(増補版)19A:気になった事柄を集めた年表(732年〜755年)

 題:(増補版)19A:気になった事柄を集めた年表(732年〜755年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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733年、山上憶良が没した(660年〜733年、73歳)
733年、和気清麻呂が生まれた(733年〜799年)
733年、淳仁天皇が生まれた(733年〜765年)
733年、出羽柵(でわのき、いではのき、でわのさく、古
 代城柵)が秋田高清水岡に移された。
  はじめ庄内地方山形県)付近に設置されていた。
  蝦夷政策の一環だった。
  民の出羽柵へ、全国各地からの移住なども行われたり
 した。
  尾張・上野・信濃・越後・越前・東海道東山道・北
 陸道などの全国各地からの移住。
  総勢1300戸におよんだ。
  柵戸は公民の身分だった。
  蝦夷の教化もし、出羽国の開発・開拓を促進もした。
  城柵の兵士への供給も分担した。
  国府が、秋田へ移されたためと考えられている。
737年、桓武天皇が生まれた(737年〜806年)
737年、藤原四兄弟天然痘の流行によって相次いで死去
 した。
  代わって政治を担ったのは橘諸兄(たちばなのもろえ)。
  そして、唐から帰国した吉備真備と玄纊が重用される
 ようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。
740年、九州(西海道・さいかいどう)で藤原広嗣(ひろ
 つぐ)の乱が勃発した。
  この乱は、吉備真備、玄纊(げんぼう)の追放を求めて
 の反乱であった。
  藤原広嗣は、式家の藤原宇合の子であるが、太宰少弐
 に任じられ、九州に遠ざけられていた。
  乱は、大野東人(あずまひと)を大将軍にする征討軍
 により鎮圧された。
  聖武天皇は、乱の平城京への波及を恐れ山城国の恭仁
 京に遷都した。
  また、近江国紫香楽宮(しがらき)・難波宮(なにわ)
 など都を転々とした。
741年2月、民の牛馬の屠殺を禁じた。
  農耕に役立つ牛馬は塗擦するなの意味。
741年、国分寺国分尼寺の建立の詔が出た。
  諸国に七重塔を建て、金光経と法華経を写経する事と
 ある。
  国分寺の建設が始まった。
743年、盧舎那仏(るしゃなぶつ、大仏)造立の詔が出た。
743年6月、墾田永久私有令(墾田永年私財法、こんでん
 えいねんしざいほう)が制定された。
  自分で新しく開墾した耕地の永年私財化を認める法令
 である。
  これによって荘園の発生の基礎となった。
  この時の政権担当者は橘諸兄で、大仏造立の詔と共に
 紫香楽(しがらき)宮で出された。
745年、東大寺盧舎那仏像(大仏)が、聖武天皇の発願で
 制作が開始された。
8世紀、この頃のローマ法王は、東ローマ帝国の皇帝から
 いかにして独立するかに腐心していた。
  また、イスラムの圧力から逃れる事に腐心し、脅威を
 感じ恐れていた。
749年、僧・行基が没した(668年〜749年)
749年、孝謙天皇が即位した(在位749年〜757年)
749年、陸奥国から金が献上された。
  この黄金算出を契機に年号を天平感宝改元された。
750年、この年の遣唐使では藤原清河が大使だった。
8世紀半ば、唐朝:この頃、均田制が行き詰まり、広大な
 領土の維持は困難となり、辺境警備節度使の反乱(安
 吏の乱)を契機に衰退した。
750年、アッパース朝:750年〜1258年。
  イスラム教の開祖・ムハンマドの叔父・アッバース
 子孫をカリフとしている。
  イラクを中心に、西アジアから北アフリカにかけて支
 配した王朝。
  首都は、一時期を除いて、バクダッド。
  アラビア・ペルシャギリシャ・インド・中国などの
 諸文明の融合がなされ、学問が著しく発展した。
  近代科学にも多大な影響を与えている。
  イスラム文明は、ヨーロッパ文明の知識の源(みなも
 と)であり、母胎だった。
  キリスト教は、イスラム教の世界は遅れた国だとプロ
 パガンダ(嘘宣伝)した。
  実際は、医学でも何でもイスラム世界に学んだのに・・。
  支配領域は、時代が下がるにしたがって縮小し、アッ
 パース家のカリフに実権があったのも初めの2世紀間だ
 けだった。
  この王朝成立以前のイスラム世界の大勢は、事実上、
 アラブによる異民族統治であったため「アラブ帝国」と
 規定される。
  しかし、アッパース朝体制は、従来のアラブ至上主義
 を払拭(ふっしょく)し、国家と社会にイスラムの原理
 を確立したので、イスラム帝国と呼ばれる。
  中央集権的行政機構が発達し、経済的にも繁栄、東西
 通商や手工業も盛んであった。
  ハールーン・アッ=ラシード治世(786年〜809年)が、
 アッパースの全盛期だった。
751年、カロリング朝成立。
  宮宰のピピン3世が、仕えていたメロヴィング朝を廃し
 て(倒して)成立させた。
  751年から987年まで続いた。
  因みに、ルイ3世(879年〜884年)が居る。
  カロリング朝フランク王国は、キリスト教会としての
 フランク帝国とさえ言われた。
  それは、国家という観念が希薄で、キリスト教会その
 ものだった。
  アウグスチヌスの「神の国」そのものだった。
751年5月〜751年9月、タラスの戦いが起きた。
  中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で、唐
 とアッバース朝との間で、中央アジアの覇権をめぐって
 戦われた。天下分け目の戦闘だった。
  唐側は、被害が甚大で、
  この戦い以降、中央アジアに、イスラム勢力の安定し
 た支配が確立した。
  そして、イスラム教が広まって行った。
  唐の中央アジア支配は、後退していった。
  中国人捕虜の中に、製紙職人が居て、製紙法が、イス
 ラム世界、そして、ヨーロッパ西方域に伝播した。
752年、奈良の大仏が開眼供養会(かいげんくようえ、魂
 入れの儀式)が行われた。国宝。
  天平文化が栄えた。
  東大寺は、当時の世界最大の木造建築物だった。
  また、大仏も、金や銅を使ったこの様な彫像は、世界
 のどこにも存在しなかった。
  当時の世界最高水準のものだった。
  大仏鋳造に使った材料:銅444屯、錫7.6屯、水銀2.2
 屯、金390キログラム、炭1194立方メートル、働いた
 人の数:延217万9973人、かかった年数:9年。
753年、日本は、以前、遣隋使において、「天子の国書」
 を送った、その書において、「日本は、天子の国だ」と
 名乗った。唐の煬帝は怒った。
  また、年号に、日本の天皇号を使って、中国の皇帝と
 対等という事を示した。
  しかし、この様な事があったが、唐側の記録において、
 だから、日本を対等の国家として扱ったという記録は存
 在しない。
  むしろ、753年の朝賀において、日本が新羅より『席
 次が下だ』とされる事件があった。
  かつて昔、卑弥呼の時代などでは、日本は冊封を受け
 ていたが、
  遣唐使の時代には、日本の天皇は、唐王朝からの冊封
 (さくほう、爵位などを授けてもらう)を受けたりして
 いない。
754年、唐の僧・鑑真(がんじん)が、懇請されて日本に
 来た。
  鑑真は、日本への渡海の際に暴風雨に会うなど、渡海
 を5回も行うという、苦難の末の来日だった。
  鑑真は薬草の造詣も深く、日本にこの知識も伝えた。
  また、砂糖をもたらしたとの記録もある。
755年11月〜763年、安禄山・史思明の乱(安禄山の乱・あんろ
 くざんのらん、安史の乱・あんしのらん)
  唐の節度使(当の軍職)の安禄山と部下の史思明によっ
 て引き起こされた大規模な反乱。
  安禄山唐王朝に仕え、宰相の李林甫に近づき、唐の
 玄宗に信任されるようになった。
  そして、その信任も厚くなり、三つの節度使を兼任する
 くらいになった。
  しかし、李林甫が死ぬと、玄宗が寵愛していた楊貴妃
 従兄弟の楊国忠との対立が激化した。
  安禄山は、危険がその身に迫ったため、755年11月、
 ついに挙兵した。
  安禄山は、唐の国軍のかなりの割合の兵力を玄宗から
 任されていた。
  安禄山の兵力は、親衛隊8000騎、兵10万〜15万。
  安禄山は、1か月後、洛陽を陥落し、756年1月に聖武
 皇帝(大燕聖武皇帝)を名乗り、燕国の建国を宣言した。
  756年6月は、安禄山の軍に追われた唐の皇帝・玄宗は、
 蜀(現在の四川省)へ敗走する。
  その様な中、楊国忠は、安禄山の挙兵を招いたとして
 殺害された。
  そしてまた、皇帝を惑わせたとして楊貴妃も同罪だと
 絞殺された。
  この様な中、玄宗は失意の中に退位し、皇太子が粛宗
 として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることになる。
  756年9月に、粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求めた。
  10月、ウイグルは要請に応じた。
  756年11月〜12月、安禄山軍は粛宗を襲撃したりする。
  ウイグル軍と東軍は合流し、安禄山軍を撃破する。
  この頃、長安を奪った安禄山だったが、病に倒れ失明
 し、次第に狂暴化した。
  さらに、安禄山は、皇太子として立てた息子にまで廃
 嫡だと公然と口にするようになった。
  757年1月、安禄山は側近たちの反発を買って、暗殺さ
 れた。安慶緒が父の後を継いで皇帝となった。
  しかし、安禄山の盟友も、これに藩閥して離反してしま
 った。
  粛宗軍は、757年2月に、中国の現在の陝西省(せんせ
 いしょう)まで南下する。
  757年9月、唐・ウイグル帝国連合軍の15万は長安
 迫った。この後、延々と戦いは続く(中略)・・、
  762年4月、玄宗が逝去。その直後に粛宗も逝去。しか
 し、戦乱は収まらず・・、
  唐王朝の国威は大きく傷つき、唐王朝は反乱軍の内部
 分裂をさせるために、反乱軍の有力将軍に節度使の職を
 濫発するなどした。
  しかし、これが、群雄割拠の原因を作った。
  以後、唐は、地方に割拠している節度使たちとの間で
 妥協と対立を繰り返しながら、衰退の道をたどった。
  その唐の弱体化とともに、ウイグル帝国とチベット
 吐蕃)が台頭して行った。
  778年、ウイグル軍が唐に侵攻し、779年、吐蕃(チベ
 ット)軍は20万の大軍を持って、唐の成都(今の四川省
 の省都)を占領しようとした、が、これは撃退されたが
 786年は敦煌を占領した。まだまだ、戦いの時は続き(
 中略)、821年、ウイグルチベット・唐の間で三国会
 盟(盟約)が締結された。まだまだ、きな臭い事態が続
 き(中略)、907年に唐が滅亡し、五代十国(唐の滅亡
 から北宋の成立までの53年間に黄河流域を中心とした華
 北の5つの王朝・五代と、華中・華南を支配した地方政
 権・十国が興亡した時代)の分裂時代になる。
..
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