(増補版)216D2/3:気になった事柄を集めた年表(1824年〜1825年)

題:(増補版)216D2/3:気になった事柄を集めた年表(1824年〜1825年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1824年、英蘭協約(えいらんきょうやく)が結ばれた。
  イギリスとオランダとの間で、アジアにおける両国の
 勢力範囲が確定された。
  1819年のイギリスのシンガポール占領をきっかけに、
 これに反対するオランダとの間に外交交渉が行われてい
 た。
  オランダは、インド、および、マレー半島の商館と領
 土を放棄し、
  また、イギリスも、スマトラ島にあった領土と商館を
 放棄し、
  マラッカ海峡を境界線として、両国の勢力範囲が決め
 られた。
  この条約によって、オランダの植民地は縮小し、イギ
 リスの世となった。
  オランダの地は、インドネシアのオランダ領東インド
 オランダ領ギアナスリナム、日本の出島となった。
  列強が、アジアの地の、うまい汁を吸う所を獲りあっ
 って駆け引きしていた。
1824年、ビルマ戦争が起きた(〜1886年
  イギリスとビルマ(現・ミャンマー)との間に3回に渡
 って起きたイギリスの侵略戦争(〜1886年
  63年間もの長い間、収奪地の拡大を目的に行われたイ
 ギリスの横暴な武力誇示行為の戦争。
  第一次戦争は、1824年から1826年に渡って行なわれた。
  イギリスに反抗して、コンバウン朝(アラウンパヤー
 朝)は、東部ベンガル(今のバングラデシュ)地方のイ
 ギリス侵略行為に対してを戦った。
  イギリスは、絶え間なく19世紀の間、ビルマ戦争(18
 24年〜1886年)を行なって、ビルマ侵略をし、植民地と
 した。
  イギリスは、この侵略戦争を謝罪していない。
1825年(文政8年)1月、初代の歌川豊国(うたがわとよくに、
 浮世絵師)が没した(57歳)
1825年2月、異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)
  幕府が、諸大名に異国船打払令を出した(無二念打払
 令)。
  外国船が、しばしば来訪し、上陸や、暴行事件が起
 きたため、江戸幕府が発した。
  第11代将軍、徳川家斉(いえなり)の時である。
  19世紀初め、北太平洋で操業するアメリカ・イギリス
 の捕鯨船が、日本近海を航行し、水、食料を求めて頻繁
 に渡来し、諸藩は沿岸警備をし、苦慮していたが・・、
  1808年のフェートン号事件や、1824年の大津浜事件と
 宝島事件などを受けて発令された。
  無二念打払令・文政の打払令・外国船打払令ともいう。
  「異国船はこれを発見しだい、二念なく打ち払うべし」
 とあった。
  1842年に、廃止した。
1825年7月、4世・鶴屋南北(つるやなんぼく)作「東海道
 四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)」が、江戸中
 村座で初演された。
1825年7月、幕府が、新金銀の引き換えが進まないため、古
  金銀の通用期限を、文政10年1月まで延長した。
  1824年の触書では、1825年までの通用であったが、延
 期して1827年2月(文政10年1月末)までとした。
1825年11月、諸国が凶作のため、将軍・家斉の日光社参が、
 再度、延期された(または中止)。
1825年12月、幕府が、酒株(さけかぶ)を所有しない者、
 所有していても1807年以後、休株・無営業である者の酒
 造を禁止した(文政10年解除)。
1825年12月、青地林宗(あおちりんそう、医師、蘭学者
 が、日本最初の物理学書「気海観瀾(きかいかんらん)」
 をまとめた(文政10年刊行)。
  幕府の天文台訳員となり外国文献を、多数、訳した。
  気海観瀾は、西洋の理科書を抄訳(ところどころを抜
 き出して翻訳すること)し、物質の定義や、力学や自然
 現象を図解して説明した。
  引力、温質、気性、気種、清気、燃気、硬気、吸気、
 光、色、音、エレキテル、気化、雲、雨、電雷、虹、水
 性、験水、潮汐などの40項目にわたり、
  19世紀初頭のヨーロッパの物理・化学の基礎的知識が、
 簡潔に記述されている。
1825年、滝沢馬琴の合巻「傾城水滸伝(けいせいすいこで
 ん)」初編が刊行された。
  当時、たいへんに人気を博したので、版木が摩耗して
 しまい、二度彫り直して3版まで出版されたという。
1825年、本居宣長(もとおりのりなが、国学者)の神道
 「直毘霊(なおびのみたま)」が刊行された。
  宣長の古道論の精髄を示しているという。
  「日本古代にあったのは、したがうべき教義として意
 識されず、なんらの人智を加える必要もなかった〈物に
 ゆく道〉であるとする信念から、ただ神意にまかせる〈
 惟神(かんながら)〉の道を説く」とある。
1825年、化粧の流行
  この頃、江戸での女性の化粧が、上方風に襟首に白粉
 を厚く塗る女性の化粧が流行した。
1825年、雷電為右衛門が没した(1767年〜1825年)
1825年、ジャワ戦争が起きた(〜1830年
  この戦争は、インドネシアで、ジャワ人が起こしたオ
 ランダに抵抗する戦争で・・、
  オランダの経済政策に対する不満が契機となった。
  オランダは、ナポレオン戦争で、本国の財政はひっ迫
 していた。
  その為、より強く植民地からの収奪を強めようとした。
  また、オランダの支持を受けた王位継承者がからんだ。
  ジャワ軍は、ジャワの人々は、必死にオランダ軍に対
 して果敢な抵抗を展開したが、近代的な軍備を整えたオ
 ランダ軍にはかなわなかった。
  結局、このオランダ軍にしろ、そして、イギリスにし
 ろ、進んだ武器によって、力によって、植民地の人々は
 押え込まれた、そして、利益の押え込みもされた。
  勝利したオランダは、さらに、1830年から強制栽培制
 度をジャワの方々へ課して、より収奪を強めて行く。
  オランダの都合の良い作物を、強制的に栽培させると
 いう横暴きわまる制度を行なった。
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