(増補版)588E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月〜1893年10月)

題:(増補版)588E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月〜1893年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1893年10月、日本郵船会社が、青森〜函館〜室蘭間を結ぶ
 三港定期航路を開設した。
  日本郵船が、青森〜函館航路を延長する形で青森〜函
 館〜室蘭の定期航路を開設した。
  この頃の室蘭は活発な発展のスタートを切ったところ
 だった。
  室蘭市史によると・・
  1892年、夕張鉄道が全通するとともに、北海道炭礦鉄
 道会社(以下、北炭)が石炭積み出しのため、岩見沢・室
 蘭(輪西)間に鉄道を敷設し、現在の新日鐵住金の一門付
 近に、室蘭停車場を開設して、一般旅客の取り扱いを開
 始した。
  同時に、イトツケレップ(現:御崎駅付近)に、貨物専用
 駅を設置し、
  木造桟橋では、石炭の積み出しも開始され、
  この年は、室蘭が大きく飛躍する記念すべき年となっ
 た。
  さらに、1894年、室蘭港が特別輸出港に指定され、石
 炭・米・麦粉・硫黄に限って、海外直輸出が出来るよう
 になってからは、北炭が、小樽港を国内向け石炭の供給
 地とし、
  太平洋の玄関口を占める室蘭港を外国向け石炭輸出港
 としたことにより、室蘭港は、石炭積み出し港として飛
 躍的に発展した。
1893年10月、讃岐鉄道会社が、丸亀駅高松駅間延長の免
 許を申請した。
  (1895年10月10日免許状下付)
  1893年7月、讃岐鉄道会社は、「丸亀〜高松間は経済・
 社会・政治の面からみて、密接な結び付きを有しており、
 この区間に鉄道を敷設することは急務である」という趣
 旨で、丸亀駅高松駅間の延長を決定した。
  その後、1895年9月(10月?)、鉄道延長の免許証が
 交付され、
  その年・1895年の暮れ、工事に着手・・、
  翌年・1896年のうちには、ほとんど竣工していたが、
 土砂くずれなどの思わぬ事故があり、開通は、1897年2月
 21日となった。
  また、本州・四国の海上の連絡について・・
  高松と本州を結ぶ鉄道連絡船は、1897年頃、讃岐鉄道
 汽船会社によって始められた。
  しかし、本格的には、1903年の山陽汽船による高松航
 路の開通に始まる。
  この時、高松航路は、岡山駅から京橋まで人力車、京
 橋船着き場から三蟠までを小型汽船、三蟠から玉藻丸で
 高松へという形で、乗客にとってはたいへんだった。
  そこで、岡山〜宇野間の鉄道敷設と、宇野築港を要望
 の声もあり、1910年、宇野線の開通を待って、宇野〜高
 松間の鉄道連絡船が就航した。
  これによって、本州、四国を結ぶ航路の中心は、宇高
 航路となった・・
  また、高松港は、本州と四国を結ぶ四国の玄関口とし
 て確固たる地位をもった。
1893年10月、フランスが、ラオスを植民地化した。
  帝国主義時代になると、ヨーロッパの列強諸国は、ア
 ジア各地を次々と植民地にして行った。
  ラオスもその例外ではなかった。
  ラオスは、ヨーロッパ諸国・列強の侵略に巻き込まれ
 た。
  1885年、フランスは、中国の清と戦争をした。
  その清仏戦争の結果、清は、ベトナムに対する宗主権
 フランスに奪われた。
  1863年、すでに、フランスは、カンボジアを植民地化
 して、植民地化の標的をラオスへ定めた。
  1887年に、黒旗軍が、ルアンパバーン王国に侵攻し、
 壊滅的な打撃を受けたが、フランスに助けられた事件を
 きっかけに、ルアンパバーン王国は、フランスの保護を
 受け入れる道を選択した。
  (参考)黒旗軍:こっきぐん、清朝統治に反対する武
     装闘争したのが始まりだったが・・フランスが
     侵略して来るとその撃退に立ち向かった
      指揮官の劉永福は、ベトナム国王より三宣副
     提督の職に任じられていた。
  (参考)ルアンパバーン王国メコン川中流域ルアン
     パバーンに18世紀〜20世紀にかけて展開したラ
     ーオ族の王朝。
  (参考)ラーオ族:ラオスおよびタイ東北部(イーサ
     ーン)に住むタイ族の一派。
  1893年タイ王国との間でラオスをめぐり仏泰戦争が
 起き、フランスはタイを圧倒し、
  1905年には保護国化(植民地化)を完了し、フランス
 領インドシナが完成した。
  1902年から6年間に渡ってオン・ケーオによる反乱がタ
 ーテーン(セーコーン県)で起こった。
  (参考)仏泰戦争:フランスとタイ(シャム)の戦争。
  (参考)オン・ケーオとオン・コマダムの反乱は、フ
     ランスによる植民地での地下活動で、ラオス
     部ボーラヴェン高原で起きた愛国的反乱。
      植民地にして、利益を収奪したいフランスに    
     愛国的行為として立ち向かった。
  1940年11月、タイとフランスとの間で、仏印国境紛争
 が起こり、タイは反仏宣伝の一環として対ラオス工作を
 開始。
  ラジオ放送や宣伝ビラ、パンフレットの活用、工作員
 の潜入などを通して行われ、「ラーオ人もタイ人も結局
 は同じタイ系民族である」との民族同胞性を強調するこ
 とによって、抑圧者のフランスに対して抵抗することを
 協力することを訴えた。
  このタイの反仏抵抗に対して、フランスがとった政策
 は、ルアンパバーン王国の強化と文教政策、ラオス刷新
 運動であり、フランスのラオス植民地維持政策であった。
  学校教育を重視し、小学校が各地に新設され、「勤勉・
 家族・祖国」をスローガンに、「母なる祖国・フランス」
 への奉仕が説かれた。
  美しいなの下で、結局、フランスの利益になる様に仕
 向けた。
  この様な政策を広めるために大きな役割を果たしたの
 は、1941年1月に発刊されたラーオ語紙であった。
  しかし、ラオス人のなかに「ラオス」という祖国・国
 民を構想したく、そして、構想するものが現れてきた。
  1945年3月9日、日本軍によって、フランスの武装解除
 が達成された。
  そして、この仏印武装解除後、ラオスの方たちに、祖
 国・国民を構想する動きが活発になっていった。
  第二次世界大戦中、日本の占領下にある1946年、ラー
 オ人の民族主義者らはフランスからの独立を宣言できた。
  日本の「アジアの解放・・大東亜共栄圏の達成」の目
 的の一つが達成された。
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  (今日の言葉)
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  題:明治維新は、『公(おおやけ)のために働くことを自己の使命と
   考えていた武士たち』によって実現した改革だった。
    そして・・奴隷国ができるだけ・・、
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70万年前頃、概ね、この頃から、10万年周期の気候変動が
 見られるようになる。
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約50万年前、北京原人
  中国北京郊外、周口店の石灰岩洞穴から発見された化
 石人類。
  更新世中期、50万〜20万年前の生息と推定されている。
  原始的な石器を用い、火を使った。
  ホモエレクトゥス‐ペキネンシス
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約40万年前、マンモスは、北東シベリアで誕生したとされ
 ている。
  別の説は、最古のマンモスが、約500万年前〜400万年
 前、北アフリカにおいて生まれたと考えられている。
  また、別の説は、マンモスゾウの化石は、これまでお
 もに、ユーラシア北部から北アメリカ北部にかけての約
 11万5000年前から1万年前にかけての地層から発見され
 ている。
  しかし、2001年に、東シベリア海東部のウランゲリ島
 で発掘されたマンモスゾウの化石は、7000年から4000年
 前のものだった・・もっとも新しい発見。
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約23万年前、ネアンデルタール人が出現した。
  この頃、温暖期のピーク。
  この後、緩やかに寒冷化へと向かい、14万年前頃に氷
 期のピークとなった。
  別の説は、約25万〜3万年前に、欧州と西アジアに住ん
 でいた。
  また、別の説は、第三間氷期およびビュルム氷期第一
 期、年代としては15万年前〜3万5000年前に生存していた
 と考えられている。
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約20万年前〜19万年前、ホモ・サピエンス(現在のヒト)
 が出現した。
  別の説は、ヒト属とチンパンジーの共通祖先が分岐し
 たのは・・およそ200万年前〜1000万年前・・、
  ホモ・サピエンスホモ・エレクトスの共通祖先が分
 岐したのは・・およそ20万年前〜180万年前と見られて
 いる。
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約15万年前、マンモスがヨーロッパに現れた。
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約14万年前、氷期(リス氷期)のピーク。
  この後、急速に温暖化へと向かった。
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約13万年前〜12万年前、温暖期のピーク。
  現在よりも温暖であったと考えられている。
  この後、急速に寒冷化し、約11万年前頃から緩やかに
 上下を繰り返しながら徐々に氷期へと向かった。
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約12万5千年前、初期のヒト属による火の利用
  日常的に、広範囲にわたって、火が使われるようにな
 ったことを示す証拠が、約12万5千年前の遺跡から見つか
 っている。
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約10万年前、マンモスは、ヨーロッパから北アメリカ大陸
 にまで生息分布を広げた。
  マンモスは、寒冷な草原での生活に適応していた。
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約10万年前、現代人(ホモ・サピエンス)が、アフリカを
 出て、世界各地に拡がった。
  (アフリカ単一起源説を裏付けるもの)
  7万年前との説(後述)もある。
  ミトコンドリアDNAの分析では、現代人の共通祖先の分
 岐年代は14万3000年前±1万8000年である。
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8万1000年前、地球温暖化に伴う海面の急速な上昇が起こっ
 ていた。
  国際研究グループが、気候変動に伴う氷床の拡大、縮
 小は、今まで考えられていたよりも急速に起きる可能性
 があると発表した。
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約7万3000年前、スマトラ島のトバ火山の大噴火。
  スマトラ島のトバ湖は、この時の噴火によって形成さ
 れたカルデラ湖。
  ここ10万年ほどでは、最大級の噴火とされ、地球の気
 温が数年間3度〜3.5度低下した。
  ヒトのDNAの解析によれば、7万年ほど前に、人類の人
 口が1万人以下に激減し、遺伝的な多様性の多くが失われ
 現在の人類につながる種族のみが残った。
  「ボトルネック効果(遺伝子多様性減少)」があった
 と考えられるが、これが、トバ火山の大噴火に関連する
 と考えられている。→ トバ・カタストロフ理論、
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7万年前、ヒトが、衣服を着るようになり、ヒトに寄生する
 ヒトジラミは、7万年前に2つの亜種、主に毛髪に寄宿す
 るアタマジラミと、主に衣服に寄宿するコロモジラミに
 分岐した。
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7万年前、この頃のヒトの出アフリカ説。
  7万年前±1万3000年に、ヨーロッパ人と日本人の共通
 祖先が分岐。
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約5万年前、クロマニョン人
  ヨーロッパ、北アフリカ各地で発見された。
  別の説は、3万5000年前〜1万年前に生息し、頭が大き
 く現代人によく似ているが、身長はやや高い。
  文化的には、後期旧石器時代に属し、洞窟壁画などを
 残している。
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約5万年前、隕石の衝突で、バリンジャー・クレーター(ア
 メリカアリゾナ州)が形成された。
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約4万年前、オーストラリアに人類が渡島したのは4万2000
 年前〜4万5000年前である。
  また、オーストラリア最古の人骨の年代は、およそ4万
 5000年前である。
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約3万年前、ネアンデルタール人がこの頃絶滅した。
  最古の洞窟壁画
  現在知られている古いものでは、南フランスのショー
 ヴェ洞窟壁画(約3万年前?)がある。
  また、ラスコー(約1万8000年前〜1万6000年前)、ア
 ルタミラ(約1万4000年前〜1万3000年前)など、多くの
 洞窟壁画がある。
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約3万年前〜2万年以前、モンゴロイドアメリカ大陸に渡
 った。
  氷河期の時代にベーリング海峡は地続きになっていた。
  この頃、ユーラシア大陸から無人アメリカ大陸に人
 類が移り住んだと考えられている。
  約1万年前頃までには、南アメリカ大陸の南端地域まで
 到達した。
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2万6500年前頃、タウポ湖が大爆発を起こす。
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2万5000年前頃、姶良(あいら)火山が大爆発を起こす。
  姶良カルデラは、鹿児島湾北部(湾奥)において直径
 約20kmの窪地を構成しているカルデラで・・、
  南九州のカルデラ群のひとつで、現在のカルデラを形
 成した姶良噴火は、約3万年前と推定されている。
  桜島火山のマグマ供給源とされる。
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約2万年前、ウルム氷期(最終氷期)のピーク。
  気温は、年平均で7℃〜8℃も下がった。
  そのため、地球上で氷河が発達し、海水面が現在より
 も100mから最大で130mほど低かったと考えられている。
  その後、温暖化と寒冷化の小さな波をうちながら、長
 期では徐々に温暖化に向かった。
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約1万8000年前、日本海に、津軽海峡を通って寒流である親
 潮が流入し、この影響で、朝鮮海峡あるいは、対馬海峡
 から表層水が流出した。
  (参考)表層水:ひょうそうすい、海や湖などの表層
     の水。
      太陽光が届く深さで、活発に光合成が行われ、
     有機物が生産される。→海洋深層水
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約1万6500年前、青森県外ヶ浜町にある大平山元I遺跡から
 土器、石器が出土している。
  AMS法による放射性炭素年代測定法の算定による。
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約1万6000年前、東南アジアにあったとされるスンダランド
 が、海面上昇により徐々に後退した。
  海面の上昇により、他にも、アラスカとロシアの間に
 あるベーリング海峡氷期には陸続きだった)の海没や、
 大陸と地続きだった日本も徐々に島化が進んだ。
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約1万4000年前〜約1万年前、この頃までに、ヒトがイヌを
 飼い慣らしたと考えられている。
  別の説は、シリア・ドゥアラ洞窟にあるネアンデルタ
 ール人の住居遺跡(約3万5千年前?、ムスティエ文化(
 ムスティリアン文化))から発掘されたイヌ科動物の下
 顎骨:埴原和郎らが発掘。
  オオカミの下顎骨に比べて小さく、これを世界最古の
 イエイヌとする説がある。
  (参考)埴原和郎:はにはらかずろう、1927年〜2004
     年、昭和後期-平成時代の人類学者。
      1972年、東大教授となる。
      1987年、国際日本文化研究センター教授。
      諸人種の歯の形態を比較し、モンゴロイド
     歯の特徴に注目。
      骨や歯の特徴を統計学的に処理し、性別や年
     齢を推定する方法を考案。
      また、南方系の縄文人と北方系の弥生人が混
     血したことによって日本人は形成されたとする
     「二重構造モデル」を提唱した。
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約1万3000年前、日本列島が、大陸から完全に離れ、ほぼ今
 の形を整えたと考えられている。
  マイナス約60mの宗谷海峡が海水面下に没した。
  対馬暖流は、一進一退を繰り返しながら日本海流入
 して行き・・、
  約1万年前〜8000年前の間に、現在と同じような海洋環
 境になったと考えられている。
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約1万3000年前〜1万年前、温暖化が進行しつつあったが、
 寒冷気候に戻った時期。
  北ヨーロッパなどでは「新ドリアス期」と呼ばれてい
 る。
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約1万2000年前、この頃は、こと座(七夕の織り姫星付近)
 が北極星だった。
  地球の歳差運動により、北極星は25,920年周期で変化
 している。
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約1万2000年前、この頃、アメリカ大陸に人類が移動したと
 されている。
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約1万2000年前、ナイアガラ滝の形成がはじまる。
  解凍した氷河の水で滝の形成がはじまった。
  初期の滝は、現在より10kmほど下流にあり、年1mほど
 のペースで後退しながら現在の姿となった。
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約1万2000年前、イスラエルのヒラゾン・タクティット洞窟
 遺跡で、農耕開始以前の人々が宴会を開いていた証拠が
 見つかっている。
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約1万2000年前、ジェームズ・チャーチワードが、著書の
 失われたムー大陸(1926年刊)で、この時期に太平洋上
 に存在したムー大陸が沈んだと証言している。
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約1万年前、この頃、最後の氷期(最終氷期)が終わった
 とされる。
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約1万年前、この頃、ヨーロッパ中部の火山活動が終息へ。
  アイフェル高地(ドイツ、ベルギー)や中央高地(フ
 ランス)の火山活動がおおむね終息。
  ピュイ=ド=ドームは約8,000年前まで活動を続けた。
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紀元前8800年頃、人類が最初に精錬した金属は、銅だった。
  銅製の小玉が、イラクから出土しており、最古の銅製
 品と言われている。
  農耕革命(農耕の開始)
  人類史上、重大な事件の1つとされる。
  この時期より主に磨製石器が使われたことから新石器
 革命(新石器時代)とも。
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紀元前5300年頃、鹿児島南方の鬼界カルデラで大噴火。
  日本周辺で、ここ1万年間の火山活動の中では大規模
 なものとされている。
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紀元前5000年〜紀元前3000年頃、完新世の気候最温暖期。
  この頃、海面は現在よりも数m(4mから10mまで諸説あ
 り)程度高かったと考えられている。
  → 海面上昇、縄文海進。
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紀元前約5000年〜紀元前4000年、北海道に人類が現れたの
 は、おそらく数万年前といわれている。
  そして、室蘭地方に先住民が住み始めるのは、その生
 活跡から、約7千年から6千年前頃(紀元前約5000年〜紀
 元前4000年)とみられ、縄文時代早期の土器が絵鞆遺跡
 から出土する。
  この絵鞆遺跡を含め、室蘭市内では、37カ所の埋蔵文
 化財包蔵地(ほうぞうち)が確認されている。
  (室蘭市史を参考にした)
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紀元前約4000年、地球上で最後まで生き残っていたマンモ
 スの化石が、ロシア国内の北極海の島(ウランゲリ島)
 で見つかっている。
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紀元前3000年頃(5000年前)初期の文明が現れる。
  古代エジプト文明、メソポタミア文明など。
  人為による環境破壊が少しずつ表面化。
  塩害、塩類集積、森林破壊、レバノン杉など参照。
      ・
      ・
      ・
紀元前552年、キュロス二世が、イラン高原のメディア王国
 に反旗を翻した。
  キュロス二世・・アケメネス朝ペルシャの始祖。
  紀元前600年頃に生まれた。
  紀元前552年に、イラン高原のメディア王国に反旗を翻
   し・・、
  紀元前539年には、メソポタミア新バビロニア王国
   を征服し、古代オリエント世界を統一した。
   アケメネス朝を始祖した。
  キュロスが、バビロンに入城した時、その地の王が、
 人望を失っているせいか、ほとんど抵抗らしい抵抗は無
 く、無血入城できた。
  この時、バビロンには、様々な民族が住んでいた。
  キュロスは、ユダヤ人だけではなく、そのすべての民
 族に寛大な対処をした。
  (バビロン捕囚からの解放は、ユダヤ人だけではなか
 った)
  キュロスは、紀元前529年に死去する。
.
726年、東ローマ帝国のレオ3世が、聖像禁止令を発布した。
  聖像崇拝を巡った、東キリスト教会と西キリスト教
 の対立は激化した(〜643年)
  東ローマ帝国の皇帝教皇主義が確立した。
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756年、フランク王国ピピン3世が、ローマ教皇にラベン
 ナ地方を寄進した。
  ローマ教皇領の始まり。
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800年、ローマ教皇(レオ3世)によるフランク王国カール
 大帝の戴冠。
  ローマ教皇東ローマ帝国からの独立。
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869年、貞観地震(M8.6以上)日本海構造で起きた巨大地
 震と津波
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962年、ローマ教皇による東フランク王国フランク王国
 が分裂して成立した)のオットー1世の戴冠。
  神聖ローマ帝国の成立。
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1054年、東西教会が完全に分裂した。
  西:ローマ・カトリック教会
  東:東方正教会
.
1543年9月23日、鉄砲が種子島に伝来した。
  大隅国種子島に一隻の船が漂着した。
  100人余りの乗客のほとんどとは言葉が通じなかった
 が、西の村の地頭であった西村織部之丞は、この船に乗
 っていた明の儒者・五峯と筆談し、ある程度が分かり理
 解した。
  そこで、この船を、領主・種子島時堯(たねがしまと
 きたか)の居城がある赤尾木まで曳航した。
  船は、1543年9月25日、赤尾木に入港し、時堯が改め
 て法華宗の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせた。
  この船には、2人の商人の代表者が居て、フランシス
 コとキリシタ・ダ・モッタという名だった。
  時堯は、2人が実演した火縄銃2丁を買い求めた。
  そして、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。
  時堯が、射撃の技術に習熟したころ、紀伊国根来寺
 杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物(つだけんもつ)
 に1丁持たせて送り出した。
  (参考)津田監物津田流砲術の祖。紀伊の人。名は
     算長(かずなが)。
      種子島で、ポルトガル伝来の銃を譲り受けて
     砲術とその製造法を学んだ。
      1544年、鍛冶屋の芝辻清右衛門(妙西)に鉄砲
     を作らせ、根来寺(ねごろじ)の杉之坊をはじめ
     とする根来衆に広めた。
  そして、さらに、時堯は、残った1丁を複製するべく
 金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、新たに数十丁を作った。
  また、堺から、橘屋又三郎が、銃の技術を得るために
 種子島へ来て、1、2年で、殆どを学び取っている。
  日本最初の鉄砲鍛冶だと言われている人物には、鉄砲
 伝来の年の1543年に、種子島で既に鉄砲生産に成功した
 八坂清定(金兵衛)らが居る。
  螺子(ねじ)の技術など当時の日本では知られていな
 かった技術が用いられていたため、八板らは苦心をして
 鉄砲を製作した。
  しかし、要領が明らかになると比較的単純な技術で製
 作が可能となり、各地にその生産が広まった。
  種子島以外では、和泉国の堺、紀伊国の根来、近江国
 の国友及び日野などが、代表的な産地であったが、他に
 も、刀剣や農具の生産で知られていた備前国の長船や、
 城下町である鹿児島・仙台も知られた。
  この様に、日本は、どこでも高い技術力を古来から磨
 いて来ていて、それ故に、直ぐに、鉄砲生産に対応する
 ことができていた。
  鉄砲が伝わり、その道理が分かってしまえば、たちま
 ち我が手で作ってしまう日本だった、そして、すぐに、
 日本全国へ広まった。
  そして、時を経ずして「日本は世界一の鉄砲生産国」
 となってしまった。
  丁度、日本史上、唯一の戦乱の時代だったからでもあ
 った。
  そして、この時から32年後の1575年6月29日に、鉄砲戦
 で有名な長篠の戦の設楽原決戦が行なわれる。
  (鉄砲を使った新しい戦法が編み出された)
  織田信長徳川家康連合軍3万8千と、竹田勝頼1万5千
 が設楽原(したらがはら、愛知県新城市)付近で激突し
 た。
  この戦いは、「鉄砲三千丁・三段撃ち」が通説となっ
 ている。
  この日の早朝、鳶ヶ巣山(とびがすやま)攻防戦の大
 勢が決したと思われる頃・・、
  設楽原では、敗戦を知って決戦を挑んだ武田軍が、織
 田・徳川軍を、武田軍の得意な騎馬隊を中心にして、次々
 と攻撃をかけた・・戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)
  しかし、騎馬隊は馬防柵に妨げられ、信長の側近部将
 が指揮する鉄炮隊の迎撃を浴びた。
  武田軍は多数の将士を失った。
  そして、織田・徳川軍から追撃され・・武田軍は1万
 名以上の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出した。
  織田・徳川軍の勝利で・・合戦は終結した。
  織田・徳川軍には主だった武将に戦死者が見られない
 のに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、
 譜代家老の内藤、山県、馬場を始めとして・・、
  原昌胤、原盛胤、真田信綱真田昌輝土屋昌続、土
 屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など・・、
  武田信玄以来の重臣や指揮官にも及び、被害は甚大と
 なっていた。
  騎馬戦法の武田軍に対し、新兵器の鉄砲を組織的に使
 った「足軽の鉄砲隊を中心にした集団戦法」の織田・徳
 川軍の圧勝だった。
  武田勝頼は、わずか数百人の旗本に守られながら、一
 時は菅沼定忠に助けられ武節城に篭ったが、信濃の高遠
 城に後退した。
.
1867年、この年、江戸時代から明治へと変わったが・・、
  モーリス・パンゲが、著書「自死の日本史」で以下の
 ような事を書いている。
  「日本の特権階級であった武士は、他の階級によって
 倒されたのではありません。
  外国の圧力の前に、自ら革命を推進し、その為、自ら
 を消滅させるという犠牲を払った。
  革命と言っても、それは、ある階級が他の階級を倒す
 という、普通の意味の革命ではありません。
  武士たちの望みは、日本という国の力を呼び覚ます事
 だった」・・と・・、
  明治維新は、『公(おおやけ)のために働くことを自
 己の使命と考えていた武士たち』によって実現した改革
 だった。
.
1886年ノルマントン号事件
  イギリスの汽船ノルマントン号が和歌山県紀伊半島
 沖で暴風雨のため沈没した。
  この時、船長以下26人のイギリス人船員は救出された
 が、日本人乗客25人は全員が見殺しにされて溺死した。
  審査したイギリス領事裁判所は、船長に禁固3ヶ月とい
 う軽い罰を与えただけだった。
  日本国民の不満の声が湧いた。
  政府は、治外法権の撤廃を目指したが、外国に認めさ
 せようと、政府の作った妥協案が、「治外法権とするが、
 外人裁判においては、過半数を外国人とする」とした。
  しかし、日本国民の厳しい反対の反応にあった。
  人種差別の事故だった。
.
1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
  この日は前夜からの雪で、東京市中は一面の銀世界だ
 った。
  祝砲が轟(とどろ)き、山車(だし)が練り歩き、仮
 装行列が繰り出し、祝賀行事一色と化した。
  憲法が発布されると、政府批判の論陣を張って来た新
 聞も、「聞きしにまさる良憲法」「実に賞賛すべき憲法
 などと讃えた。
  また、憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。
  イギリスの新聞は、「東洋の地で、周到な準備の末に
 議会制政権法が成立したのは何か夢の様な話だ。
  これは偉大な試みだ」と書いた。
  イギリスのある学者は、「日本の憲法が、古来の歴史
 と習慣を元とした穏健な立場で作られていることが最も
 賛成できる点である」と述べた。
  ドイツのある法律家は、「議会を両院に分け、衆議院
 の他に貴族院を設けた知恵を高く評価した。
  その理由は、何処の国でも下院(衆議院)は急進的に
 なるものだ。
  その暴走による社会不安を和(やわ)らげるには、国
 に対する責任感と良識のある人々からなる上院(貴族院
 が欠かせない」というものだった。
.
1968年、日本が、GDPでドイツを抜いた。
  ドイツは、日本が、ドイツの後塵(こうじん)を拝し
 ていた間は、好意的だった。
  ドイツは、日本が、ドイツを越えることは決して許し
 ていなかった。
  鼻の差でも後を走る日本という姿しか、ドイツは容認
 できなかった。
  しかし、この年、日本は、ドイツを抜き去った。
  ドイツは、この時から、あからさまに日本を攻撃する。
  ドイツには、小癪(こしゃく、いかにも生意気で、癪
 に障るようすであること)な日本となった。
  近年、益々、ドイツの日本攻撃が激しくなっている。
  それでも、お人好しの日本は、ドイツを好意的に見て
 いる。
  ドイツは、自国の技術に自信を持っている、また、プ
 ライドを持っている。
  GDPが抜かれたことで、それが傷ついたようにも感
 じたのだろう。
  日本の後塵だけは被(かぶ)りたくないのだろう。
  それにしても、2015年のフォルクスワーゲンの不正ソ
 フトの裏切りは酷かった。
  検査の時は、排ガスが抑え込まれ、普通に走行すると
 きは、ガンガン排気ガスを吐き出して突っ走った。
  検査時の40倍もの排気ガスを吐き出した。
  開いた口が閉まらない大嘘の大嘘を吐くドイツという
 体たらくだった。
  嘘つきドイツは、信用できない国として世界の信用は
 がた落ちした。
  (参考)2015年、ドイツ自動車大手フォルクスワーゲ
     ン(VW)が、排出ガス検査に合格するよう設計
     された不正ソフトウエアを、1千万台以上もの自
     動車に搭載していた。
  この事件の後に、ドイツの恥の上塗り事件が起きる・・
  このフォルクスワーゲンが、さらに不祥事をするとい
 う・・地に落ちたドイツを「さらに信用失墜するという
 事件」が起きていた・・、
  (毎日新聞、2018年2月2日)
  ドイツの自動車大手フォルクスワーゲン(VW)が、
 ディーゼルエンジン車から出る排ガスを人や猿に吸わせ
 る実験をしていたと独メディアが報じ、波紋を広げてい
 る。
  責任を取りVWの幹部が辞任に追い込まれた。
  VWは、2015年に、米国での排ガス規制逃れ事件が
 発覚しており、相次ぐ不祥事に倫理観を問う声が高まっ
 ている。
  独誌シュピーゲルなどによると、実験を行ったのは
 VWやBMWダイムラーなどで作る研究機関で、VW
 が主導的役割を果たした。
  独国内で、2013年、ボランティアの被験者25人を対象
 に3時間にわたって排ガスを吸わせる実験を実施。
  2014年には、米国内で猿10頭に4時間にわたって排ガ
 スを吸わせる実験を行ったという。
  独政府のザイベルト報道官は、2018年1月30日、「猿
 どころか人までを対象にした実験はいかなる場合でも倫
 理的に正当化できない」と政府の見解を示し・・、
  ツィプリース経済・エネルギー相は、「越えてはなら
 ない明確な倫理的一線(を越えた)」と厳しい言葉で非
 難した。
  批判の高まりを受け、VWで実験を把握していたとさ
 れるトーマス・シュテーク氏が、2018年1月30日に辞任。
  ミュラー会長も、テレビのインタビューで「実験の事
 実に衝撃を受けた」として謝罪し、再発防止を約束した。
  シュテーク氏は、2002年から2009年まで、シュレーダ
 ー、メルケル両首相の政権で独政府副報道官を務めるな
 ど、政界と近い人物として知られる。
  排ガス規制逃れ事件発覚後も、独政界には自動車業界
 の規制に及び腰な姿勢が支配的で、今回の問題がどのよ
 うな影響を及ぼすかは不明だ。
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1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊
  それまで、東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされ
 ていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行、及び、
 国外移住の「大幅な規制緩和」の政令を・・「事実上の
 旅行自由化」と受け取れる表現で発表した。
  このことで、その日の夜に、ベルリンの壁にベルリン
 市民が殺到し、混乱の中で国境検問所が開放された・・、
  翌日・1989年11月10日に、ベルリンの壁が撤去され始
 まった・・、
  これによって、1961年8月13日のベルリンの壁着工から
 28年間に亘った、東西ベルリンが遮断されてきた東西分
 断の歴史は終わった。
  東欧革命を象徴する出来事だった。
  この事件を切っ掛けとして、東欧諸国で、続々と共産
 党政府が倒されて行った。
  そして、翌年・1990年10月3日、東ドイツが西ドイツに
 編入される形で『東西ドイツが統一された』。
  この統一に関わったソ連は、この翌年・1991年12月、
 ソビエト連邦共産党を解散し、各連邦を構成する共和国
 の主権国家として独立、そして、1991年12月25日に、ソ
 連大統領のゴルバチョフが辞任し、ソ連は解体された。
  しかし、この話のすべては、美しく無かった・・、
  このドイツ統一で、東ドイツの実態が分かった・・が・・、
 東ドイツの惨状は、半端なものではなかった。
  だから、この統一による西ドイツの経済負担は、半端
 なものではなく・・
  西ドイツは、この統一による経済負担に、これから喘
 (あえ)いで行った。
  西ドイツの人たちは、統一前、人口と領土が増加する
 なら、消費も増加し、景気も向上するだろうと考えてい
 た。
  しかし、西ドイツが見たものは・・旧東ドイツの完璧
 に破綻(はたん)した財政だった。
  競争力のある産業は、一つもなかった。
  環境も、空気も、地下水も、土壌も、重度に汚染され
 ていた。
  ケムニッツにあるウラン鉱山は、1991年までに、22万
 トンのウラン鉱を産出していたが、安全管理は劣悪で、
 鉱山は閉鎖され、その後、その除染に莫大な費用と年月
 を要した。
  この様な事例が、これだけではなかった。
  山ほどあり・・大きな食肉工場の横の湖には、血と汚
 物でどす黒い赤色となり、異臭を放っていた。
  化学工場の脇の湖には、水面に厚く膜が張り、ぬめぬ
 めと光り、「輝く湖」と呼ばれた。
  東ドイツへ投資しようとしていた人々は、その実態を
 知って、東ドイツへの投資の期待は、一気にしぼんだ。
  その改善経費だけが、天文学的に膨らんで行った。
  西ドイツの人々は、誠実に一つ一つ整備し、解決して
 行った。
  年金を積み立ててない人の年金を払い、医療保険を払
 っていなかった人の医療費を払い、失業保険を払ってい
 なかった失業者を養った。
  東ドイツの失業率は、20%を越えていた。
  西ドイツは、その苦難を乗り越えた。
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2012年、EUは、ユーロ導入十周年を祝った。
  ドイツは、ユーロの冥利(みょうり、知らず知らずの
 うちに受ける恩恵)を一番授かる国だった。
  そして、EUの多くの加盟国は、EUよりも自分たち
 の国の国益を優先するという事実を、最早(もはや)、
 隠そうともしない状態となっていた。
  どの国も半身に構えていた。
  EUに、全力投球する国は・・無くなった。
  しかし、EUは、動いていた。
  次々と、色々な事が・・決められた。
  その決定の陰には、力あるドイツの意思があった。
  また、それが、尊重されねばならないという空気があ
 った。
  加盟国は、ドイツの事を思って、一応の合意をすると
 いう雰囲気だった。
  何しろ・・ドイツは強すぎた。
  加盟国間に疑心暗鬼(ぎしんあんき)が、うごめいて
 いた。
  (参考)疑心暗鬼:疑心が起こると、(ありもしない
     鬼の姿が見えるように)何でもない事まで恐ろ
     しくなる。
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2013年、欧州委員会は、ドイツの稼ぎ過ぎに御咎めを出し
 た。
  EU・・、
  美しい理念で作られたEU・・本当に美しいのか?
  「グローバリズムは、良いのだ」を体現したいEUは・・
 果たして・・美しいのか?
  結論を先に言えば・・「奴隷国ができるだけだ」。
  グローバリズムは、「手放しで、美しいと言ってはい
 けない論理・考え方」なのだ。
  (NHK出身の宮崎緑氏は、NHKを退職した後もN
 HKの番組に出て、「グローバリズムはいいのだ、グロ
 ーバリズムはいいのだ」と何度も連呼する様に言ってい
 たが・・そうではないのだ・・NHKは、この様な方法
 などでグローバリズムは良いのだを洗脳する放送局)
  2013年、欧州委員会は、ドイツに対して、「輸出超過」
 をして、好きに稼いでいるドイツに・・『お咎(とが)
 め』を言い渡した。
  (参考)咎め:とがめ、犯した罪や過失を責めること。
     また、それに対する罰。そしり。非難。𠮟責 (
     しっせき) 。「お咎めを受ける」
  EUの劣等生のギリシャギリシャで、だらしがない
 が・・、
  ドイツから、「財政引き締めをしなければ、援助はし
 ない、金は貸さないよ」と、更なる引き締めを言われる
 という体たらくな国であるが・・?
  「EUという政治形態が持つ欠陥」もあるのだ・・
  ドイツのフォルクスワーゲンの問題もあるが?? ド
 イツの高品質で優秀な商品は誰でも欲しがる。
  EUは、美しく国境の垣根を取っ払ったが・・ドイツ
 から、その優秀な商品が、どんどんEU内の他の各国へ
 流れ出して行く。
  普通なら・・EUの様な形態になっていないなら・・
 買う国は、輸入超過になるからと「為替が連動して輸入
 量が調整されたりする」・・が・・
  しかし、美しく垣根のないEU内の諸国は、『皆がユ
 ーロ』で、輸入超過して逼迫(ひっぱく、追い詰められ
 て、ゆとりがない状態)している国でも、為替で調整が
 できずに、自国のユーロが、どんどんドイツへ流れ出て
 行って・・吸い取られてしまう。
  EU内の諸国は、ドイツにとってお得意様となってい
 る。
  ドイツの輸出は、EU内でのものが6割を占めている。
  だから、欧州委員会は、ドイツへ、「いい気になって
 売り過ぎてんじゃないの?」と苦言を呈した。
  「EU内には経済破綻(はたん)国」が存在している。
  そして、ドイツは、そのグローバリズムの『美しいと
 された理念』で出来た「EUというシステム」で稼いだ
 金で潤っている。
  そして、ギリシャへ、「財政引き締めをしないと、金
 は貸せないよ」と言っている。
  しかし、そのEU内の経済破綻国で、しっかり稼いで、
 ドイツは、経済的援助をしたと、「ドイツは、胸を張っ
 て・・そして、思っている」。
  一面、高利貸しが、困った人に金を貸して、「助けて
 やった」と胸を張っている姿の様にも見え、なんか似て
 いる感じがする。
  困っている人からしっかり稼いで、金を巻き上げてお
 いて・・為替の調整手段を取り上げておいて・・ドイツ
 を儲けさせるシステム・・経済弱者の「EU内の金に困
 っている諸国」をさらに困らせるシステム。
  ドイツへ貢ぐ国々の形になっている。
  ドイツは、ドイツで、「非難されてはたまらない」と
 思っている。
  EUというシステムは、「ドイツのような強国をどん
 どん強くするシステム・・弱小国の利益が吸い上げられ
 るシステム・・ドイツよ、御目出度うとなるシステム」。
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2018年3月26日、米ソ冷戦の時は、アメリカと日本とが協
 力して、ソ連共産主義は崩壊したが、そして、ソ連は、
 自由主義経済のもとに下ったが・・、
  「二匹目のドジョウが居ないか??」と中国を見た。
  中国が、豊かになれば・・自由な民主主義社会になる
 と思った。
  しかし、経済的なゆとりができてみれば・・「ますま
 す軍備を拡張し」「独裁政治の国家」へと邁進している。
  「かつての懐柔政策」は失敗している。
  この様な事を思っていると、図らずも2018年3月26日の
 読売新聞に春名幹男氏(国際ジャーナリスト)が記事を
 寄せられていた・・
  表題は、「中国を取り違えた西側」・・、
  中国が全国人民代表大会全人代=国会)の決定で独
 裁政治への道を踏み出したことに、欧米のメディアは鋭
 い警戒の目を向けている・・という書き出しで始まった・・、
  以下、その概要(抜書き・要点)・・、
  今までの西側の期待が裏切られた経緯(をたどってい
 る)・・
  西側指導者は、中国を世界貿易機関WTO)の様な
 機構に組み込めば、中国をルールに基づく戦後のシステ
 ムに縛(しば)りつけられると信じた。
  経済の統合によって中国は豊かになり、民主主義的自
 由や人権、法の支配を求めると期待した・・、
  (しかし、そうとはならず)(中国が)大規模な開放
 をせずに一貫した成長をしたことが、中国共産党と国家
 主導の経済モデルを正当化する結果となった・・、
  (共産主義体制のまま・・成功体験をしてしまった・・
 体制批判へとは働かず、その方向へ動かなかった)
  (その成功体験で、より自信を持った独裁体制の現政
 権は、その体制をより強固にする制度・機構作りへ・・)
  この度、この20年間で最大の政府機構改革を行なった・・
  (そして)巨大経済圏構想「一帯一路」などで、外交
 戦略を強化する・・、
  (そして)中国は、世界中で、中国を支持する勢力の
 拡大に躍起になっている。
  (中国の資金力を使った行動、オーストラリアの事例)
  2017年12月、南シナ海の中国領有権を尊重する様に主
 張した(オーストラリアの)野党上院議員が(問題とな
 る騒ぎが起きた)・・
  (そして)中国による内政干渉の阻止を念頭に、外国
 人からの政治献金を禁止する法案が提出された。
  (この様な事は、オーストラリアに限らず、世界各地
 に起きている)
  今、ロシアのアメリカへの工作が焦点に当てられてい
 るが・・ロシアより、むしろ中国の方がもっと陰険で複
 雑な問題だという指摘がある・・、
  アメリカ国内の中国人留学生・35万人が(工作員予備
 軍?)・・この学生組織が監視下に置かれ、管理・監理
 されている。
  また、シンクタンクの研究機関に寄付金が寄せられて、
 その結果、その研究が、その研究報告が「親中に偏向」
 する恐れが心配されている・・、
  これが、中国の「シャープパワー」と呼ばれる強制的
 な工作・・、
  中国の習金平国家主席は、自由主義の政治モデルに対
 して根本的な挑戦をしている・・、
  (参考)シャープパワー:相手国の社会制度や文化伝
    統などを鋭利な、すなわちシャープな刃物で切り
    裂くように分断し、自国に有利な状態を作る戦略
    のこと。
     2017年11月に、アメリカの研究機関「全米民主
    主義基金(NED)」という組織の2人の研究者
    が、中国とロシアという独裁(オーソリタリアン)
    国家の戦略をシャープパワーと名付けた論文を発
    表し、注目されるようになった。
     この様なパワー、新しい国力について議論が始
    まったのは1980年代中頃、ソビエト連邦が崩壊す
    る予兆が感じられる様になった時期から・・、
     第二次世界大戦終了後は、アメリカとソビエト
    という二大大国が軍拡競争を繰り広げ、国力は軍
    事力だったが、ソ連が解体してしまったので、軍
    事力に代わるパワーが研究され始めた。
     ハード、エコノミック、ソフトパワー:未来学
    者のアルビン・トフラー、カーター大統領の特別
    補佐官であったズビグニュー・ブレジンスキー
    ハーバード大学政治学ジョセフ・ナイなどの
    見解が有名・・、
     その要約・・冷戦構造が崩壊するまでは、「軍
    事力(ハードパワー)」が国力であったが、1970
    年代以後の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の
    時代は「経済力(エコノミックパワー)」が重要
    だった。
     しかし、1990年代のバブル経済の崩壊とともに、
    ジョセフ・ナイが提唱した「文化力(ソフトパワ
    ー)」が重要と言われるようになった。
     ソフトパワーは、自国の文化や制度を外国に浸
    透させ、友好的な関係を構築するという戦略で、
     その本質は、魅力(アトラクティブネス)と説
    明されている。
     これは、人材、物資、資金、情報などを自国に
    有利になるように他国に提供したり、他国から受
    け入れるということ。
     その影響で登場したのがイギリスの「クール・
    ブリタニア」や日本の「クール・ジャパン」で自
    国の文化を積極的に海外に売り出すということだ
    った。
     ところが、最近になって、中国とロシアという
    独裁国家の新しい戦略が登場した・・それが「シ
    ャープパワー」。
     シャープパワーの一例:
     2010年のノーベル平和賞は中国の人権運動の活
    動家で何度も投獄された経験があり、当時も獄中
    にあった劉暁波氏に贈られ、ノルウェーのノーベ
    ル委員会は劉氏の釈放を中国に求めた。
     これは、ノーベル賞の歴史上、中国在住の中国
    人として初めての受賞で、かつ獄中にあった人物
    に授与した最初の例だった。
     しかし、中国は「内政干渉は許さない」とか、
    「ノーベル平和賞は西側の利益の政治的な道具で
    ある」などと強硬に反発した。
     それだけではなく、ノルウェーから輸入してい
    た養殖サーモンの輸入制限をするなど経済制裁
    実施した。
     ノルウェーは、新政権のソルベルグ首相が外務
    大臣と貿易産業大臣を伴って、2017年4月に、中
    国を訪問して習近平国家主席に面会し、「今後、
    中国の核となる問題については批判しない」とい
    う声明に署名して、ようやく関係が修復された。
     エコノミックパワーを利用して、自国の制度や
    文化を押し通すとともに、相手国の制度や文化を
    切断したシャープパワーというわけだった・・、
     韓国も同様の経験をしている。
     北朝鮮弾道ミサイルの発射を早期に探知し、
    迎撃するために、昨年・2017年、アメリカが高高
    度ミサイル防衛システム(THAAD)の機器を
    韓国のゴルフ場の敷地に搬入した。
     北朝鮮はもちろんだが、中国も反発し、韓国商
    品の輸入規制など報復措置を実施し、ゴルフ場が
    ロッテ商事の土地であったため、中国はロッテグ
    ループを非難し、ロッテの商品の不買運動も発生
    した。
     韓国の輸出の26%は中国向けなので、大変な打
    撃となった。
     さらに韓国への団体観光旅行を禁止したため、
    昨年2017年の11月末までの中国人観光客は前年比
    で42%も減少した。
     その様な背景から、昨年・2017年12月に国賓
    して中国を訪問した韓国の文大統領に対し、中国
    高官との食事は昼食会2回のみで冷遇した一方、
    文大統領は北京大学で「中国の夢が全人類と共に
    見る夢になることを期待する」という講演を行っ
    ている。
     これも、エコノミックパワーを駆使して自国の
    主張を押し付けた結果。
     全米民主主義基金の論文が指摘した、もう一つ
    の国がロシア・・、
     そのシャープパワーは、アメリカの大統領選挙
    の時に発揮された。
     2018年2月16日に、アメリカのロバート・モラー
    特別検察官が、13人のロシア人と、3社のロシア
    企業を起訴した。
     容疑は、先の大統領選挙で、アメリカ市民を装
    って、ソーシャルメディアの何百というアカウン
    トを使って架空のオピニオンリーダーを作り出し、
    クリントン候補を落選させるための情報を発信し
    たというもの。
     何億円という予算を使い、専属の人間を雇い、
    偽情報を大量に発信し、見事に目的を達成したと
    いう・・、
     このパワーは、北風と太陽に例えると分かりや
    すく・・、冷戦中は軍事力というハードパワーの
    戦いで北風だったが、それが終了して登場したソ
    フトパワーは太陽ということ・・、
     しかし、シャープパワーは一見、太陽のようだ
    が、その光線に有害な紫外線などが含まれて、相
    手を傷つける力があるということ・・、
     この光線は目に見えないために対応が困難だが、
    「欧米の民主主義国家が、中国のシャープパワー
    を無視することは、西側の危険を意味する」とい
    う意見のように、国際的な政治活動や経済活動の
    水面下では、この様な光線が頻繁に発射されてい
    ることを知る必要がある時代となった・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive