(増補版)580E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年5月〜1893年5月)

題:(増補版)580E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年5月〜1893年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1893年5月18日、小学校の授業料の無料化の勅令
  市町村の財政の許す限りに於いて、小学校の授業料を
 徴収しない旨の勅令が出された。
  学制発布から明治20年代まで、義務教育費は住民負担
 や、受益者負担に頼っていた・・が・・、
  1888年の市制・町村制、
  1890年の地方学事通則、改正小学校令により、義務教
 育費は市町村の負担とされた。
  しかし、その後も、授業料は徴収されていた。
  『義務教育への完全就学』を実現するためには、授業
 料を廃止して、無償制を実施する必要があり、日本は、
 それを目指した。
  そのため、時の政府(井上毅文相)は・・、
  1893年6月、初等教育への国庫補助と、授業料の低減・
 廃止という方針を定めた。
  そして、同年・1893年、勅令によって、尋常小学校
 おいて『授業料ヲ徴収セザルコトヲ得』と定めた。
  これによって、授業料徴収の義務づけを廃止した。
  そして、徴収するかどうかを、市町村の裁量に委ねる
 こととした。
  授業料の低減や廃止を促進するためには、授業料に代
 わる財源を国が保障する必要があった。
  そのため、また、政府は、1893年、小学校教員の年功
 加俸(勤務年数に応じて本俸に加えて支給する給与)に
 要する経費を国庫補助する制度として「市町村立小学校
 教員年功加俸国庫補助法」案を帝国議会に提出した。
  1896年の市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法、
  1900年の市町村立小学校費国庫補助法の制定で、国に
 よる財源保障制度ができた。
  このことによって・・、
  1900年から義務教育の無償制を実施することができた。
  そして、就学率は急上昇した。
1893年5月19日、防穀令問題で、朝鮮政府が11万円の賠償
 金を支払うことで妥結した。
1893年5月19日、戦時大本営条例が公布された。
  大本営は、陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみ
 の天皇陛下直属の最高統帥機関として、勅令第52号戦時
 大本営条例によって法制化された。
  この勅令は、1893年5月22日に公布された。
  明治期の日本の海軍の建設にあたっては、初め、軍令
 の専掌機関はなく、海軍省が軍令と軍政を一元的に管掌
 していた。
  1884年海軍省内に外局として軍事部が設置され、初
 めて軍令をつかさどった。
  1886年、軍事部が参謀本部の海軍部となる。
  1888年、参軍のもとの海軍参謀本部となる。
  1889年、海軍大臣のもとに戻って海軍参謀部となった。
  1893年海軍省から独立して、天皇陛下に直隷する海
 軍軍令部となった。
  作戦、編制、情報、通信、戦史などをつかさどった。
  1933年、軍令部に改称するにあたって、海軍省との間
 に業務互渉規程を設け、権限を大きくした。
  海軍軍令部の長は海軍軍令部長と称し、参謀総長と並
 んで、天皇陛下統帥権の最高の輔弼(ほひつ)する機関
 とした。
1893年5月20日、海軍軍令部が設置された。
  このことにより、海軍参謀本部は廃止された。
  この日に公布された海軍軍令部条例で設置され、軍政
 と軍令を分離した。
  (参考)軍事権は、軍令権と軍政権から成り、軍令権
     は作戦・用兵に関する統帥権を言い・・、
      明治憲法の下では、日本はドイツをモデルと
     した。
      また、軍令権は、内閣の権能外に独立して、
     天皇陛下が直接掌握するものとした。
      また、軍政は、軍事行政のことで・・、
      軍事諸機関、各部隊の建設維持、管理、教育
     などを実行し、作戦、兵力の運用の計画実行は
     軍令に属して軍政と区別された。
1893年5月23日、大阪鉄道が、高田駅〜桜井駅間を開通させ
 た。
  この時、王寺駅高田駅間を延伸する形で、高田駅
 桜井駅間(9.66km)が開業した。
  この桜井線は、現在、奈良県奈良市奈良駅から、奈
 良県大和高田市高田駅までを結ぶ西日本旅客鉄道(JR
 西日本)の鉄道路線地方交通線)であり・・、
  2010年3月13日から、「万葉まほろば線」(まんよう
 まほろばせん)の愛称が使用されている。
  路線距離は29.4キロメートル。
  歴史が古い路線であるが、その後に出来た路線へ利用
 客が流れている状況となっている。
  沿線には、万葉集に詠まれた名所や史跡が多く、車窓
 からは三輪山や、大和三山を望むことができ、奈良駅
 ら桜井駅までは山辺の道(山の辺の道)に沿っている。
  愛称を制定したりして、利用者増に努めている。
1893年5月25日、大阪の赤坂村事件
  https://www.youtube.com/watch?v=tnsIa680Vtg
1893年5月26日、鉄道土工定規並縦截面曲線定規を制定した。
  (第一部長達第566号、鉄道土工定規に関する規程の最
 初)
  土工定規とは、土工事を施工する場合、遣形(やりか
 た)の標準となる道路や鉄道の標準断面の形状。
  幅員・路盤・犬走りなどの寸法、形状や切盛りののり
 面勾配を規定したもの。
  (参考)遣方:(やりかた) 基礎工事に先立ち、建物
     の位置や基礎の高さを示すための仮設装置。
1893年5月27日、東京弁護士会の創立総会。
  東京弁護士会は、120年以上の歴史を有し、会員数約
 8,000人を超える会員数を誇る、日本最大級の弁護士会
  東京代言人組合(東京弁護士会の前身)は、1880年
 明治13年)6月29日に結成・・とある。
  因みに、第一東京弁護士会の理念:第一東京弁護士会
 は、1923年(大正12年)5月8日に創立され、弁護士の使
 命である基本的人権の擁護と社会正義の実現、司法制度
 の発展と弁護士の地位向上を図るために活動しています。
 当弁護士会創立当時は、弁護士は地方裁判所検事局の検
 事正の監督下にあったため、弁護士の使命である基本的
 人権の擁護と社会正義の実現は、著しく制限されていま
 した。
  1949年(昭和24年)になって、新たな弁護士法の下に
 当弁護士会が主導的に活動し、日本弁護士連合会が創立
 され、弁護士が完全に自治権を確立し現在に至っており
 ます。
  当弁護士会の会員である弁護士は、在野法曹として徳
 性を磨き、謙譲と協和の精神をもって事に当たり、国民
 の模範となるべく研鑽を続けています(HPより)
1893年5月、伊東祐亭が常備艦隊司令長官になる。
  伊東 祐亨(いとうすけゆき、天保14年5月12日(1843
 年6月9日)〜大正3年(1914年)1月16日)は、日本の武
 士(薩摩藩士)、海軍軍人、華族
  元帥海軍大将・従一位大勲位・功一級・伯爵。
  初代連合艦隊司令長官を務めた。
  通称は四郎左衛門、四郎。
  号は碧海。
  家紋は庵木瓜
  海軍兵学校長の海軍中将子爵・伊東祐麿は兄、弟に海
 軍大尉・伊東祐道、海軍大佐・窪田祐章。
  薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場
 町に生まれる。
  飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身(伊東祐安の養子
 で弟の右衛門の子孫という)。
  開成所にてイギリスの学問を学んだ。
  当時、イギリスは、世界でも有数の海軍力を擁してい
 たため、この時、祐亨は海軍に興味を持った。
1893年5月、前年のラベンナ号事件で、政府は、ラベンナ号
 の船会社ピーオー汽船に、85万円の損害賠償を請求する
 訴訟を、横浜イギリス領事裁判所に起こした。
  ピーオー汽船も、日本に対して10万円の賠償請求を行
 い、却下されると、さらに、上海イギリス高裁に控訴し
 た。
1893年5月、陸軍板橋火薬製造所で、無煙火薬の製造が始ま
 った。
  2017年6月17日の東京新聞に・・、
  16日に、国の文化審議会が史跡に指定するよう答申
 した陸軍板橋火薬製造所跡(板橋区加賀1)には、現存
 する国内最古の火薬研究所と射撃場の跡があり、近代の
 産業遺産として価値が認められた。
  区は、製造所跡を、史跡公園として整備。
  東京五輪パラリンピックがある2020年に一部オープ
 ンし、2023年に全面開業する。 
  特に、貴重とされる射撃場は、1877年にできた。
  小銃などの弾の速さを計測する弾道管が火薬の燃焼実
 験室から延び、50メートルあったうち30メートルが今も
 残る。
  現在は、区立加賀公園として使われている場所の築山
 には、射撃場から弾を撃ち込んだレンガ積みの標的があ
 る。
  また、敷地の一部は、戦後の一時期、理化学研究所
 理研)板橋分所として使われた。
  共にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一
 郎が研究室を構えた、一部レンガ造りの物理試験室が建
 つ。
  史跡公園は、面積約1万3000平方メートル。
  区は、本年度中に、跡地を所有者から購入。
  2020年、旧理研分所に湯川や朝永の研究室を再現し、
 区の産業史を学べる博物館を開館する。
  2023年には、射撃場を復元するなどする。
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  (今日の言葉)
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  題:まったく怪しい中国・・「アメリFBIが、孔子学院を捜査」
  「スパイ容疑か・・スパイの巣窟か」「《親中派》育成機関か」
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紀元前200万年、氷河期に入った(〜紀元前8000年)
  地球には、定期的に氷期(=氷河期)がやって来た。
  200万年前〜1万年前(紀元前8000年)までを「氷河時
 代」と言う。
  そして、その後の紀元前8000年〜現代を「後氷期」と
 言う。
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紀元前20万年、現在の人間と同じ形質を持ったホモ・サピ
 エンス(新人)が出現した。
  このホモ・サピエンスは、二度の氷期を乗り越えた。
  「リス氷期」「リス・ビュルム間氷期」「ビュルム氷
 期」を経て現在に至った。
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紀元前14000年〜紀元前1000年、縄文時代には、カキ漁が
 行なわれていて、貝塚からは、全長40〜50センチメート
 ルの巨大なカキ殻が多く出土する。
  縄文時代人は、この様なカキを、日常的に食べていた。
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紀元前6000年頃、サハラやアラビア半島では、緑が広がり、
 恵み多き環境の地に人々は生活していた。
  この人々は、多神教を信じ、恵み多き地の神々に感謝
 していた。
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紀元前3000年、この頃まで、サハラやアラビア半島は、緑
 豊かな草原の地だった。
  気候は、恵みの雨が多い、現代より高い気温だった。
  人々は、森や草原から、豊かな自然の恵みが得られて
 いた。
.
紀元前3000年頃、この頃から気候が変動し、緑の地が急速
 に後退した。
  人々は、大きな河から水を得ることが出来る地へと移
 動して、集まった。
  気候の乾燥化によって、自然の恵みを得られる機会が
 減った。
  人々は農耕を行なった。
  その地の側には、砂漠が広がっていた。
  大河の河の水の恵みによって安定した社会が築かれ、
 エジプトやメソポタミアには、偉大な優れた文明が発生
 した。
  「貧ずれば鈍す」。
  砂漠の地では、生きるのに精一杯だった。
  人類の4大文明(エジプト、メソポタミア、インダス、
 黄河)は、すべて大河の地に生まれている。
  また、最近の考古学の成果から、この他にも、イラン
 の古代に、湿潤な恵みの雨の多い地に「トランス・エラ
 ム文明」があると注目され・・、
  また、中国のもう一つの大河である長江(ちょうこう、
 揚子江)の長江文明(ちょうこうぶんめい)も注目され
 ている。
  水のない砂漠の地の生活は悲惨だった・・、
  人間は、当然、置かれた環境によって変わる。
  砂漠の地は、わずかな雨の水を集積し、生(は)え、
 そして、育った草を食(は)む羊(ひつじ)。
  その羊が、さらに、体内へ取り込んだ草のエネルギー
 を、さらにさらに蓄積し、その集積された羊によって生
 かされている民。
  その天候に、大きく左右される砂漠の民は、当然、そ
 の根本にある僅かな天よりの恵みの雨に感謝し、その恵
 みの雨をもたらした天に感謝した。
  その命の頼りの天からの雨が途絶えた時、民は天へ祈
 った。
  生存への大切な雨の恵みをもたらして下さい・・と、
  見えない力へと祈った。
  その天にある見えない力=神へ、確かなる生存を成就
 させて下さいと祈った。
  天への一神へと祈った。
  一方、雨に恵まれる、まったく、前記の砂漠の地と真
 反対の地は、そちこちへの恵みの雨に、そちこちに萌え
 出ずる草木に感謝する。
  差別なく公平に、恵みの雨を受け戴いて、そちこちに
 恵みの草木(そうもく)が萌え出ずることに感謝する。
  そのそちこちの恵みをもたらして戴いた神・仏に感謝
 する。
  分け隔てなく、公平に与えられた恵みに、平等の素晴
 らしさに感謝する。
  平等の仏教が生まれる。
  雨に恵まれ、幸(さち)に恵まれた地の宗教が生まれ
 る。
  それに比して、恵みの少ない地は、生存への信仰とな
 る。
  飢える時は、隣国の富を奪って良いと説く、(キリス
 ト教の)神の義があるからと、免罪符を与えて洗脳する。
  当然、戦いの地となる。
  生存を賭(か)けた戦いの地となる。
  悲惨な殺し合いが続く地となる。
  民は、この様な状態に辟易する。
  当然、戦いなどしたくない。
  いい加減にせよ・・敵を愛せよという気持ちとなる。
  すべてが、環境が、「なせる業(わざ)」である。
  恵みの少ない環境の中で、当然に至る思考の中に、キ
 リスト教はあった。
  こうなるべき運命の宗教であった。
  悲しい地でのストーリーの中で生まれた宗教。
  何の特別さもない。
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14世紀、惣(そう)
  日本の中世・鎌倉時代末期から室町時代の農民たちは、
 自分たちの自治組織である『惣(そう)』を作り・・、
  村の神社や寺などに集まって寄合(よりあい)を開き、
 林野の共同利用や、用水路の管理や、祭りなどの行事や、
 村の掟(おきて)などを相談して決めた。
  この惣が発達すると、領主のむやみな介入を締め出し、
 年貢の納入を請け負う地下請(じげうけ)を行なったり
 した。
  また、いくつもの惣が、目的を同じにして結束して、
 幕府へ、徳政を求めたり、武士の地元からの追放や、関
 所を取り払うことを求めて、武器を持って立ち上がる土
 一揆(どいっき)を起こすこともあった。
  惣は、鎌倉時代末期から室町時代の農村の自治組織の
 ことで、村落共同体の運営機関としての惣が代表的なも
 のである。
  名主の中から選ばれた乙名(おとな)・年寄・沙汰人(さ
 たにん)などを中心に、寄合によって掟(おきて)を定め、
 入会地(いりあいち)・灌漑(かんがい)用水などの共同管
 理や年貢納入の請け負いを行ったりした。
  その寄合の構成員の総意によって事を決していて・・、
 日本は、すでに、この時代にも、民主主義的に事を決し
 ていた。
  鎌倉時代末期から、日本の各地に発達していて、農民
 層の自立化が進行して行った。
  そして、従来の名主層の構成員に、農民層も加わって
 行った。
  惣の発達には地域差があり、後進的な地域では地侍
 じざむらい)層が中核をなす惣も見られた。
  また、名主層の力が残存している地域もあった。
  先進的な惣としては、近江の平野地帯の惣は、名主・
 平百姓(ひらびゃくしょう)を含めた多数の構成員を要
 して、平百姓の惣内部での力も大きかった。
  重要事項の決定に際しては、一同で一味神水(いちみ
 しんすい)を神前に供え、その水を一同で飲み、団結を
 強めた。
  農繁期には、労働力の助け合い・共同利用なども行わ
 れ、農民の日常には不可欠な組織となっていた。
  京都や奈良を中心に、各地で起きた徳政(とくせい)
 一揆も、惣を基盤にして、各地の農民が連絡を取って蜂
 起した。
  また、戦乱に際しては、村を守るために堀をつくり、
 砦(とりで)を築くことなども行った。
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16世紀頃、中世、日本の農業は、様々な技術で、改善・改
 良がなされた。
  生産力が高まった。
  米と麦の二毛作も始まった。
  牛や馬を用いて田や畑を耕すことも行われた。
  灌漑(かんがい)に水車を用いることも行われ、草を
 刈って肥料にしたり、牛馬の糞も肥料として用いられた。
  (15世紀の初めに、日本に来た朝鮮の使いは、日本の
 水車の便利さに驚いているという記録がある)
  商品作物の栽培も盛んになり、桑(くわ)・こうぞ・
 漆(うるし)・荏胡麻(えごま)・藍(あい)などが作
 られた。
  それらの作物によって手工業が興き、麻の栽培に加え
 て、16世紀に、綿の栽培も伝えられ始まった。
  (日本の綿は、平安・鎌倉時代にもあった・・年貢と
 しての記録がある・・しかし、栽培は広く普及していな
 かった)
  手工業では、京都の西陣織、博多の絹織物、美濃の和
 紙、灘の酒、能登の輪島塗などがある。
  また、農具の鋤(すき)・鍬(くわ)や、刀を作る鍛
 冶職人、また、鍋や鎌などの日用品を作る鋳物職人が現
 れた。
  農業や手工業の発達で商業も活発となった。
  そして、交通の要地や寺社の門前では。定期的に市が
 開かれ・・始まった。
  取引には、中国から輸入された銅銭が使われ、産業が
 活発化すると、物資輸送が盛んとなり、それを管理する
 問丸(といまる)、馬に荷物を載せて運ぶ馬借(ばしゃ
 く)、高利貸しの土倉(どそう)や酒屋が活躍した。
  また、座が出来た。
  座は、同業者組合で、管理者から営業権を得る代わり
 に、生産や販売を独占する権利を得た。
  そして、さらに、江戸時代の日本の田園は素晴らしか
 った。
  荒廃したイギリスの農場を建て直そうと、イギリスが
 参考にしたのが、この日本の田園だった。
  イギリスの田園は荒れた、この時、イギリスが良い田
 園として、理想の田園として参考・見本としたのが江戸
 時代の日本の田園だった。
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1853年7月8日、黒船来航
  この日の午後5時、浦賀沖にアメリカ船のペリーが来航
 した。
  これが、非常に有名で、これで、日本が目を覚ました
 ように言われているが・・、
  その前から、日本へは、色々な外国船の来航があった。
  それまでの経緯・・、
  1842年6月、イギリス軍艦の来日計画があると伝わった。
  1844年3月、フランス船が琉球に来た。
  1844年7月、オランダ国王の開国の勧告書簡が来た。
  1845年5月、イギリス船が琉球に来る。
  1845年6月、オランダ国王の開国の勧告を拒否した。
  1845年7月、イギリスの測量船が長崎に来る。
  1846年閏5月、アメリカの東インドシナ艦隊の司令官・
   ビッドルが浦賀に来航した。
  1846年6月、フランスのインドシナ艦隊が長崎に来た。
  1848年5月、アメリ捕鯨船が西蝦夷地に漂着した。
  1848年7月、フランス船が琉球に来た。
  1849年閏4月、イギリス軍艦マリナー号が、浦賀に来た。
  1851年1月、中浜万次郎が、アメリカ船に乗って琉球
   上陸した。
  1851年12月、イギリス軍艦が、琉球に来た。
  そして・・
  1840年6月28日〜1842年8月29日には、卑劣なアヘン戦
 争が、清とイギリスの間で行われていて・・
  イギリスの卑劣な腕力を使った中国・清いじめで滅多
 打ちにして・・、
  その後、麻薬のアヘンを中国へ持って行くという『ア
 ヘン貿易』する・・、
  麻薬アヘンを使った・・イギリスという国としての卑
 劣な行動を、あくどい利益獲得だけの卑劣な行動を・・
 日本は、初めから・・じーっと見ていた。
  その卑劣さ、悍(おぞ)ましさを知っていた。
  1853年にアメリカが来たりしたが・・江戸幕府は・・
 『アヘンを持って来るな』と、ヨーロッパ列強とアメリ
 カに、幕府は、しっかり言っていた。
  アメリカとヨーロッパの列強各国は了解したようだっ
 た。
  それは、後ろに居るしっかりした武士軍団が見えてい
 たからだった。
  この様な事まで言わないと、やりかねない倫理観のな
 い目先の利益を追求するばかりの欧米列強諸国だった。
  当然、種々の形で、欧米列強は日本を狙っていた。
  卑劣な事をいろいろ考えていたのだろうが・・意味の
 分かる件は以下である・・(当然、卑劣な事は、歴史上、
 隠されている)
  アメリカは、日本近海で捕鯨をしていた・・そのため、
 その燃料と水が欲しくて・・と言われているが・・それ
 だけではなく、アメリカは、インディアンを駆逐して、
 西部海岸のカルフォルニアに至った時から日本を狙って
 いた。
  その頃、アメリカは中国貿易の通商ルートが確立した・・、
  そのため、その寄港地として日本は最適だった。
  当時の蒸気船には、大量の燃料が必要だった・・その
 補給基地として日本が必須の地だった。
  また、アメリカは、蝦夷捕鯨基地として利用したい
 と考えていた。
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1912年2月12日、清の滅亡
  1912年1月1日、中国の南京で中華民国が樹立され・・、
  清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は、1912年2月12日、
 正式に退位し、ここに清は、276年の歴史に幕を閉じ、完
 全に滅亡した。
  この時、満州チベット以外には、辛亥革命武装
 起の独立運動が起きていた。
  満州の地は、この清朝滅亡後に、中華民国清朝領土
 の継承を主張したが・・、
  外満洲は、アイグン条約、及び、北京条約で、ロシア
 帝国に割譲されていて・・また・・、
  内満洲の旅順・大連は、日露戦争までは、旅順(港)
 大連(湾)租借に関する条約でロシアの租借地であった。
  そして、日露戦争後は、ポーツマス条約により、戦勝
 した日本の租借地となった。
  そして、この満州は、「黄塵万丈」で「塵埃にまみれ
 て人が居る」という地で、人もほとんどいない地に、勤
 勉なる日本人が入植し、荒地を開墾した。
  イギリスやアメリカは、人が居る「美味しい所」に入
 って、中国の地の利益を得た。
  そして、鉄道などの権益を奪っていた。
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1917年2月23日、ロシア革命
  (2月革命、1917年2月23日〜1917年2月27日)
  (10月革命、1917年11月7日〜1918年)
  ロシア革命が起きた時に、日本は、イギリス・フラン
 スから、再三、出兵を懇請された。
  日本は、出兵するにしても、コサックの協力が無けれ
 ばできないと考えていた。
  また、アメリカやイギリスなどの連合国は、日本のシ
 ベリア出兵(1918年8月〜1922年10月)を強く要請した。
  アメリカやヨーロッパの列強は、都合のよい時には日
 本を利用し、また、都合が悪くなれば干渉した・・常に、
 この様な態度だった。
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1919年6月28日、ベルサイユ条約
  フランスのベルサイユで、第一次世界大戦における連
 合国とドイツの間で講和条約が締結された。
  ヒトラーの誕生は、何も、ヒトラーを擁護し、弁護す
 るわけではないが・・、
  このヒトラーが生まれた責任は、ドイツだけの責任で
 はない。
  第一次世界大戦戦勝国にも「大いなる責任がある」。
  この責任から逃れてはならない。
  大いにその責任を感じ、歴史の教訓として胸に刻み付
 けなければならない。
  戦勝したから「すべて、こちらが正しいのだ」と卑劣
 な事々を、戦勝諸国は、一方的に苛酷な諸事項を、ドイ
 ツに押し付けた。
  結局、これが、解決されない新たな「お粗末な問題」
 を生んだ。
  そして、解決しなかった問題を、第二次世界大戦をし
 なければならないという「愚かな経過」をたどることと
 なった。
  ドイツは、返済不可能な賠償金の支払いを課された。
  出来ないことを成せと言われた。
  まったく愚かな復讐的な戦勝国の要求だった。
  ドイツ国民は疲弊した。
  また、精神的に大いなる屈辱を与えられた。
  ドイツ国民の方々は、絶望の縁に落とされた。
  1933年、ヒトラーが政権をとった。
  第一次世界大戦の戦勝諸国が、このヒトラーを生んだ
 といっても良い状況だった。
  第一次世界大戦後のベルサイユ条約の場は、ドイツを
 吊るし上げる「復讐のリンチ」が行われた話し合いと言
 ってもよい状態だった。
  苛酷な賠償金は、卑劣極まりない決定だった。
  何ら戦勝諸国側に反省点の見られない愚行が行われて
 いた。
.
1922年12月30日、ソビエト連邦の樹立
  ソビエト連邦は、1917年のロシア帝国を倒したロシア
 革命を起源としている。
  ロシア社会民主労働党の多数派で、ウラジーミル・レ
 ーニンが率いるボリシェヴィキは、臨時政府を転覆させ
 て、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 (1936年、ロシ
 ア・ソビエト連邦社会主義共和国に改称) を設立した。
  この十月革命(1917年11月7日)を皮切りに、革命派の
 赤軍反革命派の白軍との間に、ロシア内戦が開始され
 た。
  赤軍は、複数の旧ロシア帝国領に侵攻し、名目上労働
 者、および、小作農の代表として振る舞ったソビエト
 通じ、現地の共産主義者の権力掌握を支援した。
  1922年、共産主義者が勝利し、ロシア、ザカフカース
 ウクライナ白ロシア各共和国を統合し、ソビエト連邦
 を形成した。
  1922年12月には、第1回ソビエト連邦全連邦ソビエト
 会が開催され、
  1922年12月30日に、ロシア連邦共和国、ウクライナ
 会主義ソビエト共和国、白ロシア社会主義ソビエト共和
 国、ザカフカース連邦の4国が平等な立場で加盟するとし
 たソビエト社会主義共和国連邦の樹立が宣言された。
  このロシア革命後のソ連誕生の直前・・、
  くすぶるシベリアの地に、商人と称するアメリカ人が、
 鉄道沿線一帯に出没した。
  特に、東部において目立ち、カムチャッカ・サハリン・
 沿線州占領の準備だという観測がもっぱらだった。
  イギリス・フランスは、申し合わせた様に、オムスク
 を中心に、バイカル湖以西に活躍し、反革命派に多額の
 資金を投じた。
  反革命派や中立派は、次第に、イギリス・アメリカ・
 フランスに頼ろうとする傾向が強まって行った。
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1940年6月14日、ドイツによって、パリが陥落した。
  モーロワが、カナダへ亡命した。
  「フランス敗れたり」を書いたアンドレ・モーロワは
 言う・・、
  「国民は、祖国の自由の為には、いつでも死ねるだけ
 の心構えが無ければ、やがて、その自由を失う」と。
  その『精神の強さ』や「道徳心」を持てと。
  そして、第二に、「国民の団結」を言う。
  そして、「外国の影響から世論を守ること」を言う。
  「自らの思想を擁護するのは、それ自体間違っていな
 い」と、
  しかし、「その思想の故に外国から金を貰うのは犯罪
 である」という。
  1940年、このモーロワは、ヒトラーのフランスの占領
 を受け入れず、カナダべ亡命した。
  モーロワは、フランスからの移民の人々の多いケベッ
 クの町で、依然として、7月14日のフランスの建国記念日
 に、たくさんのフランス国旗が翻っていたのを見た。
  フランスの三色旗が、誇らしげに翻っていたのである。
  モーロワは深い感銘を受けた。
  そして、叫ぶ・・「フランスよ、祖国に忠誠であれ」
 と・・、
  フランス国家が最大の危機の時、「祖国への忠誠」が
 最も大切と訴えた。
  フランスの国を失った最も大きな理由が「これなのだ」
 と訴えた。
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1945年4月7日、鈴木貫太郎内閣が成立した。
  日本は鈴木貫太郎内閣になった。
  鈴木貫太郎は穏健派で、第二次世界大戦の日本降伏の
 方針を持ち、明らかに降伏の協議に入りたいとしていた。
  アメリカも、その状況を知っていた。
  そして、日本とモスクワ日本大使館との連絡が始まる。
  「日本と中立条約のあるソ連」への降伏の仲立ちの件
 である。
  アメリカは、この日本とソ連との交信電文を(暗号解
 読して)読み、すべてを知っていた。
  アメリカは、手に取るように、日本の降伏への動きを
 改めて確認していた。
  確実に、近いうちに、終戦となる状況になる事を、ア
 メリカは、この事からも知っていた。
  しかし、アメリカは、原爆を投下した。
  反撃力の完全に落ちている日本へ、アメリカは、原爆
 を投下した。
  アメリカは、戦争を早く終わらせるためという屁理屈
 を言った。
  もう終わる状況にあったのにである。
  それも、広島と長崎に、二発も投下した。
  そして、アメリ国務省内では、「日本の工業力打破」
 が叫ばれていた。
  また、「ドイツは、農業と牧畜以外に生活の糧は認め
 ない」という暴論が叫ばれていた。
  しかし、ドイツと日本の居なくなった後に、極東に、
 ロシアの力に対する思慮に欠けていたと、アメリカは、
 後に後悔し、反省した。
.
1947年3月、買い出し(2)
  連日の空襲に打ちのめされた街の人々は、食べる物を
 求めて農村へ買い出しに行った。
  買い出しに来られた農家の方にしたって、貴重なお米
 だった。
  そのお米を、分けて差し上げたが、そこで終わらない
 親切さ、優しさがあった。
  この分けて差し上げた方に、確実に持って帰って戴き
 たいと・・、
  そこで、駅で「お巡りさんの取締り」をしていないか
 を、わざわざ家人の方に、駅まで見に行かせて戴いた。
  その返事が来る間、町から買い出しに来た小さな子供
 を連れた若い女性は、農家のその奥様の接待を受けた。
  農家の御手製の漬物とお茶で、若い町の女性は、町で
 の連日の空襲に会ったこと、その中で夫を失ったことな
 どを話したりした。
  農家の奥様の同情を、また更に戴いたりした。
  駅での取り締まりはしてないと教えてくれたその家人
 の方の親切があった・・
  その時、持って行った着物だって、持って行く側にす
 れば、思い出もあるだろうし・・その着物を、手放した
 くもないのだろうが、農家の方にしてみれば、その着物
 の柄や、その色合い、年齢に相応かなど、決して満足す
 る着物ではなかっただろう・・が・・、
  また、苦労して米作りをした家人の方にしたって、不
 要不急の着物であった・・、それより今は、食べる物・
 お米の方が大切で・・、
  それを見ず知らずの、今日、突然、お米と代えて下さ
 いと訪れて来た人に急に言われて、そのすべてを悟(さ
 と)って、「いいですよ」と応じて戴けた農家の方の「
 やさしさ、思いやり、親切」・・まったく頭が下がる「
 ありがたいことだった」・・その様な事のある日本だっ
 た。
  家人の方も、農家の奥様のやることに、何も言わずに
 同意されていた・・そのような日本だった。
  その様な優しい心遣いのある日本が、李朝末期のどん
 底の貧しい朝鮮・韓国を助けた。
  共に豊かになろうと・・道路を造り・・鉄道を引いて、
 電車を走らせ・・国づくりには教育が大切だと、学校を
 造り・・、
  それも、日本より立派な学校を造り・・衛生環境の劣
 悪なのも朝鮮・韓国の国づくりの状態を悪化させている
 と、衛生環境の改善も一生懸命に行って、朝鮮・韓国の
 人口が3倍にもなるという実績を残し、朝鮮・韓国の方々
 は、皆、喜んでいた。
  街並みも見違えるほどに良くなり、山には木を植え、
 この後の朝鮮戦争の時、この山へ日本人が一生懸命に植
 林したことを知っているアメリカ兵が、「その山に、戦
 争で爆弾を投下するのが、申し訳ないと、忍びないと、
 嫌だった』と・・言っている。
  町の建物を造り、ダムも作り・・誠実な日本・・
  だがしかし、この恩を仇で返す韓国。
  しつこく日本を貶(おとし)める行為をする韓国。
  遠い昔から、この様な事をする韓国・朝鮮で・・
 韓国・朝鮮は、日本へこの様な事をして来た。
  感謝の言葉もない。
  御礼の言葉もない。
  昔からやって来た非礼の韓国・朝鮮なのだが・・
  おかしいのではありませんか?
  『人の道』を外しているのではありませんか?
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1964年、アメリカで公民権法が制定された。
  アメリカは、「自由だ」「平等だ」と他国には言うが、
 自国の足元を見なさいと言いたい。
  アメリカには「登録係官」という者が居て、この係官
 が、自分のお好みで「様々な異なった選挙投票の基準」
 を作り、黒人の方々の投票行動を排除することを「影の
 目的」として存在した。
  勿論、彼らなりの、WASP(ワスプ、W:白人、AS:
 アングロサクソン、P:キリスト教プロテスタント)な
 りの理由は付けられていた。
  また、「慣行だ」とか、「手続き上で必要」だとかと
 理由を付けて、黒人の方々の投票行動を排除し、差別し
 た。
  選挙投票の際に「読み書き能力テスト」を行なうとい
 う差別は有名・・悪名高き行為となっている。
  アメリカは、投票権行使における卑劣な人種差別国で
 ある。
  1964年、黒人の方々は、公民権法の制定を勝ち取った。
  そして、その翌年・1965年、投票権法を制定させて、
 一層の強化をした。
  そこには、「何人も、人種、肌の色、宗教、あるいは、
 出身国を理由に、次のような施設で差別、若しくは、隔
 離されてはならない」という一文がある。
  この様な法律を作らなくてはならないアメリカは、劣
 悪な遅れた国となっている。
  黒人の方々は、ホテル、レストラン、映画館、旅館、
 劇場、コンサートホール、スポーツ競技場、展示場、娯
 楽施設、教育施設などなど・・で差別されている。
  また、近年、「逆差別」という言葉を用いた差別が行
 われている。
  この事の発端は、そもそも、アフリカで、幸せな生活
 をしていた黒人の方々を、人権を無視して、白人アメリ
 カ人が、その黒人の方々を強引にアメリカに連れて来た
 事に始まる。
  まったく黒人の方々の意見や希望を無視して、アメリ
 カへ連れて来られた非人道的行為に始まっている。
  つまり、白人アメリカ人による「完全なる権利回復を
 行なう責任がある」。
  その為に、すべてを排して、目的達成に向けて努力せ
 よ、行動せよ・・、
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2010年、ギリシャは、1,100億ユーロ(約16兆円)の支援を
 受けた。
  不誠実な行動をして、嘘をついたギリシャの末路。
  グローバルに連合しようという名目で出来たEU・・、
  そんな美しい話は、今(2018年)はないEU・・、
  そのEUの一員のギリシャは、大嘘をついた結果とし
 て、今は、『途上国のような国』に成り下がっている。
  その被害者は、ギリシャ国民の方々で・・、
  ギリシャ国民の方々は、高騰した医療費で、医者にも
 かかれる状態にない。
  最悪の異常状態となったギリシャ・・今、その救済に、
 戦場に駆け付ける「国境なき医師団」の方々が、乗り出
 すという状況となっている。
  最後の手段がとられねばならないギリシャの状況に陥
 (おちい)っている。
  まったく憐(あわ)れな状態の国となっている。
  それで、今は、ギリシャは、国全体が「うつ病」の様
 になり、また、栄養失調にかかった様になっている。
  これが、グローバリズムを標榜したというEUの加盟
 国かという状態となっている。
  「楽ばかりを追求」し、「プレゼント状態の金」を貰
 うギリシャの末路だった。
  2010年、ギリシャは、IMFとECBとEUから、
 1,100億ユーロ(約16兆円)の支援金を貰う羽目に陥った。
  その時の条件は、厳しい財政緊縮の条件「今までの様
 な、甘い、じゃぶじゃぶ金を使うようなことをするな)
 と言われ・・、
  また、金融引き締め(出費をしっかり押さえよ)と言
 われ・・、
  構造改革せよ(今までのような甘いやり方を変えよ)
 と言われた。
  ギリシャは、福利厚生費を切り捨てた(ここは、どこ
 の国でもやる事だが、ギリシャは切って捨てた。日本の
 ような教育補助や助成はもちろん無し・・そんな話は夢
 の夢)となった。
  ギリシャの産業は停滞した。
  失業者が、あっという間に、街にあふれた。
  今までのギリシャへ流れた金で儲けて、莫大な富を築
 いていたのは、一握りの「金融界の人間」と「実業界の
 人間」だけだった。
  ギリシャの一般国民の方々は・・被害者だった。
  国民の方々の生活は・・破壊させられた。
  ホームレスが増えた。
  自殺者が増えた。
  職のない人間が増えた。
  医療費が、ほぼ倍額となった。
  医療費補助は・・40パーセント削減となった。
  医療を受ける事の出来る国民は・・居なくなった。
  しかし、この国民の側に立って行動する政治家も・・
 居なかった。
  製薬会社は、多額の賄賂を病院や医者に渡した・・
 そして、儲けた・・医療制度が破綻し崩壊しているのに、
 利益を上げた。
  当然、「ギリシャ国債」なんて怖くて買われる状況で
 はなくなった。
  2011年9月、ギリシャ政府は、長期国債金利を20%
 を越すような条件を付けて・・、やっと、売ることが出
 来た。
  金が無いので金を貸してくれ・・ギリシャ国債を買っ
 てくれ・・と言ったって、高い金利の支払いまで約束し
 て・・やっと買ってもらえた・・
  信用のない国にと・・落ちぶれた。
  正直にやって来なかった「酬い(むくい)だった」。
  明日は野となれ山となれ式の計画放棄の無責任体質が、
 この様な状態を招いたのだった・・
  誠実な努力もしないでいたからだった・・
  国民は、苦しいと抵抗し、デモもしたが・・
  「IMFは、きっぱりと拒否した」・・当然だった。
  その国民の行動は、初めだけで・・消えた。
  正直が一番なのだ・・
  誠実が大切なのだ・・
  相手を騙(だま)したり・・嘘をついたりするするこ
 とは、駄目なのだ。
  キリスト教聖書には、「誠実に居よ」「正直にせよ」
 などと一言も書かれていない・・、
  うまく行くなら「嘘も言え的」な事ばかりである・・
 困ったら「隣の国の富みを奪え」である。
.
2010年5月、ギリシャ救済の援助プランが実施され始めた。
  どうしようもないギリシャに、IMFとECBとEU
 は、必死に金の援助をした。
  2010年5月から2400億ユーロ(約34兆円)という莫大な
 金の援助プランを実行していた。
  その上に、2012年3月には、ギリシャの負債免除までも
 行なった。
  ギリシャの個人の債務者の負債の半分以上を「無いこ
 ととした」。
  一気にこれで、ギリシャは、1000億ユーロ(約14兆円)
 の借金を消してもらった。
  ドイツ国民は援助疲れしていた。
  国際機関が入ると、ギリシャ汚職体質が明るみに出
 た。
  また、放漫な経営体質も明るみに出て、その癒着の酷
 (ひど)さが次々と明るみに出た。
  誰も、ギリシャの自力更生を信じるものは居なくなっ
 た。
  ギリシャの緊縮財政は、当然、実施されねばならなか
 った。
  ギリシャは大不況となった。
  種々の機関が民営化され、外国資本の手に渡った。
  ギリシャへ投資する者もなく、投資話しは行き詰った。
  年金は削除され、賃金もカットされた。
  税金は増税となり、消費は落ち込んだ。
  失業者は街にあふれ、バブルで回していた経済は「完
 全にストップした」。
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2015年12月20日、変化するカナダ
  先住民族迫害を正式に認めた。
  そして、調査開始へ・・、
  世界中で右傾化が進む中、10年ぶりに保守党からの
 政権交代となったカナダでは、中道左派政党である若き
 自由党党首ジャスティン・トルドー首相(43歳)によっ
 て変革が進められている。
  多様性を重視する新閣僚。
  総選挙後の勝利宣言演説のなかで、「真の変化をもた
 らす」と約束した通り、11月4日に発表された新閣僚は、
 首相を除く30人が男女半数ずつ、年齢もバランス良く
 入閣。
  さらに、障害を持つケント・ヘ氏、先住民の血を引く
 ジョディ・ウィルソン・レイブルド氏、アフガニスタン
 から難民としてカナダに移住したマリアム・モンセフ氏
 (30歳)など、様々なバックグラウンドを持つ議員が入
 閣した。
  先住民族迫害を正式に認める。
  そして、ついに長年の問題となっていた先住民族の迫
 害を、トルドー首相が認め、先住民族の女性約1200
 人が殺害・誘拐等で行方不明になっている事件の調査を
 開始すると発表した。
  調査は、来年春に始まる予定で、2年間で4000万
 ドル拠出するとしている。
  連邦警察によると、1980年から2012年までの間に殺人
 事件の被害者となった先住民女性は1017人で・・、
  先住民女性がカナダの女性全体に占める割合は約4%
 だが、カナダで殺害された女性の約16%を占める(4倍)
  男性に関しても、先住民の男性が、殺害事件の被害者
 となる確率は、それ以外の男性の7倍にもなる。
  こうした現状に対し、先住民族や、活動家が、調査を
 開始するよう何度も政府に求めてきたが、ハーパー前首
 相は調査を拒否してきた。
  さらに、6月に発表された「真実と和解の委員会」の
 報告書では、1874年に始まったカナダ政府の同化政策
 よって、先住民の子供が差別や虐待をされた事実が明ら
 かになっている。
  それによると、120年以上にわたって先住民の子供 約
 15万人が同化政策によって、「インディアン寄宿学校」
 に親元から引き離されて強制的に入れられ、差別や虐待
 を受けてきた。
  この寄宿学校は、1883年から1998年までの間に、カナ
 ダ各地に約130校存在し、政府の補助金を受けキリス
 ト教教会が運営してきた。
  1940年代には、先住民の学齢期の子供約3分の1が、
 これらの施設に入れられ、6000人が虐待によって死
 亡したとされている。
  この報告書では、これらの実態を「文化的ジェノサイ
 ド」と激しく非難している。
  この政府の同化政策に対しては、ハーパー前首相が
 2008年に、公式に謝罪し、政府の資金でインディアン寄
 宿学校で起こったことを調査し、記録するために「真実
 と和解の委員会」を設立。
  さらに、約4400億円を補償金として支払っている。
  一方、今でも、約140万人の先住民が存在している
 が、一般カナダ人と比べて収入は低く、失業率も高い。
  新政権は、まずは、殺害事件の全国調査を開始するこ
 とを発表したが、先住民の環境改善のためには、教育予
 算の大幅増額や、先住民法の見直しなど課題が多く残っ
 ている。
  変革するカナダ
  カナダでは、景気後退、格差拡大で不満が高まる中、
 中間層の所得税減税、富裕層の増税、インフラ整備など
 の経済政策への期待から政権交代が実現した。
  アメリカでも、中間層が過半数を割り、世界中で格差
 が拡大している。
  トルドー首相は、多様なバックグラウンドを持つ議員
 を入閣させた理由を、「2015年だから」としたが、他の
 国では、右傾化が進み、移民排斥など世界中での動きも
 出つつある。
  男女平等も程遠い。
  2015年になっても、20世紀と変わらず戦争は起こり、
 テロの恐怖に怯えている。
  世界各国が、シリア難民受入の縮小や空爆参加を決め
 る中、トルドー新政権は、2万5000人のシリア難民
 受入を発表し、ISISへの空爆参加を中止するなど独自の
 道を進もうとしている。
  また、イノベーション、サイエンス、経済発展省も、
 新たに発足、環境省を環境・気候変動省と名前を変え、
 先進国の中で最も対策が遅れている気候変動にも取り組
 む。
  さらには、ハーパー前政権時に定められた「着用禁止
 法」によって禁止されていたニカーブ(イスラム教徒の
 衣装)の着用も許可されることになった。
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2017年、中国へ逃げた北朝鮮脱北者を、中国は北朝鮮
 その脱北者を渡した。
  渡された北朝鮮は、その脱北者が妊娠している場合、
 中国人の子だと、「北朝鮮の血が、けがれる」と堕胎さ
 せ、または、母親の眼の前で殺す事をした。
  この事は、国連も事実として、この事を掴んでいる。
  この事について、中国は目をつぶっている。
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2018年2月27日、まったく怪しい中国
  この日の読売新聞に、「FBI孔子学院を捜査」「
 スパイ容疑か」「《親中派》育成に警戒」「アメリカ議
 会証言」という表題の記事があった。
  ・・その概要は・・
  アメリカ連邦捜査局FBI)が、中国政府が国外で
 の中国語と中国文化の普及拠点としている「孔子学院」
 の一部に対し、捜査に乗り出している。
  FBI高官がアメリカ議会で証言した。
  アメリカ国内でのスパイ活動などへの捜査という。
  アメリカ国内では、孔子学院が「親中派」育成の場に
 なっているとの警戒感が強まっている。
  FBIのクリストファー・レイ長官は、孔子学院の活
 動が、アメリカ学術界で中国に対する「無邪気な(安心
 的見方)」を広める手段になっているとして「懸念」を
 示し・・、
  「我々は注意深く(孔子学院を)見ており、中には
 捜査に発展したものもある」と述べた。
  アメリカ情報機関が、孔子学院を通じて中国政府と直
 接の提携関係にあるアメリカ国内の100校以上の大学に
 ついて、中国のスパイ活動の潜在的拠点となりかねない
 として警戒している・・、
  中国は、2004年以降、世界120以上の国・地域に450ヶ
 所以上の孔子学院を設け、アメリカ国内でも約100ヶ所に
 開設された。
  孔子学院には「中国政府の意向が強く働く」ことから、
 「学問の自由や言論の自由が侵害される」との懸念も高
 まり、アメリカ国内では最近、孔子学院を閉鎖する動き
 も出て来た。
  孔子学院に対して透明性を高め、カリキュラムをアメ
 リカの大学側にすべて委ねることを求める法律案作りが
 着手されている。
  中国の宣伝工作へのアメリカの視線が今後も厳しくな
 るのは必至。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive