(増補版)472E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年11月〜1888年12月)

題:(増補版)472E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年11月〜1888年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年11月20日、 「大阪毎日新聞」の発刊
  1876年(明治9年)創刊の「大阪日報」を、1888年(明
 治21年)「大阪毎日新聞」と改題した。
  大阪日報をあらため、大阪毎日新聞が創刊された。
  当初、東海散士主筆のもと、政治色の強い紙面を構成
 したがふるわず、しだいに穏和な論調に。
  1882年、筆禍対策の「身代り紙」として興された「日
 本立憲政党新聞」に事実上受け継がれた。
  1885年、「大阪日報」に題号を戻し、いったん休刊の
 後、
  1888年11月、大阪実業界の支援により「大阪毎日新聞
 として再発足した。
1888年11月26日、大隈重信(黒田内閣外相)が、大審院
 国人判事任用の条約改正案を、この日、ドイツ公使に手
 渡し、以後、各国公使にも手渡す。
  大隈は、薩摩藩出身の第2代内閣総理大臣黒田清隆に、
 条約改正を任されるという体制にあった。
  大隈は、井上のような国際会議方式は日本にとって不
 利であるという認識に立って、
  列国間の利害の対立を利用する個別交渉の方針を採用
 した。
  それにより、1888年11月30日に、駐米公使兼駐メキシ
 コ公使の陸奥宗光が、メキシコとの間に日墨修好通商条
 約を締結することに成功した。
  これは、アジア以外の国とは初めての完全な対等条約
 であった。
  これにより、メキシコ合衆国国民は、日本の法権に服
 することを条件に、内地開放の特権が与えられた。
  陸奥は、この後、すぐにアメリカとの交渉に乗り出し
 た。
  この時は、調印に至らなかったが・・、
  以後の流れは・・アメリカと新条約を調印。
  ドイツ・ロシアとも調印(発効せず)
  イギリス誌「タイムズ」が大審院に外国人判事を任用
 する大隈草案を掲載した(1889年)
  この後、日本国内で違憲論が起きた。
  そして、大隈遭難事件が起きる(大隈外相が、玄洋社
 の前社員の爆弾テロで負傷した)
  条約改正交渉は中止となる。
1888年11月26日、枢密院が、衆議院議員選挙法の審議を開
 始した。
  1888年4月に、憲法草案を審議するために枢密院が設け
 られたが、枢密院は、天皇陛下の最高顧問機関だった。
  条約改正交渉で、伊藤首相の退任を要求する声が高く
 なり、伊藤博文は枢密院議長に転出した。
  そして、黒田清隆が首相に就いた。
  そして、この年・1888年6月〜翌年・1889年1月まで、
 枢密院での審議が行われて、大日本帝国憲法と、その付
 属法、及び、皇室典範が決められた。
1888年11月26日、東京(築地)に、海軍大学校が開校された。
  日本海軍の上級将校教育機関
  今・現在、海上自衛隊には、海上自衛隊幹部学校があ
 り、これに相当する。
  1888年7月14日、勅令第55号により海軍大学校官制が
 制定され、
  1888年8月28日、東京・築地旧海軍兵学校生徒館に開校。
  初代校長は、海軍省軍務局長井上良馨が兼任し、
  1888年11月26日、授業が開始された。
1888年11月30日、日墨修好通商条約(にちぼくしゅうこう
 つうしょうじょうやく)
  条約改正後、最初の締約である日本・メキシコ間に対
 等条約が成立した。
  はじめての対等の通商条約で、治外法権が無く、関税
 自主権のある、平等条約であり、メキシコにとっては、
 アジアの国と初めて締結した条約であった
  ワシントン在勤の日本全権陸奥宗光と、駐米メキシコ
 公使ロメロとの間で協議された(大隈重信外相)。
  この頃、大隈外相は、大審院に外国人判事を登庸する
 などを骨子とする新通商条約案を各国公使に通告した。
  この頃は、安政の五カ国条約として、アメリカ(日米
 修好通商条約)、オランダ(日蘭修好通商条約)、ロシ
 ア(日露修好通商条約)、イギリス(日英修好通商条約)、
 フランス(日仏修好通商条約)と不平等条約の状態にあ
 り、李氏朝鮮とは逆不平等条約(日朝修好条規、日本が
 有利)を結んでいて、
  平等条約は、清と結んでいる日清修好条規のみだった。
1888年11月、初の少年雑誌「少年園」が創刊した。
  最初の本格的児童雑誌といわれている。
  文部省で教科書作成にあたった山県悌三郎を主筆に、
 教育・啓蒙を発刊の主旨とした。
1888年12月2日、東京人造肥料会社が、過燐酸石灰肥料の生
 産を開始した。
  1887年4月 高峰譲吉博士が、イギリス留学中に化学肥
 料製造工場を見学した内容を日本に紹介した。
  これを受けて、渋沢栄一(第一銀行創業者)、益田孝
 (当時の三井財閥有力関係者)など当時の財界の首脳が
 発起人となって前身である東京人造肥料会社を設立した。
  別史料:1887年2月、東京人造肥料会社(のちの東京人
 造肥料株式会社)設立 (日産化学ホームページ)
  別史料:1887年2月、東京人造肥料株式会社の設立準備
 会が発足し、社長に渋沢栄一、技師長兼製造部長に高峰
 譲吉の就任が内定する。
  1887年3月、高峰は、農商務省に在籍したまま人造肥料
 製造機械及び原材料買い付けのため欧米に出張する。
  1887年11月、高峰が帰国し、
  1887年12月、東京人造肥料株式会社が正式に設立され、
  1888年9月から本格的な製造が開始された。
  因みに、同社は、日産化学工業株式会社として現在に
 至っている。
  (参考)に、高峰は、1888年3月、5年間、勤務した農
 商務省を退職し、研究者県起業化としての道を本格的に
 歩むことになる。
  渋沢は、「元来は学者であるけれども、一面において
 事業を処理していく才能を持っている」と、高峰の企業
 家としての能力を高く評価した。
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  (今日の言葉)
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  題:熱烈なキリスト教信徒だった「 ルーズベルトの評価 」
    その行動は、大きくキリスト教的考え方に影響されていた。
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1945年4月12日、ルーズベルト大統領が亡くなった。
  ルーズベルトは、アメリカでも、「戦争を引き起こし
 た張本人」と描く書籍が、今でも、毎年の様に書店に並
 ぶ。
  また、ルーズベルトが、脳出血で倒れ、結局、これが
 原因で亡くなるのだが、
  この時、ルーズベルトの傍らには、ずーっと、愛人が
 いた。
  この事は、20年間、アメリカでは秘密にされた。
  妻への連絡も遅れるという異常な状態だった。
  ルーズベルトは、1945年4月12日、午後1時15分、倒れ、
 その日の午後3時35分に、こと切れた。
  63歳だった。
  約10時間の後、ソ連アメリカ大使館に伝えられ、
  ソ連アメリカ大使は、ソ連側へ緊急電話を入れ、そ
 の事情を伝え、スターリンへの会見を申し込んだ。
  その7時間後、クレムリンを訪れたアメリカ大使に会う
 と、スターリンは、自ら出迎える態度を示し、
  わざわざドアまで足を運び、アメリカ大使を驚かせた。
  スターリンは、悲嘆にくれた表情で、アメリカ大使の
 手を30秒以上も握りしめ、お悔やみの言葉も早々にして、
 スターリンは言った・・、
  「新大統領の下でも、アメリカの政策は変わらないの
 でしょうね、私は変わらないと信じる」・・と。
  政策とは・・、ヤルタ合意の事であって・・、
  スターリンが、ルーズベルト大統領から言われている、
 「日ソ中立条約を破棄して、日本へ戦端を開き、日本の
 領土を取る」と促され、そそのかされたことなどの事だ
 った。
  アメリカは、そのソ連の行動を認めるという事だった。
  スターリンは、繰り返し、繰り返し、そのことを確か
 めたのだった。、

1945年4月12日、ルーズベルトは、アメリカのジョージア州
 の静養地で死に至る脳出血に倒れた。
  愛人のラサフォードが付き添っていた。
  妻のエレノアは、大分、時間が経った、その日の深夜
 になって、やっと、そのことを知った。
  エレノアは、従姉妹(いとこ)のローラとは中が悪か
 った。、
  エレノアは、その中の悪い従姉妹のローラに、ルーズ
 ベルトが倒れた時の様子を聞いた。
  ローラは、復讐の意味を込めて、エレノアに、愛人の
 存在を告げた。
  エレノアは表情一つ変えなかった。
  しかし、エレノアの長女・アンナは、父親と愛人の関
 係を、すでに、知っていて、その事もこの時、同時に知
 ったのだが、エレノアは、この長女に裏切られた方に、
 大きなショックを受けた。
  ルーズベルトと言うと「ニューデール政策」が有名だ
 が、この政策の柱になった失業者入植運動「アーサーデ
 ール」は、エレノアの発案だった。
  妻のアイデアを、ルーズベルトは拝借したのだった。
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  そして、次の話・・
  追い詰められた日本、2ヶ月後に、日本は降伏するが・・
  日本は、その様に追い詰められている日本であったが・・
  アメリカ兵を丁寧に葬るという日本だった。
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1945年6月12日、静岡空襲、その時の犠牲のアメリカ兵を弔
 う日本人。
  アメリカが、国際法違反の一般市民をターゲットにし
 た。
  静岡市民をターゲットにしての空襲を行なった。
  日本は、真珠湾攻撃の時、一人も、アメリカ国民の
 方々(アメリカ市民)への攻撃や空襲を行っていない。
 殺していない。
  しかし、このアメリカは、本当に、無制限に、日本の
 一般市民を攻撃し、殺戮し続けた。
  この静岡空襲の時、アメリカのB29爆撃機が、静岡上
 空で衝突事故を自軍機同士で起こし、墜落した。
  静岡の優しい日本の国民の方々は、この事故の墜落で
 亡くなったアメリカ兵を賎機山(しずはたやま)に葬り、
 慰霊碑を建立し、1972年(昭和47年)から、毎年、その
 アメリカ兵の霊を慰める慰霊祭を開催している。
  今では、アメリカ軍も参列している。
  また、よく嘘を付くルーズベルトが、「真珠湾攻撃
 『奇襲』だと嘘を言った」が・・、
  (因みに、ルーズベルトの言葉に、『嘘をついたって
 いいのだ』という言葉がある)
  この事も、おとなしい日本人は、静かにしている。
  奇襲ではない。
  アメリカ国民の方々は、今でも真実が知らされていな
 いで、「真珠湾攻撃は、奇襲だった」と信じている。
  ルーズベルトプロパガンダ(嘘宣伝)だと知らない。
  この逆に、日本が、プロパガンダを言うことはない。
  (参考):
  静岡大空襲は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)
 6月19日深夜から20日未明にかけて、アメリカ軍のB-29
 爆撃機137機により旧静岡市(現在の静岡市葵区駿河区
 の市街地が受けた空襲。
  マリアナ諸島から飛び発ったアメリカ軍第314航空団の
 空の超要塞と名付けられたB-29大型戦略爆撃機137機は、
 伊豆半島波勝崎付近から本土上空に侵入、伊豆半島上空
 を北上し、富士山手前上空で旋回し静岡市上空に向かう
 が、一旦静岡市街上空を通過し、御前崎上空から再び静
 岡市街上空へと向かった。
  3時間余りの爆撃で投下された焼夷弾は13,211発、被害
 は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数26,891戸
 に上った。
  この静岡大空襲を含め、旧静岡市は1944年(昭和19年
 暮れから終戦迄に合計26回の空襲を受けている。
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  そして、次の (今日の言葉)
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  題:アメリカは、世界を繰る・・
    そして、NHKも「フィクションだ」「作り話だ」「嘘話だ」と言い訳をして、繰る・・
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1909年、リーという中国系の男に繰られるアメリカ、そし
 て、そのアメリカが、世界を繰る。
  この年、アメリカ社会に恐怖を与える本が出版された。
  この本を書いた男が、ホーマー・リー。
  この男は、アメリカのコロラド州に生まれた作家・冒
 険家・戦略家。
  ロサンゼルスの中国人社会やチャイナタウンで影響を
 受けた。
  ルーズベルト政権支援の中国貿易の代表にもなった。
  (ルーズベルトは、「私の先祖は、中国貿易に従事し
 ていて、私は、中国人に親しみがある」と言い、
  「そんな私が、日本をやっつけようというスティムソ
 ンの提案に同意しないわけがない」と発言していること
 を想起させる)。
  リーは、中国要人が、軍資金が欲しいとアメリカに来
 ると仲介し、便宜を図る事もした。
  中国の孫文の側近として居たこともある人物。
  そして、この男=リーは・・、
  アメリカが、移民した日本人を虐(しいた)げている
 時・・、変な空想小説を書いた。
  (そして、アメリカは、1924年に至り、排日移民法
 つくり、日本人移民を排除している)
  その本は、「アジア系民族によって滅ぼされるイギリ
 ス」についての空想をデッチアゲた小説をだった。
  日本人へ向けられたアメリカにおける日本人への蔑視
 と虐待があった。
  この様なアメリカの風潮を煽った小説だった。
  しかし、リーは、自分さえ儲かればよいと、書いては
 いけない事まで書いたのが「この本だった」(中国工作
 員だったらしい?)。
  だが、しかし、この男=ホーマー・リーは、この本の
 他にも、1909年にも、日本を貶(おとし)める本を書い
 ていた。
  この本は、ベストセラーとなり、大変、儲けたリーは、
 味を占めた。
  同じことを、第二次世界大戦直前にもした。
  1909年の日露戦争後の時も、アメリカ社会に大きな影
 響を与えていた。
  リーは、第二次世界大戦の直前にも、この様な小説を
 書いた。
  本の題は、「無知の勇気」という。
  結論的に言うと、歴史的事実と何も関係ない作り話の
 本で、
  「日本が、フィリピン、ハワイを占領し、開戦の1ヶ月
 後には、アメリカのロサンゼルスに日本軍は上陸すると
 いう、とてつもなく強い日本軍を描き、
  10ヶ月以内には、ワシントンに向けて進撃して行く」
 という、桁ちがいの嘘話となっている。
  アメリカの方々を、「日本への恐怖に突き落とした」。
  その恐怖からベストセラーとなり、本を売ろうという
 魂胆が見える本だった。
  しかし、これは、こんな個人的な儲け話以上に、問題
 の社会現象を作り上げて行った、日本・・恐ろし。
  この事は、当然、ルーズベルトも知っている事だった。
  これと似た、社会を繰ろうという行為をNHKがやっ
 ている。
  巨大な放送媒体を使って、日本全国の茶の間に入って
 行くNHKが、「日本を、視聴者の方々を繰ろう」とし
 ている。
  気に入らない政権を倒そうとするし、
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教の「巧妙な
 る伝道行為」も多くしている。
  今・現在でも、ずーっと、キリスト教に偏するNHK
 は、社会を繰ろうと作り話を放送している。
  例えば1例、(読売新聞、2016年12月15日)でも報じ
 ていた。
  キリスト教に偏するNHKは、視聴率の良い日曜大河
 ドラマで、キリスト教の「巧妙なる伝道行為」を数多く
 行って来たが、歴史的事実などは無視してやって来たが、
  しかし、NHKは、『歴史的事実は尊重している』と
 言って来た。
  しかし、上記の読売新聞で、それまで言って来たNH
 Kの「論理は崩れた」。
  来年(2017年)放送予定のNHK・日曜大河ドラマ
 井伊直虎」の、「基本的根拠が崩れる新史料」が見つか
 った・・という、読売新聞の報道だった。
  今まで、時代考証を・・ドラマが、歴史的事実と違っ
 ていないというチェックの考証を・・
  東京大学などの権威ある学者に依頼して、
  「歴史的事実と違わないようにしています」という論
 理だった・・が、崩れてしまった。
  また、視聴者から、NHKに多く寄せられる「史実を
 無視しているではないか」というクレームや、
  「史実と違う」という指摘に対して、
  「時代考証をしっかりしています」と答えて来たNH
 Kだった。
  どうしても違ったという場合は、「ドラマを面白くす
 るために、脚本家が、その様にした」・・と、
  脚本家という「他へ、責任を転嫁」して来たNHKだ
 った。
  しかし、この「井伊直虎」の場合は、これからの・・
 直後の・・放送予定であり・・、
  新史料発見が、放送予定直前というということで、ニ
 ッチモサッチモ行かない時であり、
  しかし、この新史実は、根本的な差異であって、
  ドラマの根底が崩れる去るという大きな問題だった。
  従来、「女性と考えられてきた『井伊直虎』が、男性
 だった」というのである。
  女性と男性という、主人公がまったく違うという根本
 的な重大な差異なのである。
  根本的な違いによって、ドラマ全体の根底が、ひっく
 り返る大問題が、急浮上したのである。
  新しいこのドラマの公開は、1か月未満後に迫っている。
  この時の、NHKの説明は・・、
  「ドラマは、あくまでフィクション(作り話し、嘘話)
 ですから、影響はありません」・・と言った。
  あれほどNHKは、「NHK史観」で、時代を捻じ曲
 げ、キリスト教に有利な話をでっち上げ、
  キリスト教の「巧妙なる伝道行為」をしてきたNHK
 が、「史実ですから」と言ってきたNHKが、
  ここに来て・・「作り話ですから」と言った。
  視聴者の方々は・・今までのNHKの口から出まかせ
 の話に、史実と錯覚して来た。
  事実と錯覚して来た。
  視聴率の高いこのドラマを利用して、この様な事ばか
 りして来た。
  フィクション・作り話・嘘話なら、このドラマの放送
 開始と最後に・・、
  「このドラマはフィクションであり、作り話であり、
 史実に基づいて居りません」とはっきりと視聴者の方々
 へ知らせよ!
  事実ではありません!と、視聴者の方々へ知らせよ!
  NHKは、この他にも多くの問題を抱える問題放送局
 となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive