キリスト教国・フィリピン と 座談は、創造的である。

 題:キリスト教国・フィリピン と 座談は、創造的である。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 フィリピンは、キリスト教国。
 征服され、駆逐され、強烈に宗主国の宗教にさせられた。
 マインド・コントロールがなされた。
 大統領もキリスト教の大統領となった。
 そして、国の政策にもキリスト教の口出しがなされた。
 キリスト教の教義である「産児の制限をしてはならない」
が押しつけられた。
 このキリスト教の教義で『エイズ』が流行した。
 また、国は、人口増加して行った。
 そして、国は、人口増加に腐心した。
 人口増加と共に、『貧しい方達も増加する』という状況
だった。
 この様なマイナス面の多いキリスト教の教義から脱却し
たいが本音だった。
 そして、キリスト教の教義に押さえつけられていた『国
の基準』を、『変えなければならない』という結論に至っ
た。
 キリスト教会は、『エイズが流行』し、『国民の方々が
困っている惨状』を目のあたりにしているが、
 教義にこだわって、『人々の救済に道を閉ざす』という
ことをしていた。
 この様な、人々の救済活動に猛反対した。
 キリスト教の教義とはこの様なものだった。
 教義優先から、目の前の困っている方々を救わず、目を
閉じるどころか、救済処置に猛反対する始末だった。
 人々が幸せに暮らすという大前提が、キリスト教の教義
より勝るという事に気付かず、
 逆に、困った方々の足を引っ張る運動をしていた。
 そして、次の話。
 早稲田大学鶴見太郎教授は、『座談の思想』という本
を書かれた。
 この書評が、読売新聞の2014・1・5に載った。
 書評を書かれたのは、批評家の若松英輔氏である。
 「真実は書き記され得ない」というところがポイント。
 キリスト教の聖書に、キリスト教は、『すべてが書かれ
ている』と言うが、「いやいや、そんなもんじゃありませ
んよ」と、この本は言っている。
 確かに、キリスト教自体も「言葉はロゴス」と言ってい
る。
 そのロゴス、言葉にこそ神が居る・宿るのであるのなら
ば、ロゴスの言葉の中に神は居て、聖書の印刷された字面
には居ないのだろう。
 「真実は書き記され得ない所にある』。
 『鍵となる言葉は、むしろ著作ではなく、座談の中に隠
されている」と言う。
 だから、書かれた記録にだけ根拠を置く歴史観は疑問と
いう。
 そして、言う。
 書くのは理性の働きだが、座談には感情が生々しく現れ
るという。
 だから、感情の働きを見過ごした歴史は、剥製のような
作りものになっているという。
 これは、キリスト教聖書も同じ、キリスト教聖書も、作
りものの剥製の様なもので、そこには、イエスの真の感情
や伝えたいものは無い。
 そして言う。
 座談は、創造的であると、そして又、偶発的で生きてい
ると、座談は、他者と相まって、予測の出来ない展開へ進
んで行き、他者の言葉が契機となって、話者が、今まで何
を見て来たか、考えて来たかをより鮮明に自覚させ表出す
るという。
 驚くようなものが表出する事もある。
 座談に誠実さがあり、繰り返し繰り返し、繰り返されれ
ば、混迷を切り拓(ひら)く鍵が潜(ひそ)んでいるとい
う。
 そして、沈思がともに大切という。
 そして、「感情と内省、中野重治の誠実」が秀逸という。
 時代の困難に対して、いつも誠実をもって抗(こう)し
たこの人物の軌跡を、今、考える事の意味は大きいという。
 そして、「歴史に潜む誠実を見い出す事が出来るのは、
やはり現代の誠実なる精神だ」という言葉で結んでいる。
 つるみ・たろう
 =1965年、京都生まれ、。早稲田大教授。
 専門は日本近現代史。著書に「橋浦泰雄伝」など。
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