(増補版)342E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月〜1877年2月)

題:(増補版)342E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月〜1877年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1877年、その他:
・大阪でセルロイド製のサンゴ玉ができる。
  根付という、印籠 (いんろう) ・巾着 (きんちゃく) ・
 タバコ入れなどを腰に下げるとき、帯にはさむひもの先
 端につけて、すべりどめとした、小形の細工物を、日本
 人は好んだ。
  材料は、木・象牙・角・金属などで、人物・動物・器
 物などを彫刻した。
  1700年頃の元禄年間から使われだした。
  象牙が高価であった。
  しかし、象牙は高価なものである上に、象三頭に二人
 と言われるほど、多くの犠牲者を出した。
  そのために象牙の代替品が必要となりセルロイドが発
 明された。
  このセルロイドが、珊瑚や鼈甲などの代用品としても
 使わた。
  日本に最初に輸入されたセルロイドが赤色であったこ
 ともあり、模造珊瑚玉に加工された。
  因みに、セルロイドは、ニトロセルロースとショウノ
 ウ(カンファー)から生成された、史上初のプラスチッ
 ク素材だった。
  1860〜70年代に開発され、成形加工が容易で玩具・日
 用品などに多用されたが、可燃性であるため、最近は使
 われていない。
浅草文庫を、上野の東京府図書館に移管した。
  1872年:書籍館(じょはくかん)が開館、
  →1874年:浅草文庫と改称
  →1875年:東京書籍館となる
  →1878年東京府書籍館と改称
  →1880年東京図書館と改称
  →1897年:帝国図書館となる
  →国立国会図書館
1877年1月1日、タバコ課税の実施
  茶・煙草などの物品税収入が200万円以上になったら、
 税金を地価の100分の1に下げるとした。
1877年1月4日、地租軽減之詔書
  減租の詔(氷川清話)
  地租の2.5%への軽減が認可された。
  「朕惟フニ維新日浅ク中外多事国用実ニ貲ラレス而シ
 テ兆民猶ホ疾苦ノ中ニ在リテ未タ富庶ノ沢ヲ被ラサルヲ
 愍レミ曩ニ旧税法ヲ改正シテ地価百分ノ三トナシ偏重無
 カラシメントス今又親ク稼穡ノ艱難ヲ察シ深ク休養ノ道
 ヲ念フ更ニ税額ヲ減シテ地価百分ノ二分五厘ト為サン有
 司宜ク痛ク歳出費用ヲ節減シ以テ朕カ意ヲ賛クヘシ」
1877年1月11日、神祇を統括する教部省と東京警視庁を廃止
 した。
  警視庁発足時から、各地で士族反乱が発生し、地方の
 警察力では対処できなかった。
  政府は、全国の警察を一元化するため、1877年(明治
 10年)1月11日に警視庁を廃止し、
  内務省直轄の東京警視本署へと改編した(庁舎はその
 まま使用された)
  川路利良(かわじとしよし)大警視は、内務省に対し
 兵器の貯蔵を上申し、
  東京警視本署は、陸軍省から7000挺の小銃を借用して、
 陸軍士官の派遣を受け、軍事訓練を行った。
  1877年(明治10年)、最大の士族反乱となった西南戦
 争に、警視隊(9500名)を編成して従軍し、陸軍を支援
 している。
1877年1月26日 歴史館設立(総裁は伊知地正治
1877年1月、工部省鉄道寮にかわって鉄道局設置(改称)
1877年1月29日、鹿児嶋縣・私學校の生徒数100人が、銃器製
 造所、陸軍火薬庫を襲撃した(1月30日説あり)
  鹿児島の私学校生、草牟田の火薬庫を襲う(西南戦争
 の火種となる)
  この私学校は、西郷隆盛が設立した私学校だった。
1877年2月3日 西郷隆盛が、私学党を率いて遂に官軍対抗の
 意を決した。
  そして、結局、西郷隆盛も、2月15日に、兵を率いて鹿
 児島を出発することになる、そして、2月22日に、熊本城
 を包囲し、政府軍と激しく戦ったが、3月20日に田原(た
 ばる)坂で敗退し、9月24日に、鹿児島に帰った西郷軍は、
 政府軍の総攻撃を受け、西郷隆盛は自刃する。
1877年2月5日、 東海道線の京都〜大阪〜神戸の鉄道が正式
 開業した。
  京都・大阪・神戸間の鉄道開通式(京都駅落成、明治
 天皇陛下を迎えて開業式を行なった)
  2月6日、営業運転を開始した。
  神戸〜大阪間が、1日11往復で、所要時間は1時間8分、
  大阪〜京都間が、10往復で1時間43分。  
  仮開業(1874年)
1877年2月10日、有史閣(のちの有斐閣)創業、
  古書店から法律専門書出版社に発展
1877年2月10日、紙鳶あげ・羽根つき・独楽遊び、交通妨害
 になると禁止された。
1877年2月10日 西郷隆盛の私学党の乱に対して、近衛、及
 び、東京・大阪両鎮台に出動命令が下った。
  西南戦争が起きる原因として・・、
  明治六年の政変で下野した西郷は・・、
  1874年(明治7年)、鹿児島県全域に、私学校とその分
 校を創設した。
  その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率
 することと、県内の若者を教育することであった。
  外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊
 学させる等、
  積極的に西欧文化を取り入れたりした。
  西郷の目的は、外征を行うための強固な軍隊を創造す
 ることだった。
  やがて、この私学校は、その与党も含め、鹿児島県令・
 大山綱良の協力のもとで、県政の大部分を握る大勢力へ
 と成長した。
  明治政府の廃刀令や金禄公債証書発行条令など旧武士
 の特権を奪う行為を不満として「神風連の乱」「秋月の
 乱」「萩の乱」が起きた。
  この時も、西郷は、若殿輩(わかとのばら)が逸(は
 や)らないように、この鰻温泉を動かないという気持ち
 にあった(若い者たちが激昂しないようにとの態度)。
  西郷は、乱など起こす気は毛頭ないという気持ち・態
 度だった。
  しかし、政府内の長州派にとって、鹿児島の動きは気
 になる動きだった。
  この様な時に、鹿児島側、及び、政府側のそれぞれの
 内部に・・蠢(うごめ)く動きがある・・この様な時に、
  1877年1月に、警視庁大警視川路利良が、中原尚雄以下
 24名の警察官を「帰郷」という名目で、鹿児島に派遣す
 るという行為をした。
  まったく、いかがわしい、また、不穏な動きを・・し
 た。
  目的を明らかにして動いたのとは違い、慮(おもんば
 か)る不穏さと、疑念などが、事を大きくして行った。
  大量帰郷ということ・・はかりごとを含んだ様な・・
 丸出しの動きを・・あからさまに、政府側はした。
  この様な不穏な時、1月29日に至り、政府は、秘密裏行
 動を・・重ねて・・またした。
  政府は、鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器
 弾薬を大阪へ移すために、隠密裏に、赤龍丸を鹿児島へ
 派遣した・・
  そして、その搬出を行った。
  これは、当時、陸軍が主力装備としていたスナイドル
 銃の弾薬製造設備を、大阪への搬出しようという行為だ
 った。
  スナイドル銃は、陸軍の主力装備で、
  その弾薬は、薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身
 である鹿児島属廠で製造されていた。
  しかも、ほぼ独占的に製造し、供給していた。
  外国技術を導入した鹿児島藩の技術は進んでいた。
  スナイドル弾薬の製造が、唯一、国産化に成功してい
 た。
  また逆に、この様な進んだ技術を、一地方の鹿児島が
 持っていることが、中央政府として気になっていた。
  それ故に、この技術の秘密裏の持ち出しは、非常に繊
 細な重大な問題だった。
  この様な事から、私学校徒は、武器という重要なジャ
 ンルの、鹿児島の独自技術の、中央政府の無断持ち出し・
 泥棒的行為に怒った。
  同時に、武器弾薬も持ち出されるため、1月29日の夜、
 行動を起こしたのだった。
  草牟田火薬庫を襲った、そして、武器類を奪取した。
  この段階では、私学校徒たちも、まだ大きな乱へ発展
 の予感も意図もなかった。
  また、西郷や、薩摩士族たちは、戊辰戦争において、
 このスナイドル銃の優秀さを、良く実体験で知っていた。
  1月30日になって、私学校幹部らは会合し、警視庁帰藩
 組を、ひそかに調査・内定した。
  その結果、この帰郷が、「西郷の暗殺をも目的として
 いる」ということを掴んだ。
  ここが、事が起こる分岐点だった。
  この様な一連の事が西郷の耳にも達した。
  私学校徒の行動に、西郷は「ちょしもたー(しまった)」
 と言ったという。
  西郷には不本意な事の成り行きだった。
  西郷は、暗殺計画の話で沸騰する私学校徒らに対処す
 るため鹿児島に戻った。
  また、この西郷を迎えに、また守るために各地から、
 私学徒らが馳せ参じ、集まった。
  相当の人数に達した。
  2月3日、私学校徒らの私学校党は、帰郷した警察官ら
 60余名を一斉に捕縛した。
  そして、取り調べが・・行われた。
  その自白書には、川路大警視が西郷隆盛を暗殺するよ
 う指示したということが記された。
  2月4日夜、小根占村(こねじめむら)から帰った西郷
 は幹部たちを従え、旧厩跡にあった私学校本校に入った。
  翌日の2月5日、私学校幹部、及び、分校長ら200余名が
 集合して大評議がおこなわれた。
  今後の方針が話し合われた。
  「武装蜂起すべし」という意見、
  「上京して、政府を詰問すべし」という意見、
  「暗殺を企てる政府が上京途中に危難を加える虞があ
 る」という意見、
  「京都に行幸されて居られる天皇陛下に上奏する」と
 いう意見・・などなど・・種々の意見が出て、紛糾した。
  この様な紛糾の熱気の中・・、
  西郷を除く座長格だった篠原が・・、
  一同の意見を黙らせた、そして、「旗鼓堂々(きこど
 うどう)総出兵の外に採るべき途なし」と・・言った。
  これで、意見の大勢は・・決した。
  全軍出兵論が・・多数の賛成意見となった。
  少数となった出兵反対論は・・抑え込まれた。
  2月6日になると、私学校本校で、従軍者名簿の登録が
 始められた。
  同時に、この日に、西郷を中心に作戦会議が開かれた。
  「神戸・大阪・横浜・東京の急襲の策」
  「三道分進策」
  「陸路東上策」
  「熊本城・一部の抑えをおく策」
  「汽船しかなく、軍艦を持たないこと」などが話し合
 われたりした。
  2月8日、部隊の編成が・・開始された。
  2月9日、西郷の縁戚・川村純義海軍中将が軍艦に乗っ
 て西郷に面会に来たが、会うことができず。
  また、この日、県庁に自首してきた野村綱(文部官僚)
 が、「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」
 という内容を自供し、
  また、西郷暗殺計画には、大久保利通も関与していた
 と考えられるに至った。
  2月12日、各担当が、軍需品の収集調達、募兵など一応
 の準備を整えた。
  2月13日、大隊編成がなされた、
  そして、発表された。
  薩軍総指揮官:西郷隆盛
  参謀格兼本営附護衛隊長:淵辺高照、
  副官:仁礼景通、
  一番大隊、大隊長篠原国幹
   一番小隊〜九番小隊 半隊長・・略
  二番大隊、大隊長村田新八
   一番小隊〜九番小隊 半隊長・・略
  以下、三番大隊、四番大隊、五番大隊、六番大隊、七
 番大隊、連合大隊、一番砲隊、二番砲隊、大小荷駄隊
  計約2000名、連合大隊合計約1600名、
  淵辺は、狙撃隊を率いて西郷を護衛する。
  2月14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷によ
 って、一番〜五番大隊の閲兵式が行われた。
  因みに、
  政府が持ち出したスナイドル弾薬製造設備は・・、
  2月13日に、大阪砲兵工廠に設置されたが、鹿児島から
 搬出した際に、部品の不備や破損が生じ、
  結局、稼働できず、
  稼働させるには修理と部品の追加購入が必要となった。
  その後、それでも、政府は、兵の装備をスナイドル銃
 に統一して派兵している。
  そして、兵の動員規模が拡がるにつれて、
  早くも3月には、スナイドル弾薬500万発の装備を使い
 果たした。
  弾薬が欠乏した。
  この様な、激戦が続いた。
  そして、さらに、1800万発の調達が必要と見積もられ
 た。
  その為、政府軍は、旧装備のツンナール銃の装備で派
 遣される状態だった。
  戦いはそれだけ熾烈だった。
  政府は、清国から弾薬を借り受けたりもして、弾薬調
 達に東奔西走した。
  この様な、西南戦争の引き金が引かれようとしていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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