(増補版)513E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年6月〜1890年7月)

題:(増補版)513E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年6月〜1890年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1890年6月18日、利根運河が開通し、竣工式が開催された。
  利根川・江戸川間の運河開通
  利根川と江戸川がつながる。
  水害防止などを目的として、江戸時代初期に行われた
 利根川東遷事業などの河川工事により、関東地方の川筋
 が大きく変えられ、
  利根川は関宿で、銚子にいたる現利根川と、東京湾
 いたる現江戸川とに分流された。
  この結果、東北地方の太平洋岸と、江戸を結ぶ水運の
 ルートとして、房総半島をまわるルートのほかに、
  銚子から利根川に入って遡り、関宿を経由して江戸川
 を下る、というルートが開拓された。
  このルートには、一部に浅瀬があって、大型船が通航
 できず積み替えが必要だったこと、距離が長かったこと
 などの理由から、関宿まで遡らずに、途中を陸路でショ
 ートカットする場合があった。
  明治時代になり、貨物の輸送量が増えたことから、こ
 の陸路でのショートカットの部分に、運河を開削すると
 いう計画が立てられた。
  調査にあたったのは、1873年明治6年)に来日した
 オランダ人の土木技術者のヨハニス・デ・レーケだった。
  そして、東京府、千葉県、茨城県の陳情により、1886
 年(明治19年)に、内務大臣の山縣有朋が政府の事業と
 して認定した。
  しかし、翌年・1887年(明治20年)には、内務省が、
 財政上の理由として中止を命じ、民間企業として建設す
 べく利根運河株式会社が設立された。
  運河開削とは別に、利根川と江戸川間を結ぶ鉄道(ド
 コービル鉄道計画)を、航運会社(いろは丸を就航)関
 係者が計画した。
  この計画は、江戸川左岸の加と利根川右岸の花野井間
 約10kmを、フランス人のポール・ドコービルの発明によ
 る軽便鉄道で結ぶもので、
  1883年(明治16年)5月、航運会社社長・林千尋や、石
 川島造船所(後のIHI)の平野富二が、地元豪商等14人と
 ともに千葉県に出願した。
  しかし、航運会社が他社との競争に敗れたことと、利
 根運河が計画されたため、実現しなかった。
  工事を監督したのは、1879年(明治12年)に来日した
 オランダ人技術者のローウェンホルスト・ムルデルで、
  この計画は、単に、利根川と江戸川を結ぶだけではな
 く、茨城県沖の鹿島灘をショートカットする内陸水路の
 建設とも連携し、太平洋岸の水運を一気に改善しようす
 る壮大な計画の一環であった。
  1885年(明治18年)に、ムルデルが、江戸利根両川間
 三ヶ尾運河計画書を提出し、
  1886年明治19年)1月12日に、改修計画に着手した。
  1889年(明治20年)5月9日に、千葉県庁へ利根運河
 削願を提出し、同年11月10日に許可が出た。
  開削許可に先立ち、1888年明治21年)7月14日に起工、
 約57万円の費用と延べ220万人により、1890年(明治23年
 2月25日に通水、
  同年・1890年3月25日に通船、
  同年・1890年6月18日に、竣工式を開催した。
1890年6月20日農商務省水産局を廃止し、農務局に属する。
  水産局が縮小されたが,、水産調査所は、その重要性
 が顧みられて、1893年4月に、その代行機関として、調査、
 および、研究業務を系統的にするため、水産調査所を独
 立させた。
  庶務規定に、「水産物製造の調査ならびに試験」と記
 され、水産製造試験・調査も行った。
1890年6月21日、軍人恩給法が公布された。
  近代恩給制度は、1875年の海軍退隠令、及び、1876年
 の陸軍恩給令に始まり・・
  1883年には、文官恩給令が制定され、同時に、太政官
 に恩給局が設置された。
  この他にも・・
  1882年には、警察官、
  1890年には、教員に関する恩給制度が制定されている
 が、当初は、部署によってバラバラに恩給制度が制定さ
 れたために複雑になってしまった。
  そのため、1923年に、恩給法が制定され、制度の一本
 化が図られた。
  なお、1890年6月20日には、「陸海軍軍人現役定限年齢
 の件」(勅令第99 号)が制定され、定年退職の年齢を既
 定していた。
1890年6月30日、佐渡の相川町で米騒動が起きた。
  6月28日から7月5日にかけて、鉱夫を中心として、2000
 名以上が蜂起した。
  鎮圧するのに軍の出動が必要だった。
1890年6月30日 行政裁判法を公布した。
  プロイセンオーストリアの制度を範として設けられ
 た。
  また、行政裁判所が、民事事件・刑事事件を管轄する
 司法裁判所ないし通常裁判所とは別に、
  行政事件を管轄する裁判所が設けられた。
  一審制の裁判所で、判決に不服があっても、大審院
 上訴することはできなかった。
  行政庁ノ違法処分ニ関スル行政裁判ノ件(明治23年
 律第106号)では、以下を、規定している。
  ・租税及び手数料の賦課に関する事件(関税を除く)
  ・租税滞納処分に関する事件
  ・営業免許の拒否又は取消に関する事件
  ・水利及び土木に関する事件
  ・土地の官民有区分の査定に関する事件
  その他にも、土地収用法、市制、町村制、府県制など
 個々の法令によって、裁判権を有する事項について細か
 く規定した。
1890年6月27日、長崎でコレラが発生した(〜12月)
  数年、鳴りを潜めていたコレラが、6月下旬、突然、長
 崎市内から全国へと拡大した。
  感染は、長崎港への入港船からと推定されたが、病勢
 は猛烈で、たちまちの内に、長崎県、福岡県から九州一
 円へと広がり、
  山口県から兵庫県、神奈川県へと全国に伝播した。
  中でも、流行のすさまじかったのは大阪府で、年内に
 8815人がかかり、7486人が死亡した。
  東京府では、7月23日に初めて発生し、年内の患者4027
 人で3307人死亡。
  ともに、その死亡率は、8割を超えた。
  流行の最盛期は、9月で、全国で2万1466人がかかった
 が、
  10月に入ると、病勢は衰え、
  12月は、全国の患者数114人と減少した。
  この年の全国患者数:4万6019人、死亡者:3万5227人、
  死亡率:76.5%
  明治期の大流行年における最大数値となった。
  内務省が、長崎市コレラの流行地に指定した。
  日本に寄港していたオスマン帝国の軍艦・エルトゥー
 ルル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われた。
  (内務省衛生局編「法定伝染病統計」などを参考にした)
1890年7月1日、第1回衆議院議員総選挙が行われた。
  第一回衆議院議員選挙が本州、四国、九州で実施され
 た。
  選挙権資格者数は、45万2,474人(人口4,007万2,020人
 の1.13%)
  選挙区は、257の「小選挙区制」
  結果は、民党(反政府系)の立憲自由党130、同じく民
 党系の立憲改進党が41で、議員定数300のうち171を占め
 た。
  このほか大成会79、国民自由党5、無所属45。
  有権者の資格は、直接国税15円以上を納める(または、
 3年以上、所得税15円以上)納め、25歳以上の男子で、府
 県内に1年以上住むものだった。
  代議士の過半数が、地主出身の地方の名望家だった。
  11月25日に、第1回帝国議会が開会された。
  大日本帝国憲法下で、天皇陛下の主権下の最高立法機
 関として、1947年まで存続した。
1890年7月1日、イギリスとドイツ両国が、ヘルゴランド=
 ザンジバル条約を締結した。
  ドイツは、北海のヘルゴラント島とカプリビ回廊(現
 在のナミビアのザンベジ州)、及び、ドイツ領東アフリ
 カの核となるダルエスサラームの海岸を獲得した(後の
 タンガニーカ、現在のタンザニアの本土部分)。
  ドイツは、条約で、ケニア海岸沿いにある小さな保護
 領ウィトゥランドの権益を、イギリスに譲与し、イギリ
 ス領東アフリカの一部とすることを認めた。
  その場所は、イギリスにとって決定的なもので、ビク
 トリア湖に至る鉄道を建設するために必要だった。
  また、イギリスが、ザンジバルに関して、侵略し掠奪
 する行動について、ドイツは干渉しないことを約束した。
  その後、1890年に、イギリスは、ザンジバル・スルタ
 ン国を掠奪し、保護国化を宣言した。
  1896年の、イギリス・ザンジバル戦争によって、以後、
 実効支配した。
  そのうえ、条約は、ドイツが関心を持っていたドイツ
 領南西アフリカ(現在のナミビア)の権益を確定させ、
 ドイツ領トーゴラントと、イギリス領ゴールドコースト
 植民地、および、ドイツ領カメルーンとイギリス領ナイ
 ジェリアの国境問題を解決した。
  尚、ザンジバルは、奴隷貿易、香辛料貿易、象牙貿易
 の拠点で、
  アフリカの方々の人身売買を含む、多様な資源を、我
 がものにしようとする白人たちの欲の拠点だった。
  ヨーロッパ列強の白人のイギリス人とドイツ人による
 アフリカ分割(山分け)の条約の話・・、
  1896年には、当時のスルターンの甥ハリド・ビン・バ
 ルガシュが、王位についた。
  しかし、イギリスが退位しろと要求したが・・拒絶し
 たため・・(当然だ)・・
  駐留していたイギリス艦隊の艦砲射撃(戦艦など持た
 ない弱いアフリカの方々への武力行使)により、
  わずか37分23秒で・・宮殿は破壊された。
  哀れなハリドは、対岸のドイツ領タンガニーカに亡命
 した。
  このイギリス・ザンジバル戦争は、「史上もっとも短
 時間の戦争」として『ギネスブックに掲載された』・・
 白人・ヨーロッパ列強の非人道的行為の記念碑である・・
  奴隷制もほしいままにやっていた・・卑劣な事である。
  日本は、当然、奴隷の「ど」の字もやってない。
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  (今日の言葉)
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  題:消えた・・民族・・これからも・・
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紀元前3500年、ケルト民族の方々は・・?
  かつて、キリスト教に殺戮されてしまったケルトの人々
 は、今、どこに居るのか・・?
  永遠に、消えてしまったのだろうか・・?
  その民族は絶えてしまったのだろうか・・?
  ケルト文化・言葉を残して・・?
  インド・ヨーロッパ語族ケルト語派の方々だという。
  中央アジアの草原に居た方々が、馬と車輪のある乗り
 物で・・ヨーロッパに来て、そして、ヨーロッパの主(
 あるじ)になったという。
  おそらくだが・・ケルトの方々は、青銅器の時代に、
 石器の代わりに青銅を利用した道具を使った青銅器時代
 (メソポタミア・エジプトでは紀元前3500年ごろが青銅
 器時代の始まりという)に、この頃に・・ヨーロッパに
 広がって行ったという。
  それから・・紀元前1世紀に頃から、各地のケルト
 方々は、他民族の支配をうけるようになり・・、そして・・
 征服されてしまう地方もあって・・
  ローマ帝国(紀元前27年〜紀元後476年)の支配も受け・・
  また、紀元後100年くらいから・・キリスト教が広まっ
 て行って・・ヨーロッパから駆逐されて行った方々・・、
  ローマ帝国に滅ぼされるまではブリテン島にもいた・・、
  この頃は・・鉄製の武器を持ち、戦車にも乗るという
 部族の社会だったという・・
  ブルターニュ半島に逃げ、移住した人々もいたという・・、
  アイルランドにも、わずかな関連性があるとかと・・
  アイルランドでは、キリスト教改宗後も、教会や聖所
 の装飾に、ケルトの習慣である多くの人頭があしらわれ
 ているという・・
  ピレネー山脈のあたりに・・とかとも・・?
  だから・・この部族の歴史は・・3500年〜・・?
  ケルトキリスト教独特の制度は、12世紀までにはヨ
 ーロッパからほとんど姿を消したという・・
  今、考古学では・・このケルトの後裔(こうえい、子
 孫)の方々が居られるのかが・・関心の中にあると・・
  現代でも、ケルト語派の言語が話される地域がある・・
  その地域は・・その先は海だという・・海に落ちそう
 な半島の先っぽに・・わずかに居られる・・と・・、
  しかし、話者は年々減少し・・近年、ケルト語再生運
 動が行なわれて、言語の衰退を止める事がなされている
 という・・
  キリスト教は、砂漠の地で、生きる糧の少ない所に多
 くの民族の居る場所で・・その様な地で・・、
  その様な地で生まれたキリスト教聖書は・・初めは・・、
  その様な地での・・我が民族が・・生き残るためのマ
 ニュアルだった。
  我が民族よ・・生き残ってくれという・・そのマニュ
 アルの各事項が・・口伝えに伝えられ・・そして、口伝
 えから・・字に書かれ・・まとまって行った・・その様
 なこと・・
  だから、その教えは大切にされた。
  だから、その中にあるのは・・自民族が生き残るため
 のなすべき事々だった。
  他民族の生き残りのことなど・・当然・・まったく・・
 ない・・、
  その様な性格の宗教=キリスト教に駆逐されて行った・・
 異民族だったケルト族だった・・、
  この宗教・キリスト教の根底に流れている性格は・・
 考えは・・教義は・・今・現代でも・・当然・・変わら
 ずに・・流れている・・
  自民族さえよければ・・良い・・である・・
.
431年、多元主義・・多元論とも言い、総合的に多様性を
 容認する・・、
  また、肯定をするという・・立場。
  この概念は、多岐にわたる分野において、様々な意味
 に用いられる・・が・・、
  政治では、国民の興味や、関心や、信念の多様性を認
 める。
  これが、最も重要な近代の民主主義なのだと考えてい
 る。
  アメリカは、アメリカが良いとする「アメリカ流の民
 主主義」の押し付けであった。
  多様性など、全く認めない・・アメリカのやり方の民
 主主義である・・
  この様な性向は、キリスト教がそうである・・
  違いを・・その『異』を・・『異』なのだからと・・
 異端と捉えて・・だから・・排除するのだとして・・容
 認しない。
  「異教徒は殺せ」・・である。
  わずかな考え方の違いでも、キリスト教の最高会議で
 ある公会議ローマ法王が出席する会議)で・・殺戮さ
 れるか、または、放逐した。
  その様に、431年のエフェソス公会議において放逐され
 て・・
  「キリスト教ではないのだ」とされた景教(ネストリ
 ウス派)が・・流れ流れて、7世紀に、唐代の中国にやっ
 て来た。
  このキリスト教ではないと言われた景教と、日本の仏
 教の接点があった・・と・・
  だから、キリスト教は、日本仏教にキリスト教が入っ
 ていると言うが・・、
  日本の仏教が・・景教に入ったのであって・・、
  また、元々、『キリスト教ではない』と言われた宗教
 であって・・キリスト教とは・・関係ないのである・・、
  因みに、ネストリウス派は、コンスタンティノポリス
 総主教ネストリオスによって説かれた異端とされた宗教。
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522年、人間は『逃れる事の出来ない原罪』を背負っている
 というキリスト教
  この『催眠的な』キリスト教の教義によって、人間は
 いかほど、良い社会を創ろうという意欲を、そがれたこ
 とか・・嗚呼・・
  ただただ、「神に祈れ」では、人間は幸せになれない・・
  人間は・・素晴らしいのである・・
  人間には・・可能性がある・・
  まただから・・人間は、「可能性がある」と信じる所
 からスタートしなければならない。
  見目うるわしき乙女よ・・貴方は、無限の可能性を秘
 めています・・
  もし・・キリスト教に惑わされているのなら・・離れ
 なさい・・
  良き道が探れるものを・・
  最良の・・改善の道を探れる「可能性を持つ人間」だ
 と信じる所からスタートしなければなりません・・
  そう、貴方は、その意味で、『無限の可能性を持つ人
 間として』・・この世に生を受け・・無限の可能性を秘
 めた境地に至れる方なのです・・
  「仏に至ることの出来る」、無限の可能性を持ってい
 る方なのです・・
  生きとし生けるものには、皆、仏性が宿っています・・
  『 一切衆生悉有仏性 』
  (いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)
  日本への仏教伝来については・・
  古代の・・倭には・・古くから多くの渡来人(帰化人)
 が・・連綿と渡来して来ていて・・、
  その多くは・・朝鮮半島のからの方たちであった・・
  この方たちは・・日本への定住にあたって・・氏族と
 してグループ化した・・そして・・、
  氏族内の私的な信仰として・・仏教をもたらしていた・・、
  仏教を・・信奉する人々もいた・・そして・・、
  この方がたの・・手によって・・公伝以前から・・す
 でに仏像や経典は・・もたらされていた・・、
  522年に来朝したとされる司馬達等(止利仏師の祖父)・・
  この人などは・・その好例となっている・・
  すでに・・大和国高市郡において・・本尊を安置し・・、
 「大唐の神」・・仏像を・・礼拝していたと・・『扶桑
 略記』に記されている・・、
.
1840年5月7日、偉大な作曲家・チャイコフスキーが生まれ
 た。
  ロシアのウラル地方、ヴォトキンスクで、鉱山技師
 次男として生まれた。
  家系は、現在のポルタヴァ州に領地を持っていたウク
 ライナ・コサックのチャイカ家に出自を持つ。
  幼少のころから、音楽的才能を示した。
  しかし、両親は、息子を音楽家にする意志はなかった。
  10歳で法律学校に入学し、寄宿生となった。
  14歳で母を失う・・コレラだった・・、
  母は、40歳という若さだった。
  チャイコフスキーの衝撃は、当然、大きかった。
  19歳の時、卒業・・法務省に官吏として務める。
  21歳の時、妹が結婚し、ウクライナに嫁ぐ・・
  チャイコフスキーは、妹の嫁いだこの地が気に入り、
 毎年の様に訪れ、この地で楽曲を作曲する。
  チャイコフスキーの兄弟姉妹は、後年に至るまで仲が
 良く、チャイコフスキーを支え続けた。
  そして、この年、チャイコフスキーに転機が訪れる。
  この年の秋の頃、知人から、音楽教育を行なっている
 帝室ロシア音楽協会を知った。
  チャイコフスキーは、このクラスに入学した。
  この音楽クラスは、翌・1862年に、アントン・ルビン
 シテインによってペテルブルク音楽院に改組され、ここ
 で、チャイコフスキーは、音楽を本格的に学び始めた。
  そして、本格的に音楽の道に進むことを決意した。
  1863年4月、23歳の時、法務省の職を辞し、音楽に専念
 する事になる。
  1865年12月、25歳、ペテルブルク音楽院を卒業する。
  1866年1月、26歳、モスクワに転居し、帝室ロシア音楽
 協会モスクワ支部で教鞭をとる・・以後、12年間つづい
 た・・モスクワが活動拠点となる。
  この年に、交響曲第1番『冬の日の幻想』(作品13)の
 初演があり、また、初のオペラである『地方長官』を完
 成させた。
  以後、めざましい活躍をして戴いた・・資金援助をす
 る方も現れた・・が、しかし・・
  一度、結婚をするが、不幸にも離婚し、大きな打撃を
 受けたチャイコフスキーは自殺をするほど精神的に追い
 詰められるということも起きた・・、
  37歳で、作曲に専念するため、モスクワ音楽院の教職
 を辞した・・ヨーロッパ各地を巡り歩く・・
  40歳の時、父を失う・・
  41歳の時、色々と助けられたりもした親友のニコライ・
 ルビンシテインも失う・・
  親友の死を悼んでピアノ三重奏曲(作品50)の作曲に
 着手する・・
  翌年、完成・・ニコライの一周忌に初演した・・
  作曲原稿には、「ある偉大な芸術家の思い出のために」
 と書かれていた・・
  45歳、モスクワ郊外のマイダノヴォ村に落ち着く・・
 旅の生活に終止符を打つ・・
  以後、この地域に住み続ける・・かつての恋人、デジ
 レ・アルトーと旧交を温める機会もあった・・
  50歳の時、フォン・メック夫人の財政援助を打ち切ら
 れる・・
  チャイコフスキー、大きな打撃を受ける・・
  51歳、バレエ「くるみ割り人形」(作品71)作曲・・
 アメリカへ、カーネギー・ホールのこけら落としに出演・・
  53歳、ケンブリッジ大学音楽協会からサン・サーンス
 や、グリーグらとともに・・名誉博士号を授与される・・
  1893年10月16日、53歳、交響曲第6番「悲愴」(作品74)
 初演・・
  その9日後の・・1893年10月25日に・・惜しいかな急死
 する・・
  死因は不明であるが、コレラ及び肺水腫と言われてい
 る・・
  ロシア皇帝アレクサンドル3世は、その死を悼み国葬
 決定し・・国葬によって葬られた・・53歳だった・・
  https://www.youtube.com/watch?v=HQjSs7oXFLU
.
  そして、下記のコメントのある大切な曲・・
.
  https://www.youtube.com/watch?v=8iuYxdXFPbc
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  ロシアのСирена Береговаさんのコメント
  自国の国歌を歌わない国民が居ると聞いてびっくり。
  こんなにも美しくて優しい歌でもあるのに。
  誇りを棄てさせるという侵略のプロセスは完了しつつ
 あります。
  日本は、四季の美しい景色、慎ましくて親切な人々、
 剣道、柔道、アニメ、治安の良さ、技術力の高さなどた
 くさんの誇れる文化があります!
  日本人の方々、どうか目を覚ましてください!
  君が代にこめられた先人たちの意志を継ぎ、この大切
 な大切な国を護らなければなりません! 
  ・・・・
  まったく素晴らしいコメントを、ロシアの方に寄せて
 戴きましたが・・、
  この様なコメントを読むにつけても、考えされられる
 ことは、キリスト教組織の「国旗と国歌に対する反対運
 動」です。
  そして、キリスト教の偏するNHKの、同様な・・「
 国旗と国歌をないがしろにする行為」です。
  そのNHKの卑劣な行為の1例を上げれば・・
  NHKは、ある時期より、オリンピックで日本選手が、
 金メダルを取っても、NHKは、まったくその選手を表
 彰し、その健闘讃えるシーンを放送しなくなった。
  日本の国旗掲揚シーンを「まったく放送しないし」、「
 国歌演奏の音声も流さない」。
  その点をNHKに指摘すると・・びっくりすることに、
 アメリカの表彰シーンを放送した。
  それも、フルバージョンで・・、
  延々と、アメリカ国旗が掲揚されていくシーン、アメ
 リカ国歌が演奏される音声を・・完全に放送した。
  だからといって、日本のその様な放送はまったくない。
  NHKの「いじわる」な、そして、「ひねくれた」オ
 リンピック放送であった。
  また、放送開始時と終了時の「国旗と国歌の放送」も、
 しなくなったNHKとなっている。
  今の様なNHKなら、日本のためにならないNHKとな
 っているので、皆様のためにも、NHKは、「ない方が良
 い放送局」です。
.
1953年3月5日、ソ連スターリンが死んだ。
  (1878年12月18日〜1953年3月5日)
  ヨシフ・スターリンソビエト連邦の第2代最高指導者。
  ロシア帝国支配下にあったグルジア(現在のジョー
 ジア国)のゴリ市で生まれる。
  キリスト教正教の神学校で教育を受ける。
  国家権力を握ると、反対派に対する厳しい弾圧を合わ
 せ・・多数の犠牲者を出す。
  また、失政の農業政策の混乱によって、深刻な食糧不
 足が発生。
  その影響から、1932年〜1933年に、飢饉へと繋がった。
  また、スターリンの政治は、非情で・・グラーグ(収
 容所)に収監された者だけでも100万人以上だと、
  そして、これを免れた数百万人も、シベリアなどの
 僻地に追放処分した。
  スターリンの強権支配は、『大粛清』と呼ばれる大規
 模な反対派摘発で頂点に達した。
  また、軍内の将官を含めて数十万人が処刑され、また、
 追放された。
  スターリンの虐殺は、卑劣な事に約2000万人である。
  この当時のソ連総人口が、約1億人であるから、いか
 に酷い事をしたかが分かる。。
  その概略数は・・、
  強制収容所で、1200万人・・、
  粛清で、    100万人・・、
  農村で、 600万人・・、
  その他で、 100万人・・、
  ナチス・ドイツ以上の極悪人だった。
  また、中国の毛沢東が、このスターリンを上回るとい
 う・・7000万人という信じられない数字がある・・
  真剣に防衛を考えなければ・・消えていくしかない・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive