されたのを皮切りに・・路線が次々と廃止され・・
  1978)年9月30日、残る外郭線(北大路・西大路・九条・
 東山・七条・河原町の各線)すべてが廃止された。
.
1895年1月、博文館が「太陽」「少年世界」「文芸倶楽部」
 を創刊。
  太陽は月刊の総合雑誌で、定価15銭だった。
  内容は、論説、史伝、地理、小説、雑録のほか、政治、
 法律、文学、科学、商業、農業、社会など・・
  執筆陣は各分野の知名人を網羅した。
  「日本は世界の大国になったのだから、欧米諸国に負
 けない総合雑誌を」という趣旨の「太陽発刊の主意」を
 発表し、その翌月「太陽」を創刊した。
  太陽の名が示す様に「国運隆昌(りゅうしょう)」を表
 わし、「公平不偏を以(もっ)て立つ」とした。
  しかし、大正デモクラシーの世相に乗り遅れ、対応し
 きれず、「中央公論」などにその地位を奪われて、廃刊
 に追い込まれた。
  文学作品は・・、
  斎藤緑雨:『雨蛙』(1895.5)樋口一葉:『ゆく雲』
 (1897.5)泉鏡花:『海城発電』(1896.1)斎藤緑雨
 『おぼえ帳』(1897.4 - 12)二葉亭四迷訳:ツルゲネフ
 の『うき草』(1897.5)広津柳浪:『畜生腹』(1897.10)
 国木田独歩:『郊外』(1900.10)泉鏡花:『鷺の灯』
 (1903.9)正宗白鳥訳:チェーホフの『不運くらべ』
 (1904.6)永井荷風:『酔美人』(1905.6)、『夜半の
 酒場』(1906.12)、『旧恨』(1907.1)、『春と秋』
 (1907.10)、田山花袋:『少女病』(1907.5)永井荷風
 『カルチェー、ラタンの一夜』(1909.1)(『おもかげ』
 と改題し『ふらんす物語』に収録)正宗白鳥:玉突屋
 (1908.4)森鴎外訳:リルケの『家常茶飯』(1909.10)
 久保田万太郎:『雪』(1912.5)・・など
.
  (今日の言葉)
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  題:北海道には大変多くの縄文遺跡がある(紀元前3200年)
    それから4400年の後に、アイヌ文化は作られた(1200年頃)
    当然、アイヌ先住民族ではない。
.
紀元前3200年、北海道には大変多くの縄文遺跡がある。
  その一つ・・大船遺跡(函館市
  太平洋に面した海岸段丘上に立地し、縄文時代前期後
 半から中期後半(紀元前3,200年〜紀元前2,000年頃)の大
 規模な集落遺跡で・・、
  100棟を超える竪穴建物跡からなる住居域と大規模な盛
 土遺構があり・・、
  その南西には、墓や貯蔵穴を含む100基以上の土坑墓群
 が確認されている。
  北海道や北東北の縄文遺跡群は、津軽海峡を挟んだ日
 本列島の北海道および北東北に位置し、縄文時代の各時
 期(草創期、早期、前期、中期、後期、晩期)における、
 人々の生活跡の実態を示す遺跡(集落跡、貝塚、低湿地遺
 跡)や、祭祀や精神的活動の実態を示す記念物(環状列石、
 周堤墓)で構成された17遺跡からなる考古学的遺跡群であ
 る。
  縄文時代を彷彿とさせる植生や地形など、豊かな自然
 環境が保全されている遺跡が数多くあり・・、
  縄文人の傑作とも言える土器や土偶などの遺物が数多
 く発掘されている。
  それらは、長く北海道で生きて来た縄文人の生活を彷
 彿(ほうふつ)とさせる。
  1、大船遺跡(函館市):大型の竪穴住居が特徴的な
    大規模集落遺跡
  2、垣ノ島遺跡(函館市):国内最大級の盛土遺構を
    持ち、異形土器などが出土した集落遺跡
  3、キウス周堤墓群(千歳市):掘り下げた土を周囲
    に環状に盛った大規模な周堤墓
  4、北黄金貝塚伊達市):保存状態の良好な埋葬人
    骨や動物遺体が各種出土している貝塚
  5、入江・高砂貝塚洞爺湖町):周辺の自然環境、
    生活や生業(なりわい)、人類学的形質や葬法を
    あらわす貝塚
  6、鷲ノ木遺跡(北海道森町):北海道内最大規模の
    環状列石
  7、三内丸山遺跡青森市):人々の縄文時代観にも
    大きな影響を与えた我が国を代表する集落遺跡
  8、小牧野遺跡(青森市):大規模な土地造成と特異
    な配石によって構築された環状列石
   9、大森勝山遺跡(弘前市):全国でも数少ない縄文
    時代晩期の環状列石
  10、是川石器時代遺跡(八戸市):漆・木製品の優品
    が数多く出土した集落遺跡
  11、田小屋野貝塚(つるが市):日本海側における数
    少ない貝塚
  12、亀ヶ岡石器時代遺跡(つるが市):亀ヶ岡文化の
    名称の由来となった代表的な集落遺跡
  13、太平山元遺跡(外ヶ浜町):日本最古とされる約
    16500年前の土器が出土した集落遺跡
  14、二ツ森貝塚七戸町):東北地方有数の大規模な
    貝塚
  15、御所野遺跡(一戸町):焼失した土屋根住居が確
    認されている大規模集落遺跡
  16、大湯環状列石鹿角市):万座・野中堂の2つの
    大規模環状列石を主体とする我が国を代表する遺
    跡。特別史跡になっている。
  17、伊勢堂岱遺跡(北秋田市):4つの環状列石を主
    体とする大規模な祭祀遺跡
  18、長七谷地貝塚青森県八戸市):東北地方に数少
    ない縄文時代早期の貝塚
      ・
      ・
      ・
      ・
1200年頃、アイヌ文化が作られた。
  アイヌ文化が、今から800年ほど前(1200年頃、本州は
 鎌倉時代)に成立した。
  この文化は、擦文文化の伝統的な暮らしを受け継ぎ、
 さらに、本州やサハリン以北の地域の人々との交流で形
 作られた。
  (参考)擦文文化:北海道、東北地方北部に分布し、
     北海道の続縄文文化に本州から北上した土師器
     (はじき)を伴う文化が接触してできた。
      アイヌ文化に先行する文化。
      おもな生業(なりわい)は漁労で、方形の竪
     穴住居にはかまどがあり、粟、ひえ、そばなど
     が出土する。
  (参考)続縄文文化:北海道、東北地方北部の弥生・
     古墳文化に並行する時代の文化。  
      寒冷の為、稲作は行わなかった。
      石器、骨角器を利用する縄文土器の影響を強
     く残す狩猟、漁労の文化。
  中世(本州の鎌倉時代から安土桃山時代:約800年から
 450年前)のアイヌ文化の遺跡は、上ノ国町松前町など
 の道南地域や、平取町などの日高地方で多く発見されて
 いる。
.
1599年、北海道の松前藩は、豊臣秀吉に直接臣従していた。
  しかし、1599年のこの年、徳川家康に服して蝦夷地の
 支配権を認められた。
  始祖は室町時代武田信広甲斐源氏、若狭武田氏の
 子孫)で、上国守護に任ぜられ、北海道の渡島半島に地
 位を築く。
  (参考)渡島半島:おしまはんとう、北海道南西部に
     ある半島。
  アイヌの首長のチコモタインやハシタインとも和睦し、
 豊臣秀吉に直接臣従した。
  1599年には、徳川家康に服して蝦夷地の支配権を認め
 られ・・、
  また、徳川家康は、蝦夷地の交易独占権を認めた。
  アイヌの人々も、この松前藩だけとの交易だけではな
 く、本州に出かけて交易を普通に行っていた。
  5代将軍・徳川綱吉(在任、1860年〜1709年)の時、旗
 本待遇となる。
  1719年、1万石格の大名に列席する。
  江戸時代の1833年までには、松前は、人口が1万人を超
 える都市となっていて、繁栄した。
.
1673年、北海道の江差に檜山奉行を置いた。
  檜山は、厚澤部川流域から上國天の川流域の森林地帯
 であり、ヒバをヒノキと称した地域の俗称そのままに檜
 山とされた。
  檜山奉行所は、この森林地帯を7箇所に区分し・・、
  1673年2月に、樹皮剥ぎや稚木伐採を禁止し、また、野
 火を放つことを禁じる等の天然林の保護策を定めた。
  また、アスナロ等の材木を造船や他藩との交易物とし
 て活用する一方で、伐採を出願制としたことから他藩か
 らも山師が訪れるようになった。
  こうした山師による伐採の運上金は、松前藩の財政の
 一端を担った。
  しかし、1695年4月、檜山で山火事が発生し、過半数
 樹木が消失したことから、かねてから他の地域で伐採を
 請願していた山師の飛騨屋久兵衛からの訴えが認められ、
 池尻別・沙流久寿里(釧路)厚岸・夕張・石狩等におけ
 るエゾマツの伐採が許可された。
  山師により伐採されたエゾマツは、石狩川等の川を下
 って石狩川口から本島へ船で運ばれ、江戸や大阪でその
 材質の高さから障子や曲物へと加工され流通した。
.
1756年、弘前藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島で漁
 業に従事していたアイヌに対し、同化政策を実施した。
  以後、本州からアイヌ文化が急速に失われた。
  (参考)乳井貢:にゅういみつぎ、1712年〜1792年。
      陸奥(むつ)弘前(ひろさき)藩(青森県)藩士
      1753年、勘定奉行となり、貸借証文の破棄、
     貯米の実行など藩の財政再建につとめる。
      宝暦5年の大飢饉の際は、果敢に対応して領内
     から餓死者を出さなかった。
      和算儒学、農学など諸学に通じた。
      著作に「志学幼弁」「初学算法」など。
.
18世紀後半、マレーシアが、イギリスの侵略に屈服し、直
 接統治される。
  さかのぼること15世紀、マレーシアのマラッカ王国が、
 ポルトガルに屈服して支配されていた。
  17世紀には、今度は、オランダの支配を受けた。
  18世紀後半に入るとイギリスが侵略し・・、
  イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカを海峡
 植民地として一帯を直接統治した・・、
  さらに、北ボルネオ・マライ半島へも侵略して支配し、
 イギリス植民地は強化された・・
  1895年、マライ連邦となる。
.
19世紀、タイが、イギリスに侵略され、また、フランスに
 も侵略される。
  13世紀のタイは、最初、スコータイ王朝が、民族統一
 国家をつくった。
  14世紀からは、アユタヤ王朝となり400年間続いた。
  1782年、今日のバンコク王朝が創設された。
  19世紀〜20世紀、イギリスとフランスからの侵略を受
 けた。
  そして、ラオスカンボジア・マレーにある領土を取
 られた。
  しかし、インドシナ半島のイギリス・フランス両国の
 緩衝国家として独立は保った。
.
1868年〜1869年、亘理伊達氏(わたりだてし)が北海道へ
 移住した。
  陸奥国伊達郡宮城県亘理郡亘理町)が出身地・・、
  1603年2月、亘理郡亘理城主になったのが始まり・・、  
  江戸時代には、2万4000石以上を領した。
  しかし、第14代当主の時、戊辰戦争に敗れ(1868年〜
 1869年)所領を100分の1に減封された。
  数百名の家臣と共に北海道伊達市に移住し・・、
  家臣と共に伊達市を開拓した。
  1892年、その功が認められ、男爵位を授けられた。
  亘理伊達家の北海道への開拓移住に際して、アイヌ
 人々の手助けがあった・・あい和した開拓だった。
  当主であった伊達邦成は、家臣たちに対して、「アイ
 ヌの人々を尊重すべき」の内容の規則を作ったりて、尊
 重し、良好な関係を築いていた。
.
1875年5月7日、樺太・千島交換条約の後、物資の補給と防
 衛上の理由から、千島のアイヌの方々は、そのほとんど
 が当地を領有して領土だった日本政府によって、日本領・
 色丹島(しゃこたんとう、今・現在、ロシアが不法占拠
 している、また、日本領・千島も不法占拠している)へ
 移住して、安全に守られた。
.
1899年、清水港が開港した。
  「お茶場唄」あるいは「お茶場節」と呼ばれる古謡が
 ある。
  これは、横浜から盛んに日本茶が輸出されていた19世
 紀後半に誕生した。
  しかし、1899年に、全国最大の茶の産地の静岡県の清
 水港が開港して、横浜の製茶貿易が衰微した。
  しかし、歌は、その後も、長く歌い継がれた。
.
1937年12月、この時、南京事件が起きたとされている。
  中国は、南京事件の主張において殺された人数をだん
 だん増やしてきた。
  世界へ、日本を貶(おとし)めるために言う人数は、
 より多い方が都合が良いとして増やし、とうとう30万人
 だと言い出した。
  南京に居る人数より多い人数を言い出したので、中国
 は、「当時、南京には50万人が居た」と言い出した。
  そして、「30万人が殺されたので20万人になってしま
 った」と言った。
  まったく馬鹿々々しい言い方をする中国で、この様な
 言い方で思い出すのが「小学校の算数の問題」。
  これは、半分、笑い話なのだが・・、
  「木に鳥が10匹、とまっていました。狩人が1匹、撃ち
 落としました。残りは何匹ですか?」という問題で・・、
  算数の問題として答えるならば、10−1=9で9匹と答え
 るところを、ある子供が0と答えた。
  残りの鳥は、銃声で「すべて逃げた」と答えた・・と
 いう話である。
  つまり、中国の作り話も、これで・・、
  南京に50万人の人が居ました・・この人たちよりはる
 かに少人数の日本兵に・・木の鳥のように逃げもしない
 で、30万人が殺された・・だから、南京の人たちが20万
 人になってしまいました・・と、中国は馬鹿々々しいプ
 ロパガンダ(嘘宣伝)をした。
  まったく馬鹿々々しい中国のプロパガンダ(嘘宣伝)
 である。
  そして、中国のおかしな所は、当時の南京の自治委員
 会の記録を秘密にしている。
  この資料や記録を見れば、当時の南京に居た人数が分
 かるが、中国は公開しない。
  中国という国は、今まで公開していた資料でも、都合
 の悪い所が出て来ると非公開にしてしまう。
  そのような卑怯な卑劣な国である。
  まったく信用の出来ないアン・フェア(不公正)な国
 である。
  そして、最近は、私的な会話や、インターネット上で、
 中国の研究者の中に「南京の大虐殺は事実でない」とい
 う人が出て来ている。
  「南京事件は事実ではないので、その様なことを言い
 つのるのは日中友好にマイナスになる」と言う人が出て
 来ている。
  しかし、世界は、中国が必死にプロパガンダすること
 が事実だと思っている。
  英語版で出版された「ザ・レイプ・オブ・ナンキン(
 アイリス・チャン著)」などを事実と思われされている。
  特に、アメリカでは、このプロパガンダ本が真実と思
 い込まされている。
  この本の嘘が日本の研究者によって「嘘であると立証
 されている」。
  日本の研究者によって真実が示されている。
  日本の研究者は、一つ一つその真実を発掘して行った。
  今、世界は、中国が、この様な嘘行為をする、「嘘の
 プロパガンダばかりする国だ」と知り始めている。
.
1941年12月8日、大東亜戦争第二次世界大戦)が始まり、
 東亜(とうあ)永遠の平和を確立を期す(きす、心に誓
 う)
  太平洋戦争開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書
.
  天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇
 ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
  朕茲ニ米國英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全
 力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ
  勵虗職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆
 一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ
  達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定
 ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル
  皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措
 カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ
  樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナ
 リ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル
  洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國
 政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ
  東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラ
 シメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ
  帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶
 ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ
  相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ
 禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ
  逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ
 筯強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル
  妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナ
 ル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復
  セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ
 虗藭ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ
  﨟々經濟上軍事上ノ脅威ヲ筯大シ以テ我ヲ屈從セシメ
 ムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル
  帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危
 殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲
  蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ皇祖皇
 宗ノ藭靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ
  遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確
 立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
  御 名 御 璽
   平成十六年十二月八日
 ・・現代語、読み下し文・・
  天佑(てんゆう)を保有(ほゆう)し、万世一系(ば
 んせいいっけい)の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日
 本帝国天皇は、昭(あきらか)に 忠誠(ちゅうせい)勇
 武(ぶゆう)なる汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)に
 示(しめ)す。
  朕(ちん)、茲(ここ)に米国及(およ)び英国に対
 して戦(たたかい)を宣(せん)す。朕(ちん)が陸海
 将兵(りくかいしょうへい)は、全力を奮(ふる)って
 交戦に従事し、朕(ちん)が百僚有司(ひゃくりょうゆ
 うし)は、励精(れいせい)職務を奉行(ほうこう)し、
 朕(ちん)が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)
 其(そ)の本分を尽(つく)し、億兆(おくちょう)一
 心(いっしん)にして国家の総力を挙げて、征戦(せい
 せん)の目的を達成するに遺算(いさん)なからんこと
 を期(き)せよ。
  抑々(そもそも)、東亜(とうあ)の安定を確保(か
 くほ)し、以って世界の平和に寄与(きよ)するは、丕
 顕(ひけん、大いに明らかなこと)なる皇祖考(こうそ
 こう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述
 (さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう、遠い将来まで考え
 たこと)にして、朕(ちん)が拳々(きょきょ)措(お)
 かざる所(ところ)。
  而(しか)して列国との交誼(こうぎ、心が通い合っ
 た交際)を篤(あつ)くし、万邦共栄(ばんぽうきょう
 えい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(
 これまた)、帝国が、常に国交の要義(ようぎ、重要な
 意義)と為(な)す所(ところ)なり。
  今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開く
 に至(いた)る。洵(まこと)に已(や)むを得(え)
 ざるものあり。豈(あに)、朕(ちん)が志(こころざ
 し)ならんや。
  中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解(かい)
 せず、濫(みだり)に事を構えて東亜(とうあ)の平和
 を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(
 かんか、武器一般)を執(と)るに至(いた)らしめ、
 茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国
 民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣(ぜん
 りん)の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携(ていけ
 い)するに至(いた)れるも、重慶(じゅうけい)に残
 存(ざんぞん)する政権は、米英の庇蔭(ひいん、援助)
 を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(い
 ま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)
 めず。
  米英両国は、残存政権を支援して、東亜(とうあ)の
 禍乱(からん)を助長(じょちょう)し、平和の美名(
 びめい)に匿(かく)れて、東洋制覇(とうようせいは)
 の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あ
 まつさ)え与国(よこく)を誘(さそ)い、帝国の周辺
 に於(おい)て、武備(ぶび)を増強して我に挑戦し、
 更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害(ぼうがい)
 を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存(
 せいぞん)に重大なる脅威(きょうい)を加う。
  朕(ちん)は、政府をして事態(じたい)を平和の裡
 (うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しき
 に弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう、きわめてわずか)
 も交譲(こうじょう、譲り合う)の精神なく、徒(いた
 づら)に時局の解決を遷延(せんえん、はかどらぜず伸
 ばす)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(
 ますます)経済上、軍事上の脅威(きょうい)を増大し、
 以って我を屈従(くつじゅう)せしめんとす。
  斯(かく)の如くにして、推移(すいい)せんか。東
 亜安定(とうああんてい)に関する帝国積年(せきねん)
 の努力は、悉(ことごと)く水泡(すいほう)に帰し、
 帝国の存立(そんりつ)、亦(またこ)正に危殆(きた
 い)に瀕(ひん)せり。事既(ことすで)に此(ここ)
 に至る帝国は、今や自存自衛(じそんぼうえい)の為、
 蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうが
 い)を破砕(はさい)するの外(ほか)なきなり。
  皇祖皇宗(こうそそうそう)の神霊(しんれい)、上
 (かみ)に在(あ)り、朕(ちん)は、汝(なんじ)、
 有衆(ゆうしゅう)の忠誠勇武(ちゅうせいぶゆう)に
 信倚(しんい)し、祖宗(そそう)の遺業を恢弘(かい
 こう)し、速(すみやか)に禍根(かこん)を芟除(せ
 んじょ)して、東亜(とうあ)永遠の平和を確立し、以
 って帝国の光栄を保全(ほぜん)せんことを期(き)す。
  天皇の署名と印
   昭和十六年十二月八日
.
1945年7月12日、日本の交信を完全に傍受していたアメリカ、
 また、暗号を完全に解読していたアメリカ。
  その様な中で、1945年7月12日午後8時50分、日本の外
 相は、モスクワの駐ソ大使あてへ至急電報を打った。
  「ソ連へ依頼している『停戦への仲介』に対して何の
 反応も無いこと、天皇陛下が犠牲者の増加について御心
 配をなされ、早急な停戦を望まれて居られること」、
  そして・・、
 「大東亜戦争第二次世界大戦)で、米英があくまで無
 条件降伏を主張する限り、我が国の名誉と生残(せいざ
 ん、生き残り)をかけて最後まで戦うしかない。
  だが、天皇陛下は、人類の幸福を思う気持ちを伝える
 ために近衛文麿公を特使としてソ連に派遣する事をお決
 めになった」。
  この時、アメリカのルーズベルト大統領が行なったソ
 連への対日本参戦をそそのかす行動、また、煽る行動・・
  『日本の領土(南樺太、千島列島、満州、北方4島)を
 盗ってしまえば・・」と、
  そして、「旅順や大連をソ連不凍港にしたら・・」
 という誘い・・アメリカのルーズベルトのそそのかしに
 完全に乗っかっているソ連だった。
  その様なソ連には・・、「日本とアメリカの間で仲介
 をしようという気持ちは、まったく無かった」。
  日本の領土を手に入れたいというソ連が、そこに居た。
  「私は、戦争を作った」と言ったアメリカのルーズベ
 ルト大統領の、更なる罪だった。
  この後の日本の外相と、ソ連大使(佐藤大使〉との交
 信は、さすがに佐藤大使の「ソ連の見方は、正しく」て、
 その後の長い交信(2時間30分におよぶ駐モスクワ日本大
 使館と日本本国との交信)において、ソ連の対日本への
 参戦の可能性が高いことを指摘していた。
  ソ連の仲介は不可解とまで言っていた。
  ルーズベルトの不埒な言葉が完全に効(き)いていた。
  今だに、戦後70年以上経過した2018年でも、この問題
 が解決できなくて、もめている。
  卑劣な米ソだった。
  日本の「なりふり構わない仲介の要請」を体よくあし
 らい、また、無視し続けたソ連と、頭を地に付けんばか
 りの日本の仲介要請が良い展開へ動かず、膠着状況にあ
 った・・それが作戦で、引っ掛けであった。
  戦場は、戦争の終末期であり、毎日、多くの人々が亡
 くなる状況であった
  そして、日本の必死の米英との和平停戦仲介の外交努
 力・・そして、その結果において、最後に、ソ連から言
 われた事は・・、
  「ソ連政府は、明日、8月9日、日本に対し戦争状態に
 入る」。
  「ご了承ください」・・だった。
  日本の佐藤大使は、ソ連外相のモロトフから、無表情
 に・・そのことを言われた。
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2009年12月、「アイヌの方々は先住民族ではない」が、キ
 リスト教の支援を受けて、アイヌ民族を先住民とする運
 動が行われている。
  2009年12月、「先住民族アイヌの権利回復を求める団
 体・個人署名の要請」が行われた。
  また、中国は、自国の民族弾圧問題(チベット民族問
 題、ウイグル民族問題、内モンゴル民族問題など)もあ
 って、「日本にも民族問題があるとしたい」として、こ
 のアイヌの方々の先住民とする運動の陰で暗躍している。
  日本には、4万年以上の5万年前から、アフリカの地を
 発したホモ・サピエンスの先住民が、日本の地へ、あち
 こちから移住して来ていた。
  北方から・・南方から・・海からと、あらゆる方向か
 ら移住して来ていた。
  今、紀元2018年であるが、その20倍から25倍の長い長
 い遠い昔からの期間、アフリカの地から日本へ来たホモ・
 サピエンスが移動して来たが・・その様に、日本に来た
 先住民たちは、日本中を歩き回っていた・・そして、通
 婚し、交雑し、その長い長い期間の間、日本人が形成さ
 れて来た・・それは、アイヌではないのは明白・・アフ
 リカからのその到達した人種がアイヌであるはずがない。
  今まで・・、
  2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利
 に関する国際連合宣言を踏まえて・・、
  2008年6月6日、アイヌ先住民族として認めることを
 政府に求める国会決議が衆参両院とも全会一致で可決さ
 れたが・・
  (あくまで「求める決議」で、「認めた」ということ
 ではない・・当然)
  しかし、北海道アイヌ協会が、北海道の区域外に居住
 するアイヌ認定事業をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合
 せに基づき活動している。
  その際、家系図や戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料と
 している・・また・・
  2008年5月12日に、鈴木宗男が国会に提出した「先住民
 族の定義、及び、アイヌ民族先住民族としての権利確
 立に向けた政府の取り組みに関する第3回質問主意書」に
 対し、
  2008年5月20日の政府答弁書で「アイヌの人々は、いわ
 ゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分
 け北海道に先住していたことは歴史的事実であり、また、
 独自の言語及び宗教を有し、文化の独自性を保持してい
 ること等から、少数民族であると認識している」と答弁
 している。
  (ただし「先住民族」との認識ではない)
  2008年6月6日には、衆参両院の全会一致で「アイヌ
 族を先住民族とすることを求める決議」がなされた。
  (ただし、「求める決議」で「認める決議」ではない)
  また、法的にも・・
  1997年、アイヌ文化振興法施行によって、北海道旧土
 人保護法は廃止された。
  しかし、このアイヌ文化振興法では、アイヌを先住民
 族と認定されなかった。
  また、アイヌ文化振興法によるアイヌ民族共有財産の
 返還手続きに対してアイヌ民族共有財産裁判が行われた
 が、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。
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2018年10月28日、世界は、だんだん中国化するのか?
  この日の日付けの読売新聞に・・表題:「終わり見え
 ぬ『忍耐宣言』」として・・現在の台湾の苦悩がしめさ
 れていた・・以下、抜書き・・
  台湾の蔡英文総統が、10日の「双十節」(建国記念日
 に相当)に行った演説は、過去2回とはやや趣が違ってい
 た。
  中国の圧力による危機感をあらわにしていた。
  台湾は、今後も対立をエスカレートさせないし、圧力
 にも屈しないという決意だった。
  蔡英文総統は、2016年の総統選で「現状維持」を掲げ
 て、中国に急接近した国民党に圧勝した。
  この2年余り、中国は対話に応じず、統一への動きを強
 めた。
  台湾を5か国との断交に追い込んだ・・そして、台湾周
 辺で軍事訓練を繰り返し、中国に住む台湾人を社会保障
 などで中国人と同等に扱う政策も発表した。
  台湾では、「現状」が次々崩されても有効な手だてが
 打てない蔡政権への不満が広がっている。
  特に、民進党の支持基盤である独立派の失望は深く、
 抗議集会が開かれた。
  トランプ米政権は、台湾との関係強化に積極的だが、
 米国の基本政策は変わっていない。
  台湾が独立に向かい、中国との間で緊張が高まること
 は望んでいない。
  過去、2000年の台湾政権は独立に傾斜し、米国に失望
 され、国際的な孤立に陥った。
  問題は、台湾がいつまで耐えられるか、ということ。
  蔡政権の求心力が回復する兆しは見えない。
  2020年の総統選では、中台関係が最大の争点になる。
  中国は、今後も圧力をかけ、揺さぶり続けるだろう。
  残された時間は、決して長くはない。
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2018年、ドイツは、第二次大戦の時、国民の半分がナチス
 党員だった。
  このナチス党員たちが、組織的にユダヤ人の方々を強
 制収容叙へ送った。
  ユダヤ人の方々のホロコースト(大虐殺)は、この様
 にして行われた。
  しかし、戦争が集結し、戦争の幕が下ろされても、こ
 のナチス党員たちの犯罪は問われることが無く、目がつ
 むられた。
  巨大な犯罪行為が厳然と存在しているが、罪を問う行
 為は行なわれること無く今日まで来ている。
  そして、ドイツでは、「ナチスが悪かったからだ」の
 大合唱をしている。
  「あなたたちが、ナチス党員だったのですよ」と、世
 界は言うだろう。
  本当に、この罪を逃れたナチス党員たちは、反省をし
 ているのだろうか?
  「あくまでもナチスの罪を問う」としたドイツは、都
 合のよいナチス党員たちだけの罪を追求する行為だけで
 済ませて来ている。
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2018年、世界の脅威となっている中国
  戦後、中国で偶像的に崇拝され、今は廃(すた)れて
 いる毛沢東・・
  その毛沢東が、「日本資本の中国進出」に感謝した。
  その様な言葉を、訪中した日本の議員団に言った。
  また、毛沢東は、「日本の軍が中国へ行ったことさえ
 感謝した」。
  その様な日本の行動の結果で、今の中国があり、毛沢
 東の地位があるということを感じ、感謝した意思表示だ
 った。
  しかし、ソビエトコミンテルンが、アメリカなどで
 暗躍し、様々なスパイ活動や謀略工作が功を奏し、美し
 く手を握った米ソの「ヤルタ・ポツダム体制」。
  (参考)ヤルタ・ポツダム体制:戦後(第二次世界大
     戦後)の世界秩序(戦後レジーム)を言い、Y
     P体制とも言う。
      戦後の世界秩序は、いわゆる「ヤルタ会談
     によって決定づけられ、東西冷戦の対立構造で、
     米ソ二大国による覇権体制ができた。
      これによって、各民族が当然に持つべき権利
     である民族自決の権利が侵害される。
  しかし、その「米ソ同盟」が形成されるかに見えたの
 も『一瞬のあだ花だった』。
  戦争も終わらないうちに、アメリカの次なる敵として
 のソビエト連邦が見えて来た。
  そのソ連を威嚇するために、日本は、アメリカによっ
 て、二発の原爆を投下された。
  また、標記の毛沢東の日本への感謝の言葉の如く、中
 国共産党の対日工作も、功を奏し、毛沢東の感謝の言葉
 となった。
  そして、ソ連は、1970年代には「軍拡に邁進した」。
  そして、近年、そのソ連の軍拡と同じ行動をする中国
 の姿となった。
  中国の膨大な軍事費は、年々増加し、台湾や東シナ海
 への領土拡大に邁進している。
  新たな脅威が形成されている・・「アメリカ、日本、
 オーストラリア、アジア各国などを含めた世界の脅威」
 となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)617E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月〜1895年1月)

題:(増補版)617E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月〜1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年、出来事:
・第2次伊藤内閣(1892年8月8日〜1896年9月18日)
・第9議会召集(1895年12月25日)
・日清休戦条約が調印された(1895年3月30日)
・第4回内国勧業博覧会が開催された(1895年4月1日)
尖閣諸島を日本領土に編入した(1895年1月14日)
アメリカの工作によって危うくなったハワイ・・先住し、
 ハワイの領有権のあるハワイ人の王政派が武装蜂起した。
  しかし、アメリカ軍によって短期間で鎮圧され、虐殺
 行為が行われた(1895年1月16日)
  そして、ハワイ王国は滅亡した(1895年1月22日)、
 リリウオカラニ女王は廃位させられた。
.
1895年、世界情勢
  1895年のこの頃、日本が、清国と戦争をする頃、ドイ
 ツやロシアも、中国の利権あさりを必死に行っていた。
  すでに、美味しい汁を吸っているイギリスをはじめヨ
 ーロッパ列強諸国・・、
  そして、アジア各地で利権を得ている列強の版図は、
 塗り替えられる可能性が出てきた。
  その一つが、フィリピンを得ようとしているアメリ
 だった・・アメリカには、アジアの利権も美味しく見え
 て来ていた。
.
1895年、世界情勢
  この1895年から約20年前の1875年頃、ヨーロッパのキ
 リスト教諸国が収奪し、所有したアフリカの土地は、ア
 フリカ全土の十分の一(10%)に過ぎなかった。
  (10%でも酷い行為だが・・)
  しかし、それが、20年経た「この1895年頃」になると、
 実に、アフリカ全土の十分の九(90%)にまで、ヨーロ
 ッパのキリスト教諸国は、我が物顔にアフリカを自分の
 ものとしていた。
  この時期に、独立を認められていた国は、わずかに「
 エチオピア」と「リベリア」の少数の国だった。
  このリベリアにしても、アメリカの黒人の方々を、体
 よく放逐した形の棄民政策を、アメリカのリンカーン
 統領が推し進め、リベリアを建国するという経緯(いき
 さつ)があって独立した国だった。
  力による争奪戦が、ヨーロッパのキリスト教諸国によ
 って非人道的に繰り広げられていた。
  「槍(やり)」でしか戦うすべを知らないアフリカの
 方々を、卑劣にも殺戮し、そのすべてを手に入れて行っ
 た。
  まったく赤子の手をひねるがごとき非人道的やり方を、
 好き勝手にしていた。
  この戦争を、『スポーツのような戦争だ』と言ったヨ
 ーロッパの指導者が居た。
  対等な国同士の間のヨーロッパの地の戦争とは「ほど
 遠い」、あたかも盗むがごとき卑劣な略奪と殺戮だった。
  そして、それから、そこに住むアフリカの方々を家畜
 同然に使って、アフリカの方々の生活のための作物栽培
 を止めさせ、自分たちに利を生む作物だけを作らせる行
 為などの蹂躙を行なった。
  自分たちだけに利があればよいのだというキリスト教
 の教義そのもの・・キリスト教が教えるやり方で、利益
 の収奪が行われた。
.
1895年、世界情勢
  アメリカの軍隊(海軍・海兵隊)がパナマ(コロンビ
 ア州)に上陸した。
  そして、サンティアゴ陥落の知らせに、アメリカのボ
 ストンからサンフランシスコまで、アメリカ内各地で、
 人々は警笛を鳴らし、旗を振って祝うというアメリカだ
 ったが・・、
  そして、ハワイは、宣教という名目で宣教師を派遣し、
 また、貿易商を派遣し、これを手始めに、結局は、この
 様な移民が続々とハワイ王国へ入国し、最終的にハワイ
 を乗っ取って行き、アメリカ領土としてしまった。
  そして、パナマ・・運河の構想がこの地を得たいとい
 う切っ掛けとなった。
  運河は、海洋貿易面で大きな利益をもたらす・・また、
 軍事的にも大きな戦略性を与えるということが明らかだ
 った。
  そして、この地域に勢力圏を得て行ったアメリカは、
 この運河に好適なコロンビア国の北部のこの地が、国家
 に反抗していることを利用した。
  1880年、この地のラファエル・ヌニェスが大統領に就
   任した。
  1890年、アメリカの海軍大学教官マハンが、「海上
   権論」でカリブ海の運河を着目させた。
  1894年、ラファエル・ヌニェスが死去する。
  1895年、アメリカ軍のコロンビア州への上陸・・
  1903年、コロンビア議会は、屈辱的なアメリカの高圧
   的態度に、アメリカの運河へ携わることを拒否する。
   これに怒ったアメリカは、パナマ地方の住民を扇動
   して、この地方を独立させようとする。
  アメリカは、軍艦を出動させ、コロンビア西部に圧力
 を掛け、この独立運動が成功する様に支援した。
  そして、パナマの独立を認めさせた。
  アメリカは、独立したパナマ政府から、運河建設のた
 めの租借権・工業権を得て・・、
  1904年に着工し、  
  1914年に開通させた。
  アメリカは、運河の完成後もパナマ内政へ介入した。
  海兵隊の上陸などの軍事介入も度々行った。
.
1895年、世界情勢
  1895年4月17日、日清戦争での日本勝利を受け、下関条
 約が締結された。
  しかし、この下関条約が結ばれて後、日本は、アジア
 に出てきた黄色人種として「出る杭は打たれる」となっ
 て行く・・
  日本は、日清戦争に勝ったからと言って、アメリカや
 ヨーロッパの様な「自分の国が利益が得られれば良い」
 という利己的な条約を結んだのではなかった。
  日本は、朝鮮の事を思い、「中国・清は、朝鮮の独立
 を認める」という条項を約束させた。
  中国・清の「冊封体制を止めさせる」という事を約束
 させた。
  また、これまで・・問題となっていた台湾や、遼東半
 島を、日本が金を出して譲られるという決着をした。
  アメリカが『アラスカを、金出して領有した」様に・・、
  奪ったのではない・・
  日本は、当時の3年間分の財政収入に相当するという
 『大金を、中国・清へ支払った』・・
  これまでのアメリカやヨーロッパ諸国は、敗戦国から
 奪い取ったが、日本は、3億円(2億両)を支払った。
  当時、清は、「眠れる獅子」と言われ、その底力は恐
 れられていた。
  海軍力においても、清国の方が大きな軍艦を持ち、ま
 た、隻数も、日本を上回る艦数を持っていた。
  世界の予想は、完全に「日本が敗けるだろう」だった。
  しかし、新興の日本は、清に勝利した・・
  清が日本に敗けると、列強諸国のアメリカやヨーロッ
 パ諸国は、さらに清を侵食し始めた・・清を餌食とした。
  清は、分割の対象となった。
  日清戦争の後でも・・日本の立場は・・まだ、アメリ
 カやヨーロッパ列強の諸国から軽んじられていた。
  幕末以降から続く「弱小国・日本の状態だった」
  そして、戦勝国・日本に、遼東半島返還の圧力がかか
 って来る・・三国干渉が起きた。
  ロシアが、ドイツとフランスを誘って、日本へ圧力を
 かけて来た・・三国の強烈な軍事力をちらつかせた。
  『町のあんちゃん』の様なやり方だった。
  日本は、清と一対一で対決した「武士の世界」だった。
  いつもやる欧米列強の様な、卑怯なグル(悪事を企て
 る仲間)に「つるむ」ようなことは、「日本はしない」。
  しかし、東アジアの欲しいロシアは、ドイツ・フラン
 スとグルになって三国干渉の圧力を日本に加えた。
  日本は、遼東半島を清へ渡した・・清は、金を日本へ
 返還した(当然)。
  そして、列強諸国は、清を蝕(むしば)んで行く。
  ロシアの領土欲は強烈だった・・朝鮮へも手を伸ばし
 て行く・・
  ロシアは、強力な軍事力を、この地域に展開し、拡大
 して行く。
.
1895年、世界情勢
  1895年、日本は、下関条約で清国から台湾の領有権を
 得たが、その後、烏山頭ダムを建設し、水政策の展開を
 行ったり、各種の社会資本投資をした。
  その効もあり、数年で日本の投資分も回収する事が出
 き、台湾にも良いし、日本にも良いという結果となった。
  インフラを投資してその資金を回収し、なお親日国と
 なっている台湾、
  一方、同様に、資金を投下したものの、その回収は出
 来ず、むしろ反日国として日本を貶(おとし)めようと
 する韓国。
.
1895年、世界情勢
  1895年、日清戦争によって、日本が、中国・清に勝っ
 た・・という事は、朝鮮にとって天地がひっくり返るよ
 うな出来事だった。
  中華思想に「冊封体制」という思想があり、中華が周
 囲を冊封して行く、つまり、属領として支配して行くと
 いう思想で、「貢(みつぎ)を持って従属すれば良し」
 の思想で・・朝鮮はこの思想の体制に蹂躙されていた。
  中国は、その民族は色々と変わったが、この体制は、
 常に変わらず、同じ冊封体制がとり続けられて来た。
  朝鮮の歴史も、この中国の体制下に隷従させられ、従
 属させられて来ていた歴史だった・・朝鮮の2000年の歴
 史は、この思想の元での歴史とも言える。
  朝鮮は、古代から、中華の属領としての月日を過ごし、
 この属領である事をアイデンティティ(清への帰属意識
 として来た。
  中華を主とする主従関係下に密接な関係を作り上げて
 来た。
  日本が、この朝鮮の主(あるじ)である中華・清を敗
 北させ、負かした事は、朝鮮にとって驚天動地のことだ
 った。
  そして、朝鮮は、中華・清から解放された。
  冊封体制のない状況の中に置かれた朝鮮は、その驚き
 の中で「独立した」。
  日本の中国へ出した書・・「日出ずる処の天子、書を
 日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)しや」の遠
 い昔からの「日本の毅然とした対等の独立した立場」を
 とった日本だった。
  この時、冊封体制下の体制に入ると思っていた中華の
 煬帝は、怒りに怒ったという。
  日本の態度は、朝鮮とは、まったく違っていた。
.
1895年、世界情勢
  1895年、孫文が日本へ亡命し、逃れて来た。
  清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き・・、
  1894年1月、孫文が、ハワイで興中会を組織した。
  1895年の翌年、日清戦争終結後に、広州での武装
   起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡
   命した。
  1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社
   頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京
   での活動費と生活費の援助を受けた。
    また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートル
   の屋敷は犬養毅が斡旋した。
    長い間、清朝満州民族の植民地にされていた漢
   民族。
    その漢民族孫文は、「独立したい」「辮髪もや
   めたい(満州族の風習)」と言ってきた。
  1897年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、
   光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成した。
    ここで、東京に留学中の蒋介石と出会った。
    清朝没落の前後、中国各地は、革命軍が蜂起して
   大動乱の兆しが満ちる中国だった。
  1911年10月10日、共進会と同学会の指導のもと、武昌
   蜂起(ぶしょうほうき)が中国で起きた・・各省が、
   これに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。
    当時、孫文アメリカにいた。
    独立した各省は、武昌派と上海派に分かれ、革命
   政府をどこに置くか、また、革命政府のリーダーを
   誰にするかで争った・・、
  1911年12月25日、孫文が、上海に帰着すると、革命派
   はそろって孫文の到着に熱狂し・・、
  1912年1月1日、翌年になって・・孫文を臨時大総統と
   する中華民国が南京に成立した。
    孫文を大総統に推戴(すいたい、おしいただくこ
   と)する臨時政府が、南京に樹立されて、国号を中
   華民国と改め、黄竜旗を廃して五色旗を掲げた。
    しかし、間もなく、旧軍閥を背景とする袁世凱
   えんせいがい)が、共和政体を宣言するに至ったの
   で、孫文は、事態を円滑に収拾するため、彼に地位
   を譲った。
    だが、政党の乱立と軍閥の割拠が前途多難を思わ
   せる時代だった。
  この様な中国に、各国が政治的介入をした。
  この様な中、袁世凱は、軍備と財政の強化を図りたい
 と、この各国から借款を仰いだ。
  これに、イギリスが大きくかかわった。
  中国には、大国の各国が、複雑に関わっていた。
  この様な形で強くなった袁世凱政権は、孫文の民主革
 命派に弾圧を加えた。
  敗れた孫文は日本に、再度、逃れ、中華革命党を組織
 した。
  1914年(大正3年)7月のことだった。
  この月に世界大戦が起こった、8月に、日本が参戦した。
  日本は、イギリス軍とともに協力して、青島(チンタ
 オ)のドイツ要塞を包囲し・・、海軍は、南下してドイ
 ツ領南洋諸島を攻撃し上陸した。
  1897年〜1898年にかけて、列強各国は、中国に独占的
 な特殊権益を獲得して来ていた。
  例えば、
  イギリスは、長江流域に、
  ロシアは、東三省(とうさんしょう、中国東北部)、
  フランスは、広東、広西(こうせい、広西チワン族
 治区)、雲南など・・
  日本は、この時、初めて、これ等の列強各国の様な山
 東省を得た。
  これまでのヨーロッパ諸国やアメリカによる中国大陸
 植民地化の歴史に、この時、日本も入った。
  また、満蒙に大きな脅威を築いてきたロシアに対して
 の、防衛地帯を築けた。
  日本産業の原料市場と消費市場が出来た。
.
1895年、世界情勢
キューバの対スペイン反乱・・アメリカは、強力なアメ
 リカ軍を利用して、巨大な植民地帝国となって行く・・
 力による収奪。
.
1895年、産業:
・自動車の大量生産が始まった。
 ガソリンの需要が増加へ
・日本初の1千トン級貨客船「須磨丸」が竣工した(1895
 年4月5日)
・東京の大丸呉服店で、大売出しが行われた(1895年10月
 15日)
・東京電灯・浅草発電所の操業が開始された。
 このとき使用したドイツAEG製の発電機が50ヘルツで
 あったので、東日本が50ヘルツとなった。
・八王子電灯が設立された。
・ハーストが、各地の新聞を買収した。
コダック社が、小型カメラを発売した。
ケロッグが、コーンフレークを製造した。
アメリカのニューヨークに、ピザの店が出現した。
ジレットが、かみそりの薄刃を製造した。
.
1895年、交通:
・京都で、わが国最初の市電・路面電車(京都電気鉄道)
 が開業した(1895年1月31日)
・政府が、官設鉄道における輸送力増加に対処するため、
 新たに既成各線の改良と、車両の整備を骨子とする改良
 計画を立て・・、
  また、同時に、東京市区改正事業に伴う市街高架線(新
 銭座・永楽町間)、および、中央停車場の建設を改良計画
 の中に入れ政府の事業として行なうことに決定した。
・鉄道技師・古川晴一が、「輾圧工形桁」の設計を完了し
 た。
・北海道炭砿鉄道が、自社の手宮工場で1C形テンダ機関車
 (大勝号、のちの7150形)を製作した。
・富山商業会議所が、官設鉄道信越線の運賃引下げを要求
 した。
.
1895年、論・文学・本:
樋口一葉の「たけくらべ」ができた。
小栗風葉『寝白粉』(博文館「文芸倶楽部」)、兄妹の
 近親相姦、部落問題に立ち入ったため発禁となった。
.
1895年、歌・流行・世相:
・男のイガグリ頭が流行し、バリカンが売れた。
・玩具:空気ラッパの製作
・鉄砲玩具の連発銃が発明された。
・屈辱外交を批判の演説会が開かれ、どの弁士の発言も中
 止を命じられた。
 詔勅を読みはじめても中止となった。
・かつては、岩倉様など敬称をつけたが、この頃は、首相
 を呼び捨てにする(経済雑誌
.
1895年、発明:
リュミエール兄弟が、シネマトグラフという動画撮影・
 再生装置を公開し、映画の歴史が始まった。
・ドイツ人物理学者のレントゲンが、エックス線を発見し
 た(1895年11月8日)
.
1895年、科学・建築:
・野中至・千代子夫妻が、気象予報の研究のため、富士山
 頂で観測を開始した(1895年10月1日)
・帝国京都博物館が完成した(1895年10月31日)
.
1895年、スポーツ・科学・文化・物価・流行・世相:
・第1高等学校のベースボール選手だった中馬庚が、ベー
 スボールを「野球」と翻訳した(1895年2月22日)
神田小川町にローラースケート場(車滑り場)が現れる
 (1895年8月)
.
1895年、その他:
西洋音楽家で幸田露伴の妹・幸田延が留学から帰国した
 (1895年11月5日)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)616E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年12月〜1894年12月)

題:(増補版)616E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年12月〜1894年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1894年12月9日、総武鉄道の本所駅(錦糸町駅)〜市川駅
 が開通することにより、本所駅〜佐倉駅間が全通した。
  総武鉄道総武線)は、1894年7月に、市川駅佐倉駅
 間が開通していた。
  駅は、本所、亀戸、市川、船橋、幕張、千葉、四街道、
 佐倉の8駅だった。
  江戸川区域には駅が無く、1899年4月に、平井駅ができ
 た。
  蒸気機関車が黒い煙を吐いて運行されていたが・・、
  電化は、1932年6月、両国駅お茶の水駅間が電化され
 た。
  そして、1933年3月、両国駅市川駅間が電化し・・、
  1933年9月、市川駅船橋駅間の電化・・
  1935年7月、千葉駅までの電化が完了した。
.
1894年12月17日、朝鮮で、第二次金弘集(きんこうしゅう)
 政権が成立した。
  朴泳孝と連立した。
  金弘集は、朝鮮王朝(李朝)末期の政治家で、1880年
 に、来日(訪問)している。
  明治維新後の日本の発展の様子を視察して、朝鮮を開
 化するのだの思い・意欲を深めた。
  この時、持ち帰った清国の外交官の著書「朝鮮策略」。
  持ち帰って国王・高宗に上呈し、開化政策推進の契機
 とした。
  穏健的開化派としての彼は、常に、外交の前面に立ち、
 欧米諸国などとの修好通商条約の改正を目指した。
  1882年、壬午の軍乱の後、全権副官として、日本との
 済物浦(さいもっぽ)条約の交渉にあたった。
  また、甲午農民戦争以後、1884年、領議政 (初代総理
 大臣) となり親日的であった。
  そして、急進的な改革を行なった。
  しかし、最後は親露派に殺された。
  生涯に渡って終始、国家の非常の難局に当たった悲劇
 の政治家だった。
  (参考)朝鮮策略:ちょうせんさくりゃく、
      東京の中国公使館にいた黄遵憲が書いたもの
     で・・、
      朝鮮は、自強のため中国との関係を深め、日
     本と提携し、さらに、アメリカと国交を開くよ
     うに主張した。
      金弘集で知った朝鮮国王は、これを採用した。
      そして、2年後にアメリカと条約を結び、国内
     改革を始めた。
.
1894年12月20日、中国の清国が、張蔭桓(ちょういんかん)
 らを、日清戦争終結のための本格的講和全権使節に任
 命し、その事を、日本に通告して来た。
  日本も、直ちに伊藤首相、陸奥外相を全権に任命して
 講和交渉を開くことを承認した。
.
1894年12月21日、筑豊鉄道の折尾駅〜中間駅間が複線化さ
 れ、また、、筑前植木駅直方駅間も複線して開通した。
.
1894年12月22日、第8回帝国議会が召集された。
  1894年12月24日〜1895年3月23日、通常会が開催された。
.
1894年12月22日、クロード・ドビュッシーの「牧神の午後
 への前奏曲」がパリの国民音楽協会に於いて初演された。
  指揮はギュスターブ・ドレ。
  初演から好評で、二度のアンコールがあった。
  https://www.youtube.com/watch?v=Zw1OYRjpvFY
.
1894年12月28日、筑豊鉄道の小竹駅〜幸袋(こうぶくろ)
 駅間が開通した。
  石炭輸送全盛時代にあった。
  多数の側線が作られた。
  日本の鉄道は、1890年代から1900年代にかけて、めざ
 ましい発展をとげた。
  この約15年間に、営業キロは約2.5倍となる。
  特に、貨物輸送力は9.5倍に増加した。
  この頃は、紡績部門を中心として、日本の産業革命
 進行した。
  そして、さらに、製鉄、製鋼部門を基軸とする重工業
 へと転換して行った。
  日本社会に資本主義経済体制が根付き、さらに、急速
 な発展をし、それが、鉄道の発達をうながした。
  また、その鉄道の発達が、さらなる資本主義の発展を
 促進するという展開となった。
  経済体制の発展と、鉄道の発展とが相互に相関的な発
 達となっていた。
  鉄道が、日本の輸送には欠くことのできない主座を占
 めて行った。
  1906年には、「鉄道国有法」が公布された。
  そして、幹線を構成していた私設鉄道17社が、1907年
 までに、すべてが国有化され、「国有鉄道」が成立した。
  そして、その鉄道の技術も「自立」して行った。
  日本の経済のさらなる発展には、日本の「技術の自立」
 が必要不可欠だった。
  そして、その為の法制化、規格化が進んだ。
  日本の重工業の発展とともに、その車輌、機械類の自
 給体制も確立さ、完成させて行く。
  1894年、「鉄道局隧道定規」、および、「橋梁、鋼鈑
 桁ノ定規」を制定する。
  また、神戸商業会議所は、官設鉄道運賃低減を提案す
 る。
.
1894年12月31日、三菱第1号館の完成
  イギリス・ロンドン出身の建築家ジョサイア・コンド
 ル(お雇い外国人)によって・・
  イギリス・クイーンアン様式の外観を持つ煉瓦造の建
 築物として設計され・・、
  また、建設工事は、曽禰達蔵現場主任があたり、直営
 工事による施工で完成した。
  丸の内ビル街の先駆で・・、
  その後、次々とオフィスビルが完成し、「一丁倫敦(
 いっちょうろんどん)」と呼ばれるオフィスビル街とな
 って行った。
.
1894年12月、フランスでドレフュス事件が発生した。
  フランス第三共和政を揺がした政治危機で、1894年〜
 1906年、フランス社会の根底に横たわる社会的・政治的
 緊張を露呈した。
  共和国の存続そのものを危険にさらした。
  1894年、ユダヤ系の陸軍大尉 A.ドレフュスが、ドイツ
 に情報を売っていた。
  そして、終身流刑に処せられた。
  ユダヤ系のドレフュス大尉への「差別がある」として
 再審を求める派と、判決を支持する派でフランス国論が
 二分された。
  フランス軍部内では、別に真犯人のいることが分かっ
 たが、軍の威信と反ユダヤ感情などのため事件を糊塗し
 ようとした。
  最初は、家族と知人を中心とした再審要求運動であっ
 たが、上院副議長 A.シューレル・ケストネル、後の首相
  G.クレマンソーらの支持を得て再審要求運動は拡大した。
  1898年、文人 É.ゾラが『オーロール』紙上で「私は弾
 劾する」で始る大統領あての公開質問書を発表するなど、
 世論は高まり、単に、個人の有罪、無罪の論議をこえて、
  左翼には、国権に対する個人の自由を守り、軍を議会
 の統制下におこうとした反教権的な「ドレフュス派」、
  右翼には、軍の威信や伝統的価値を擁護し、対ドイツ
 愛国心を強調する国家主義者、頑固なキリスト教カトリ
 ック、反ユダヤ人主義者、保守主義者などを中心とする
 「反ドレフュス派」が形成され、国論を2分して抗争した。
  1898年、H.アンリ大佐が、文書の一部偽造を告白して
 自殺したため、再審は確実となり・・、
  1899年、レンヌの軍法会議の再審で減刑されたが依然
 有罪で、大統領特赦で刑が免じられた。
  1903年、新たに有利な証拠が提出され・・、
  1906年7月、民事の破毀院は、レンヌの判決を全面的に
 破棄、議会も復権法案を可決した。
  1906年7月22日、ドレフュスも正式に復権した。
      (出典 ブリタニカ国際大百科事典)
.
1894年12月、夏目漱石が、漱石ゆかりの地・鎌倉・円覚寺
 で参禅する・・、
  29歳の漱石は、同寺塔頭の帰源院で坐禅を組んだ。
  優秀な成績で、帝国大学文科大学(後の東京帝国大学
 現・東京大学)を卒業していた漱石・・、
  そして、英語教師として東京高等師範学校の教壇にも
 立っていた漱石・・、
  しかし、自分の中にどうしてもしっくり来ないものが
 あった(漱石の記述)
  「卒業したときには、是でも学士かと思ふ様な馬鹿が
 出来上つた。
  それでも点数がよかつたので、人は存外信用してくれ
 た。
  自分も世間へ対しては多少得意であつた。
  たゞ、自分が自分に対すると甚だ気の毒であつた」
             (処女作追懐談)
.
1894年、中国の軍閥
  1912年1月1日の中華民国成立の前後、私設の軍隊を背
 景に中国各地に並び立った勢力があった。
  特に、日清戦争後、北洋陸軍を私兵化した袁世凱の北
 洋軍閥が最大のもので、辛亥革命後、北京に軍閥政権を
 樹立した。
  死後、安微派、直隷派に分裂し、さらに、奉天派など
 も交えて抗争を続けていた。
.
1894年、日本は、朝鮮・韓国の鉄道建設などの社会資本の
 充実に、本当に誠意をもって尽くした。
  韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授の自著の
 「日本人の税金で賄(まかな)われた朝鮮の鉄道建設」
 の項には、以下の様な記述がある。
  「鉄道は、未開国を近代国家に育成する機能を発揮す
 るための必要不可欠の動脈であり・・、
  市場経済の血管である・・、
  鉄道に代表される「大衆交通手段」の発達は、人類の
 生活向上と幸福の増進にも欠かせない・・、
  道なき山野に・・鉄道が敷設された事が・・、
  日本政府の目的がどこにあろうと、朝鮮民族にとって、
 長い間の地獄のような世から脱する事につながったこと
 は論をまたない。
  1894年、日清戦争勃発を契機として・・、
  朝鮮に鉄道敷設の機運は熟していたが、当時の李朝は、
 財政・経済に対する基礎的知識もなく、交通・鉄道に関
 する認識もなかった。
  1896年「京仁線(ソウル〜仁川間)」38.9キロの鉄道
 敷設権を、日本企業「京仁鉄道合資会社」が、アメリ
 人のモールスから買収して、1900年7月8日に、全線を開
 通させた。
  これが、朝鮮で最初の鉄道だった。
  ちなみに、日本で新橋〜横浜間が開通したのは1872年
 で、その28年後のことであった。
  従来、今までソウル〜仁川間の往復は、5日から6日も
 かかっていた。
  ソウルの両班老人たちは、初めて見る汽車を「鉄馬」
 と呼び、その「鉄馬」に乗って一日中、往復を繰り返し
 て楽しんだと伝えている。
  (両班・りゃんばんは、特権階級で朝鮮庶民から収奪
 する階層だった)
  往復で5日〜6日の所要時間は、2時間〜3時間に短縮さ
 れた。
  何とありがたい事であろう・・、
  元来、両班とは、働かずに、農工民が生産したものを
 優先的に処分する権利を保有していたから、「鉄馬」に
 乗って一日を消費して、それを最高の享楽と感じたのだ
 ろうことは容易に想像できる。
  「京釜線(ソウル〜釜山間)」450.6キロは、「京釜鉄
 道〉株)」が、1905年1月1日に、全線を開通させた。
  京仁・京釜線鉄道の買収額(建設費)は、3500万円だ
 った。
  それに対して同年の大韓帝国の収入額(税・印紙税
 額)は、784万円だったから、自力での鉄道敷設は夢でし
 かなかった。
  それまでフランスやロシアも競って鉄道敷設権を獲得
 したが、その資金の裏付けもなく、工事の着工もできな
 かった。
  アメリカのモールス(京仁川敷設権取得者)も事情は
 まったく同じで・・、
  彼らが頼りにしたのは李朝であったが、以上のような
 財政事情で、まったく実現の可能性が無かった。
  その様な事情から、日本企業が、この難局を切り抜け、
 京仁・京釜線が敷設された事は、天佑神助(てんゆうし
 んじょ、天や神の助け)というべきであった。
  京義線(ソウル〜新義州間)は、フランスのグリール
 が敷設権を取得したが、これも日本が買収して、建設を
 受け継ぎ、1906年4月に、全線を開通した。
  京義線と馬山浦線の建設費、は3138万円で、したがっ
 て、京仁・京釜・京義・馬山浦線建設費を合わせると、
 6638万円になる。
  この6638万円は、日本人の血税で賄われた。
  ・・が、その活用は、日本人・朝鮮人共用であり、朝
 鮮側の享受した利益は「莫大なものであった」。
  もしも、1896年〜1906年の1円が、今の10万円に相当す
 るとすれば、6.6兆円であり・・、
  それを、2003年11月25日の為替レートで韓国ウォンに
 換算すれば、79兆6560万ウォンに相当する(2003年11月
 現在、物価指数による換算)。
  こうして、1910年の日韓併合時には、既に全国1039.7
 キロの路線が完成した。
  これに続き、日韓併合後は、寺内・長谷川の両総督時
 代に、湖南線・京元線(ソウル〜元山間)・平南線が、
 1917年には、会寧〜清津間が開通した。
  併合後に、朝鮮総督府が、鉄道敷設に投資した費用は、
 次ページの一覧の通りである。
  日本の斎藤実総督は、1921年9月に開催した「産業調査
 委員会」の提議によって、吉林〜会寧間の敷設計画と、
 それ以降の12ヵ年計画を立ち上げたが、その概要は、以
 下の通りであった。
  鉄道建設12ヵ年計画、
  期間:1927年〜1939年、
  総経費:3億円、
  路線:図們線(雄基〜潼闕鎮)156キロ、
  恵山線(恵山鎮〜吉州)142キロ、
  満浦線(順天〜満浦)286キロ、
  東海線(安辺〜浦項・釜山〜浦項)549キロ、
  慶全線(晋州〜全州・院村〜漂陽)251キロ、
  計1384キロ
  また、朝鮮総督府が建設する鉄道で、1930年末までに
 完工した路線は、次の通りである。
  鉄道建設状況(1930年末)
  京釜線 450.6キロ、
  京仁線 38.9キロ、
  馬山浦線 40.1キロ、
  鎮海線 20.6キロ、
  京義線 499.3キロ、
  兼二浦線 13.1キロ(黄州〜兼二浦)、
  平壌炭鉱線 23.3キロ(大同江〜勝湖里)
  平南線 55.3キロ(平壌〜鎮南浦
  博川線 9.3キロ(孟中里〜博川)、
  竜山線 6.7キロ(竜山〜唐人里)、
  新義州貨物取扱所線 1.8キロ、
  湖南線 260.7キロ、
  群山線 23.0キロ(裡里〜群山)
  慶全線・慶全北部線 25.3キロ(裡里〜全州)、
  光州線 36.4キロ(松汀里〜漂陽)
  京元線 223.7キロ、
  威鏡線 617.6キロ(元山〜会寧)
  川内里線 4.4キロ(竜漂〜川内里)、
  清津線 9.0キロ(輪城〜清津
  会寧炭鉱線 10.6キロ(会寧〜鶏林)
  北青線 9.4キロ(北青〜新北青)、
  遮湖線 4.9キロ(会山〜遮湖)
  鉄山線 3.0キロ(羅興〜鉄山)、
  平元西部線 67.0キロ(西浦〜新倉)、
  東海線・東海中部線 148.8キロ(大邸〜慶州)、
  東海北部線 31.4キロ、
  図們線・図們西部線 59.6キロ(会寧〜潼闕鎮)
  図們東部線 31.4キロ(雄基〜訓戒狭)
  その後、新倉〜高腹間の平元線146.8キロ、吉州〜恵山
 鎮間の恵山線141.6キロ、順天〜満浦間の満浦線286.6キ
 ロ、釜山鎮〜蔚山線70.8キロなどが、開通した。
  その他にも、総督府は、私設鉄道に対する補助を行な
 ったが、1915年〜1930年までに、その総額は4000万円を
 超えた。
  1910年の日韓併合以来、旅客運賃収入と貨物収入は、
 67ページ下段の表の様に飛躍的に発展しており、物流の
 活発化を裏付けている。
  こうして、1945年の終戦の日まで、鉄道網の拡張は続
 けられた。
  その総延長は、6632キロ、駅の数は762、従業員数は
 10万527名に達した。
  それまでの姿・・「人間の背中に頼っていた李朝時代
 の物流」・・、
  それ以前の李朝時代の物品の交流は、褓負商ボブサン
 (行商人〉に頼っていた。
  たとえば、全州チョンジュの行商人(褓負商ボブサン)
 は妻子とともに、全州名産の生姜(しょうが)と櫛(く
 し)を背負って、平壌ピョンヤンまで3週間余りかけて歩
 き、そこで販売する。
  次に、人力車も通れない道を、再び、歩いて、元山ウ
 オンサンに行き、昆布と干魚を売りさばくという具合だ
 った。
  時間が予定以上にかかったり、滞在が伸びたりしたら、
 利益は見込めない。
  その様を想像しただけでも、道路やインフラ整備を怠
 った李朝が、百姓にとって、いかに苛酷な統治者であっ
 たかが分かる。
  この場合でも、馬を使うのが普通だが、馬には人間以
 上の経費がかかる。
  結局、運搬道具として、牛馬ならぬ人間の背中が最も
 利用されることとなった。
  朝鮮には、遠い昔から運搬具として「チゲ」というも
 のがあって、今も農村では欠かせない道具だが、肩に掛
 ければ荷重が背中全体に、公平に分配されるから肩が痛
 くないという特徴がある。
  嶺東には、蜂蜜の生産は多いが、塩が無く、平安道
 ョンアンドでは、鉄の生産が多いが蜜柑・レモンは無く、
 ハムギョンドでは、朝鮮人参の生産は多いが、綿布は生
 産されない。
  この様な地方特産品を、鉄道の敷設によって流通させ
 ることが出来れば、住民の生活向上につながることは言
 を俟(ま)たない。
  暗黒の国土に、鉄道が開通し、日本の先導で、ようや
 く近代化のきざしが、朝鮮にも見られるようになった史
 実は、否定できない。(以上)
  今・現在、中国及びその手先は、『日本は、軍隊を運
 ぶために朝鮮・韓国の鉄道を作ったのだ」と日本の努力
 を無にすることを言うが・・
  その為だけならば、この様に朝鮮の国土を縦横無尽に
 張り巡らす様に鉄道を造る必要はない。
  日本は、心から朝鮮の日本並みの発展を願っていたの
 だ。
  朝鮮・韓国は、その日本の恩を感じなければならない。
  その日本の恩を無にする言動をする韓国となっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:朝鮮・韓国は、その日本の恩を感じなければならない。
.
683年(天武12年)鏡王女(かがみのおうきみ)が、この日、
 薨去(こうきょ)したが・・、
  その前日、天武天皇は親しく病床を見舞われた。
  万葉集に・・
  玉櫛笥(たまくしげ)覆(おお)ふを易(やす)み
  明(あ)けて去(い)なば 君が名はあれど
  我が名し惜(お)しも
              鏡王女
  訳:箱に蓋をすると中のものが見えなくなるように、
    私たちのことを覆い隠すのは簡単だとお思いに
    なって、夜が明けてからお帰りになれば、
    あなたの名はともかく、わたくしの名が惜しうご
   ざいます。
  藤原鎌足が鏡王女と婚をなすために訪れた夜の明け方、
 なかなか帰ろうとしない鎌足に王女が贈った歌です。
  歌の背景には妻問い婚(つまどいこん)が普通であっ
 た当時、男性が夜明けまで女性の家に居て帰ろうとしな
 いと、ご近所の噂がひどかった、という事情がありまし
 た。
  鏡王女は天智天皇の異母妹で、若き日の天智天皇の妃
 (きさき)となり、その後、鎌足正室となった女性で
 す。
  古代国家の基礎を築きつつある天智天皇にとって、鎌
 足は無くてなならぬ人物でした。
  加えて鎌足は、とかくギクシャクしがちな天智天皇
 実弟大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇
 と天智天皇との関係を、取り持つことができる唯一の人
 物でもあったのです。
  天智天皇の妃であった鏡王女がなぜ鎌足と結婚したか、
 その詳細は不明ですが、王女は愛する夫にして異母兄・
 天智天皇鎌足の絆を不動のものにするために、天智天
 皇の願いを受けて再婚したのだと思います。
  天智天皇の愛が薄れて再婚したのではなく、わたくし
 はそこに、天智天皇の王女への深い信頼と愛を読み取る
 のです。
  藤原鎌足天智天皇に先立たれ、壬申の乱(じんしん
 のらん)にも遭遇するという激動の古代を生きた王女は、
 晩年、懐古(かいこ)の鳥とされている呼子鳥(よぶこ
 どり)の声に、そんなに鳴かないでおくれ、昔を恋い慕
 う心を募るばかりだから、と深く嘆じました。
  神奈備(かむなび)の 磐瀬の杜(いわせのもり)の
  呼子鳥 いたくな鳴きそ 我(あ)が恋(こい)増(
  ま)さる
  683年(天武12年)王女薨去(こうきょ)。
  その前日、天武天皇は親しく病床を見舞われた。
         (国文学者・石丸昌子氏の名文です)
.
1147年、第二回十字軍(〜1148年)・・北方十字軍
  この12世紀の西欧諸国におけるカトリック教会の権威
 確立を目的とした第二回十字軍の壊滅的な敗退は、返っ
 てカトリック教会の権威を失墜させる危機に陥れた。
  クレルヴォー修道院長ベルナールは、これを打開する
 ため新たな十字軍を提唱した。
  西欧諸国からはドラクリア(竜の地)、東欧諸国では
 ディアボロシア(悪魔の地)と呼ばれ、現地の人々から
 はウェリ・クン・ナーラ(天神に祝されし国々)と総称
 される、カグレア、シルリア、ペグゼリア、タンムリア、
 カラキアにおける異教異民族への十字軍だった。
  この十字軍は、「最も成果の無かった十字軍」と呼ば
 れ、実態は敗北だった。
  ただただ、スラブ人を殺す十字軍という状況だった。
  後に、これは北方十字軍と呼ばれる。
  北方十字軍は、受け継ぐ封土を持たぬ封建諸侯の子弟
 達(この憤懣のガス抜きの十字軍)、そして、相次ぐ戦
 乱と飢饉で家屋や土地を失った貧民達から構成されてい
 た。
  そして、「フロンティアが獲得できる」という夢を吹
 き込み、それを目的としたので大いに受け入れられた。
  厳しく戦った事例としては、北方十字軍の攻撃を受け
 たカグレア人・・この民族は、かねてから国境付近でザ
 クセン公国と対立を深めていた。
  (参考)気高きグレアを意味するカグレア・・しかし、
     その地は過酷な地であった。
      凍てつく北方に位置するこの大地は、地味が
     乏しく、作物も実らず、狩るべく鳥獣や漁る魚
     貝も少なく・・その上、海の彼方からは、絶え
     ずユグラドラシスの異民族の襲撃を受け、その
     王国・バレア王国との紛争に明け暮れた。
      僅かな食糧と、その食糧を得る為の領土を奪
     い合う、殺し合う・・生き延びる事の困難なこ
     の地の人々は、戦いが多く、そのため強かった。
  ウェリ・クン・ナーラでも、勇猛な戦闘部族で知られ
 ていたカグレア人は、 スペル・ユニオル族族長レーベル
 クを中心に、前九年・後三年と、合わせて十二年に渡り
 激しく抵抗した。
  一時は、カグレアの地よりドイツ諸勢力を一掃し、逆
 に、ザクセンに侵入し、ヴァグリアを征服するにまで至
 った。
  しかし、カグレア諸部族に服属していたシルリア人が、
 突如、自らキリスト教を受け入れ、北方十字軍と手を結
 んでカグレアの背後をつくと、一気に形成は逆転した。
  カグレア諸部族は総崩れとなり、北方十字軍に征服さ
 れた。
.
13世紀、北方十字軍
  「異民族のキリスト教化」という名目上の目標を掲げ
 て、バルト海沿岸地域へ進出した「北方十字軍」は・・、
 遠征の当初から本来の宗教的な目的を失っていた。
  その実際の実態は、「北方諸国の植民地化」だった。
  ローマ教皇からお墨付きをもらって・・、
  世俗の最高権力者である神聖ローマ皇帝の思惑とも重
 なって、キリスト教による征服事業の拡大を続けた。
  その先鋭に立ったのが「ドイツ騎士団」だった。
  13世紀、ハンガリー王国から追放されたドイツ騎士団
 だった。
  その武力集団は、異教徒征伐の命を受けてプロイセン
 の地(現在のカリーニングラードポーランド北部)に
 活動拠点を移した。
  そして、その武力の威力によって、先住民であるプロ
 イセン人の殺戮を尽くして制圧した・・そして、その地
 のすべてを掠奪・収奪した。
  その後も・・略奪と搾取を重ねながら、莫大な富を築
 き、「ドイツ騎士団領」という軍事国家まで作った。
  しかし、乱逆なこのキリスト教集団は、周辺諸国の貴
 族を集めて「人間狩りツアーを開催する」など、その残
 虐きわまりない性質と傍若無人ぶりだった。
  ドイツ騎士団は、リヴォニア(現在のラトヴィア西部
 からエストニア南部)を征服していたリヴォニア帯剣騎
 士団を吸収した。
  そして、さらに、現在のリトアニアの地へと侵攻した。
  それに対して、ミンダウカス王の元に諸部族が結集し
 てリトアニア大公国が誕生する。
  そして、強大な戦力を形成し、ドイツ騎士団を押し返
 した。
  その後、お互いが侵略行為を重ねる。
  拮抗した戦争状態が続く・・
  同じ様にドイツ騎士団と領土問題で対立を深めるポー
 ランドとの同盟関係を成立させる。
  1385年、ついにリトアニアキリスト教を受け入れ(
 当初は形式的なものだった)、両国は連合国となってド
 イツ騎士団と対立する。
  キリスト教の教義でもある「異教徒は殺せ」の異教徒
 との戦いという大義名分を失ったドイツ騎士団は激高し
 て、互いの存亡をかけた激烈な総力戦へなる。
  そして、ポーランドリトアニア連合は、1410年の「
 グルンヴァルト(タンネンベルク)の戦い」で勝利し、
 ドイツ騎士団に壊滅的な打撃を与える。
  ドイツ騎士団は、徐々に衰退し、やがて消滅した。
  ポーランドリトアニア連合国は、ヨーロッパ最大領
 土の国へと発展する。
  そして、その後、200年に渡る黄金時代を築く。
.
16世紀半ば〜17世紀初頭、南蛮貿易が行われた。
  1543年に、種子島ポルトガル船が漂着したが・・、
  南蛮貿易は、ポルトガル及びスペインとの間で貿易が
 行われた。
  中国・明のマカオが拠点で、特に、ポルトガル人が中
 心に営まれ、日本の銀が流出した。
  中国とは生糸が取引された。
  16世紀の前半から灰吹法によって銀の産出量が増えて
 いた。
  (参考)灰吹法:はいふきほう、鉱石からいったん鉛
     に溶け出させて産出する方法。
  キリスト教イエズス会は、プログラドールという貿易
 や財務を担当する役職を作って貿易を指揮し、担当し、
 交易し、利益を得た。
  長崎のこのキリスト教のプロクラドールは、岬に建設
 されたキリスト教会内のカーザ(建物・倉)に貿易品を
 貯蔵し、取り引きを行ったので、キリスト教会が商館の
 ように機能した。
  このプラグドールは、キリスト教宣教師のザビエルの
 提案したことから実現した。
  せっせと南蛮貿易に精を出すキリスト教だった。
  そして創設されたパウロ学院には金庫が置かれていて、
 貿易の利益のほか、貿易に税を掛けて金を取り、この教
 会内の金庫に金がうなる様にあった。
  このキリスト教会の主動する南蛮貿易の卑劣なところ
 は、日本の若い女性を売るという人身売買をしていた所
 だった。
  「70万人の日本女性を売った」という記載が、ポルト
 ガルの文書にある。
     ・
     ・
1910年8月26日、キリスト教徒のマザー・テレサが生まれた。
  マザー・テレサは、キリスト教の神は死んだと言った。
  マザーテレサさんは・・インドで・・ヒンズー教徒の
 方々が行っている・・『弱者救済の運動とその行動』の
 中に入って行って・・、
  ヒンズー教徒の方々と共に・・弱者救済活動を行なっ
 た。
  その行為が、そのことが・・素晴らしい業績となって
 いますが・・、
  (注):
  世間には、キリスト教プロパガンダ(嘘宣伝)だけ
 が・・あまりにも声高に叫ばれているため・・真実が、
 隠されています。
  初めて、上記の文を読まれた方は・・驚かれたと思い
 ますが・・「真実は、上記なのです」。
  キリスト教は・・、
  マザーテレサさんが、アメリカの映画に取り上げられ・・
 脚光を浴びた事を知り・・マザーテレサさんに着目し・・、
 キリスト教の「広告塔」にしました。
  そして、ヒンズー教の方たちを隠しました。
  ヒンズー教徒の方々は・・まったくと言ってよいほど、
 陰に隠れた状態に、なってしまいました。
  それでも、インド政府は、マザーテレサさんを国葬
 して・・マザーテレサさんを讃えました。
  そして・・、
  マザーテレサさんには、「別の業績」がありました・・、
  それは・・、
  「キリスト教の神は居ない」と、表明されたことでし
 た。
  マザーテレサさんは、キリスト教の神の存在に悩んで
 いました。
  キリスト教の神は居ない・・と・・、
  本国の色々な司祭などに、長い期間、悩みを打ち明け
 続け・・そして、相談をし続けていました。
  その事実は、隠されていました・・が・・、
  また、彼女のこの悩みである「キリスト教の神の不存
 在」は、「彼女の死に至るまで」続きました。
  彼女は、死ぬまで、キリスト教の神は居ないと悩んで
 いました。
  このキリスト教の神が居ないという事実を、公表する
 事が・・彼女の希望であったのでしょう、このキリスト
 教に『不利な事実』『真実』が公表されました・・キリ
 スト教の神は居ない・・と・・、
  このキリスト教の神は居ない・・神の死は・・今、ア
 メリカに、「神の死の神学」という人々が居ます。
  この方たちは、キリスト教の『神の不存在を主張」し・・
 成熟した現代社会・世界の人々は・・、それで十分やっ
 て行けるのだと言っています。
  『古代に発生したキリスト教』・・、
  その様な時代の、古代人とは・・現代人は違うと主張
 する方たちです。
  そして、マザーテレサさんは思っていたと思います・・、
  「神が居ない」と言い続けて、公表に至ったことは・・、
 その行為が・・「人類に貢献しうること」・・と、そう
 考えられて居られたから・・公表がなされました。
  また、『キリスト教の神の実在性を主張するそのもの
 が、人類にとってよくないこと・・よくないもの』と・・、
  マザーテレサさんが、そう考えられているから・・こ
 の様な、行動が取られたのだと言えます。
  (参考)神の死の神学:ニーチェの言葉である「神は死
 んだ」は・・、
  1960年代になり、公民権運動が盛んな時代のアメリ
 の神学者たちも使うようになった。
  アメリカの神学者たちは・・現代社会において神は・・、
 人間に・・『リアルな存在ではない』という意味で・・、
 「神は死んでしまった」という意味で用いる。
  1957年に、アメリカの神学者ゲイブリル・ヴァハニア
 ンは・・『神は死んだ』と題した著書を著した。
  ヴァニハンは、その中で・・無神論を、『アメリカの
 大衆の生き方である』と、述べている。
  アメリカ人の神学者・トマス・アルタイザーは・・、
 エモリー大学で教えている間に、『神は死んだか?』を
 出版する。
  また、アメリカの神学者ウィリアム・ハミルトンが、
 異なった立場から・・、
  1961年に、著書『キリスト教の新しい本質』で・・異
 なった視点の・・『神の死の神学』を展開した。
  そして、神が居ないと自覚する事で、人間の主体性が、
 そして、自律性が・・とりもどされ・・、
  前の時代の・・神に拘束された非人間性から・・脱却
 でき・・そして、人間らしさが取り戻せる・・と・・
          (参考:wikipedia)
.
1920年南洋諸島パラオは、日本の統治となった(〜1945
 年)
  この頃の首都はコロール。
  パラオには、スペイン南洋庁が置かれていた。
  日本からの移住者も多かった。
  パラオは、スペイン→ドイツと統治がされて来た。
  しかし、パラオの方たちは、日本の統治時代を非常に
 懐かしみ、「日本の統治は良かった」と言う。
  パラオ共和国の国旗も、日本の国旗に似せている。
.
1932年2月、リットン報告書が出された。
  満州が、リットン報告書などでアメリカからの策動(
 さくどう、秘かに計略を巡らして行動すること)を受け
 ていた頃・・、
  この当時、日本国内には、ソ連から指令を受けた、コ
 ミンテルンの命令下にある共産主義者が大勢いた。
  いつでも日本国内で、国家転覆をしようという者たち
 だった。
  そして、その様な手が打たれている日本でもあった。
  いつ、その者たちの活動が活発化するかの可能性も高
 かった。
  実際、その様なソ連の指令を受けた日本人も加わって
 いた。
  尾崎秀美(ほつみ)がその一人で、ゾルゲと連絡を取
 り暗躍していた。
  (参考)尾崎秀美:日本の評論家、ジャーナリスト(
     朝日新聞記者)、共産主義者
      近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論
     界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を
     持ち、日中戦争支那事変)から太平洋戦争(
     大東亜戦争)開戦直前まで、政治の最上層部・
     中枢と接触し、策動し、国政に影響を与えた。
  (参考)リヒャルト・ゾルゲソビエト連邦のスパイ、
     1933年〜1941年にかけてゾルゲ諜報団を組織し、
     日本で諜報活動を行ない、ソルゲ事件の首謀者
     だった。
      ゾルゲは、コミンテルン本部の指令で1933年
     9月に来日し、上海で旧知の尾崎らと接すること
     で軍、政府上層部から得た日独両国の機密情報
     をソ連に流したり、二・二六事件三国同盟
     関東軍特別大演習など日本の対ソ情報を入手し
     通諜していた。
      ドイツの新聞社特派員として駐日ドイツ大使
     の信任を得ていたゾルゲ(ソ連共産党第4本部
     所属)は、コミンテルンの命令を受けていた。
  (参考)日中戦争:実際は、アメリカが極秘に参戦し
     ていて、アメリカ大統領は「ボランティアだ」
     と言い逃れしたが、大統領署名の命令書が存在
     し、また、アメリカという国が膨大な米機を中
     国へ与え、パイロットも派遣していた・・日米
     中の戦争状態だった。
  その活動の一つが「日中戦争(実際は、日中米戦争)
 へ日本を導く」という活動だった。
  結局、実際に、日本は、日中米戦争へはまっていく。
  今・現在も、共産・中国(中共)の活動家が、日本で
 活動している。
  この当時の状況の様に・・、
  または、それ以上の人数の居る日本の状況となってい
 る。
  今、日本は、簡単に移民ができる様になっている。
  アメリカの圧力でなったのだが、日本は、今、「移民
 天国」の状態で、スパイ天国の様相となった。
  長野の冬季オリンピックの時、指令によって、長野に
 集まった共産圏・中国の活動家が、謀議し、手に手に種々
 な武器を持って暴れた。
  長野県のこの中国工作員の暴動行動は、怒号と騒乱状
 態に陥(おちい)った。
  これは国際問題の騒乱(共産中国とチベット国)であ
 ったため、日本の警察は、周りを取り囲み、手を出さな
 かった。
  この様にして、日本の国内においても、共産圏・中国
 の国家指令の活動が行なわれている。
  チベット国が、共産中国に蹂躙されていることを、日
 本国内で訴えようとした行動を・・中国の工作員・活動
 家が、武力行使して、そのチベット国の方々の行動を封
 じ込めようとした。
  共産圏・中国の本国から指令を受けた大勢の活動家に
 よる暴挙だった・・今、日本には、この様な輩が、うよ
 うよといる。
  普段は、普通に日本で生活している。
  あなたは、その中国活動家の普段の生活は、何ら違和
 感は持たないだろうが、いざとなるとこの長野の様な事
 を起こすのだ。
  普段は、「いい人だ」くらいに思っているがである。
  帰化して、それも本当に簡略化された手続きで(アメ
 リカの内政干渉でこうなった)簡単に日本人に帰化した
 元・共産圏・中国のこの様な活動家が・・、
  「普段の、いい人だ」の印象だけから、「この人たち
 は日本人になってくれたのに選挙権が無いのは、おかし
 い」となる・・外国人の選挙権問題が起きる。
  この行き過ぎた事例がドイツにある。
  ある自治体の地方自治権が奪われた。
  れっきとして「ドイツ人の票決の結果」と公表されて
 いるが、移民の自治体と化している。
  また、オーストラリアのタスマニア島(日本の佐渡島
 くらいの大きな島)が、正統な経済活動だと言われてい
 るが、共産圏・中国の手中に入った。
  (参考)2016年4月、オーストラリアのタスマニア州
     村落・タラリアが中国に売却への動き
      2016年4月、ギリシャ最大の港を中国企業が爆
     買い、総支出額は約1850億円
      2015年10月、オーストラリアで、韓国1つ分に
     相当する面積を中国企業が爆買い
  今、日本は、盛んに北海道が中国に買われている。
  北海道経済が、潤っている(息が付ける)というが?・・
  こんな「たわごと」で済むのか??
.
1937年12月、この時、「南京事件が起きたという嘘」がデ
 ッチ上げられている。
  今、種々の新史料が公開され、この南京事件が、さら
 によく見えて来た。
  南京事件の実態は、当時の中国の様々な情報工作によ
 って作られていて、「真実」は隠蔽されている・・
  不当で不条理な罪が、日本に押し付けられている・・
  その様な『事実』も判明して来た。
  今・現代、中国が南京事件をとやかく言うのは「もは
 や陳腐化している」。
.
2005年、全世界の金融資産が、2005年には140兆ドル(約
 1万7200兆円=1京7200兆円)で世界GDPの316%とな
 った。
  これは、1980年の109%、1995年の218%から飛躍して
 増大した。
  アメリカは、1995年303%から2005年405%と急増した。
  資本市場の機能は、金融システム間のM&A金融など
 仲介業務に比重を置くようになった。
  そして、規制がさらに撤廃され(自由が良いのだの大
 合唱)、リスクを伴う冒険的な大規模投資も合法的に可
 能となった。
  国際証券資本市場における支配力も強大となった。
  アメリカ産業史上初の業界の枠を越え、且つ、国境を
 越える超大型合併の波は、ユーロ圏を巻き込み、さらに、
 第三世界ロシア、中国、ブラジルのBRICs諸国の巨
 大資本をも引き込み・・
  世界は、国境を越え、M&Aの壮大な展開という新し
 い経験の試みの場と化した。
  故に、ネオリベラル・グローバリゼーションのダイナ
 ミックな主役は、巨大M&Aを業界の垣根と国境を越え
 て、グローバル企業帝国を築くビックビジネスの様相。
  (参考)ネオリベラル・グローバリゼーションにおけ
     るアメリカ「帝国」の覇権(上)、奥村皓一 著
      抄録:21世紀に入り・・、
     「冷戦」が終わって・・10年以上過ぎたという
     のに・・「帝国」「帝国主義」が、世界人類の
     当面、最大課題となり始めた。
      ソ連邦が崩壊し・・、
      旧社会主義陣営の国々が、資本主義市場経済
     を受け入れ始める一方で、資本主義大国間のグ
     ローバル競争が激化し始めた。
      加えて中国、ロシア、ブラジル、インドとい
     った新興の市場経済大国は、興隆をはたすなか
     で経済超大国をも目指し始めた。
      唯一、超大国アメリカは、経済力の相対的
     な地盤沈下のなか、圧倒的な軍事力を活用して、
     全世界を制覇し・・、
      米国のビッグビジネス(メジャーズ)を、スー
     パーメジャーズに編成して、先進国世界のみな
     らず、GAPと呼ばれる第三世界、開発途上諸
     国、旧社会主義国のすべてをその勢力下に組み
     込もうとするようになった。
      米国国際石油資本をはじめとする米国の多国
     籍企業は・・、
      グローバルに展開できるスーパー・メジャー
     として、全地球的に展開し始めた。
      国際競争力が相対低下して・・アメリカのビ
     ッグビジネスは、アメリカの軍事力を活用した
     セオドア・ルーズベルト型の「軍事帝国主義
     を背景に「自由とデモクラシー」の旗を掲げた
     ウィルソン型の「理想主義的帝国主義」を前面
     に全地球的展開を開始した。
      その典型は、ネオコンサーバティブの主導す
     るイラク単独進攻と占領である。
      世界で、石油埋蔵量第2位の、イラクの石油開
     発、生産を独り占めにし・・、
      イラクの「民主化」による親米政権の樹立と
     イラクの軍事基地化によって、中東と北アフリ
     カ、中央アジア(中東)の油田地帯に、アメリ
     の石油秩序を確立しようとしている。
      さらに、アメリカは、南西アフリカ、南アジ
     ア、ラテンアメリカへと、「帝国」を広げよう
     としており、米国の軍事関与は、百数カ国に及
     び、冷戦下では実現できなかった戦線の拡張に
     ある。
      だが、資本展開の膨張に、米軍事力は無限に
     応ずることはできず、米国の単独主義の行きつ
     くところは自己破産・・軌道修正を迫られる。
.
2011年7月28日、高倉蒼甫(たかおかそうすけ)というタレ
 ントが、フジテレビで、「フジテレビは韓国のテレビ局
 か?」と発言したら、事務所(スターダストプロモーシ
 ョン)が解雇した。
  (cf)高岡奏輔(たかおかそうすけ)ウィキペディ
      ア
  (cf)2011年のフジテレビ騒動、高岡蒼甫のツイー
      ト:ウィキペディア
.
2018年、現在、世界全体で・・2800万人を数える華僑。
  その90%が、アジアに居る。
  インドネシア650万人(23%)
  タイ・・・・610万人(22%)
  マレーシア・520万人(19%)
  シンガポール209万人( 7%)
  フィリピン・120万人( 4%)
  ベトナム・・100万人( 4%)
  他・・・・・591万人(21%)
  輩出するところは・・
  広東省・・ 1500万人(54%)
  福建省・・・700万人(25%)
  海南省・・・170万人( 6%)
  他・・・・・430万人(15%)
  福建省は、僑郷(華僑のふるさと)として、広東省
 次いで多くの華僑を送り出している。
  強力な経済力とネットワークで知られる華僑。
  アヘン戦争から逃れ最高潮となる・・100万人に達した。
  海外に中華街ができると、そこが足場にできるので、
 急増した。
  中国政府の圧政に農民が反乱(太平天国の乱など)を
 起こすとともに海外へ、その様な中国から逃れ出ようと
 農民も増加した。
  太平天国の乱に敗れた人々も・・海外へ逃れた。
  1933年には、800万人となった・・この内訳に於いて、
 福建省出身はその40%(320万人)となった。
  帰国して中国ナショナリズムを高揚させたりした。
  華僑の模範、そして、民族の輝きだとして毛沢東は、
 陳嘉庚を賞賛した・・
  彼は、シンガポール(マレーシア)でゴム大王として成
 功した。
  華僑は、常に、新天地の政府に対して用心深かった。
  そして、沖縄県は、2016年(平成28年)、沖縄県と福
 建省の友好親善に貢献するためだとして、奨学金を支給
 する奨学生を福建省へ送ることにした・・
  学費や宿泊費、そして、食費は・・中国側が負担する・・
 国際交流・協力の推進だとする美しい名目がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive