(増補版)335E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年3月〜1876年5月)

題:(増補版)335E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年3月〜1876年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1876年3月31日(明治9年)、私立銀行の誕生
  大蔵省が、三井銀行設立許可を東京府に指令した。
  私立銀行の始まり。
  そして、7月1日に三井銀行が開業した。
  三井グループの中核で日本最古の銀行。
  1872年(明治5年)、三井組は小野組と共同出資で三
 井小野組合銀行を設立した。
  1873年明治6年)に、その後身の第一国立銀行の創立
 に資金を出資した。
  1876年(明治9年)、日本初の私立銀行として三井銀行
 が開業した。
  まだ、日本銀行が出来てない時で、日本銀行創業前に
 は政府の「為替方御用」を拝命していた。
  因みに、1943年(昭和18年)に第一銀行と合併し、帝
 国銀行が発足した。
1876年3月、自由民権運動に弾圧が激しくなる(言論弾圧
  明治の自由主義運動において、福沢諭吉明六社系の
 啓蒙家による、ヨーロッパから紹介された自由・民権思
 想や、
  また、日本に既にあった自由民権思想の受け皿となる
 思想、
  例えば、「営業の自由を要求した国訴のような裁判闘
 争」、「百姓一揆」、「封建的支配を否定した世直し、
 「『天』の思想に基づく儒教の革新的解釈、天理教・金
 光教・丸山教などの民衆宗教で主張された神の前の人間
 平等観」など・・、
  ・・に基づいて、在野の旧士族と豪農、農民らが中心
 となって藩閥専制政治に反対した。
  そして、国会開設や憲法制定(立憲政体)、地租軽減、
 地方自治不平等条約撤廃・・という五大要求を掲げ、
 要求した。
  1874年(明治7年)の板垣退助らが、民撰議院設立の要
 求に始まり、国会期成同盟を中心に全国的に広まって行
 った。
  運動は、1880年1881年が高揚期で、
  1881年に、10年後の国会開設を約束する詔勅を引き出
 す事に成功した。
  自由党立憲改進党などの政党結成へと進んだ。
  しかし、政府の弾圧強化と運動内部の対立が起き、
  1882年の福島事件や、1884年加波山事件など、激化
 事件が相つぐなかで衰えて行った。
  しかし、国会開設が近づくと、旧自由党の星亨らは、
 1886年に、民権派の再結集を呼びかけ(大同団結運動)、
  1887年に、不平等条約の不十分な改正案反対を中心と
 する三大事件建白運動が起こり、全国から自由民権家が
 上京した。
  それに対し、政府は、保安条例を出して在京の民権派
 を東京から追放して、運動は鎮圧された。
  政府は、讒謗律(ざんぼうりつ)、新聞紙条例、出版条
 例改正(以上1875年)、集会条例(1880年)、集会条例
 改正追加(1882年)などで運動を弾圧した。
1876年3月、群馬商人が、初めて生糸をアメリカへ直輸出
 した。 
  新井領一郎(あらいりょういちろう)は、上野国勢多
 郡(現:群馬県桐生市)の農民であったが、
  明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目した兄の
 星野長太郎と連携して、日本製生糸の市場開拓のためニ
 ューヨークに渡った。
  直ちに顧客獲得に取り組み、日本初の生糸直輸出を実
 現した。
  有力絹織物業者などとの取引を通して、生糸輸出量の
 飛躍的拡大を図り、また、絶えず高い品質維持を目指し
 品質向上にも努めた。
  そのため、市場からの高い評価と信頼を勝ち取った。
  『ニューヨーク・タイムズ』紙は、「日米生糸貿易の
 創始者」と評した。
  また、やはり、群馬県の星野長太郎(ほしのちょうた
 ろう、実業家、政治家、衆議院議員)は、外国人居留地
 外商を介さず、日本初の日本人による生糸直輸出を実現
 した。
  産業組合結成などにも取り組み、明治期における日本
 製生糸の品質向上と、輸出の飛躍的拡大の先駆者である。
  星野は、群馬県初の日本人の手による民間洋式器械製
 糸所を開設したり、
  実弟をニューヨークへ派遣して、市場開拓・販路を確
 保するなどして生糸直輸出を実現した。
  また、生糸の品質改良を積極的に推進し、伝統的製法
 による改良座繰製糸の普及に努めたりもし、
  模範的製糸業者、また、生糸直輸出運動の指導者と名
 声を高めた。
  1904年(明治37年)に、衆議院議員となり、また、多
 くの公職も歴任し、全国を舞台に活躍し、生糸貿易と蚕
 糸業の発展に貢献した。
  製糸界の元勲ともいわれ、藍綬褒章も受章した。
1876年4月1日、男満20年を成年とする太政官布告
  太政官布告第41号:「自今満弐拾年ヲ以テ丁年ト相定
 候」が出された。
  芸術家の岡本太郎の母の岡本かの子の小説『秋の夜が
 たり』にも書かれたが、男20歳にして丁年(ていねん、
 成年)となり、徴兵対象者となり、大方が戦線へ出て行
 って仕舞ひ、その上まもなく戦死した・・云々と書かれ
 ている様に、男尊女卑からの男満20年を成年とするとい
 意味はもうとう少しもなかった。
  逆に、女性の方々を守った日本という形だった・・女
 性の方々には、銃後の守りを宜しくという考え方だった。
  古来から、日本は女性方を大切にする国柄だった。
  日本国民の総氏神とされる天照大神(あまてらすおお
 みかみ)が、天岩戸に神隠れして日本中が真っ暗になっ
 たという話があるが、
  天照大神を、大日女尊(おおひるめのみこと)、大日
 女(おおひめ)とする神社があるごとく女性とも考えら
 れている。
  大切な女性が隠れて日本中が真っ暗になったという話
 にもなっている。
1876年4月4日、樋口一葉が、裕福で幸せな時・・
  一葉の父則義は、第4大区7小区本郷6丁目5番屋敷(旧
 7小区扱所の置かれた浄土宗法真寺の境内、現文京区本郷
 5丁目26番地)の土地家屋を高橋小四郎から買取り、
  明治14年7月までの5年間を居住。
  (1872年生まれの一葉が4歳〜9歳の時で、一葉は、明
 治29年に24歳で没している)。
  一葉が、経済的に最も豊かな時代。
  宅地233坪、屋敷45坪。
  一葉の二階建てのこの建物は、大邸宅の回廊のように
 渡り廊下と縁側で結ばれている。
  二階の窓の障子を開けると、桜の大樹が築山の上に植
 えられている。
  一葉は晩年、幸せな時代を振り返り、その桜の木に因
 んで「桜木の宿」と名づけた。
  樋口家は、甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現:山梨県
 甲州市塩山)の長百姓で、祖父の八左衛門は、一葉が生
 まれる前年に没している。
  祖父は学問を好み、俳諧狂歌漢詩に親しんだ人物
 で、江戸の御家人・真下晩菘(専之丞)から江戸の情報
 を知り、横浜開港に際しては、生糸輸出の事業もしてい
 る。
  一葉は後に『にごりえ』で、八左衛門の教養や反骨精
 神を主人公お力の祖父に重ねて描いた。
  父の則義も農業より学問を好んだ。
  妻の多喜(一葉の母)との結婚を許されなかったため、
 駆け落ち同然で江戸に出た。
  則義は、蕃書調所勤番であった晩菘を頼って同所使用
 人となり、1867年(慶応3年)には同心株を買い、運良く
 幕府直参となり、明治維新後には下級役人として士族の
 身分を得て、東京府庁に勤めたが、
  1876年(明治9年)に免職。
  1877年(明治10年)には警視庁の雇となり、
  1880年明治13年)には、勤めのかたわら闇金融、土
 地家屋の売買に力を入れた。
  職権などで入手した情報などをもとに、不動産の売買・
 斡旋などを副業に生計を立てた。
  一葉の少女時代は、読書好きの子で、上野元黒門町
 私立青海学校の高等科第四級を首席で卒業した。
  しかし、母の考えから上級には進まなかった。
  父・則義は、娘の文才を見抜き、知人の和田重雄のも
 とで和歌を習わせた。
  1886年明治19年)、父の旧幕時代の知人である医師
 の遠田澄庵の紹介で、中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門
 した。
  ここで、和歌のほか千蔭流の書や古典文学を学び、
  源氏物語などの王朝文学が一葉の初期作品のモチーフ
 になった。
  萩の舎時代に、一葉は、親友の伊東夏子や田辺龍子と
 出会い、素養を積んでから、助手として講義も行った。
  萩の舎は、当時、公家や旧大名などの旧体制、明治政
 府の特権階級の政治家・軍人の夫人や令嬢らが通う歌塾
 だった。
  名家の令嬢であった田辺龍子(三宅花圃)は「思い出の
 人々」という自伝の中で、一葉を語っているが、この時、
 一葉15歳、龍子18歳で、
  後に2人は、萩の舎の二才媛と呼ばれた。
1876年4月、政府が、品川硝子製造所を開設した。
  近代ガラス工業の礎となった品川硝子製造所。
  1873年に、品川興業社・硝子製造所が開設されたこと
 に始まる。
  太政大臣三条実美の家令(かれい、事務・会計を管
 理し、使用人の監督にあたった人)だった村井三四之助
 は、三条実美の支援により、イギリスから設備を輸入す
 ると共に、トーマス・ウォルトンを招聘し、国内のガラ
 ス職人を採用した。
  しかし、ガラス器の製造は困難で、1876年に、政府に
 買い上げを願い出る。
  品川硝子製造所は、政府の殖産興業政策を受けて、1876
 年に、工部省が興業社を買い上げ、官営の「品川硝子製
 造所」となり、工場の拡大も図った。
  1879年に、英国人ガラス技術者ジェームス・スピード
 らを雇い入れ、板ガラスの製造を目指したものの、これ
 を達成することは技術的に困難だった。
1876年5月9日、上野公園開園式 (明治天皇臨幸)
  東京・上野公園の開園式が行われ、明治天皇陛下も御
 出席された。
  掛け茶屋が取り払われて精養軒・八百善ができ、不忍
 池畔が整備され、桜が植えられた。
  上野公園は博物館所轄となった。
  1873年明治6年)の太政官布告により日本初の公園に
 指定された。
  太政官布告第16号「三府ヲ始、人民輻輳ノ地ニシテ、
 古来ノ勝区名人ノ旧跡地等是迄群集遊覧ノ場所 東京ニ
 於テハ金龍山浅草寺、東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於
 テハ八坂社、清水ノ境内、嵐山ノ類、総テ社寺境内除地
 域ハ公有地ノ類、従前高外除地ニ属セル分ハ永ク万人偕
 楽ノ地トシ、公園ト可被相定ニ付、府県ニ於テ右所ヲ択
 ヒ、其景況巨細取調、図面相添ヘ大蔵省ヘ可伺出来」
  ・・と定め、旧社寺地等を接収し、公園としたのが国
 営造物公園の始まり。
  1875年に、上野の寛永寺本坊跡に博物館を開設する方
 針が内定すると、
  博物局は、一帯の整備に着手し、「上野公園貸地条例」
 を定めるとともに、道路の修築拡張、休憩所の修繕、公
 園事務所の設置などを行った。
  そして、公園の整備が一段落した1876年5月9日に、明
 治天皇・皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ、開園式が挙行され
 た。
1876年5月10日〜11月10日、アメリカ(フィラデルフィア
 万国博覧会に参加した。
  会場には、8万平方メートルの広大な面積を有する鋳鉄
 構造の本館と、木造の機械館があった。
  会場全体は、これらを含む7つの主要会場と日本館を含
 む250の各国館など、
  それまでに見ないほど多くのパビリオンが作られ、素
 晴らしい景観となって配置されていたが、本館などの建
 築は、開催直前まで完成せず、
  展示品も開催後に到着したものもあった。
  閉幕近くに、集客数は伸びたが、万博全体は大幅の赤
 字に終わった。
  日本の万国博参加は、1862年ロンドン万国博覧会
 では、日本を知る外国人の手により、日本の品々が紹介
 されて出品されていた。  
  1867年のパリ万国博覧会で、日本は初めて参加した。
  日本の品々が、日本人の手によって展示されたが、
  ここでは、幕府を中心に、薩摩藩佐賀藩、そして、
 民間の商人も加わって出品した。
  そして、1873年のウィーン万国博覧会においては、
  明治政府として、一体となった参加がおこなわれた。
  「ジャポニスムのパリにおける盛行を促した大きな動
 因として、1867年のパリ万国博と、それからほぼ10年を
 経て開催された1878年のパリ万国博への日本の参加があ
 った。
  そして、これら二つのパリ万国博覧会は、ジャポニス
 ムにとって重要な意味を持った。
  これらの万国博覧会の間に開催された万国博が、ウィ
 ーン万国博覧会フィラデルフィア万国博覧会であった。
  欧米の日本愛好家にとって注目に値する万国博覧会
 った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive