(増補版)294E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年1月〜1870年4月)

題:(増補版)294E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年1月〜1870年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1870年1月3日(明治2年12月2日)禄制改革(ろくせいかい
 かく)・・この時は、徳川幕府の家臣・旗本を対象とした。
  禄制を定め藩士の俸禄を削減した。
  版籍奉還のとき、藩主の家禄は、藩の実収高の10分の1
 に定められたが、
  藩士の家禄については、財政困難のため1〜2回の禄制
 改革を行なって変更(多くは削減)された。
  改革のやり方は、禄制の階層を簡素にし、単純化した。
  結果的に、上士層が大きく(20〜50%)削減され、中・
 下士層は加増(10〜20%程度)となった。
  当時、この層が主導権を握っていたこともあった。
  この禄制は廃藩まで変化することなく、
  そして、これは、後の秩禄処分はこれを基準として実
 施された。
  徳川家家臣だった旗本の場合は、この時の1869年12月、
 禄制が布告され、すべて旧来の知行制を廃し、21等級、
 および、等外に分けて、家禄を定め、現米で支給される
 ことになった(大きく削減された)。
  1871年には、禄高人別帳が作成されるなど、多元的で
 あった家禄の支給体系の一律化が進んだ。
  禄制改革をはじめとする政府の政策に対しては、反対
 意見も存在し、
  農民一揆なども勃発していた。
  また、政府では、旧薩摩藩士で参議の西郷隆盛らが朝
 鮮出兵を巡る征韓論で紛糾したおり、薩摩士族の暴発を
 予防策として、家禄制度を維持しての士族階級の懐柔を
 行うべきであるとする意見も存在した。
1870年1月3日、勝海舟徳川家達より使いをもって退身を
 止められる(氷川清話)
1870年1月18日(12月17日)大学校を大学、開成所を大学
 南校、医学校を大学本校と改称した。
1870年1月22日(12月21日)安房の野島崎に西洋式燈台竣工
 点火する。
  相州観音崎燈台に次ぐ西洋式燈台だった。
1870年1月25日(12月24日)外務大臣・丸山作楽(まるやま
 さくら)など、樺太にてロシア代表と日露境界を談判(
 容易に決せず)
  因みに、作楽は、明治4年征韓論に同調して、投獄さ
 れた。
  また、明治15年には、立憲帝政党を組織した。
1870年1月26日(12月25日)東京〜横浜間に電信開通
  1969年10月23日(明治2年9月19日)に、東京〜横浜間
 の電信線の設置工事が始まり、
  そして、この日に、東京〜横浜間電信が開通した。
  そして、伝信局を置き、通信規則・料金を定め、公衆
 電報の取り扱いが開始された。
  この後、数年で、電信網は全国に張り巡らされた。
  明治2年(1869)に、横浜灯明台役所と、横浜裁判所の間
 の約800メールに、我が国最初の電信線が架設された。
  そして、その後のこの日の・・、、
  1870年1月に、東京〜横浜間が開通した。
  1873年3月(明治6年2月)には、東京から長崎に達し、
  また、東京以北の青森に至る幹線は、1875年4月(明治
 8年3月)に竣成し、電信線路網は全国へ広がった。
1870年2月3日(明治3年1月3日)大教宣布の詔(だいきょ
 うせんぷのみことのり)
  天皇陛下に神格を与え、
  神道を国教と定めて、日本を祭政一致の国家とする国
 家方針とした。
1870年2月5日(1月5日)徳川慶喜以下旧幕臣の罪を宥す
1870年2月17日(1月17日)最初の陸軍始(観兵式)
  明治天皇陛下が、宮城内旧本丸跡にて鎮台兵を閲兵さ
 れた。
1870年2月27日(1月27日)日章旗が国旗となる(商船規則)
  国旗、日の丸のサイズ制定される。
  商船に掲げる国旗に、日の丸を制定し、布告した。
  明治政府が、太政官布告(第57号)を以て、国旗のデ
 ザインや規格を示し、日章旗を「御国旗」として規定し、
 日本船の目印として採用した。
1870年2月、本木昌造が、長崎製鉄所の頭取の職を辞した。
1870年3月、本木昌造が、長崎製鉄所の頭取を辞し、長崎の
 新町に新町活版所を創設した。
  私学校「新街私塾」の経費を賄う目的も、日本最初の
 民間活版所で、活字鋳造と印刷事業を始め、近代日本の
 印刷技術発展の基礎がつくられた。
  そして、新町活版所にて、日本活字号数制を確立した。
  和文活字の大きさは、ウイリアム・ガンブルの考案し
 た号数活字のシステムを参考にした「号数制」が基本。
  ガンブルは、スモールパイカ(11point)を5号活字と
 するが、11pointに相当する日本の尺度、鯨尺の1分をあ
 てた。
1870年3月4日(2月3日)イギリスから蒸気消防ポンプを、
 東京府消防局が輸入した。
  因みに、日本の消防車が赤であるのは、1911年に、大
 阪市が輸入した消防車が赤色であったため・・、
  1951年に、道路運送車両法保安基準によって、消防自
 動車は、朱色であることが法律上で定められた。
  また、因みに、アメリカは、各消防局ごとに色が異な
 っている。
  アメリカ合衆国のタコマ市は黄緑色。
1870年3月14日(2月13日)樺太開拓使が設立された。
  樺太開拓使を置き、1870年6月には、黒田清隆(くろだ
 きよたか)が、開拓次官に任ぜられ、樺太専務を命ぜられ
 た、
  そして、開拓費を金12万両、米5000石と定めて、クシ
 ュンコタンに庁舎を置いて、農作物の試作を行なった。
  また、漁場を官営で行ったりした。
  そして、移民の誘致などを試みた。
  しかし、十分な成果はあがらなかった。
  ロシアの方が、盛んに植民経営をして、押されがちだ
 った。
1870年3月16日(2月15日)大阪造幣寮(現在の造幣局)開
 業。
1870年3月19日(2月18日)新橋駅〜横浜駅間(現:桜木町
 駅)の鉄道を着工した。
  1872年10月14日(明治5年9月12日)に開業した。
  全線:29キロメートル。
  この日、開業式典が新橋駅で催され、明治天皇陛下の
 お召列車が横浜まで往復した。
  翌・10月15日から全線の正式営業を開始し、列車本数
 は、1日に9往復であった。
  全線の所要時間は53分。速度:32.8km/hだった。
  開業の日をさかのぼること1872年6月12日に、仮開業と
 いう形で、列車が2往復、運行されている。
  翌・6月13日には、6往復がなされた。
  途中の駅は設けられてなかった。
  欧米では、開国してわずかな期間に、鉄道を運行した
 日本に対し、驚嘆の声が上がった。
  (誇るべき日本の影の実力だった・・わずか数年で・・)。
  歴史家のアーノルド・トインビーは、「人類の歴史の
 奇跡の一つは、日本の明治以降の近代化である」と述べ
 た。
  因みに、アーノルド・トインビーは、ロンドン生まれ
 の、オクスフォード大学卒、キングス・カレッジ・ロン
 ドンの教授・王立国際問題研究所理事など歴任した、著
 名な欧米中心の歴史観ではない歴史学者である。
  日本の鉄道技術は、目覚ましい発展を遂げ、この開業
 からわずか30年余りで、7000キロメートルを突破する鉄
 道網を日本国内に築いた。
  今なお、新幹線やリニアモーターカーの技術へとその
 技術は継承され、花が咲き続け、伝統技術となっている。
  また、日本の誇るべきは、韓国や朝鮮半島にも、また、
 台湾、そして、中国の国内など、日本国内と同等に、差
 別することなく、鉄道網を構築した。
  ヨーロッパへつなげるという大局的な夢を掲げて、鉄
 道網を造って行った功績も誇るべきである。
  欧米の列強の搾取だけの態度・行動とは、まったく正
 反対だった。 
1870年3月21日(2月20日)京都諸藩兵を兵部省支配に管す
 る。
1870年3月22日、勝海舟太政官より草々出京致すべき旨
 御達しあり。(氷川清話)
1870年3月25日、勝海舟、母信子逝く静岡豊田村蓮永寺に
 葬る(氷川清話)
1870年3月、勝海舟、再度御達示あり静岡発(氷川清話)
  因みに、この時、勝海舟は47歳。
  勝海舟は、1899年(明治32年)に75歳で没している。
1870年3月(2月)華族のお歯黒と眉描きを禁止した。 
1870年3月(2月)ドイツ医学の採用を決定。
  この「ドイツ医学採用」までには、イギリス医学が良
 いという意見との間で激論が戦わされた。
  ドイツ医学を推薦したのは、佐賀藩医の相良知安だっ
 た。
  イギリス医学を推薦したのは、新政府内の西郷隆盛
 山内容堂などだった。
  二人は、戊辰戦争の傷病兵の治療で、イギリス人医師
 のウイリスに恩義があった。
  また、当時の医学の流れは、漢方からオランダ医学へ
 進み、さらにイギリス医学への流れだった。
  しかし、知安の知識は確かだった。
  知安は、ドイツ医学こそが世界最高水準であり、日本
 のとるべきは「ドイツ医学だ」との確信があった。
  その裏付けは、(1)オランダ医学書は、ドイツ医学
 書の翻訳が大半(オランダ医学はドイツ医学の焼き直し)
 で、当時のドイツ医学は、基礎医学で世界的発見が相次
 ぎ、発展していた。
  (2)大学南校学監の先人も「ドイツ医学が世界に冠
 たるもので、日本はドイツを範とすべき」と先見の明を
 示していた。
  (3)日本とドイツは、国情・民族性などに類似性があ
 るなどだった。
  ・・などの激論の末に、知安の論理に、新政府も理解
 を深めて行き、正式決定となった。
1870年4月5日(3月5日)東京湾最初の灯台、品川第二砲台
 に竣工した。
1870年4月10日(3月10日)続いて、品川第四砲台にも灯台
 を竣工した。
1870年4月15日(3月15日)我が国初の靴工場が着工(伊勢
 勝造靴場)
  西村勝三が、築地に伊勢勝造靴場を設立。日本初の西
 洋靴工場。
1870年4月17日(3月17日)人力車の営業許可願が提出され
 た(人力車の発明)。
1870年4月17日(3月17日)東京築地の尾張邸跡に、鉄道敷
 設事務局が設置される。
1870年4月22日(3月22日)和泉要助発明の人力車に営業許
 可出た。
  和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助らが、人力車業を開
 業、東京府に、人力車の製造と営業の許可を得る。
  拠点は日本橋
1870年4月23日(3月23日)外債の初め(5月23日説あり)
  鉄道敷設費のため、英国人より九分利附公債480万円を
 募る(外国公債募集の始)
   日本政府が発行した最古の外債は、1870年4月23日(
 明治3年3月23日)に、ロンドンで出された新橋駅〜横浜
 駅間の鉄道建設費用を捻出する為の9分付英貨国債100万
 ポンド(当時の相場で488万円相当)と、
  1873年に出された、秩禄処分の費用を捻出するための
 7分付英貨国債240万ポンド(当時の相場で1,171万円相当)
 であった。
.
 そして、今日の言葉・・
  減税策が採用できないなら・・、
  減税の景気刺激策が採(と)れないなら・・、
  約束のNHK受信料の3%値下げを実施せよ!
  NHK受信料の国民への、視聴者への3%返還分を、
 返還実施せよ!
  NHKは、金を貯め込むな!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive