(増補版)640E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)

題:(増補版)640E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
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1896年3月1日、大隈重信が進歩党を結成した(~1898年6月
 20日
  この日、立憲改進党立憲革新党、大手倶楽部、帝国
 財政革新会、中国進歩党などが合同し・・
  立憲改進党などを中心にして、代議士99名で結成した。
  大隈重信が事実上の党首であったが、正式な役職には
 就かず、形式的には犬養毅尾崎行雄、大東義徹、柴四
 朗(東海散士)、長谷場純孝の5名の総務委員が代表者と
 なった。
  進歩主義に立つことを宣言し、責任内閣の完成と、国
 権の拡張、財政整理を掲げた。
  自由党に対抗して、小政党を合併して組織された政党
 だった。
  1896年9月に、第2次松方正義内閣に大隈重信が入閣し
 進歩党も与党となって、第10議会では金本位制確立のた
 めの貨幣法案を成立させた。
  1898年に、第三次伊藤内閣の成立後、自由党と合同し
 て憲政党に改組された。
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1896年3月1日、第一次エチオピア戦争: アドワの戦い
  イタリア軍エチオピア軍が、エチオピアのティグレ
 州アドワ近郊で戦ったが・・
  イタリアのエチオピア征討軍は、アドワで大敗した。
  イタリアの敗北が決定づけられた。
  19世紀のアフリカは「悲惨な世紀」だった。
  ヨーロッパ列強各国によって、いい様に殺戮され、植
 民地化された。
  アフリカの大部分は、ヨーロッパ列強の国々によって
 影も形も無い状態だった。
  アメリカの黒人の方々の棄民目的でリンカーンが造っ
 たアフリカの国=リベリアと、このエチオピアのみが独
 立国であった・・ほとんどの国々が植民地で、蹂躙され
 ていた。
  だが、植民地獲得の欲望が収まらないヨーロッパ各国。
  そして、このエチオピアへも侵略が行なわれた。
  エチオピア軍を率いたのは「メネリク2世」だった。
  イタリア軍は、補給に事欠く状況だったが、本国の命
 令でオレステ・バレティエ将軍は、1896年2月29日、進軍
 を命じた。
  この状況を察知していた優秀なエチオピア軍は、即座
 に全面攻撃を命じた。
  イタリア軍14,527名、エチオピア軍12万人・・エチオ
 ピア軍は、各地でイタリア軍を包囲した。
  イタリア軍が撤退をすれば、追撃をし続けた。
  イタリア軍は8,000名を失った・・また、エチオピア
 も1万名を失った。
  主力を欠いたイタリア軍は降伏をせざるを得ず、アジ
 スアベバ条約を締結して、エチオピアの当然の独立を承
 認した・・
  『白人の横暴な行為』が挫けた事例として燦然と輝く。
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1896年3月7日、沖縄県に県区制、郡区制が公布され、県下
 を首里区、那覇区と5郡で区分する。
  明治29年勅令第13号「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」に
 より・・、
  島尻郡中頭郡国頭郡宮古郡八重山郡の5郡を設
 置し、宮古八重山に島庁(島司)を置いた。
  また、「那覇市」の前身「那覇区」と、首里市の前身
 「首里区」を設置した。
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1896年3月7日、衆議院議員・立石岐ほか5人は、「鉄道敷設
 上本位軌道採用ニ関スル建議案」を提出した。
  また、市島謙吉ほか4人は、「広軌鉄道ニ関スル建議案」
 を議会に提出した。
  建議案は、特別委員に付託され、3月25日、本会議に
 修正案報告、同修正報告案賛成多数で可決された。
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1896年3月10日、参謀総長小松宮彰仁親王は、閣議決定
 みた台湾縦貫鉄道、ならびに、基隆築港測量費の10万円
 のうち約7万3000円を鉄道建設調査費として支出すること
 を台湾総督に通牒(つうちょう、書面で通知すること)
 した。
  この調査費によって、この年の6月までに、新竹・打狗
 間の予測が終了した。
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1896年3月11日、東海道線大阪駅~西ノ宮駅間が複線とし
 て開通した。
  1869年、政府は、東京~京都の両京を結ぶ鉄道を幹線
 と定め、重視して施策を進めた。
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1896年3月13日、奈良鉄道の玉水駅~木津駅間が開通した。
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1896年3月15日、日本郵船が、欧州定期航路を開設した。
  土佐丸が就航する。
   また、1896年10月には、豪州航路を開設した。
   2年間の激しい競争の末、日本郵船ボンベイ航路は、
  国際的に認められた。
  「近海の海運」から「遠洋への海運」へと事業は拡大
 して行った。
   続いて挑戦したのが・・「欧州航路」だった。
   1896年、日本郵船は、ロンドン支店を設置し、土佐丸
  をヨーロッパに向け出航させた。
   しかし、またしても、欧米の海運会社組織が、既得権
 を主張した。
  復路(東航)のロンドンと、往路(西航)の上海寄港
 を阻止してきた。
  この最大の貨物集積地に寄港できないことは、ビジネ
 ス上の大きなマイナスだった。
  しかし、その相手を刺激すれば、ビジネスそのものが
 できなくなる状況だった。
  屈辱的な条件のもとで、運航を続けた。
  その様な運行状況ながらも、日本郵船は、船隊の拡充
 を進めて行った。
  信濃丸を含む13隻が揃った。
  総トン数で欧州海運会社に匹敵する体制ができあがっ
 て行った。
  この様な立派な体制になっては、対抗相手側も無視で
 きず、日本の海運を対等の競争相手と認めざるを得なか
 った。
  1902年、日本郵船は、欧州極東往航同盟への正式加入
  を果たした・・
  これを契機にして、海外への航路網を飛躍的に伸ばし
 て行った。
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1896年3月16日、陸軍が、6個師団の増設を決定した。
  1871年に、明治政府は、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮
 台、東北鎮台の4鎮台を設置した。
  そして、1873年、2鎮台を増設して、東京鎮台、大阪鎮
 台、名古屋鎮台、広島鎮台、熊本鎮台(旧:鎮西鎮台)、
 仙台鎮台(旧:東北鎮台)の6鎮台を設置した。
  そして、1896年から、軍備拡張によって師団が増設さ
 れ・・、
  明治末には、国内の師団数は18となった。
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1896年3月16日、朝鮮の大院君一派の人々が逮捕された。
  漢城府観察使の金経夏や呂圭亨など数十名が逮捕され
 裁判へ
  1896年2月11日、李氏朝鮮の第26代王・高宗が、ロシア
 公使館へ騙(だま)され、脅されて、逃げ込んで、親露
 政権が作られだが、そして、その結果、ロシアは種々の
 利権を獲得していくが・・
  そして、この日、親日派だとして金允植が流刑にされ
 たり、親日派が殺されたりした。
  この様な状況に怒った民衆が暴動などを起こしたり(
 1896年2月18日)・・
  1896年2月22日、李範晋が、法部大臣兼警務使となり、
 大院君派の粛清を開始した。
  朝鮮国内は荒れていた・・そして、この日、高宗と対
 峙する大院君派が逮捕された。
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1896年3月22日、「生物始源、一名:種源論」立花銑三郎訳、
 経済雑誌社、
  立花銑三郎が、ダーウィンの著作を「生物始源(一名
 種源論)」という題で日本初翻訳をした。
  1000ページを超える大著だった。
  この時、28歳の銑三郎は、学習院嘱託教授であった。
  ちなみに、銑三郎は、夏目漱石の大学予備門時代から
 の同級生だった。
  銑三郎は、1900年、35歳で早世するが、漱石は、1909
 年に発表した中篇「満韓ところどころ」のなかで、銑三
 郎を親しげに「銑さん銑さん」と呼んでいたことを回想
 している。
  銑三郎と夏目漱石は、行く時期はずれたが、共に、ド
 イツとイギリスへ留学している・・
  そして、その翌年の1900年に、遅れて来た夏目漱石
 対面した。
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  (今日の言葉)
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  題:日本人の一般国民も、多数、拉致され、シベリアへ連れて行かれていた。
    シベリア抑留者は、拉致され、監禁された。
    その実態は、非人道的な足枷(あしかせ)をされている監禁の状態だった。
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紀元前5万年以上、原人:「ホモ・ルゾネンシス」がフィリ
 ピンで発見される。
  2018年4月11日の読売新聞に・・新「原人」化石、フィ
 リピンに。アジアで5番目・・と報道されていた・・
  以下、その記事の抜粋・・
  フィリピン・ルソン島で、新種の人類の化石が見つか
 ったと、フランスとフィリピンなどの研究チームが発表
 した。
  同島に5万年以上前に生存していた原人とみられる。
  (参考)原人:人類の進化は5段階(初期の猿人、猿人、
     原人、旧人、現生人類)に大別され、その3段階
     目にあたる。
      猿人とは違い、アフリカからユーラシア大陸
     に進出した。
      猿人より脳が増大し、顎や歯が縮小した。
  アジアで発見された第5の原人となり、同チームは「東
 南アジアの島々における人類の進化の複雑さなどを示す
 発見だ」としている。
  論文が11日、英科学誌ネイチャーに掲載される。
  化石が見つかったのは、同島北部のカラオ洞窟。
  歯や手足の骨の化石で、分析した結果、猿人の様な原
 始的な特徴と30万年~20万年前に誕生した現生人類(ホ
 モ・サピエンス〉などに似た特徴が混在し、同時代にア
 ジアにいた他の原人と異なっていた。
  同チームは新種と判断し、「ホモ・ルゾネンシス」と
 命名した。
  化石の年代測定から、5万年以上前に同島にいたとみら
 れる。
  アジアの原人は、中国の北京原人インドネシアのジ
 ャワ原人とフローレス原人、中国の和県人(わけんじん)、
 台湾の澎湖人(ほうこじん)が過去に見つかっていた。
  ホモ・ルゾネンシスの臼歯は極端に小さく、海部陽介
 国立科学博物館人類史研究グループ長は・・身長1メート
 ルあまりのフローレス原人のように「小型化していた可
 能性がうかがえる」と指摘。
  「アジアの島々では非常に独特は進化が起きており、
 他の島でも新種が見つかる可能性がある」と話す。
  ・・以上・・
 (関連事項):
  以上の話の中に、日本の先住民として、アイヌの根拠
 となる話はまったく出て来ない・・また、想像も、まっ
 たくできない。
  それは、アイヌは、それよりズーット後の世の1300年
 代にできたことが科学的に判明していて、分かっている
 からで・・
  アイヌは、まったく先住民ではない・・
  その様なことが分かっていながら、今、日本では、ま
 ったく異常な、非科学的な、また、まったく根拠のない
 「アイヌが日本の先住民族だ」という政治的決議がなさ
 れようとしている。
  今回の地方選で演説していた立憲民主党の女性議員と
 話し合ったが・・
  その論理に、まったく科学的な根拠がなく、ただ政治
 的な動きで「先住民としようとしていることが、はっき
 りわかった」。
  その議員が、「北海道でアイヌは先住民として生きて
 来た」と主張したので・・
  「北海道には、アイヌの人たちより何万年も前から縄
 文人の人たちが居たのですよ。縄文遺跡もいっぱいあり
 ますよ」と教えてあげた。
  「アイヌは日本人なんです」と主張したので・・
  「そうです。しかし、樺太アイヌは日本人ではあり
 ません」と答えた・・
  「私は人類学をやって来た」と主張したので・・
  「そんな看板で話はしないでください」と言った。
  「国連が決めているから」と主張したので・・
  「国連が間違ったことを決める訳がない。国連が間違
 っているのなら、国連に科学的に正しいことを教えてや
 ってください」と伝えた・・
  「アイヌの言語が独特だ」と主張するから・・
  「言語が独特というなら、1例として中米のインディオ
 の方々には160もの言語があるのです。160もの先住民が
 居るという事ですか?」と・・返事が出来ない、答えら
 れない。
  「北海道にはアイヌの地名が一杯ある」と主張するの
 で・・
  「アイヌの地名なら九州にだってあるんですよ」と説
 明する。
  「学者・専門家に言って下さい」と主張するので・・
  「学者にも言っています。今は、間違っている政治家
 のあなたに間違いを説明しているのです」と言った。
  などなど・・最後は、応援演説をしたいのでと言って
 逃げた。
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1836年、合衆国第二銀行の期限が来る・・アメリカの運命
 を決める中央銀行の期限が来る・・
  アメリカに中央銀行を作らせ、この通貨発行権を握ろ
 うと暗躍するイギリスのロスチャイルド家
  そのアメリカの中央銀行を民間銀行として、その株式
 を牛耳ろうとするやり方自体も異常である。
  アメリカの通貨である「米ドル」を発行する銀行を民
 間銀行とするというのも異常であるが、この株式をロス
 チャイルドが牛耳ってしまおうというのも異常である。
  これによって、ロスチャイルド家には、自動的に金が
 転がり込んでくる。
  アメリカは抵抗するが、中央銀行は出来てしまう。
  その最初の合衆国第一銀行も期限が来て閉じられたが・・、
 また、色々な工作が行われて合衆国第二銀行が出来る。
  そして、その合衆国第二銀行も20年の期限が、この年・
 1836年に来た。
  アメリカ大統領のジャクソンは、その期限の来る少し
 前の1832年に、「更新はしない」と、合衆国第二銀行の
 存続の更新を否定した。
  アメリカ国内は、上や下への大激論、激しい攻防が繰
 り広げられた。
  ジャクソン大統領は、頑強に反対し、抵抗し、妥協も
 しなかった。
  そして、期限切れを迎えた。
  合衆国第二銀行は終了し、閉じられた。
  ジャクソン大統領は、暗殺のターゲットになった。
  そして、狙撃された。
  幸い不発だったため、命は助かった。
  中央銀行に反対したので狙われたと言われた。
  中央銀行が無いので、一般の銀行が銀行券を発行して
 流通させた。
  銀行券は何種類も出回った。
  金融を支配する通貨発行権を手に入れたいロスチャイ
 ルド家の目的は、達成されないままとなった。
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1861年4月12日、南北戦争が始まった(~1865年5月9日)
  アメリカの南北戦争の勃発の理由について、イギリス
 のユダヤ系列の首相のディズレーリは言った・・、
  「何故、アメリカを二分する必要があったかというと、
 イギリスのコントロールが効かなくなったアメリカを発
 展させないためだ」・・と・・
  イギリスが、アメリカを二分しようと計画していたと
 いうこの発言を裏付ける話は明らかに色々ある。
  また、因みに、アメリカの南北戦争アメリ北軍
 トップであるリンカーン大統領は、「奴隷解放の父」と
 讃美されているがまったくの嘘で「でっち上げ」。
  後から付け足されたもの。
  「奴隷解放」は・・北軍の「戦争の大義」としてでっ
 ち上げられたものだった。
  リンカーンは、はっきり「私は奴隷制度を廃止しよう
 と思っていない」と言っている。
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1865年4月15日、リンカーン大統領が暗殺される。
  (参考)その直ぐ後の1865年5月9日、南北戦争は終わ
     る。
  南北戦争の時、リンカーン大統領は、戦費の調達に困
 った。
  ロスチャイルドなどの銀行家から資金を借りようとし
 た。
  しかし、ロスチャイルドは、非常に高い利率の利息を
 要求した。
  ロスチャイルドは、24%~36%とひっくりするほどの
 高い利子をリンカーンに要求した。
  リンカーンは、借り入れを断念した。
  ここで、リンカーンは、とんでもないことをした。
  リンカーンは、自分で金を刷ることにした。
  アメリカ政府の信用で、独自紙幣を発行した。
  「グリーンバックス」と言われるアメリ財務省の法
 定通貨だった。
  紙幣の裏を緑色に印刷したので「グリーンバックス」
 と呼ばれた。
  アメリカの最初の法定通貨だった。
  輪転機を動かせば、いくらでも、どんどん金が刷れた。
  戦費を賄(まかな)うのは簡単だった。
  リンカーンは、「打出の小槌(うちでのこづち)」を
 手に入れた。
  イギリスのロスチャイルドらの銀行家は、南軍にも北
 軍にも金を貸して、大儲けしようとしていたが、その目
 論見は「完全に外れた」。
  イギリスの銀行家は、リンカーンを倒したいと思った。
  また、この様な行為を許していたら、アメリカの通貨
 発行権を握ってアメリカを支配するという戦略が崩壊し
 てしまう。
  そして、アメリカが、独自通貨をいくらでも発行する
 ということは、その先にアメリカの繁栄がある。
  イギリスに対抗する国家が出現してしまう。
  イギリスの脅威となってしまう。
  当時のイギリスの「タイムス」紙が社説で報じた・・
  「アメリカの法定通貨が、コストをかけずに供給され
 ている」
  「コストをかけずに通貨を供給できるということは、
 通貨発行銀行である民間の中央銀行に、利子を支払う必
 要が無い」
  「もし、アメリカに起源を持つあの有害な法定通貨
 策が定着してしまえば、アメリカ政府は通貨をコストを
 かけずに供給することになる。そうなると、アメリカ政
 府は債務を完済し、債務のない政府になる。
  アメリカ政府は、商業活動上、必要なすべての通貨を
 所有することになり、文明国の中で史上類のない繁栄を
 謳歌することになる。
  すべての国の人材も富もアメリカ合衆国へ移動してし
 まう」
  「アメリカ政府は打倒されるべきである。
  さもなければ、アメリカ政府は地上のすべての君主国
 を破壊するだろう」・・と。
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1895年、韓国・朝鮮が、それまでの「慕華思想」から「慕
 和思想」に転換した。
  崔基鎬教授は、自著で書く・・
  「1895年、日清戦争終結と同時に、韓国では、それ
 までの500年に渡る慕華思想(中国に対する敬慕)から
 一転して、慕和思想(日本に対する敬慕)に転換した。
  それが、1945年からは、慕華でもなく慕和でもなく、
 他人を尊重する心を見い出す事も至難になった・・と。
  (参考)崔基鎬:チェケイホ、1923年生まれ。
      明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大
      学院教授を経て、加耶大学客員教授
       民間レベルでの日韓関係改善に努め、サハ
      リン在住韓国人の本国往来問題、原爆被爆
      の治療援助、在日韓国人の法的地位向上のた
      めに尽力。
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1899年、アメリカの門戸開放宣言
  アメリカの国務長官ヘイによって提唱された外交政策
  中国の領土保全と門戸開放、商業上の機会均等を主張
 したもので、遅れて登場したアメリカが列強の帝国主義
 競争への割り込みを意図したものだった。
  このアメリカには、一貫した方針が、ズーットあった。
  自国の領土の拡大である。
  アメリカ・インディアンの方々の地であるアメリカ大
 陸の奪取に引き続き・・太平洋の島々を奪い・・フィリ
 ピンを奪った。
  しかし、アメリカが、アジアに到達したときは遅すぎ
 た。
  イギリスが、もう堂々とそのほとんどを植民地とし、
 インドからシンガポールへ至り、また、香港へ至り、中
 国各地に利権を確立させていた。
  ロシアはシベリアに達して、北から中国へ至っていた。
  また、フランスもすでに南から中国へ至り・・もはや
 出遅れているとアメリカは思った。
  そこで発したのが、この中国の門戸開放宣言だった。
  これは、「俺にも美味しい分け前をよこせ」だった。
  日本とロシアがぶつかった日露戦争において、アメリ
 カは日本を応援した。
  これは、ロシアが退くことがアメリカにとって都合が
 良かった。
  だから、日露戦争が、日本の勝利で終わると、アメリ
 カは手のひらを返したように、今度は、日本と対抗する
 ような態度になった。
  ここが始まりとして、日本はアメリカと戦争をするよ
 うにされて行く。
  だから、アメリカは、日本と対抗することを前提とし
 て行動を続けて行った。
  日本はぎりぎりまで戦争回避に努めた。
  しかし、アメリカは、日本を追い込む手を緩めなかっ
 た。
  アメリカは、日本との開戦への路線をひた走った。
  アメリカは、中国の上海から中国浸透を企てた。
  キリスト教宣教師を利用する手をこうじた。
  中国での利益確保の先兵としてキリスト教を利用した。
  中国人留学生向けの予備校を作った。
  「精華学園」と言った。
  それと共に「日貨排斥(日本商品ボイコット)」を支
 援して、日本の貶(おとし)めと排斥行為を燃え上がら
 せた。
  キリスト教宣教師は、反日のスパイとして行動した。
  また、蒋介石の国民政府の手先となった。
  でたらめ情報のプロパガンダを盛んにした。
  これは、戦後の東京裁判までも影響するほどの嘘宣伝
 工作だった。
  アメリカは、満州の権益を欲しがった。
  この時、特に、日本が居る事を邪魔だと感じるアメリ
 カだった。
  アメリカは、日本排除へ武力行使を始めた。
  フィリピンやグアムを軍事拠点として、イギリスやオ
 ーストラリア、オランダと一緒になって南太平洋を取り
 囲むように、日本を包囲し、締め付け、また、攻撃態勢
 を作った。
  アメリカは、日本に対して威嚇的になった・・また、
 強圧的になった。
  日本が先に手を出したように見せかけの中で、実際は、
 陰で隠れてアメリカが先に武力行使をしていた。
  アメリカが、真珠湾攻撃前に日本を攻撃している事実
 は、今時点では確定されている真実である。
  「あれはボランティアだ」と言い訳するが、大統領の
 命令書があることが確認されている(アメリカ公文書
 にその書類がある)
  この様に、アメリカは挑発行為を行った。
  中国から日本への大爆撃まで計画していた。
.
1910年8月29日、日韓併合
  「韓国併合に関する条約」が日本と大韓帝国との間で
 調印がなされた。
  この条約は、日本が求めてなされたのではない。
  イギリス・アメリカ・ロシアなどから、「韓国は独立
 してやって行けない。日本が統治した方が良い」と薦め
 られた。
  植民地ではない。
  日本が保護し統治しなければ「駄目な国と国際的に見
 られていた」。
  その様な経済レベルの国だった。
  また、社会資本もまったく整備されてない国だった。
  日本は、膨大な資金を投資して、朝鮮・韓国の「国造
 りをしていく」。
  その恩ある日本に対して、韓国は、今になって御礼を
 言うどころか、恩ある日本を貶める行為をしている。
  この様な態度が取られるのであるなら「併合という形
 ではなく、ただの保護国という形にしておけば良かった」
 と言える。
  必死に日本の資金を投入して、日本並みの国にして上
 げようという奉仕をしなければ良かったと思う。
  良い国になりたいなら「自分たちで努力しなさい」と
 いう立場で居た方が良かった。
  「ただ、軍事的には守ってやりますよ」で充分だった。
  その他の事は、何もしなけれは良かった。
  沢山の金を投入して「教育環境を整えたり」「農地を
 調整して食糧増産をしたり」「裁判制度などの社会基盤
 を充実させたり」「鉄道や道路の建設を一生懸命にやっ
 たり」「帝国大学や小学校などを、沢山、造ったり」、
 色々、手を尽くしてやったが、何の有り難みも感じない
 国・・そんなことをしてやる様な相手国ではなかった。
  この様に感謝もしない国には、今後、何もしてやる必
 要はない。
  挙げ句の果てに、日本の領土の「竹島」まで盗ってし
 まった。
  国際司法裁判所で話し合いましょうと言っても、「韓
 国は敗ける」と分かっているから、その話に応じようと
 もしない卑怯な態度をとっている。
  日本領の竹島の不法侵犯をしている。
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1920年代、アメリカは、民主主義国家だは、作られた幻想。
  「アメリカは、民主主義の国だ」は、作られた幻想で、
 洗脳された思い込みだ。
  「金」と「情報」を使って操作されている・・この様
 な事は、1920年代に、リップマンやバーネイズは、「ア
 メリカの民主主義の幻想」に気付いていて、「錯覚の世
 界に生きていて、それに洗脳されている」と見抜いてい
 た。
  それから、世論操作をし始めた。
  今・現代、中国が、盛んに金を使って情報操作をして
 いる。
  アメリカを初めて明確に「民主政の国」であるとした
 のはアレクシス・ド・トクビルだった。
  また、「アメリカの支配勢力が、民主主義を用いて人々
 を支配し、利用するために使っている」とも言われてい
 る。
  また、「民主主義の革命的技法」を使えば「合意ので
 っちあげ」ができる、とリップマンは主張した。
  「宣伝工作技術を駆使すれば、人々が本来望んでいな
 かったことについても、同意を取り付けられる」という
 意味の事を言った。
  リップマンは言う・・第一の市民階級は、専門知識を
 持つ特別階級で、政治・経済、イデオロギーのシステム
 における諸問題の分析、実行、意思決定、管理を行う。
  これらの人々は人口のごく一部でしかない・・しかし・・
  この特別階級から漏れた人々・・すなわち人口の大部
 分を構成する多くの人たちは、「とまどえる群れ」(戸
 惑う人たち)と称した。
  この様な人たちが、「大多数の意見を構成する」。
  リップマンは、この人たちを「観客」になるが、行動
 には参加しないと説明した。
  選挙に於いて、観客は、一旦、誰かを支持し、そして、
 後はまた観客に戻って傍観する・・と・・
  だから・・とまどえる群れを飼いならす事だ・・と・・
  また、とまどえる群れに激高を起こさせてはならない・・
 横暴を許してはならない・・不都合なことを起こさせて
 はならない・・と・・
  アメリカの大統領選は、「金が続いたものが生き残る」
 と言われている・・
  そして、それが、「合意のデッチアゲ」の「民主主義
 が行われた」という満足の結果だと・・これが実態だ・・
  リップマンは、彼の代表作と言われている「世論」(
 1922年)で、「民主主義の基盤となる国民の世論が、マ
 ス・メディアの圧倒的な影響力の下にある」ということ
 を指摘している。
  マス・メディアによって世論は操作されている。
  その様な所から形成された民主主義社会・・
.
1931年、東部グリーンランド事件
  グリーンランド東部の無人地帯に、ノルウェー捕鯨
 業者が上陸した。
  そして、ノルウェー政府が、その地を併合するという
 宣言をするという「東部グリンランド事件」が発生した。
  ノルウェー政府の主張は、グリーンランドにおけるデ
 ンマークの主権は、植民地(人が住んでいる地域)に限
 定されている・・と・・
  また、古い文書では、「グリーンランド」という言葉
 は西海岸の植民地(デンマークが実際に開拓している地
 域)のみを指している。
  故に、それ以外の地域は、「デンマーク領であるとこ
 ろのグリーンランドではない」・・
  ノルウェーが占有する正当性がある・・と主張した。
  しかし、これは、デンマークの提訴を受けた国際司法
 裁判所の裁定によって退けられた。
  デンマークは、以前からグリーンランド全域に適用す
 る法令を制定したりしている・・
  つまり、人が住んでいなくても統治してきたのだから
 ノルウェーの主張はいれられない。
  人口が希薄で人が定住していない地域については他国
 が優越的主張を立証出来ない限り主権的権利の行使はご
 くわずかであってもよい。
  また、地図において、慣習的に使われる地名は反証の
 ない限り通常の意味に解すべきなので・・「グリーンラ
 ンド」という慣習的な地理的名称は、ノルウェー側が有
 力な反証をあげられない限りにおいてグリーンランド
 島を指していると考えるべきである・・となった。
.
1939年8月23日、独ソ不可侵条約
  ドイツとソ連が、お互いに不可侵を約束した。
  そして、アメリカのルーズベルト大統領・・
  この大統領ほどアメリカの行く道を誤らせた大統領は
 いなかった。
  このルーズベルト大統領の周りには、うようよと大勢
 の工作員が居た。
  今・現在の日本の政権の周りも、この様な状況が起き
 ていると言われている・・、
  ルーズベルト政権の周りには、ソ連と深く精神的に通
 底した「共産主義に傾倒する側近たち」で満ちていた。
  1939年2月、戦争が始まりそうなこの時、ソ連は、ドイ
 ツと「独ソ通商協定」を結んだ。
  また、続けて、この年の8月、「独ソ不可侵条約」も結
 んだ。
  アメリカは、これに大きな衝撃を受けた。
  また、この様なアメリカに限らず、日本を含めて世界
 が大きなショックを受けた。
  アメリカも、そして、世界中もが、「ドイツとソ連
 敵対関係にある」と見ていた・・その様に思っていた。
  これを演じたのは、「ヒトラースターリン」だった。
  アメリカは、ソ連を、自分の陣営に引き込みたいと考
 えていた矢先だった。
  ソ連は、この様なドイツとの関係を作った後に、好き
 勝手な「武力行為を行い始めた」。
  この翌月の1939年9月、ポーランド侵攻の侵略行為を始
 めた。
  この侵略は、あっという間の武力侵攻だった。
  そして、ドイツと「独ソ間のポーランド分割協定」を
 結んで侵略を完成させた。
  また、ソ連は、その2か月後の1939年11月、フィンラン
 ドへも侵略を開始した(フィンランド戦争、冬戦争)。
  何とかソ連を取り込もうとしていたアメリカをはじめ
 西側諸国にとって、これは許せない行為だった。
  侵略国家・ソ連の性癖のむき出しの悪行為だった。
  東京裁判時にも、この蛮行は裁くべきだった。
  または、絶対に、ニュールンベルク裁判で裁かれるべ
 きだった。
  しかし、不公正な連合国の諸国は、この不正行為に目
 をつぶった。
  フィンランドは立派だった。
  敢然と不正をするソ連に立ち向かった。
  仕組まれた日本が、アメリカに立ち向かったのと同じ
 行動だった。
  フィンランドの方々は敗れたが、不正な行為に正義の
 戦いを挑み、フィンランドの「国の正義」を通した。
  これによって、フィンランドの方々には、大いなる誇
 りが生まれた。
  その誇りが、戦後のフィンランドの立派な立つ瀬を作
 り、国の立つ位置を作った。
  アメリカには、当然の「対ソ国交断絶論」が出た。
  しかし、卑劣にもアメリカは、あいまいな態度に終始
 した。
  ソ連の行動を非難したりする声明を出したりしたが、
 また、対ソ連の輸出を差し控える勧告を出したりしたが、
  ソ連の「さらなる暴力や脅迫」に晒された北欧諸国へ
 金融援助をしたりしたが・・
  アメリカの国民の方々の意見に従う行動をアメリカ政
 権はしたが・・
  しかし、結局は、ルーズベルト政権は、対ソの国交断
 絶論は否定した。
  これは、この様な卑劣な事をソ連がしても、アメリ
 は目をつむると見透かされ・・ルーズベルト側近たちに
 動かされるルーズベルトはおかしかった。
  それでもソ連を引き込みたいというアメリカは見透か
 されていた。
  その後のソ連は、まだ、更なる暴力行為・武力行為の
 蛮行を続けた。
  1940年には、バルト三国を取ってしまった。
  そしてまた、この年・1940年、ルーマニア領を侵略し
 た。
  しかし、まだ、アメリカは、その様な横暴なソ連へ黙
 り続けた・・逆に、ソ連に対して、対ソ連の宥和(ゆう
 わ、大目に見る)政策を取った。
  その行動・・宥和政策を強化した。
  アメリカは、バルト三国エストニアラトビア、リ
 トアニアから領事を引き上げて、「バルト三国ソ連
 だ」という意味の態度を取った。
  そして、ウラジオストクに、総領事館を開設するとい
 うアメリカだった。
  また、対ソ連の物資輸送を増加した。
  そして、さらに、1941年1月には、「対ソ道義的禁輸」
 を撤廃さえした。
  そして、1941年3月には、「米ソ東亜通商協定」まで締
 結した。
  この様な事までしてアメリカはソ連を取り込んでいく
 のだが、結局は、冷戦状態となって、原子爆弾と大陸間
 弾道の核ミサイルの軍拡の競争をする相手となる。
.
1940年、アメリカが、デンマーク領のグリーンランドとア
 イスランドに進駐した。
  ドイツが、海上封鎖水域をアイスランド周囲まで拡張
 したからだった。
  また、ドイツの爆撃でイギリス本国が危うくなったか
 らだった。
  日本は、ベトナム(フランスの植民地)に上陸したが、
 この時、フランスの許可を得ていた。
  アメリカは、グリーンランドアイスランド政府の許
 可を取っていない。
  しかし、アメリカのルーズベルト大統領は、日本のこ
 の行動を徹底的に利用して日本を悪者に仕立てた。
  日本は、フランスのビシー政権の許可を得ていた。
.
1941年4月13日、日ソ中立条約が調印された。
  正式名称:大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和
 国連邦間中立条約が締結された。
  相互不可侵、および、一方が第三国の軍事行動の対象
 になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文
 など・・
  この時まで、ソ連を宥和(ゆうわ、相手を寛大に扱う)
 したいアメリカは、なりふり構わず、ソ連の喜ぶこと、
 節操のない行動をとっていた。
  ソ連は、好きなように、ドイツとポーランドを分割し、
 何かとドイツと巧くやっていた。
  その様なソ連を、引き込みたいと、アメリカは焦(あ
 せ)っていた。
  この様なソ連の立場と対極にあったのが日本だった。
  アメリカが日本を排斥するのは病的でさえあった。
  この様な状況の時、驚天動地の事が起きた。
  1941年4月13日、日本とソ連が中立条約を締結した。
  ドイツからソ連を引き剥がしたいアメリカ、そして、
 そのソ連が、日本と中立条約を結んだのだった。
  アメリカは、ソ連へ宥和政策を進めて来た行動が頓挫
 したと思った。
  しかし、1941年6月22日に至ると、ドイツが、ソ連へ突
 如侵入した。
  この日の3時15分、ドイツ軍は、作戦名「バルバロッサ」
 の下にソ連を奇襲攻撃した。
  ソ連にいじめられていた反ソ感情の強い周辺国は、ド
 イツへ加担した。
  当然、ソ連は、ドイツに対して開戦した。
  これで、ソ連は、アメリカ側へ入ったのだった。
  1941年11月には、アメリカは、ご褒美ではないが10億
 ドルの供与をソ連へ贈った。
  アメリ国務省から軍事品のソ連への供与が発表され
 た。
  この共産圏の国=ソ連の立つ瀬をアメリカは作った。
  逆に、アメリカの対日経済封鎖の厳しさは増していた。
  そして、その後、共産圏・中国の毛沢東をも助けるア
 メリカとなる・・毛沢東を支援し、国際舞台の中心国の
 立場にするアメリカとなる。
  この端緒・・ソ連を助けたことに始まるアメリカの行
 動の判断は、歴史上の大汚点、大いに間違った判断とな
 った。
  この後、東ヨーロッパも共産圏・ソ連に抑えられた。
  ルーズベルトのやったことは大間違いだった。
  そして、今・・この共産圏・中国は、アメリカを食お
 うとしている。
  そして、アメリカは、共産圏・中国に追い越されそう
 になっている。
.
1945年8月23日、シベリア抑留
  完全なる終戦の後に、ソ連(現:ロシア)によって行
 なわれた国際法の違反・違法行為である。
  日本国民の拉致である。
  スターリンは、戦争の終結した1945年8月14日の第二次
 世界大戦の終戦宣言の後の1945年8月16日には、「日本人
 を捕虜として用いない」という命令を内務人民委員ラヴ
 レンチー・ベリヤに下していたが、
  何と、終戦後の後も後の1945年8月23日に、これを翻し、
 「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜
 (拉致)50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労
 働を行わせる命令を下した。
  しかし、下記の実態の1事例の様に、日本人の一般国
 民も、多数、拉致され、シベリアへ連れて行かれていた。
  シベリア抑留者は、拉致され、監禁された。
  その実態は、非人道的な足枷(あしかせ)をされてい
 る監禁の状態だった。
  稲葉俊郎・東大病院助教、医師のおじいさんは、足枷
 を付けて脱走し、日本へ帰って来た。
  (参考)第二次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ
     連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣
     戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連
     極東軍に命じて、満州朝鮮半島北部に軍事侵
     略した(ソ連対日参戦)。
      日本は、すでに、1945年8月14日、中立国を通
     して降伏を声明し、アメリカやイギリスの連合
     国に受け入れられていたが、ソ連は、1945年8月
     16日には日本領南樺太へ、1945年8月18日には千
     島列島へも侵略して占領した。
      樺太では直後に、日本の防衛的戦闘で、日本
     は勝利していたが千島の占守島では1945年8月22
     日に、日本から停戦命令が下り、武器を置いた。
.
1950年代半ば、毛沢東による対日戦犯裁判
  中国では・・、
  ☆中華人民共和国によって対日戦犯裁判が行われた(
 近年、中国で新史料が公開された)。
  ☆1950年、シベリアに抑留されていた旧『満州国』や
 関東軍の関係者がソ連から中国に送還された。
  ☆終戦後、中国に残留し、国共内戦下で共産党軍と戦
 って捕虜となった日本人将兵、戦犯と見なされ、拘留さ
 れた。
  1526名。
  毛沢東思想に基づく思想改造を、長年、強烈に受けさ
 せられた。
  1956年に、大半が釈放された。
  (BC級戦犯なのに、約1000名が死刑にされた)
  ☆毛沢東は、「南京虐殺について、触れることはほ
 とんどない・・言及もしていない」。
  この事からも、南京事件は、後から中国(支那)によ
 る作り出された捏造ということがはっきり分かる。
.
2017年1月20日ドナルド・トランプアメリカ大統領の就
 任式で・・
  「今、この瞬間からアメリカ第一主義アメリカ・フ
 ァースト)が始まる」と演説された。
  そして、また、新大統領は、「世界の国々と友好的で
 善意に基づく関係を築きますが、すべての国には自国の
 利益を最優先する権利があります。
  私たちは、自分たちのやり方を他の誰かに押し付けた
 りはしませんが、「輝く模範として見習われる存在にな
 ります」と演説した。
  すべての国々が、自国の国民の幸せを第一に考えるの
 が当然で、自国の国益を最優先するのも当然で、その様
 な自立した国々同士が友好関係を結んでいくのが「最も
 当然な最善な事」と示された。
  そこには、今までの様なアメリカが勝手に最善として
 思い込んだ考えを押し付けるようなことはしないという
 宣言があった。
  戦争の遠因となっていた「アメリカの考え方・イデオ
 ロギー」の勝手な押し付けはしないの宣言があった。
  今まで、アメリカは『自由と民主主義』と言って表面
 的には良いように見えることを、実際はアメリカだけが
 良いという勝手な事を「他国へ押し付けた」。
  持っている武力を振り回し、自国の若者も死に至らせ、
 また、他国の人々・・戦争とまったく関係ない方々を殺
 して来た。
  この様な「勝手な独りよがりな介入はしない」という
 宣言だった。
  実際は、「アメリカのやり方」「アメリカ・スタンダ
 ード」なのに・・「グローバル・スタンダード」だと嘘
 を言って、アメリカの超富裕層に都合の良いシステムを
 押し付けて来た。
  当然の様に他国の内政に干渉し、屁理屈で「ああだ、
 こうだ」と言った。
  この様な事を、当然のように、『間違っている』と「
 否定した大統領」だった。
  しかし、今まで「利益を享受して来た組織」が、盛ん
 に抵抗している。
  その今までの組織に「おもねっている」・・日本のゴ
 マすり「マス・メディア」も、盛んに、「トランプ大統
 領に対抗する反対報道」をしている。
.
2019年、アイヌの方たちだけが特別ではない。
    アイヌ特別立法はお止めください。
  アメリカで『キンタクンテ』が話題になった頃、それ
 が日本でも話題になった頃、「ルーツ」「ルーツ」と
 自分のルーツに皆が関心が向かった頃・・、
  キンタクンテは、「そのルーツをアフリカに発見した」。
  その頃、自分の事を調べてみると、何と、せいぜい隣
 村くらいの狭い社会の中で「先祖の方たちは生きて来た」
 ことが分かりびっくりした。
  同じ村、若しくは、隣村との結婚が繰り返されていた。
  これでは、「武蔵野民族ではないか」と思った。
  知人に、京都で、明治に生まれた方が居られて、関東
 大震災の時に東京に出て来られたが・・、
  その頃、鹿児島の薩摩弁の方と青森の津軽弁の方が、
 話が通じ合わなくて、通訳をしてあげたと言っていた。
  京都で育ち、都で色々な方と接して、薩摩弁と津軽弁
 が通訳できたのだ。
  今・現代、通信機器も発達し、テレビ・ラジオの放送
 も氾濫し、標準語が定着し、その様な話は夢の様だけど・・、
  また、先の話は、交通手段が発達し、遠くまで簡単に
 行ける現代、男女の接触もSNSでも会えるという時代。
  男女の接触も広くなって、その様な話しはまったく想
 像が出来ないが、武蔵野民族の自分だって同化したが「
 武蔵野民族なのだ」。
  九州には「熊襲(くまそ)」という民族が居て、ある
 時、世間の話題になったが、今は完全に同化して、話題
 になることも無い。
  能には「吉備人」が出て来てる様に、日本には「アイ
 ヌの方々だけではない方々が色々生活して居た」。
  アイヌの方々だけが特別ではない。
  武蔵野民族は完全に同化したが・・ならば、「武蔵野
 民族の方々にも特別法を作りなさいと言いたい」・・そ
 して、「武蔵野民族を無視する理由はありませんと言い
 たい」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)639E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年2月~1896年2月)

題:(増補版)639E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年2月~1896年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年2月10日、貴族院議員・近衛篤麿ほか2人、議員・二
 条基弘ほか43人の賛成を得て、「北海道鉄道敷設法案」
 を提出した・・北海道開拓の実を上げるため必死に鉄道
 敷設に取り組んで行く。
  特別委員会付託となり・・、
  1896年3月7日、貴族院可決・・
  1896年3月25日、衆議院可決、
  1896年3月26日、両院協議会を開き衆議院修正案可決、
   貴族院同意。
.
1896年2月10日、法律第1号により官設鉄道用品資金25万円
 が増加となって205万円となる。
.
1896年2月10日、ロシア兵の107名の水兵 20名の食料担当兵
 大砲一門を漢城に搬入し実力支配をする。
  ロシア兵は150名となった・・親露政策へ・・反ロシア
 派への弾圧・一掃・・民衆の親露政権への反発・・
  また、ロシアは、種々の実質的な利権を獲得する結果
 となる。
  また、付随して欧米列強も同等の利権を獲得すること
 になった。
  宮女ゲン(元?)金明載より「各大臣等日本兵が密か
 に国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。
  速かに露館に播遷し回避されたし」旨の親露派が作っ
 た手紙・作文の書状を高宗に届けた。  
  そして、翌日(2月11日)、高宗と世子(純宗)が宮女
 用のかごに乗り、ロシア公使館へに逃げ込んだ。
.
1896年2月11日、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」が
 パリで初演された。
  実は、1892年に、名女優サラ・ベルナールの主演でロ
 ンドン上演をする予定だったが、当局の検閲で上演禁止
 となった・・内容の背徳性から、しばらく上演されなか
 った。
  (イギリスでは1931年まで禁止されていた・・聖書に
 登場する人物や事件を舞台にかけることが禁じられてい
 た)
  1893年に、アンドレ・ジッドとピエール・ルイスの校
   閲を経て、フランス語版の戯曲がパリで出版され、
   評判になった。
  1894年に、アルフレッド・ダグラス卿の英訳に、ワイ
   ルド自身が徹底的な修正を加えて、当時、22歳の奇
   才オーブリー・ビアズリーの幻想味あふれ、退廃的
   挿絵付きの英語版がロンドン出版された英訳版は大
   きな反響を呼んだ。
  世紀末のデカダンスの欧米芸術に強烈な衝撃を与えた。
  古臭い乾からびた伝統的な男性中心主義の女性観など
 へ衝撃を与えて行く。
  洗礼者ヨハネが首を斬られたことが興味を引いた発端。
  1903年~1905年に、リヒャルト・シュトラウスが1幕の
 オペラを作曲する。
  このシュトラウスの「サロメ」には紛れもなく世紀末
 風なデカダンスの雰囲気が濃厚に存在する。
  「ああ!ヨカナーンや、私は、おまえの口にくちづけ
 したよ、ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)、おまえの口にく
 ちづけしたよ」というサロメの無気味な歓喜の言葉が流
 れる最終場面・・妖艶・・
  何故、お前は私の顔を見なかったのだ・・
  死の秘密より大きい愛の秘密・・
  そんなことはどうでもよい・・私はお前の口に接吻し
 ましたよ・・
  https://www.youtube.com/watch?v=VT-5zz92mNQ
  現在、戯曲「サロメ」が上演されることは滅多になく、
 舞台といえばもっぱらオペラ「サロメ」。
  内容:
  ユダヤの王妃エロディアスには、最初の結婚によって
 もうけた娘サロメがいる。
  サロメは王に捕えられている預言者カナーンを恋し
 ているが、ヨカナーンは彼女を拒む。
  サロメは王の求めに応じて踊り、褒美にヨカナーン
 首を所望する。
  何でも望むものを与えると約束していた王は、やむな
 くサロメの願いを聞き届ける。
  サロメは首を持って踊り狂い、王の命令を受けた兵士
 たちに殺害される。
.
1896年2月11日、露館播遷(ろかんはせん)
  朝鮮国王が、ロシア公使館に移らされた。
  金允植(キム・ユンシク)は、穏健な開花的な人物だ
 ったが(科挙の試験にも合格する才能ある人物)・・、
  朝鮮のこの親露政権が成立すると、親日派だとして済
 州島に流刑された。
  1896年2月11日~1897年2月20日、、朝鮮王の高宗が、
 ロシア軍によってロシア公使館へ移らされ、親露政権が
 樹立させられた・・
  親日派の政権閣僚は殺害されたりした。
  そして、この結果、ロシアは、数々の種々利権を獲得
 し、他のヨーロッパの各国やアメリカの列強も同等の利
 権を獲得することになった。
  また、これは国としての自主性を放棄するのに等しい
 行為であった。
  この事に対する朝鮮有志による抵抗行動が起きる。
  朝鮮政府に好き勝手をしていたロシアの横暴。
  (参考)播遷:はせん、遠くさすらうこと。
  高宗は勅令を出さざるを得なくなる・・
  実体は、ロシア公使ウェーベルの傀儡政権の成立。
 1.閔妃殺害事件の犯人として特赦された趙羲淵、禹範善
  李斗璜、李軫鎬、李範来、権濚鎮の首を持ってロシア
  公館に持参せよ。
  (閔妃殺害事件についての再調査も実施され、漢城
  発行されていた英文雑誌に調査結果が掲載された)
 2.新内閣の公示・・総理大臣に金炳始、内部大臣に朴定
  陽、軍部大臣兼警務使に李允用、法部大臣に趙秉稷、
  学部大臣に李完用宮内大臣に李載純を命じる。
  (在朝ロシア公使は、スペール趙羲淵、兪吉濬、張博、
  李軫鎬等は日本に亡命・・前総理金弘集と前農工商大
  臣鄭秉夏は亡命せず・・警務庁前で暴徒に捕まり惨殺、
  遺体は焼却された)
.
1896年2月13日、博多湾鉄道発起人が、設立願を政府に提出
 した。
  1896年6月、線路計画変更、
.
1896年2月18日、朝鮮・仁川に、4000余名の暴徒が蜂起した。
  観察使(地方の行政権・兵権・司法権を握る役職)を
 殺害し、郡司を逐訴するなど、政令はソウルの外には伝
 わらず、無政府状態に陥って・・官衙官宅を毀壊した。
.
1896年2月21日、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式の出席の
 ため、明治天皇陛下の御名代として伏見宮貞愛親王(陸
 軍少将)が出席されることになり・・また、この日、山
 県有朋が、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式の出席と、
 朝鮮問題対応のため、特命全権大使に任命された。
.
1896年2月22日、日本海上保険が設立された(3月説あり)
  色々と変遷の後に、2014年9月1日に、 損害保険ジャパ
 ンと合併して、損害保険ジャパン日本興亜が発足してい
 る・・そして、発足と同時に「損保ジャパン日本興亜
 ールディングス」に商号を変更した。
.
1896年2月25日、房総鉄道の千葉駅~蘇我駅間が開通した。
.
1896年2月29日、日本銀行旧館(本館)の建物が完成した。
  設計は、辰野金吾(工科大学:現東京大学工学部)教
 授。
  当初は永代橋のたもとにあったが、手狭のため中央区
 日本橋本石町に建設し、移転した。
  この日本橋という所は、江戸時代から両替商が軒を連
 ねていた場所で、金融機関が集まっていた。
  また、商業の中心地ともなっていた。
  構造:石積みレンガ造
  外装:花崗岩貼り
  工事費:112万円(当初予算は80万円であったが、この
 時期、物価上昇した)
  着工:1890年9月
  1891年に発生した濃尾地震の被害から建物の軽量化が
 図られた。
  1923年の関東大震災でも被害は無く、建物はびくとも
 しなかった・・ただ、近隣に発生した火災によりシンボ
 ルだった丸屋根が焼け、その後、復元したの屋根が現在
 に至っている。
  ちなみに、2階の廊下には代々の総裁の肖像画が展示さ
 れていたが、関東大震災ですべてが焼失し、現在の肖像
 画は、その後、再製されたもの。
  故人になられていた方は、写真から模写された。
  エレベーターや水洗便所など先進的な設備を取り入れ、
 また、防火シャッターやスチールサッシなど外国製品も
 採用した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:この果てしない巨万の富は、ヨーロッパ全域へ、そして、世界へ、
   ロスチャイルドの影響力を行使できる額だった。
.
1567年9月5日、「独眼竜政宗」で有名な伊達政宗仙台藩
 初代藩主)の話。
  伊達政宗は、出羽の国と陸奥の国の戦国大名である。
  そして、伊達氏17代の当主であり、近世大名としては
 仙台藩の初代の藩主である。
  1567年9月5日、伊達政宗は生まれた。
    出羽国・米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗
   の嫡男として、正室の最上義守の娘・義姫から生ま
   れた。
    政宗は、幼少の時に患った疱瘡(天然痘)によっ
   て右目を失明した。
  1579年(12歳)仙道の戦国大名三春城主・田村清顕
   の娘・愛姫(12歳)を正室に迎える。
  1581年(14歳)4月、初陣。隣接の相馬氏と合戦。
  1584年(17歳)10月、父・輝宗の隠居で家督を相続し、
   伊達家第17代当主となる。
  1585年(18歳)5月、蘆名領檜原を攻め、8月に、大内
   領小手森城を攻めた。
  1586年(19歳)4月、二本松城攻め、7月、二本松城
   明け渡し。
  1587年(20歳)12月、関白・豊臣秀吉が、関東・奥羽
   の諸大名、特に、関東の北条氏と奥州の伊達氏に対
   し、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。
    しかし、政宗は秀吉の命令を無視し、戦争を続行
   した。
  1588年(21歳)2月、北方の大崎氏の内紛に介入したが、
   黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に合い敗北。
    伯父の最上義光に大崎側に立って参戦されてしま
   い、伊達領の各地が攻め落とされた(大崎合戦)
    また、蘆名氏・相馬氏に侵攻され、苗代田城を攻
   め落とされる(郡山合戦)・・7月、和議が成立して
   窮地を脱した(愛姫の実家・田村氏領の確保に成功)
  1588年(21歳)9月、豊臣秀吉へ恭順の意を示す。
   秀吉は、翌年・1589年の前半に上洛する様に求める。
  1589年(22歳)5月~6月、摺上原の戦い・・
    この頃、政宗は、全国的にも屈指の大きな領国規
   模を築いた・・近隣諸氏・豪族も政宗の勢力下に入
   る。
  1589年(22歳)11月、後北条氏が真田領へ侵攻したこ
   とにより、豊臣氏により征伐が行われることになっ
   た。
    政宗は、父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係
   にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべ
   きか、直前まで迷っていた。
  1590年(23歳)1月、伊達政宗は、豊臣秀吉から「小田
   原城攻めをするから、参陣せよ」という命令を受け
   た。
    しかし、正宗は、これに応じなかった。
    それどころか、秀吉陣営に属していた会津・黒川
   城の芦名義弘を討った。
    父・輝宗を騙した畠山善継に味方した芦名を討っ
   たのは『敵討ち』であるという大義名分があったが、
   明らかに秀吉への反抗でもあった。
    さらに、正宗には、小田原参陣に遅れる事件もあ
   る。
    実母・保春院が、弟・小次郎を立てるため政宗
   毒殺しようとした。
    政宗は、辛くも命拾いをした。
    小次郎を斬殺し、母を米沢へ追放した(後に、仙
   台へ戻す)。
    この様な事で参陣が遅れたのだった。
  1590年(23歳)5月、秀吉の小田原攻囲(小田原征伐
   中であるこの時・1590年5月、豊臣配下の浅野長政
   ら小田原参陣を催促された。
    政宗は、5月9日に会津を出立すると米沢・小国を
   経て同盟国・上杉景勝の所領である越後国信濃国
   甲斐国を経由して小田原に至った。
    秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属した。
    参陣が遅れたことに、秀吉は激怒した。
    政宗が、小田原へ赴くと、秀吉は、会見も許さず、
   箱根・底倉へ政宗を幽閉した。
    この時、政宗は、前田利家へ「田舎者ゆえ礼儀を
   わきまえない。千利休茶の湯を習いたい」と告げ
   た。
    秀吉は、それを聞いて引見することとした。
    死ぬか生きるかという時に良い度胸だという訳だ
   った。
  1590年(23歳)7月、政宗が、秀吉に服属してほどなく、
   北条氏政北条氏直親子が秀吉に降伏した。
    秀吉は、宇都宮城で奥州仕置(宇都宮仕置、1590
   年7月~8月に行われた)を行った。
    ここに、秀吉の日本統一が達成されたが、政宗は、
   会津領などを失った。
    陸奥出羽のうち13郡、およそ72万石に減封された。
    秀吉は、会津領を没収したものの、伊達家の本領
   72万石(おおむね家督相続時の所領)は安堵とした。
    先の遅参の詰問に来た前田利家らに千利休の茶の
   指導を受けたいと申し出だことに秀吉らが感嘆した
   からと言われている。
  1591年(24歳)蒲生氏郷とともに、葛西大崎一揆を平
   定するが、政宗自身が一揆を煽動していたことが露
   見する。
    しかし、これは、氏郷が、「政宗が書いた」とさ
   れる一揆勢宛の書状を入手したことに端を発する。
    また、京都では、政宗から京都に人質として差出
   した夫人は偽者であるとか・・
   一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗
   が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届
   いていた。
    喚問された政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物
   である旨を秀吉に弁明した・・
    その結果、許されるが・・、
    本拠地であった長井・信夫・伊達を含む6郡の代わ
   りに(6郡没収)、一揆で荒廃した葛西・大崎13郡を
   与えられ、米沢城72万石から玉造郡岩手沢城へ58万
   石に減転封された。
    この時、秀吉の前に出る政宗の様子・・
    家康や利家をはじめ諸武将が居ならぶ席上、秀吉
   が、末席に控えている政宗へ、杖で政宗を指し・・
   「政宗政宗」と声をかけた・・「是へ、是へ」と
   秀吉のもとに招いた。
    政宗は、脇差を抜いて知人に預け、一間(1.8メー
   トル)ほどの所まで近づいて挨拶した。
    「脇差ノ抜ヤウ、マタ、御挨拶ノフリ、誠二悪ビ
   レタル気色モナク、田舎人ナレドモ、聞キ及ビタル
   程ノ者也」(政宗記)。
    田舎者だが、噂にたがわぬ堂々とした男だと秀吉
   は言った。
    片目ながら政宗の大胆さ、そして、繊細さを、55
   歳の秀吉は鋭く見抜いた・・24歳の政宗をいっぺん
   に気に入った。
    秀吉は、鎬(しのぎ)藤四郎作の名刀を与えた。
    そして、伊達政宗は、陸奥五十四郡、出羽十二郡、
   計六十六郡の半分を所有する大名として認められた。
  1593年(26歳)政宗は、秀吉の文禄の役に従軍した。
  1599年(32歳)秀吉の死後のこの時、政宗と、五大老
   の徳川家康は、天下人であった秀吉の遺言を破った。
    政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝
   婚約させた。
  1600年(33歳)7月25日、家康が会津上杉景勝討伐の
   軍を発した・・すると政宗はこれに従った・・そし
   て、この日、登坂勝乃が守る白石城を、政宗は奪い
   返した。
  1600年(33歳)8月、100万石へ復帰・・
    家康は、政宗に対して、岩出山転封時に没収され、
   この時点では上杉領となっていた旧領6郡49万石の領
   土の自力回復を許す旨の書状(百万石のお墨付き)
   を贈った。
  1600年9月、関ヶ原の戦いが勃発。
    正宗は東軍に属した。
  1601年(34歳)政宗は、徳川家康の許可を得て、居城
   を仙台に移した。
    城下町建設を始め、仙台藩が誕生した。
    仙台城、及び、城下町の建設は大工事となった。
    徳川幕府から松平の名字を与えられ「松平陸奥守」
   と称した。
  1606年(39歳)家康の6男・忠輝と長女・五郎女(いろ
   は)を結婚がなり、伊達家はより安泰となった。
  1613年(46歳)政宗は、仙台藩イスパニアとの通商
   を企図した。
    仙台領内において、イスパニア国王・フェリペ3世
   の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によって
   ガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造
   した。
    この大船の建造に、材木を気仙、磐井、江刺緒郡
   から伐り出し・・公儀船大工・与十郎を棟梁とした。
    イスパニア航海士や技術者も参加した。
    政宗は、家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを
   外交使節に任命し・・
    家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバエスパー
   ニャ(メキシコ)、イスパニアエスパーニャ)、
   および、ローマへ派遣した(慶長遣欧使節
    この実施で、正宗は、家康へ交易で大きな利益が
   徳川幕府にももたらされると説得していた。
  1613年(46歳)12月19日、支倉常長がノビスパニア(
   メキシコ)のアカプルコに到着した。
  1614年(47歳)大阪冬の陣・・大和口方面軍として布
   陣する。
  1615年(48歳)大坂夏の陣・・道明寺の戦い、後藤基
   次らと戦う・・基次は自刃した。
    また、他の戦いで乱戦となり、政宗は味方討ちを
   している・・抗議をされ、「伊達家の軍法には敵味
   方の区別はない」と言った・・幕府はこれを黙殺。
    論功行賞で、政宗の子(庶長子の伊達秀宗)が10
   万石を与えられた(宇和島藩
  1615年(48歳)9月、支倉常長がローマ・バチカン市国
   で法王パウロ五世と会った。
  1620年(53歳)支倉常長が帰国した。
    この支倉常長の航海の目的には、イスパニア艦隊
   を引き連れて帰国するかもしれないという威圧が、
   無言で幕府を脅迫し、徳川幕府の挙動を抑える効果
   を狙って、伊達家安泰を図っていたとも言われてい
   るが・・?
  1626年(59歳)政宗が、仙台城下・若林に隠退した。
    春は城の桜を愛で、初夏に近郊のホトトギスの声
   を聞き、秋には月を愛で、鷹狩りを楽しんだ。
    また、政宗は、北上川水系の流域整備や開拓、領
   国開発、農業生産改良、文化の向上、技師の招聘、
   大崎八幡宮(今、国宝となっている)、瑞巌寺など
   の建設、石巻港建設、海路の整備などを行なった。
    また、下城する政宗に、徳川家光が、護身用に10
   挺の火縄銃を与えたという話もある。
  1634年(67歳)食事不振となり、嚥下に難を抱えると
   いう体調不良を訴え始めた。
  1636年5月22日(68歳)、母・義姫を弔う保春院の落慶
   式を終えた後、城下を散策した政宗は、経ヶ峰に杖
   を立て、「死後はここに埋葬せよ」と言った。
    この2日後の5月24日、参勤交代に出発した政宗は、
   急に病状が悪化・・宿泊した郡山では嚥下困難に嘔
   吐が伴い、何も食べられなくなる。
    6月1日、江戸に入った頃、絶食状態となる。
    腹に腫れが生じていた・・しかし、病をおして参
   府した・・
    この様な政宗を、家光は、6月24日、伊達家上屋敷
   に赴いて政宗を見舞った。
    政宗は、行水して身を整えた・・そして、家光を
   迎えた。
    しかし、お目見え後に、奥へ戻る時には杖を頼り
   に何度も休みながら進まざるを得ないという状態だ
   った。
  1636年6月27日、卯の刻(午前6時)死去。
    享年(満68歳)・・仕えた主君は、豊臣秀吉→秀
   頼→徳川家康→秀忠→家光
.
1636年7月、徳川の御三家の『水戸藩』の家租となる頼房が、
 徳川姓を許された。
  水戸徳川家(水戸家)は、徳川家康の十一男の徳川頼
 房を家租としている。
  領国の石高は、実収が28万石程度だった。
  しかし、御三家の格式から、公称35万石としたため、
 水戸藩の財政を厳しくした。
  紀州藩の資料に、頼房が徳川姓を許されたのは1636年
 7月とあり、それまでの33年間は「名字定まらず」とされ
 ている。
  徳川家康は、水戸藩を成立させるにあたり、武田・北
 条・今川など、かつて敵対し、滅亡した戦国大名の家臣
 も採用した。
  水戸藩は、さながら「敗者復活藩」だった。
  御三家の「第三位の地位」が確立したのは、徳川家宣
 (第6代将軍、在任1709年~1712年)が将軍となって、甲
 府徳川家が解消した後だった。
  また、水戸家当主は、参勤交代の対象外であり、江戸
 定府とされ、基本的には国許に帰国することはまれだっ
 た。
     ・
     ・
1791年2月25日、アメリカの中央銀行である第一合衆国銀行
 が設立された。
  それまでは、13植民地がそれぞれに銀行を持ち、また、
 通貨および財政制度と政策を持っていた。
  財閥・ロスチャイルド家の策謀・・
  アメリカ合衆国通貨発行権を得て『打ち出の小槌
 (こづち)』の様な状態の利益を得ようと暗躍したロス
 チャイルド家(イギリスにある)は・・、
  アメリカの初代財務長官・アレクサンダーに、「中央
 銀行の設立の提案」をさせた・・が、しかし・・、
  そのおかしな挙動と危険性を熟知していたベンジャミ
 ン・フランクリンや、トーマス・ジェファーソン(アメ
 リカ合衆国独立宣言を起草した人)は、そのハミルトン
 の案に反対した。
  大議論が続き、決定はされなかったが・・、
  反対したフランクリンが死んだ後・・1791年に、ジェ
 ファーソンの反対は押し切られた・・
  ハミルトンは、中央銀行の設立に成功したのだった。
  ワシントン大統領が署名して、第一合衆国銀行は設立
 された。
  しかし、この銀行は、アメリカ合衆国憲法に違反する
 という民間銀行の形で、このアメリカの中央銀行は設立
 されていた・・?
  アメリカ合衆国憲法には、はっきりと「貨幣鋳造権限
 は、アメリカ合衆国連邦議会が有する」と規定されてい
 る。
  (参考)対訳アメリカ合衆国
      第1条8節1項(また、合衆国議会は以下の
     権限を有する)
      第1条8節5項(貨幣の鋳造、度量衡の基準
     の設定権)
      貨幣を鋳造し、国内および外国通貨の価値を
     規律し、また度量衡の基準を定める権限。
  (参考)註解アメリ憲法
      第10条、州に対する制約
      第一項、各州は、同盟もしくは連合を締結し、
     捕獲免許状を付与し、貨幣を鋳造し、信用証券
     を発行してはならない。
      「信用証券とは、州の信用を基礎にする紙幣
     のことであって、これを発行することは許され
     ない」
      (州による紙幣の発行は禁止されている)
  この中央銀行の8割の株式は民間で、連邦政府は2割に
 過ぎない。
  この様にして、実質的な権利者となる株式を所有した
 のが、イギリスのロスチャイルド家だった。
  また、ニューヨークの民間銀行も所有した。
  そして、20年間のこの期限が1811年に訪れた。
  更新して継続するのか?・・の大論争がなされた。
  正論が通って・・「民間銀行が通貨発行権を持つのは
 おかしい」という主張が、一票差で「更新するという案
 を否決した」。
  この正当な決議に怒ったのが「旨い汁を吸い続けたい
 とする『イギリス・ロンドンの銀行家たち』だった」。
  イギリス政府に、当時は、イギリスの弱小従属国的だ
 ったアメリカへの「けしかけ」や「圧力」を与えた。
  そして、不埒にも、1812年に、「英米戦争」に至った。
  この問題以外には、何の問題も無いという英米関係だ
 ったのだったが・・?
  イギリスのロンドンの銀行家たちは、戦費調達に窮す
 るアメリカに、「戦費調達先の必要性」と、その為の「
 中央銀行の保持の必要性を思い知らせるという『仕掛け』」
 だった。
  この英米戦争で、「アメリカ政府の債務(借金)は3倍
 となった」。
  アメリカは、深刻なインフレに見舞われた。
  このインフレに対処するにも苦労するアメリカだった。
  アメリカ内に、中央銀行の必要性が出て来た。
  1816年、アメリカ合衆国連邦議会は、第二合衆国銀行
 の設立法案を可決した。
  またまた、第一合衆国銀行の時と同じように、民間8割、
 政府2割となった。
  そして、その株主もまったく同じで、ロンドンのロス
 チャイルドと、ニューヨークのウォールストリートの民
 間銀行だった。
  また、同じに、通貨発行権を一部の民間が手に入れた。
 そして、その更新期限が、1836年に来るのだった・・
  (参考)因みに・・1963年6月4日に、ケネディ大統領
     の大統領令11110 (Executive Order 11110) に
     よって政府紙幣が復活する・・
      しかし・・その約半年後の11月22日に、ケネ
     ディ大統領は暗殺されてしまった。
      1971年1月以降は、政府紙幣の新規発行は行わ
     れていない。
      但し、現在でも法律上、財務長官は、3億ドル
     を限度に「合衆国紙幣」(United States Note)
     を発行することができることとされている (合
     衆国法典第31編第5115条)。
.
1815年6月18日、ワーテルローの戦い(ナポレオンの最後の
 戦い)
  ベルギー(当時ネーデルラント連合王国領)のワーテ
 ルロー近郊で、フランス皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・
 ボナパルト)が率いるフランス軍大陸軍=グランダルメ)
 が・・
  イギリス・オランダをはじめとする連合軍、および、
 プロイセン軍との間とで戦闘を行った。
  この戦いは、ナポレオンの最後の戦いとなった。
  ナポレオンのフランス軍は敗れた。
  戦力比較
  フランス軍72000、連合軍68000+プロセイン軍50000
  死傷者数
  フランス軍40000、連合軍27000+プロセイン軍7000
  エルバ島から帰り、フランス皇帝に復帰したナポレオ
 ン。
  そのナポレオンを打倒しようと、第七次対仏大同盟が
 出来上がろうとしていた。
  ナポレオンとしては、これが出来上がって、態勢が整
 ってしまう前に叩いてしまおうというのがナポレオンの
 作戦だった・・
  そして、ナポレオンは出陣したのだった。
  戦いは・・1815年6月16日から始まっていた。
  この時、ユダヤ財閥を築くことになるロスチャイルド
 は、戦況の分かる付近に配下の者を送り込んでいた。
  そして、ナポレオンが敗れると、馬を駆ってその情報
 をロスチャイルドへ伝えさせた。
  この情報を聞いたロスチャイルドは、普通と逆のこと
 を行なった。
  取引所で、イギリス国債を大量に売却した。
  これを見ていた周りの仲介人も、「情報通のロスチャ
 イルドが、イギリス国債を売っている、イギリスが敗れ
 たに違いない」と、一斉に取引所は、「イギリス国債
 り一色となった」。
  イギリス国債は、当然、大暴落した。
  ロスチャイルドは、その暴落して安くなったイギリス
 国債を、「秘かに、大量に買い戻した」。
  しばらくして、ウェリントン軍が勝利したという情報
 が伝わると、イギリス国債は、この逆の動きをして買わ
 れた。
  反転して「大暴騰」となった。
  その高値で、ロスチャイルドは売り抜けた。
  巨万の富が、ロスチャイルドに残った。
  この果てしない巨万の富は、ヨーロッパ全域へ、そし
 て、世界へ、ロスチャイルドの影響力を行使できる額だ
 った。
.
1896年3月1日、第一次エチオピア戦争:(アドワの戦い)
  イタリア軍エチオピア軍が、エチオピアのティグレ
 州アドワ近郊で戦った・・が・・
  イタリア(エチオピア征討軍)は、アドワで大敗した。
  イタリアの敗北が決定づけられた。
  19世紀は、アフリカにとって悲惨な世紀だった。
  ヨーロッパ列強各国によって、いい様に殺戮され、植
 民地化された・・アフリカの大部分がヨーロッパの国々
 によって影も形も無かった。
  アメリカの黒人の方々の『棄民目的』でリンカーン
 造った国・リベリアと、このエチオピアのみが、アフリ
 カの独立国であった・・そのほとんどが、ヨーロッパ諸
 国の植民地などで・・蹂躙されていた。
  だが、植民地獲得の欲望が収まらないヨーロッパ各国。
  そして、このエチオピアへも侵略は行なわれた。
  エチオピア軍を率いたのはメネリク2世だった。
  イタリア軍は、補給に事欠く状況だったが、本国の命
 令でオレステ・バレティエ将軍は、1896年2月29日、進軍
 を命じた。
  この状況を察知していた優秀なエチオピア軍は、即座
 に全面攻撃が命じられた。
  イタリア軍14,527名、エチオピア軍12万人・・エチオ
 ピア軍は、各地でイタリア軍を包囲した。
  イタリア軍が撤退すれば・・追撃をし続けた。
  イタリア軍は8000名を失った・・また、エチオピア
 も1万名を失った。
  主力を欠いたイタリア軍は降伏をせざるを得ず、アジ
 スアベバ条約を締結した。
  エチオピアの当然の独立を承認させた・・『白人の横
 暴な行為』が挫けた事例として燦然と輝く歴史となった。
.
1898年4月25日、アメリカとスペインの戦争(米西戦争
  この戦争もアメリカの策謀(さくぼう、たくらみ)で
 始まった。
  真珠湾攻撃も、アメリカの謀略(ぼうりゃく、人をあ
 ざむく「はかりごと」)によって始まったことは、今・
 現代では、誰でも知っていて、はっきりしていることだ
 が・・
  この米西戦争も、はっきりと、アメリカの引っ掛けの
 策謀だった。
  第二次世界大戦大東亜戦争にも、アメリカに明確な
 「日本を潰したい」という「アメリカの動機」があった。
  そして、また、この米西戦争も、アメリカに同様に
 「スペインを潰したい」という「アメリカの動機」があ
 った。
  この年・1898年2月15日、夜9時40分、没落するスペイ
 ンの残された植民地「キューバ」のハバナ港に停泊して
 いたアメリカ戦艦「メイン号」が、謎の爆発を起こした。
  不思議なのは・・乗員の多くが爆発の起きた艦の前方
 に寝ていて、死亡してしまい・・艦長をはじめとする士
 官クラスは、不思議に、艦の後部に居て難を逃れていた。
  この時、メイン号は沈没し、260人の乗組員が犠牲と
 なった。
  また、この艦に、8名の日本人も乗船していて、6人が
 犠牲となっている。
  爆発原因は、今日に至るまで特定されず「謎となって
 いる」。
  スペインが沈没に関わったという理由も見い出されて
 いない。
  しかし、アメリカは、謎で爆発の理由が分からないの
 にもかかわらず、スペインのせい(所為)にした。
  アメリカは、爆発の原因が不明にもかかわらず、スペ
 インの仕業(しわざ)だとして、スペインに宣戦布告を
 した・・(アメリカは怖い国である)
  さらに、おかしい事に、この時、アメリカは、都合良
 く、事前に、アメリカの太平洋艦隊を「香港に集結させ
 ていた」。
  そして、このアメリカの宣戦布告で米西戦争が始まる
 と、「すぐに」、スペインの植民地であるフィリピンを
 この艦隊に急襲させた。
  そして、マニラ湾に居たスペインの東洋艦隊を全滅さ
 せてしまった・・「マニラ湾奇襲攻撃」である。
  たったの4時間の戦いだった。
  そして、フィリピンの首都・マニラも陥落させた。
  スペイン本国から、フィリピン防衛の救援に、急遽、
 駆け付けたスペイン艦隊も間に合わず・・、
  こんなアメリカの計画的な素早い行動に追い付ける訳
 は無く、このスペイン艦隊も、スエズ運河を通過したと
 ころで、マニラの陥落までの戦況が一気に進んでしまっ
 たことを知り、本国へ空しく引き上げる状況となった。
  これで、完全に、スペインの息の根は止まってしまっ
 た。
  スペインは、これで、歴史上の表舞台から消え去って
 行った。
  アメリカは、歴史上、この様な事ばかりをしている。
  米西戦争のマニラ湾の戦闘状況・・
  1898年5月1日、米西戦争のフィリピンでの最初の戦闘
 のマニラ湾海戦が行われ、6時間の戦闘で、スペイン艦隊
 は旗艦を含む3隻が沈没、4隻が炎上するなどの壊滅状態
 に陥った。
  アメリカ艦隊の被害はほぼ無傷。
  アメリカ施政者のウィリアム・マッキンリー大統領(
 在任期間1897年3月4日~1901年9月14日)は、アメリカ国
 民の方々を煽った・・「ハワイよりも遥か西に敵がいる」
 と。
  この時、アメリカは、既に、ハワイを手に入れようと
 手を打って・・そして、この様な言い方で、アメリカ国
 民の方々を煽った。
  そして、国内宣伝を行って・・煽った。
  スペイン領のフィリピンが狙いだった。
  中国進出のための橋頭保としてフィリピンが欲しいア
 メリカだった。
  そして、さらに、「フィリピンの更に西に敵が居る」
 と、アメリカ国民の方々を・・煽って行く。
  それは、台湾だった。
  日清戦争後の台湾は、日本が関係して居た。
  アメリカ施政者は、「ハワイよりも遥か西に敵がいる。
 アメリカが攻撃されるぞ!」とアメリカ国民の方々へ危
 機感を煽った。
  そして、米西戦争でフィリピンのスペイン艦隊を殲滅
 してし(1898年5月1日)続けて、ハワイを併合してし
 (1898年8月12日)・・
  そして、アメリカの目の前には、台湾(日本)があっ
 た・・そして・・日米戦争の第一幕が開いて行った。
  植民地獲得競争に出遅れていたアメリカは、この様な
 行動をしていた。
  マッキンリー大統領の使った手は・・、
  スペインに対して、「キューバでの蛮行を止めよ」と
 いう聞こえの良い正論などを言って煽った・・
  事前に・・アメリカ国民の方々は・・アメリカ世論は・・
 この様な形の発言の数々で、スペインに対する憤りで沸
 き立たされて行っていた。
  そして、1898年に、米西戦争は勃発した。
  アメリカは、90日間でキューバとフィリピンを手に入
 れた。
  「小戦争」とこの戦争を馬鹿にして発言をした高官も
 居た。
  プエルトリコ、グアム、フィリピンもアメリカに併合
 され、キューバは占領された。
  マッキンリーは、1901年に、暗殺された。

.
1898年8月12日、ハワイ併合宣言・・日本の正義の抗議
   アメリカはハワイ諸島を侵略し、武力的にハワイ王国
  を併合した。
   この時、日本の大隈重信総理は、『正義の書簡』で、
  「これほど激烈で『宣戦布告か最後通牒に等しいような
 外交文書』は見たことがない」と言われるほどの抗議を
 した。
.
1899年、アメリカとドイツが、サモアを分割して奪った。
  太平洋上に「サモア」という島がある。
  昔の地図には「米領サモア」とか、「独領サモア」と
 かと書いてある。
  (参考)サモア諸島ニュージーランドハワイ諸島
     以外ではポリネシアで最大の面積のサバイイ島
     などがある。
      アメリカ合衆国の非自治的・未編入領域と説
     明されている。
      紀元前1000年には、すでにポリネシア人の方々
     が居住されていた。
  18世紀以降、侵略され、支配される・・それへの抵抗
 という歴史の中にあった。
  19世紀後半、イギリスとアメリカが協定を結び、サモ
 ア領土の保全予約をした。
  そのサモアに、ドイツが乗り込んで来て、サモアの王
 様に「ドイツ主権を認めさせた」。
  ここから、イギリス・アメリカ・ドイツの争いとなっ
 た。
  そして、1889年、この3国が、ベルリンで会合をし、サ
 モアの独立を宣言した。
  サモアは、この様に独立はしたが、平穏なサモアとは
 ならなかった。
  乱れが、内乱が、激しくなって行った・・すると、こ
 の3国が、再び、介入して来た。
  対立はさらに激化した。
  そして、1899年、アメリカとドイツが、サモアを分割
 して奪ってしまった。
  イギリスは、棄権した。
  サモアという独立国を、当事者の「サモア抜き」で勝
 手に分割してしまった。
  正義も、何も、まったく無かった。
  アメリカは、ハワイも併合していた。
  日本は、この時、反発した。
  大隈重信外相が、何度も何度も、激しい繰り返しの「
 正義の主張」を繰り返した。
  今・現代、中国(支那)が、世界を無視し、正義を無
 視し、南シナ海東シナ海などで領土欲むき出しの行動
 をしている・・一帯一路で、金が払えないとそれを領有
 した。
.
1914年7月28、太平洋上にあるヤップ島
  第一次世界大戦前までは、ドイツ領だった。
  激烈を極めた第二次世界大戦・・特に、太平洋上の島
 には凄まじい戦いがあるが・・
  このヤップ島には、アメリカ軍の上陸作戦は行われな
 かった。
  日本の守備軍は、終戦までこの島を維持した。
  戦争中、補給が途絶すると、日本軍は、島民と協力し
 て農業や漁業に努めた。
  このヤップ島・・1914年7月28日から始まる対ドイツの
 戦いの第一次世界大戦があるが・・
  この第一次世界大戦の前から、アメリカが、日本を敵
 視していた状況が、このヤップ島に関連して分かる。
  アメリカは、「日本と一緒にやって行こう」なんて気
 は、まったく無かった。
  太平洋の島々を手に入れて来ていたアメリカが、この
 ヤップ島にもあった。
  ヤップ島を巡る争いが生じた。
  この島は、イギリスが、「日本領にする」と決めてい
 た・・そして、日本とイギリスは約束した・・
  日本は、この約束に基づいて、第一次世界大戦へ参戦
 した。
  中国(支那)の山東省に入って青島(ちんたお)を落
 すなど、日本は、イギリスのために誠実に、忠実に、行
 動した。
  さらに、日本の海軍は、駆逐艦を地中海へ派遣し、イ
 ギリス商船などを守った。
  ドイツの潜水艦が放った魚雷の前に入って、イギリス
 商船を沈没から守ったりした。
  日本の駆逐艦は代わりに沈没してしまった。
  日本の将兵も戦死してしまうという凄(すさ)まじい
 戦闘・防戦をした。
  この時の日本の将兵の墓が、今でも、マルタ島にある。
  日本は、忠実に誠実に、イギリスとの約束を守り、そ
 して、実行した。
  しかし、このヤップ島の話は、戦争が終わると、その
 途端、アメリカが騒ぎ出した。
  アメリカは、このヤップ島を無線基地にしたいと狙っ
 ていた。
  また、アメリカ本国からフィリピンへ向けての航路上
 に日本領の島がある事をアメリカは気に食わなかった。
  アメリカには、フィリピンからシンガポールへとのさ
 らなる拡大も目論んでいた。
  既に、日本を敵視しているアメリカが、そこにあった。
  この問題は大もめにもめた・・その末に日本領とはせ
 ず、日本の委任統治領となった。
.
1944年9月15日、ペリリューの戦い(~1945年11月25日)
  ペリリュー島(現:パラオ共和国)で行われた日本軍
 とアメリカ軍の戦いは熾烈を極めた。
  日本軍の守備隊長は中川州男陸軍大佐・・
  アメリカ軍は、第1海兵師団長ウィリアム・リュパータ
 ス海兵少将と第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少
 将だった。
  要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いる
 という、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術は、アメリ
 軍を苦しめた。
  そして、この後の硫黄島の戦いへと引き継がれて行っ
 た。
  このペリリュー戦で、アメリカ軍の第1海兵師団は壊滅
 する戦いでもあった。
  「死のペリリュー戦」と言われるこの戦いは、一週間
 もあれば終わるであろうとアメリカ軍は高をくくったほ
 ど・・
  その程度だと予測するほど、アメリカ軍と日本軍との
 兵力差があった・・大きな船や多くの兵員・兵器を持つ
 アメリカ軍との間に大きな差があった。
  アメリカ軍は、日本軍の兵力の約4倍の人員を上陸さ
 せた。
  航空機は200倍、戦車は10倍、重火砲は100倍
 以上という軍事力の差だった。
  戦闘が終局に達していた1944年11月24日・・生き残っ
 た日本将兵はわずか60人足らずで、ついに日本軍総司
 令部陣地の「桜散る」の電報が打たれた。
  実に、日米の戦いは73日間にも亘って死闘が繰り返
 された。
  その結果 日本軍の戦死者 10,695名 捕虜 202名。
  アメリカ軍の戦死者 1,794名 戦傷者 8,010名。
  そして、精神に異常をきたし帰国後に精神疾患とされ
 た者が数千名いた(不眠症や離婚や色々な人生弊害者が
 出た)。
  そして、皮肉にも、この結果が・・アメリカの日本上
 陸戦を変えさせた。
  沖縄戦で新型兵器・火炎放射器を使わせた・・また、
 原子爆弾を使わせた。
  このペリリューの戦いは、日本は正々堂々と戦った。
  アメリカ軍の様な卑怯で卑劣な戦い方はしなかった。
  アメリカ軍は、フィリピンでは、フィリピンの方々を
 徴兵し、前戦へ立たせた・・卑怯な卑劣な戦い方をした
 アメリカ軍だった。
  日本は、このペリリュ―島ではペリリューの方々を、
 アメリカ軍との戦いが始まりそうになると、日本軍から
 離れさせた。
  戦争に巻き込まれないようにと配慮し、実行した。
  一般人民であるペリリュ―の方々は、陣地構築までは
 徴用していたが、日本軍は、戦闘前に強制的に戦場にな
 りそうなところから退避させた。
  ペリリュ―島の方々の死者・負傷者は共に0名である。
  その様な配慮がなされ、自分の村々へ帰島していたペ
 リリュ―の島民の方々は、戦いが終わった後に、日本兵
 の遺体には見向きもせず、アメリカ兵の自国兵の遺体だ
 けを整理していたアメリカ人を見て、憤慨した。
  そして、有り難いことに、ペリリューの島民の方々は、
 自発的に穴を掘って、こぞって、日本兵の遺体を葬り、
 墓を作って戴いた。
  そして、さらに、その後も、日本の人達がいつ来ても
 よいようにと、その後も、墓地の維持・清掃などに心掛
 けて戴いている。
  戦後統治がアメリカに移ってから・・卑劣にも 歴史
 の捏造がアメリカによって行われ・・この島での日本軍
 が、現地で虐殺をした様な記述を教科書に載せさせて、
 教えていた・・
  しかし、住民の方々や、長老の方々が、そういう事は、
 まったく無かったと指摘し、今はそうした記述は取り除
 かれた。
  この国の国旗は 青い空の黄色の太陽が模されている。
  日本の日章旗に似たものとなっている・・
  これは、独立を勝ち取った時、上記の様なアメリカに
 よる反日教育と、アメリカによって「動物園政策だ」と
 揶揄された米国よりも、誠実な日本を知る「親日家とな
 った住民の方たち」の意見で決まったという。
.
1945年5月29日、横浜大空襲
  アメリカによって行われた横浜市を中心にして、無実
 の市民を狙った無差別爆撃。
  B-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機による焼夷弾攻撃
 だった。
  この日は火曜日で、天候は朝から快晴で無風状態だっ
 た。
  午前9時過ぎ、横浜上空に姿をあらわしたB29爆撃機は、
 防戦する日本軍の高射砲や機銃の弾幕の上を飛行し、高
 高度からの空爆を行った。
  降りそそぐ大量の焼夷弾によって、当時、97万の人口
 をかかえる大都市・横浜の中心部は、山手地区と山下公
 園周辺を除いて、ほとんどが燃え尽きてしまった。
  この卑劣な市民を狙った攻撃で約8,000名~10,000名の
 死者が出た。
  この時、アメリカは、実験をしたかった・・その為の
 攻撃だった・・モルモットとなった一般市民だった。
  焼夷爆弾攻撃でどのように燃え、死者や被害が、どの
 様に出て行くかのデーターをアメリカは得たかった。
  だから、被害の出やすい、燃えやすい木造住宅の密集
 地を事前に綿密に調べ上げていて、卑劣にも、また、非
 人道的にもアメリカは、この非戦闘員が集まっている住
 民を標的にする攻撃を実施した。
  アメリカ軍は、攻撃目標を東神奈川駅、平沼橋、横浜
 市役所、日枝神社、大鳥国民学校の5ヶ所に定めて襲撃し
 た・・被害は甚大だった。
  米軍機のB-29を7機撃墜した。
  親を失った戦争孤児の浮浪児が、多数、生まれた。
  横浜の野毛の街は、この浮浪児たちが集まった・・あ
 たかも巣のように、浮浪児たちが集まった。
  また、職を失って浮浪者となった人たちも、あちこち
 に溢れた。
  戦争後になると、この様な破壊しつくされた町に、占
 領軍兵たちが町に溢れた。
  横浜大空襲で父を失った常盤とよ子氏は、この様な街
 の姿を写真撮影し、後の世に残した。
.
1945年8月、終戦の後、横浜に、沖縄を除く日本全土の連合
 国軍地上部隊を統括するアメリカ第8軍の司令部が置かれ
 た。
  都心部港湾施設をはじめ、本牧・小港・根岸地域な
 どの広範囲が接収された。
  関内や関外地域には、占領軍兵士の兵舎が、広範囲に
 設置された。
  伊勢佐木町などの、戦前の繁華街にはアメリカ兵たち
 が闊歩した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)638E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年2月)

題:(増補版)638E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年1月1日、北海道の渡島、後志、胆振、石狩に徴兵令
 を施行した。
  日清戦争後の国を守る政策改革の一環として行われた。
  そして、1898年、残る7カ国へ拡大して制度的な確立を
 みた。
  北海道開拓を一生懸命している北海道は一定の配慮が
 あった。
  徴兵令の施行を定めた明治28年(1895年)勅令第126号
 は開拓に配慮して、次のような条文を設けていた。
  第二条、前条ノ徴兵令施行地(渡島・後志・胆振・石
     狩)二転籍移住シ開墾其ノ他一定ノ生業二従事
     スル者ハ転籍移住ノ後五箇年二満ツル年迄徴集
     ヲ猶予ス但転籍移住ノ後前条の区域外二転籍し
     更に転籍移住シタル者ハ此の限二アラス
  第三条、屯田兵ノ戸籍内二在ル者ハ徴集ヲ免除ス
.
1896年1月6日、米国でユタが45番目の州となった。
  入植は1837年に始まった。
  モルモン教徒が開いた州。
  宗教の構成比(2008年時点)
    モルモン教...58%
    キリスト教...25%
      プロテスタント.......15%
      ローマ・カトリック...10%
      他のキリスト教........1%以下
    他の宗教......1%
    無宗教.......16%
  1869年、岩倉具視を団長とする岩倉使節団が訪れた史
 実があるせいか、親日的な土地柄である。
  太平洋戦争中、日系人の強制収容に唯一反対した州。
  また、戦後も日系人を多く受け容れてきたため、現在
 でも日系人の割合が比較的高い州である。
  2010年の人種構成・・
    白人.........80.4%、
    ヒスパニック.13.0%、
    アジア系.....2.0%、
    インディアン.1.2%、
    黒人.........1.1%、
    混血.........2.7%。
.
1896年1月13日、この年に、アメリカ大統領の選挙が行われ、
 ウィリアム・マッキンリーが、第25代アメリカ大統領と
 して当選したが・・
  このマッキンリーは、1896年1月13日まで知事職にあっ
 た。
  ちなみに、マッキンリーの在任期間は・・、
   1897年3月4日~1901年3月4日、および、
   1901年3月4日~1901年9月14日。
  1898年、当選から2年後、このマッキンリーは、数人の
 上院議員と元副知事アンドリュー・L・ハリスを産業委員
 会に任命した時、反トラスト運動を始めた。
  マッキンリーの時代には、アメリカ西部への伝統的な
 フロンティア開拓は終了していて・・
  新しくアメリカ以外の太平洋などの国外の「海のフロ
 ンティア」開拓を推し進めるという領土収奪を始めた。
  国内の反対の声もあったが、欲得が先行するアメリ
 だった。
  アメリカは、この様な帝国主義政策へ突進し始めた・・
 この至る先に、日米の第二次世界大戦があった。
  マッキンリーは、保護貿易主義政策を行ない、外国製
 品に対し実に57%という史上最高の関税率をかけた「デ
 ィングレー関税法」を制定させた。
  また、マッキンリーは、覇権獲得の米西戦争へ国を導
 いた(第二次世界大戦を導いたルーズベルトの様に)、
  1898年には、ハワイ諸島を侵略し、併合した(ハワイ
 併合)。
  この時、日本の大隈重信総理は、『正義の書簡』で「
 これほど激烈で『宣戦布告か最後通牒に等しいような外
 交文書』は見たことがない」と言われるほどの抗議をし
 た。
  米西戦争では、アメリカは、当然、スペインに敵対す
 るフィリピンの独立勢力を支援した。
  しかし、この後、アメリカは、このフィリピンの独立
 勢力を裏切る。
  アメリカは、戦争に勝利するや、一転して、フィリピ
 ンの現地勢力を弾圧し始めた。
  そして、アメリカは、フィリピン、および、カリブ海
 のスペインの旧植民地をアメリカの保護下に置いてしま
 い、植民地としてしまった。
.
1896年1月20日房総鉄道蘇我駅大網駅間が開通した。
  これが外房線の始まり。
  この1ヶ月後の1896年2月に、千葉駅で総武鉄道と接続
 した。
.
1896年1月24日、参宮鉄道の宮川駅~宇治山田駅間の線路延
 長免許状を下付した。
.
1896年1月25日、奈良鉄道の桃山駅~玉水駅間(20.2km)が
 開通した。
.
1896年1月、クーデンホーフ伯爵と光子夫人、ヨーロッパへ
 向けて出発した。
  光子夫人は本名「青山ミツ」と言い、ヨーロッパで最
 も有名な日本人と言われた。
  骨董店の娘だったミツは、日本に赴任したオーストリ
 ア・ハンガリー帝国の外交官ハインリッヒ・クーデンホ
 ーフ・カレルギー伯爵に見初められる。
  その知り合いのきっかけは、クーデンホーフ伯爵が着
 任早々、乗っていた馬ともども凍った道で転んだことだ
 った。
  この時、親切に光子に助けられた。
  1896年、この時、伯爵と共にウィーンへ帰国し、社交
 界へもデビューした。
  そして、その後、チェコのロンスベルフ城へ移る。
  彼女は、日本で生まれた二人の子供と共に7人の子供に
 恵まれた。
  しかし、悲劇が訪れる。
  1906年、ヨーロッパへ向かった1896年から10年後、光
 子は、伯爵を突然の心臓発作で失う。
  ボヘミアの地に広大な領地を所有するクーデンホーフ
 家。
  そのすべての遺産を相続するにあたり、異国の女性に
 相続させることを望まない親族との間で裁判が起きる。
  しかし、この裁判に勝ち、光子は、クーデンホーフ家
 の当主となった。
  1908年、そして、ウィーン・ビーつぃんぐ地区の大邸
 宅へ移住するとともに、「黒い瞳の伯爵夫人」として、
 ウィーンの社交界へ復帰した。
  しかし、1914年から始まった第一次世界大戦によって、
 そのすべてを失った。
  ウィーン郊外へ移住し、病魔にも襲われた。
  1941年、そして、この年、67歳で亡くなる。
  光子は、ウィーン・ヒーツィング墓地に埋葬された・・
  渡欧して45年、光子は一度も日本に帰らなかった。
  この光子の東京で生まれた子・次男が、「欧州連合
 父」とも言われる人・・
  80年前に、欧州統合を主張し、EUの概念を訴えた人・・
 そして、この人物をモデルとした映画が「カサブランカ
 の名作。
  尚、「ミツコ」というゲラン社の香水もある・・東洋
 的な香りがする。
  ゲラン社のジャック・ゲランも、ウィーン社交界でク
 ーデンホーフ光子との面識も有った事でしょう・・なか
 ったにしろ、この美しく気高い日本人女性の評判はジャ
 ックの耳にも入っていたでしょうとゲラン社は書いてい
 る。
.
1896年1月、朝鮮中部の忠清道堤川で柳麟錫(りゅうりんし
 ゃく)らが親日政権打倒を掲げ、指揮した。
  柳麟錫は朱子学を唯一の正学とする学者で、攘夷論
 主張する。
  日本の攘夷論者と同じように日本排斥に行動した。
  1866年に、アメリカ船やフランス艦隊の侵入の際も、
 李朝の王へ提言書などを提出する活動をしている。
  この1896年1月の時も、門人らと蜂起し、忠州(忠清北
 道北部の都市)を占領し地方官を殺害して勢力を振るっ
 たが、朝鮮政府軍に敗れた。
  1896年5月には、堤川も失った。
  李氏朝鮮政府は、この時期、日本の助けを利用しなが
 ら国家を強化する事で、西洋近代の広がりによる世界の
 変化に対応しようとしていた。
  李氏朝鮮政府側からすれば、近代国家の形成のために、
 集権的な政治制度の樹立は不可欠な課題であったため、
 その「国」以下の政治空間における儒教的な文明に基づ
 いた動きに対して抑圧すべきとされた。
.
1896年1月、閣議明治27年法律第6号「比較線路決定ニ関
 スル法律」中改正および「鉄道敷設法」改正の2法律案を
 第9回帝国議会に提出(いずれも未成立)
.
1896年1月、参謀本部が、「全国鉄道ヲ四呎八五ノ軌道ニ改
 築シ、且ツ、其幹線及重要ナル各枝線ヲ直チニ複線ト為
 シ若クハ他日複線ト為シ得ル如ク準備スヘキ意見」ト題
 する意見書を作成した。
  (広軌改築に関する14項目にわたる調査事項添付)
  1890年、ドイツへ留学しドイツ軍制を研究した田村(
 旧姓早川)怡与造は、この年の愛知県における陸海軍連
 合大演習で、田村は、東海道の幹線鉄道と武豊線を利用
 して人馬を輸送することを提案した。
  また、二年後の1892 年には、栃木県宇都宮周辺におい
 て陸軍特別大演習がおこなわれ、そこで彼は、日本鉄道
 と両毛鉄道を用いて騎兵以外のほとんど全軍を集結させ
 ることを考案した。
  これらの計画は、「まさにモルトケ戦術そのものであ
 った」。
  (参考)モルトケ:ドイツ、プロシア軍人。近代ドイ
     ツ陸軍の父。
      1835年、中近東を視察旅行し、そのままトル
     コ軍顧問となってその再編、近代化に尽した。
      1839年、帰国、再びプロシア軍に入り、
      1855年、フリードリヒ・ウィルヘルム (後の
     フリードリヒ3世) の副官、
      1858年、参謀総長となり軍制改革を推進し、
     デンマーク戦争 (1864年) 、プロシア=オース
     トリア戦争 (1866年) 、普仏戦争 (1870年~1871
     年) を指導、そのすぐれた戦略・戦術的才能を
     遺憾なく発揮した。
      彼が参謀部に設けた新制度 (総括的作戦指令)
     は、その後近代化されたあらゆる軍隊が範とす
     るに至った。
  鉄道輸送の利用法の考案以上に明確に、ドイツ陸軍の
 軍制を日本陸軍の制度に田村が採用したものとしては、
 操典類の制定がある。
  田村は、まず、草案という形で1889年に公布された「
 野外要務令」をまとめた。
  1887年に公にされた軍部の主張としては、当時の参謀
 本部長・有栖川熾仁親王によって政府に上奏された「鉄
 道改正建議案」がある。
  有栖川建議案は、当時すでに開通、もしくは敷設され
 つつあった諸鉄道(東海道幹線も含む)の経営方針が、
 「経済上ノ便益ノミニ」基づきすぎるものだと考え、「
 軍事上ノ要求ニ適セズ」と判断した。
  建議案の内容も、次の6項目のように、諸鉄道に対する
 軍事的要請を前面に出した。
  「鉄道改正建議案」のなかの6要項
  1、線路ノ位置ヲ防備上務メテ海岸ニ遠サカラシムル
   コト。(山県建議書に類似。鉄道線路の内陸化)
  2、軌道ノ幅員ヲ一米突四三五ニ擴ムルコト。(広軌
   化について)
  3、幹線ハ必ス複線トナスコト(複線化について。な
   お、以上の3項目が6要項のなかでも「主要ノ事項」
   とされる)
  4、隄道ノ高サヲ車輛ノ床板ト水平ナラシメ載卸ノ便
   ヲ増スコト(プラットフォームの高さの利便性向上
   について)
  5、車輛ノ幅員ヲ増廣シ其他構造ヲ改ムルコト。
  6、陸軍官憲ヲシテ大ニ鉄道ノ議ニ参セシムルコト。
.
1896年2月1日、プッチーニラ・ボエーム」が初演された。
  フランスの作家・ミュルジェの自己体験によってまと
 め上げた短編集《ボヘミアンの生活情景》に基づく・・
  4幕のオペラで、もっともよく演奏されるイタリアオペ
 ラの一つ。
  初演は、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮によりト
 リノ・ レージョ劇場で行われた。
  https://www.youtube.com/watch?v=PNQVRzCKDFs
  物語は、1830年ころのパリのラテン区、芸術家を志す
 4人の若いボヘミアンたちが気ままな生活を送っている屋
 根裏部屋。
  消えたろうそくの火をもらいにきたのが縁で恋におち
 たボヘミアンの一人、詩人のロドルフォと隣に住む貧し
 いお針娘ミミの淡い恋物語
  第1幕
  パリにある、ボヘミアン仲間が暮らす屋根裏部屋。
  クリスマス・イヴ。
  画家・マルチェッロと詩人・ロドルフォが火の気の無
 い部屋で仕事をしている。
  寒さに耐えかねてロドルフォが売れ残りの原稿を暖炉
 に入れて燃やす。
  「世界の損失だ」などと軽口をたたいていると哲学者
 コッリーネが帰ってきて、何も金になることがなかった
 とぼやく。
  そこへ音楽家ショナールが食料・薪・煙草などを運ぶ
 従者たちとともに意気揚々と入ってくる。
  ショナールはこれらをどうやって稼いだかを得意げに
 語るが、誰も耳を貸さず貪るように食料に飛び付く。
  しかし、ショナールはワイン以外は取り置いて、「今
 夜はクリスマス・イヴなのだから、皆でカフェ・モミュ
 スに繰り出そう」と提案し、一同大賛成する。
  そこへ家主のブノアが未払い家賃の催促にやってくる。
  ボヘミアンたちはブノアにショナールの金を見せて安
 心させ、ワインをすすめておだてる。
  家主が酔った勢いで、妻があるにもかかわらず浮気を
 していたことを語ると、一同憤慨したふりをして家主を
 部屋から追い出してしまう。
.
1896年2月3日、衆議院議員市島謙吉ほか31名、第9回帝国
 議会において、「東海道鉄道複線敷設ニ関スル質問書」
 を提出し、広軌の単線か狭軌の複線かについて政府狭軌
 複線案提出に関して答弁を請求・・
  翌4日、逓信大臣は、「衆議院議員市島謙吉君提出
 東海道鉄道複線敷設ノ件質問ニ対スル答弁書」で、政府
 は広軌改築案を認めない旨答弁した。
.
1896年2月5日、豊州鉄道の伊田駅~後藤寺駅間が開通した。
  豊洲鉄道は、田川地域の石炭搬出を主目的として設立
 された。
.
1896年2月5日、李範晋が、ロシアの指示で春川、忠清道
 暴動を起こした。
  また、日本の電信線を切断したりした。
  李氏朝鮮の末期は、朝鮮為政者の権力闘争や、様々な
 国の権益を売却し、また、ロシアには半植民地化される
 という状況あった。
  その様な状況の中で、各地で暴動が発生した。
  また、財政難で改革に手が付けられないという、数々
 の問題を抱えていた。
  欧米列強も朝鮮の権益を得るという草刈り場状態の中
 に居た。
  李氏朝鮮は、陸続きの中国・清の冊封体制下にあった。
  その様な中で近代法体系が整わず、国民の教育に手が
 回らず、産業基盤もほとんどない状態だった。
  1896年、高宗勅令で、閔妃殺害事件の犯人として特赦
 された趙羲淵、禹範善、 李斗璜、李軫鎬 李範来 権濚鎮
 の首を持ってロシア公館に持参せよと命令した。
  この様な中、この日にロシアの指示によって李範晋が
 暴動を起こした。
  そして、1896年2月10日、ロシア軍が王宮に突入した。
  150名のロシア兵と共に、漢城へ大砲が運び込まれた。
  高宗が、ロシア公使館で政務を執り行うという状況に
 なり、親露派の政権の李氏朝鮮は、財政不足から、不平
 等条約による治外法権どころか、様々な権益、鉱山の採
 掘権や森林伐採権、鉄道の施設権が欧米列強諸国へ売り
 渡された(李氏朝鮮は欧米の草刈り場状態)
.
  (今日の言葉)
.
  題:電磁パルス攻撃が・・一旦、起きれば・・
    敵味方なく・・人類は絶滅へ・・人類の歴史も終結する・・
.
1580年、豊臣秀吉は、スペインのフェリペ2世へ「日本は
 神の国である」と毅然と言った。
  スペイン王の命令を受けたコロンブスが、1492年、大
 西洋を渡ってアメリカ大陸の手前の西インド諸島に達し
 た。
  それから、79年後、1571年10月7日に起きたレパント
 海戦(ヨーロッパでの初めての大海戦、参加した船は285
 隻)で、キリスト教国は、イスラム教国を破り、閉ざさ
 れていた東の海域を開いた。
  この時、このレパントの海戦で戦ったのがスペイン・
 ベネチア連合海軍と、オスマン帝国海軍だった。
  スペイン王は、フェリペ2世だった。
  因みに、フィリピンという国の名は、このフェリペ2世
 から取った名であり・・、
  最近、フィリピンのドテルテ大統領は、この国の名は
 フィリピンの汚辱に満ちた歴史上の由来の名前だから「
 変えよう」という話がある。
  このフェリペ2世と対等に渡り合ったのが日本の豊臣秀
 吉だった。
  秀吉は、一歩も引かずに、スペインなどのキリスト教
 の欺瞞に満ちた行為(日本の娘たちを売る人身売買や植
 民地化など)を糾弾した。
  そして、ルソン島(フィリピン)のキリスト教本部へ、
 「日本を植民地などにするな」などとの書簡を送った。
  ルソン島のスペイン総統は、「日本にはすごい男が居
 る」、「どうしたらよいか?」と、スペイン本国へ打診
 した。
  1580年、秀吉は、毅然としたしっかりした態度で、フ
 ェリペ2世と書簡を交換した。
  「日本は神の国である」、それ故、「日本は耶蘇教(
 キリスト教)を受け入れる訳にはいかぬ」と、自分の意
 見を突き付けた。
  同時に、物品の交換もしている。
  また、秀吉は、「何故、日本を植民地にしようとする
 のか?」と正論を言った。
  日本の秀吉は、フェリペ2世と対等に正義と正論を貫い
 た。
  フェリペ2世は、日本のキリスト教宣教師たちへ「日本
 には手出しをするな」(余計な植民地への動きはするな)
 と指令した。
  この時、フェリペ2世から豊臣秀吉へ送られた物は「
 立派な鐙(あぶみ)の付いた黒アラビア馬1頭と、沢山の
 宝物(ほうもつ)」だった。
  日本からは、鎧兜(よろいかぶと)や種々の立派な贈
 り物を贈り返した。
  これらの鎧兜などは、今でもマドリッドの博物館に貯
 蔵され、陳列されている。
.
17世紀、ロシアは、シベリア東部に進出し、中国の清と戦
 争を繰り返した。
  1689年には、中国の清(満州族国家)とネルチンスク
 条約が結ばれている(中国の現政権の漢民族ではない満
 州族国家との条約)
  シベリア・・それは、ロシアのウラル山脈以東のアジ
 ア部であって、東は太平洋岸までで・・
  北は北極海から、南はカザフスタンやモンゴルとの国
 境までの地域・・
  それは、東西 7000km以上、南北 3500km、面積約 1000
 万km2 (太平洋岸まで含めると約1300万km2)
  16世紀、西シベリアにあったシビル・ハン国に、また
 は、チュルク語のシブ (「眠っている」の意) 、イル (
 「土地」の意) に由来するという。
  永久凍土帯が広く分布している。
  シベリアは、地下資源に恵まれていて・・石炭、石油、
 天然ガス、ダイヤモンド、金、鉄、ニッケルなどを埋蔵
 している。
  16世紀後半のロシアのシベリア進出以前は、フィン=
 ウゴル語派に属する言語をもつ諸民族や、古アジア諸族
 などが住んでいた。
  これらの人々は、牧畜、狩猟に従事していた。
  ヤクート(サハ)族、トゥバ族、ブリヤート族などは
 それぞれ共和国を形成していた・・
  そのほか、コリヤーク、チュクチなどいくつかの民族
 については自治管区(もと民族管区)が設けられている。
  今、約3200万人が住み(1989年)、95%が移住者。
  また、アンガラ川河岸に、旧石器時代後期のマルタ遺
 跡、ブレチ遺跡がある・・
  また、各地に新石器時代青銅器時代の遺跡がある。
  また、紀元前3世紀末には、匈奴(きょうど)が、シベリ
 アをその領土に加えている。
.
1774年、米中貿易の最初
  アメリカは、アメリカの東部に産する「野生の朝鮮ニ
 ンジン」を、アメリカ船「エンプレス・オブ・チャイナ」
 に積み、中国・清の広東へ向かった。
  これが、米中貿易の最初だった。
  ペリーが、日本に来る79年前の事だった。
  イギリスの弟分のアメリカの「自立へ向かっての動き」
 だった。
  そして、この頃から、アメリカは、急速な発展をして
 行く。
.
19世紀、イギリス帝国とロシア帝国は、中央アジアを盗り
 合って戦った(グレート・ゲーム
  砂漠や大山脈が舞台となったこの戦いは、探検隊めい
 た戦いだった。
  この中央アジアの覇権を巡るロシア帝国とイギリス帝
 国の敵対関係・戦略的抗争は、一体化して行く世界にあ
 って、空白域となっていた地を巡る戦いだった・・
  そして、これをグレート・ゲームと称する。
  その主とするところは、アフガニスタンの争奪抗争で、
 舞台は、コーカサスからチベットにおよぶ広大な地域に
 およんだ。
  これに、アメリカや中国が加わり、このグレート・ゲ
 ームは、今なお引き継がれていると言える。
  一般的には、1800年代初頭に始まり、1907年の英露協
 商協定をもって終結したとされている。
  この第1期の中に、香港・上海に拠点を得て、海上から
 清朝を侵略したイギリス帝国と・・
  シベリアに鉄道を敷設し、満洲から清朝を侵略したロ
 シア帝国との競争が・・
  中国・朝鮮・日本といったアジア諸国を巻き込んで争
 われた・・極東において進行した。
  (参考)英露協商協定:1907年8月 31日、イラン、ア
     フガニスタン、チベットに関してイギリスとロ
     シアが結んだ協約。
      アジアにおける両国の利害対立から、日露戦
     争に際しても、イギリスはロシアに敵対的な外
     交政策をとった。
      しかし、ロシアの敗北、ドイツの強硬な世界
     外交をみて、中東における英露の勢力範囲を調
     整し、ドイツ包囲の協商網の実現をはかろうと
     し、1906年から交渉を進め、ペテルブルグで協
     約を成立させた。
      内容は・・
     (1) イランについては、テヘランを含む北部お
      よび中部をロシアの、南東部をイギリスの勢
      力範囲とし、その間に緩衝地帯をおく。
     (2) アフガニスタンについては、イギリスの勢力
      範囲とする。
     (3) チベットについては、中国の宗主権を認め、
      内政不干渉を守る、など。
     この協商の結果、ドイツ包囲の英仏露三国協商
     が成立した。
.
1855年2月7日、日露通好条約で、国後島択捉島が、日本
 の領土と確定した。
  日米和親条約に続き、下田で日本側全権・筒井政憲(ま
 さのり)・川路聖謨(かわじとしあきら)と、ロシア特派大
 使プチャーチンが調印した日露間の和親条約。
  国境を択捉(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島の間とし、
 樺太(からふと)(サハリン)には国境を設けないとした
  (日本の主権がおよぶ混住の地とした)
  国境を北緯50度を国境とすることを議題とした。
  また、ロシア船のために箱館(はこだて)、下田、長崎
 を開き、船の修理と薪水(しんすい)・食料・石炭の供給
 をすること、および、箱館、下田のうち一港に領事を置
 くことを定め、居留民は相互に本国の法で処分する双務
 的領事裁判権を認めた。
  1858年、安政五か国条約の一つとして日露間に修好通
 商条約が結ばれたが、この条約も他の諸国との条約と異
 なり、領事裁判権最恵国条款が双務的であった。
.
1866年10月、丙寅(へいいん)の洋擾(ようじょう)
  李氏朝鮮フランス帝国は戦いとなった。
  この時の朝鮮の近代化は遅れていて、近代的な軍隊と
 戦った最初の経験となった。
  しかし、戦いは、文殊山城の戦いと鼎足山城の戦いに
 勝利した朝鮮軍側の優位に進んだ。
  また、同時期に発生したゼネラル=シャーマン号焼き
 討ち事件によるアメリカ合衆国の侵略介入行動が阻止さ
 れた(辛未洋擾)
  アメリカの武装商船シャーマン号が交易を求めて大同
 江を遡上して侵略し、交戦も行ない、最後は平壌付近で
 焼き沈められ、乗組員の全員が戦死した。
  アメリカ船やフランス艦隊が朝鮮へ侵略した際に、柳
 麟錫(りゅうりんしゃく)は朝鮮国王へ意見書を提出す
 る斥和上疏運動を行なった。
  尚、この後、朝鮮は孤立路線を取る・・そして、この
 10年後に結ばれれる日朝修好条規が締結され、朝鮮は目
 覚める。
.
1867年8月28日、アメリカの領土欲・・ミッドウエイ諸島の
 侵略・領有など・・
  領土拡張欲に乗っかり、この年、アラスカをロシアと
 談判し、買収した(ロシアが持ち主などではないアラス
 カを、買うという演技をした)。
  そして、続けて、アリューシャン列島を経て、満州
 竜江(こくりゅうこう)に至る電信線(海底ケーブル)
 の架設を企て・・、
  さらに、この年・1867年、ハワイ王国のミッドウェー
 諸島を侵略し、領有し、島名を改名した。
  そして、ウィリアム・マッキンリー大統領と、セオド
 ア・ルーズベルト大統領の両大統領の時代(1897年~1909
 年)からアメリカの帝国主義の政策が強くなった。
.
1881年アメリカが、海軍の軍備拡張に乗り出した。
  「国益を確保したい」。
  美しく言えば上記のような言い方となるが、欲に絡ん
 で『儲けたい』ということだった・・金が欲しいという
 ことだった。
  西欧列強各国は、これで競って来ていた。
  何も人類社会を「良くしよう」などという頭は微塵も
 無かった。
  その西欧列強の競いには、当然、武力の軋轢(あつれ
 き)が生じた。
  その態度の前提に・・「自分たちは進んだ武力を持っ
 ている」という卑怯な卑劣な前提があった。
  そこで、さらに、西欧列強各国は、自国の武力を研ぎ
 澄ます事に専念した。
  そして、スエズ運河が出来て・・出やすくなったアジ
 アがその収奪の地となった・・儲けの場となった。
  この様なヨーロッパ各国が、列強の国々が、アジア諸
 国を植民地とした・・
  この様なこの頃・・盛んに美味しい汁を吸うヨーロッ
 パ諸国の巧い行為をを見ながら・・アメリカは出遅れて
 いた・・出遅れてやって来た。
  残っている所は・・中国(支那)しかなかった。
  アメリカは、中国やアジアの儲けの場へ行くために「
 パナマ運河」を拓(ひら)く必要性を考えた(1914年、
 開通)。
  しかし、その前に、パナマ運河を我が物とするまでに、
 没落したとはいえ覇権を誇示するスペインの「カリブ海
 があった。
  そして、その海域の「キューバ」は、盛んにスペイン
 へ貢(みつ)がされていた・・キューバは、収奪を行な
 っているスペインの植民地だった。
  アメリカは、そのスペインを叩かねばならないと思っ
 た・・
  その為にも、「海軍力の増強の必要性を痛感するアメ
 リカ」だった。
  アメリカは、1881年から、海軍拡張を行なった。
  そして、海軍力が整った1898年、アメリカは、スペイ
 ンと戦争を行なった(米西戦争
  そして、アメリカは、パナマ運河を通りその軍艦と共
 にアジアへと向かった。
  当然、戦いが発生するとしていた。
  この様なアメリカの動きの中で、「スペインの時代は
 去った」。
  このアメリカとスペインの戦争も、アメリカの汚い引
 っ掛けから戦争が始まった。
  アメリカは、歴史上この様な事ばかりをしている。
     ・
     ・
2007年9月12日、NHK関連団体の剰余金886億円、検査院
 が改善求めた(読売新聞、2007年9月12日)
.
2008年5月、東京国税庁がNHKに対して消費税約13億
 3千万円の申告漏れを指摘した(脱税行為)
.
2017年8月27日、「電磁パルス攻撃」の脅威 
  上空の核爆発で日本全土が機能不全に・・と報じられ
 た。(産経新聞、2017年8月27日)
  北朝鮮が、核兵器弾道ミサイルで挑発を続けるなか、
 もう一つの深刻な脅威として「電磁パルス攻撃」の可能
 性が指摘されている。
  上空で核爆発を起こし、広範囲で都市機能を破壊する
 もの・・
  北朝鮮は既に攻撃能力を持つとみられるが、日本の対
 策はほぼ手つかずで、専門家からは懸念の声が上がる。
  大規模停電の恐れ
  電磁パルス攻撃は、高度30~400キロの上空で核
 爆発を起こして行う。
  その際に生じたガンマ線が、大気を構成する窒素や酸
 素などの分子に衝突。
  分子に含まれる電子がはじき飛ばされて雷のような巨
 大な電流が発生するなどした結果、強力な電波の一撃で
 ある電磁パルスが地上に襲いかかる。
  電磁パルスは、送電線を伝ってコンピューターなどの
 電子機器に侵入。
  その電圧は5万ボルトに達するため、機器はIC(集
 積回路)の機能停止で損壊し、同時に大規模な停電も発
 生すると予測される。
  核爆発に伴う熱線や衝撃波は、地上には届かない。
  影響範囲は、爆発の高度や規模によるが、高度100
 キロで広島型原爆の3分の2に相当する10キロトン(
 TNT火薬換算)の場合、日本全土をほぼ覆う半径約
 1100キロにも達する。
  1962年に、米国が北太平洋上空で行った高高度核
 実験「スターフィッシュ・プライム」では、高度400
 キロの宇宙空間での核爆発で電磁パルスが発生。
  爆心から1400キロも離れた米ハワイ・ホノルルな
 どで停電が引き起こされ、その威力が実証された。
  空から襲う“津波
  現代社会は、電気なしでは成り立たない。
  電磁パルス攻撃によって大規模な停電が発生し、公共
 インフラを支える電子機器が損壊すれば、都市機能はま
 ひする。
  電話やインターネットなどの通信やガス、水道の供給
 が停止。
  飛行中の航空機が操縦不能になったり、電力を絶たれ
 た原子力発電所が制御不能に陥ったりする恐れも指摘さ
 れている。
  米国の専門家チームが、今世紀に入ってまとめたシナ
 リオでは、10キロトンの核爆弾がニューヨーク付近の
 上空135キロで爆発した場合、被害は首都ワシントン
 を含む米国東部の全域に及ぶ。
  損壊した機器を修理する人員や物資が大幅に不足し復
 旧には数年を要し、経済被害は最悪で数百兆円に達する。
  電磁パルスは健康に直接影響しないとされるが、食糧
 不足や病気などで死傷者は数百万人に上ると推定してい
 る。
  元陸上自衛隊化学学校長の鬼塚隆志氏は・・
  「電磁パルス攻撃は宇宙から襲う津波のようなものだ。
  被害を完全に防ぐことは難しくても、備えを固めるな
 どして減災に取り組む必要がある」と強調する。
  「日本は無防備」
  電磁パルス攻撃は、地上への核攻撃と違い、ミサイル
 の弾頭部分を大気圏再突入時の高熱から守る技術は必要
 ない。
  小型の核弾頭を搭載したミサイルを発射し、目標上空
 で起爆するだけだ。
  米国防総省の内部では、北朝鮮が既に核弾頭の小型化
 に成功したとの見方もある。
  成功が事実なら、弾道ミサイル人工衛星を搭載した
 ロケットが上空を通過するとみせかけ、日本の真上の宇
 宙空間で核爆発を起こすことも可能だ。
  日本の領土や領海に着弾する恐れがない場合、迎撃ミ
 サイル発射のタイミングを逃す可能性は十分にある。
  電磁パルス攻撃は、米国やロシア、中国も能力を保有
 しているとされる。
  核爆発以外の方法でも可能だ。
  米露中のほか、北朝鮮や中国の脅威にさらされる韓国
 や台湾でも、インフラや軍などの防護対策が進んでいる。
  これに対し日本は、取り組みが遅れている。
  電子戦に関わる研究開発を担う防衛省の電子装備研究
 所は、電磁パルス攻撃を受けた場合に「(自衛隊の)指
 揮・統制機能が無力化される恐れ」があるとして、今秋
 にも防護技術の動向調査を始める。
  だが、その内容は、攻撃の脅威に関する調査や、防護
 技術の実現に向けた課題の明確化など基礎的な検討にと
 どまる。
  電磁パルスが、防衛装備品に与える影響に詳しい企業
 関係者は・・、
  「日本には、電磁パルス攻撃への備えがまともに存在
 しない。
  社会全体が無防備な現状は非常に危険だ」と警鐘を鳴
 らす。
.
2017年9月11日、電磁パルス攻撃
  産経ニュース(2017年9月11日)に以下のことが記され
 ている(抜粋)
  北を「石器時代」に戻す米国の「贈り物」電磁パルス
 攻撃受けるのは金正恩氏 地中貫通核爆弾も!
  北朝鮮が「石器時代に戻る」可能性が浮上している。
  地中貫通核爆弾は後回しにし、まずはEMP攻撃とは
 何かの復習・・
  EMP攻撃は、高度30~400キロの上空での核爆
 発を起点とする。
  その時生じたガンマ線が大気を構成する窒素や酸素な
 どの分子に衝突。分子中の電子がはじき飛ばされて雷の
 ような巨大な電流が発生するなどした結果、強力な電波
 の一撃であるEMPが地上に襲来する。
  「宇宙より押し寄せる津波」に例えられるゆえん。
  EMPは送電線を伝ってコンピューターといった電子
 機器に侵入。
  電圧は5万ボルトに達するので、機器はIC(集積回
 路)の機能停止で損壊し、同時に大規模停電にも見舞わ
 れる。
  影響範囲は爆発の高度や規模によるが、高度100キ
 ロで広島型原爆の3分の2に相当する10キロトン(T
 NT火薬換算)のケースでは、日本全土をほぼ覆う半径
 約1100キロにも達する。
  現代社会は電気なしでは成り立たない。
  大規模停電で公共インフラを支える電子機器が損壊す
 れば、都市機能はマヒする。
  携帯電話&電話&インターネットなどの通信やガス&
 水道の供給が停止。
  飛行中の航空機が操縦不能になり、電力を絶たれた原
 子力発電所が制御不能に陥る。
  自衛隊・警察・消防の指揮・命令系統や金融機関も機
 能不全となる。 
  EMP攻撃は地上への核攻撃と違い、ミサイルの弾頭
 部分を大気圏再突入時の超高熱から守る素材や突入角度
 制御に関わる技術は必要ない。
  小型の核弾頭を搭載したミサイルを発射し、目標上空
 で起爆するだけ。
  米国防総省では、北朝鮮が既に核弾頭の一定程度の小
 型化に成功し、EMP攻撃能力を備えたと確信している。
  この恐るべき兵器を米国は当然、研究・開発し、実戦
 段階まで昇華している。
  実際、米国は1962年、北太平洋上空で高高度核実
 験《スターフィッシュ・プライム》を実施、高度400
 キロの宇宙空間での核爆発でEMPを発生させた。
  ところが、爆心より1400キロも離れた米ハワイ・
 ホノルルなどで停電が引き起こされ、予想通りの「魔力」
 が実証された。
  米国の専門家チームが近年まとめたシナリオでは、10
 キロトンの核爆弾がニューヨーク付近の上空135キロ
 で爆発すると、被害は首都ワシントンが所在する米国東
 部の全域に及ぶ。
  損壊した機器を修理する技術者や物資が大幅に不足し、
 復旧には数年を要し、経済被害は最悪で数百兆円に達す
 る。
  EMP攻撃で、北朝鮮の核・ミサイル施設&基地を含
 む軍事拠点や各種司令部&各部隊間をつなぐ電子・通信
 機器=指揮・統制システムを不通にできれば、もはや戦
 (いくさ)はワンサイド・ゲームと化す。
  その上、EMP攻撃敢行のハードルは、核爆弾の直接
 攻撃に比べハードルが低い。
  EMPの場合、核爆発に伴う熱線や衝撃波は地上には
 届かない。
  EMPは被攻撃側の人々の健康に直接影響しない。
  半面、食糧不足や病気などで数百万人単位もの死傷者
 は出る。
  病院をはじめ、無線などの情報通信やテレビ・ラジオ
 もマヒし、被害情報把握も救援・復旧活動も困難に。
  信号機も突如消え、交通事故や火災で死者を増やし、
 大パニックに陥るため。
 こうした、一般の北朝鮮国民への被害をどう局限し、国
 際世論の批判をかわすか、米国は今、シミュレーション
 を繰り返している。
  もちろん、米国にとり最優先事項は人道ではなく、E
 MPの届きにくい地下坑道に陣取る北朝鮮朝鮮人民軍
 の通常・核兵器による報復の芽を摘み取る点にある。
  核施設の制御不能回避も大きな課題だ。
  以上の課題も、米国は着々と解決している。
  ところで、北朝鮮の韓大成・駐ジュネーブ国際機関代
 表部大使は5日、あろうことかジュネーブ軍縮会議で「
 米国が北朝鮮に圧力を加えようと無駄な試みを続けるな
 ら、わが国のさらなる『贈り物を受け取ることになる』
 だろう」と演説した。
  が、現実には『贈り物を受け取ることになる』側は、
 北朝鮮になるかもしれない、ということだ。
  20階建て鉄筋ビルを貫通して爆破する「大型貫通爆
 弾=MOP」
  さて、《地中貫通核爆弾》を論じたい。 
  バラク・オバマ政権は、政権の最終盤に入って、よう
 やく北朝鮮の脅威に気付いた。
  昨年11月の政権引き継ぎ会談で、当時のオバマ大統
 領は、大統領選挙を制したドナルド・トランプ次期大統
 領に、「米国の最大脅威は北朝鮮」だと、自戒を込めて
 伝えた。
  米国防総省も引き継ぎ直前、秘中の秘たる《地中貫通
 核爆弾B-61タイプ11》の模擬弾投下試験を超異例
 にも公表。
  大統領選で激突していたトランプ候補とヒラリー・ク
 リントン候補に、暗に覚醒を促した。
  地中貫通核爆弾B-61タイプ11こそ、朝鮮人民軍
 がこもる地下要塞殲滅の切り札だ。
  朝鮮人民軍の指揮・統制施設や、核・生物・化学兵器
 &弾薬の貯蔵施設といった軍事中枢は、地下深くにあっ
 て分厚い岩盤+ベトン(コンクリート)で鎧われ、坑道
 も十重二十重に掘られている。
  陸軍の火砲や地対艦ミサイルも坑道内を移動して、射
 撃時に「顔」を出す。
  空軍の軍用滑走路は低山の斜面をえぐって造られ、軍
 用機は通常、滑走路横の低山内の坑道に格納される。
  海軍基地も、沿岸部をくりぬいた坑道内に小型艦艇/
 小型潜水艦・潜水艇/半潜水艇を収容する。
  この種の海軍艦艇は、戦端が開かれる前や直後に工作
 員や特殊作戦部隊員を乗せ韓国近海に侵入、上陸して要
 人テロや軍・政治・経済中枢破壊を実行するプラットフ
 ォームになる。
  2012年に、国際問題誌ディプロマットは《軍事衛
 星の監視を外れる地下航空基地は20カ所、地下砲兵陣
 地は数千カ所》と報じる。
  米軍は、国土が要塞化されている北朝鮮の特性を受け、
 地中貫通爆弾+核爆弾の組み合わせによる北攻撃を立案
 している、と筆者はみる。
 (1)非核弾頭を搭載した通常型地中貫通爆弾=バンカ
   ーバスター
 (2)核爆発力を抑えた「小さな核爆弾=ミニ・ニュー
   ク(戦術核)」
 (3)通常型地中貫通爆弾では破壊できぬ深く堅牢な地
   下施設を破壊する、「小さな核爆弾」を装填した地
   中貫通核爆弾
  上記の3種類の使い分け・・
  使い分けは、作戦と予想される戦況によって変わる。
  軍用機や潜水艦を敵の攻撃から防護する掩体壕を撃ち
 抜く地中貫通爆弾=バンカーバスターは第2次世界大戦
 (1939年~1945年)時には実戦投入されていた
 が、イラククウェート侵攻で勃発した湾岸戦争(19
 91年)でも、イラク軍の地下司令部を無力化すべく使
 用された。
  しかし、北朝鮮とイランが進める核・ミサイルの脅威
 が高まると、従来の地中貫通爆弾では地下施設に対して
 破壊力不足だとの実験・シミュレーション結果が判明し
 た。
  そこで開発した切り札が、格段に大きな破壊力を有す
 《大型貫通爆弾=MOP》である。
  米空軍のB-2ステルス戦略爆撃機の弾倉に搭載され
 るMOPは、1万メートルの高高度で投下され、猛烈な
 重力加速度を付けて落下する。
  弾頭部分は、弾着時の強烈な衝撃に耐えるように高強
 度鋼を鍛造して仕上げている。
  GPSや慣性航法装置による自律誘導で、発射された
 爆弾の半数が目標の2メートル範囲内に着弾する。
  貫通力は、一般の分譲マンションが使用する鉄筋コン
 クリートの強度に比し、はるかに硬い標的を相手にして
 も、60メートル(20階建てビルに相当)も「深掘り」
 する。
  その倍の強度=超高層マンションの基礎部分の柱に使
 われる鉄筋コンクリートでも8メートルを突き進む。
  標準的な硬岩なら40メートル下まで達する。
  限界深度に到達後に起爆して、地下施設を吹っ飛ばす。
  大型貫通爆弾=MOPのパワー・アップ費&生産費や、
 MOPのプラットフォームとなるB-2ステルス爆撃機
 の改修費について、米国防総省は2000年代に入り近
 年でも頻繁に請求 → 認められている。 
  対する北朝鮮の核・ミサイル施設は地下深く、鉄筋コ
 ンクリートや硬岩、鋼鉄などを巧みに組み合わせて構築
 されている。
  しかも、時間の経過とともに地下施設は補強され、強
 度を増している。
  かくして、米国が「克服しなければならない課題」は
 多数残っている。
  けれども、「克服しなければならない課題」は着実に
 「克服」されているもようだ。
  30センチ以下の動く対象を捉える米国の偵察衛星
 移動式発射台のワダチをさかのぼり、核・ミサイル格納
 トンネルを特定する。
  軍事利用している衛星の種類には資源探査型があり、
 地質構造・地表温度を識別して、地下施設・坑道の構造
 や深度が一定程度判別可能だ。
  こうして長年蓄積し続けた膨大な量の偵察・監視資料
 を精緻に総合的に再分析する。
  すると、見えなかった地下施設が浮かび上がる。
  例えば、地下施設建設前と建設後で、地上地形がどう
 変化していったか/地形変化のスピード/掘削機の能力
 割り出し/トラックで運び出される土砂の量/トラック
 で搬入されるセメント・鉄骨・鋼板などの量/労働者数…
 など。
  地下施設といえども、兵器や技術者、軍人が出入りす
 る出入り口は絶対に必要だ。
  換気施設も然り。
  絶好の監視対象であり爆撃ポイントになる。 
  北朝鮮金正恩朝鮮労働党委員長の秘密居所は、地
 下150メートルともいわれ、MOPですら荷が重い恐
 れがあるが、先述の《地中貫通核爆弾B-61タイプ11》
 であれば確実に粉砕する。
  《電磁パルス(EMP)攻撃》と同様、地中貫通核爆
 弾B-61タイプ11は、他の核搭載兵器に比べ、実戦
 投入のハードルは低い。
  爆発威力を抑えれば、地下での起爆であり、一般国民
 の住む地上の被害を抑え、核汚染被害も局限できる。
  地下に蓄えられる朝鮮人民軍の生物・化学兵器も、核
 爆発力を抑えた「小さな核爆弾=ミニ・ニューク」が発
 する熱波で蒸発 → 無害化に一定程度貢献しよう。
  やっぱり、「贈り物」が届く先は金正恩委員長が震え
 ながら閉じこもる「地下の住まい」・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)637E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)

題:(増補版)637E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年、スポーツ
・第1回国際オリンピック大会
  近代オリンピック競技大会の第1回大会が、フランス
 のピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって、ギ
 リシャのアテネで開催された(1896年4月6日~1896年4月
 15日)
  開会式は、アテネのパンアテナイ競技場に5万人の観
 衆を集めて行なわれ・・参加国は欧米先進国の14か国だ
 った。
  選手は、男子のみで280人で、古代オリンピックと同じ
 ように女子禁制の大会だった(参加人数241人説あり)
  実施競技は、陸上、水泳、体操、レスリング、フェン
 シング、射撃、自転車、テニスの8競技43種。
  ヨットも予定されたが悪天候のため中止になった。
  ウエイトリフティングは、体操の一種目として実施さ
 れた。
  観衆に人気の陸上競技は、アメリカが圧倒的な強さを
 発揮し、全11種目のうち9種目において優勝した。
  ギリシャの財政事情によって金メダルは無く、優勝者
 には銀メダルが、第2位には銅メダルが、第3位には賞状
 が授与された。
  記録は、100メートル陸上競技男子は12秒0で、アメリ
 カのトーマス・バークが優勝した。
  金メダル獲得数、アメリカ(11)、ギリシャ(10)、
 ドイツ(6)、フランス(5)、イギリス(2)、ハンガリ
 ー(2)、オーストリア(2)、オーストラリア(2)、デ
 ンマーク(1)、スイス(1)、混合チーム(1)
  オリンピック賛歌は、この第一回アテネオリンピック
 で演奏されたもの・・スピロ・サマラス作曲、コスティ
 ス・パラマス作詞
・野球の日本最初の国際試合(1896年5月23日)
  旧制一高ベースボール部対横浜在留アメリカ人が、横
 浜公園での対戦した。
  結果は29対4で、一高の大勝した。
  この時、日本は捕手以外は素手でやった。
  この頃の野球は、雨が降ると蓑笠(みのかさ)を付け、
 頭には白はちまき、腰に越中フンドシ、ワラジばきとい
 ういで立ちであった。
  ある遊撃手が袴(はかま)を着て出場し、「礼節を知
 る選手」と相手チームより絶賛されたが、実際はゴロを
 後逸しないためであった。
  当時、ストライク・ゾーンが三つあり、目から胸まで
 を「ハイボール」、腰までは「フェアボール」、膝まで
 は「ローボール」と言った。
  そして、打者は審判に向かい「余はハイボールを欲す」
 と予告し、そこに球が来なければ「ボール」になった。
  「相手の弱点を狙わず。欲するものを与えて勝負する」
 のが正々堂々の試合とされたという・・
  尚、大負けしたアメリカチームは、再試合を申し込ん
 で来て、アメリカチームは、アメリカ東洋艦隊の選りす
 ぐりのオールスターチームを結成し、再戦したが、日本
 チームが32対9で返り討ちにして連勝した。
  正岡子規は、この第一高等中学の野球選手だった、そ
 して、1890年に卒業し、帝国大学文科に入学している。
  記録によると(1896年分の外国試合み記載)・・、
  1896年5月23日、在留米国人と横浜で試合して29対4で
   日本が勝利
  1896年6月5日、在留米国人と横浜で試合して32対9で
   日本が勝利
  1896年6月27日、米軍艦デトロイト号乗組員チームと
   向ヶ丘で試合をして22対6で日本の勝利
  1896年7月4日、在留米国人と米軍艦オリンピア号の連
   合チームと横浜で試合をして12対14で日本の負け、
   この試合にはアメリカチームにプロ野球選手のチャ
   ーチが入っていた。
・日本初のボクシングジムができる。
  米国帰りの元柔道家・齋藤虎之助とジェームス北條の
 2人が、横浜市石川町に日本初のボクシングジム「メリケ
 ン練習所」を開設した。
  そして、1902年に、横浜山手公会堂(パブリックホー
 ル)でボクシングの試合が行われた。
  そのことを時事新報は・・
  「目下横浜市山下町グランドホテル滞在中なる拳闘家
 スラヴィン氏と同市喜楽座に演芸中なる怪力家ルシフア
 ー氏との拳闘仕合は既報の如く愈々本日午後五時三十分
 より同市山手町パブリックホールに於て開会せらるゝ筈
 にて、当夜は本邦駐在英国公使マクドナル氏も見物する
 由」
.
1896年、伝染病
赤痢が大流行をして、全国の死者数が22,356人となる。
 志賀潔は、この翌年の1897年12月25日に、苦心して赤痢
 の病原菌を発見した。
・腸チフスが流行し、死者数が9,174人となる。
.
1896年、天変事変
・明治三陸地震・大津波、死者2万人(1896年6月15日)
 午後7時32分30秒、日本の岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜
 石市)の東方沖200kmの三陸沖(北緯39.5度、東経144度
 を震源として起こった。
 マグニチュード8.2~8.5の巨大地震
  更に、地震に伴って、東北地方太平洋沖地震前まで本
 州における観測史上最高の遡上高だった海抜38.2mを記録
 する津波が発生し、甚大な被害を与えた。
  (参考)津波の遡上高:陸を駆け上って到達した高さ。
  (注意)この地震は、震度分布に基づいて長らくマグ
     ニチュード7.6とされてきた・・しかし、津波
     大きさを考慮して数値が改められているた「理
     科年表 平成18年」
  大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7
 分に記録された。
  遡上高は、気仙郡吉浜村(旧:気仙郡三陸町吉浜、現:
 大船渡市三陸町吉浜)で22.4m、
  同郡綾里村(旧:気仙郡三陸町綾里、現・大船渡市三
 陸町綾里)で21.9m、
  綾里湾の奥では入り組んだ谷状の部分を遡上して、日
 本の本州で観測された津波では当時最も高い遡上高であ
 る海抜38.2mを記録する。
  この時、ハワイへも2.4m~9.14m、カリフォルニアに
 2.90mの津波が到達している。
  ハワイでは波止場が破壊され、住宅の複数棟が流失し
 た(カリフォルニアの被害記録はなし)
信濃川の堤防各所が決壊した(1896年7月22日)
  信濃川の洪水として有史以来の過去最大規模。
  破堤地にちなんで「横田切れ」と呼ばれている。
  破堤してから21日後でも、新潟市新通は、まだ浸水し
 ていた。
  長岡市中之島は、浸水が引かないため堤防上に小屋を
 建てて生活する人も居た。
  「横田切れ」による被害は、死者43名、浸水家屋43684
 戸、浸水耕地58254ヘクタール。
  新潟市から長岡市のほぼ全域が浸水する大水害だった。
  この後、原田貞介が大河津分水工事改良案を提出し、
 1909年、原田案をもとに、第二期大河津分水路工事が建
 設された。
  難工事で100名以上の殉職者を出しながら、1922年に、
 通水に成功し、2年後の1922年、皆が待望し悲願した完成
 に至った。
  この分水によって、この後、信濃川本流が破堤するこ
 とはなくなった。
  (史料)大河津水位14尺4寸(4.32m)となる。
      各地の被害は・・木津に破堤あり亀田郷は皆
     無作となる・・白根郷では赤渋字赤池の安中542
     の上手が破れ、新築早々の五幣氏宅は根こそぎ
     流される。横田でも破堤し泥海となった(大洪
     水:横田切れ)鷲ノ木の煉瓦水門が損傷し漏水。
  初期の1918年~1941年に、千曲川第一期補修工事が進
 目られていたが、洪水は1年おきぐらいにどこかで起きる
 という状況で、苦労させられていた。
  尚、現在も補修事業は進められている。
.
1896年、その他
勝海舟が、明治27年、28年事件の功により金盃一組下賜
 (氷川清話)
勝海舟、老衰につき辞表を奉呈す(氷川清話)
勝海舟、旨を伝え辞表却下される(氷川清話)
・臨時軍事費特別会計終結した。
 日清戦争の臨時軍事費特別会計が編成されたのが、1894
 年6月1日からだったが、1896年3月末日で終結した。
・陸軍を13師団に拡張した。
 陸軍は、師団を6個増設して13の師団・師管を作ることに
 なった。
 この軍備増強のため札幌に陸軍第7師団 が編成された。
 北海道の開拓と警備を担った屯田兵がその基盤となった。
 日本は、北海道を屯田兵が苦労して開拓したのだった。
 初代師団長は永山武四郎。
・広島の大本営が解散した(1896年4月1日)
 1894年8月8日、広島城内にあった第五師団司令部の建物
 が明治天皇陛下の広島の御滞在所とされた。
  陛下は、1894年9月15日から1895年4月27日までの7か月
 間、この地に御滞在された。
 そして、大本営は、戦後処理の終え、この日に解散した。
自由党と政府の提携がなり、板垣退助が内相に就任した。
 第9議会を前に政府との提携を模索していた自由党は、
 1895年11月22日、立憲政体と責任内閣の方針を同じくす
 るものとは相共に連携するとの「宣言」を発表した。
  この宣言は、藩閥、とりわけ伊藤博文との提携があり
 うることを示した。
  伊藤首相は、これを受けて閣僚を集めて演説を行った。
  自由党の方針は、内閣と同じく立憲政体の完成にあっ
 て、「譲るべきは譲り」「相共に謀るべき」であると主
 張した。
  そして、両者の提携の必要を訴えた。
  自由党は、第9議会に与党として臨み、1896年4月2日に
 は、板垣退助が離党の上、内相として入閣した。
・第25代アメリカ大統領のウィリアム・マッキンリーが、
 大統領選で勝利した(1896年11月3日)
  共和党ウィリアム・マッキンリーが、民主党のウィ
 リアム・ジェニングス・ブライアンを破った。
  歴史家達は、この選挙をアメリカ史の中でも最も劇的
 な選挙戦の一つと見た。
  ブライアンより10倍もの金を遣ったマッキンリーだっ
 た。
  また、マッキンリーの共和党選挙対策本部長マーク・
 ハンナは、350万ドルの予算に裏付けられた多くの近代的
 選挙技術を発明して実行した。
  ブライアンは36歳であり、ブライアンの演説は非常に
 劇的だった・・主要政党に大統領候補に指名された者と
 しては最も若いものだった。
  多くの実業家や銀行家は、ブライアンの人民主義的言
 葉遣いや金本位制を終わらせることを支持していること
 を恐れていた・・故に、資金集めに苦労する。
  マッキンリーは、南北戦争の退役兵だった。
  マッキンリーと共和党は、金本位制アメリカの経済
 には必須だと言った。
  共和党は、ブライアンの顔が書かれた偽1ドル札を印刷
 することまでして、ブライアンを揶揄した。
  ブライアンの資金力は10分の1だった。
  ブライアンの魅力は、背の高いことと、人を魅了する
 雄弁術の演説であった・・信念と情熱を表現した・・彼
 を見るため莫大な群衆が集まった。・・南部や西部では
 支持者がパレードをし示威行動をして出迎えた。
  これに対しマッキンリーはオハイオ州の自宅前で、「
 玄関前」選挙運動を行なった。
  金の勢いで、有権者を自宅前に列車で連れて来た。
  有権者集団は歓待された・・その集団へ向かって演説
 がなされた。
  そして、マッキンリーの代わりの国内遊説者を、国中
 に旅させた・・そして、ブライアンを危険な急進者と貶
 (おとし)めさせた。
  ブライアンが、もし選挙に勝てば、工場は閉鎖し労働
 者は職を失うことになるという張り紙を張ったりした。
・神戸でキネトスコープ(のぞき眼鏡式活動写真)の上映
 が始まった(1896年11月17日)(11月25日説あり)
  シネマトグラフよりも先に、エジソンが発明したキネ
 トスコープが1896年に渡来した。
  これは覗き眼鏡式の動画再生装置であるので・・、
  一度に、複数の者が、スクリーン上の動画を共有する
 という今日の上映スタイルからすれば、まだ、映画では
 ないとされるが、人によってはこれを日本映画の歴史の
 はじまりとしている。
  特に、その初公開の場所が神戸神港倶楽部であり、昭
 和38年に「12月1日」を「映画の日」としたのは、11月25
 日にキネトスコープが、神戸で一般公開されたのに因ん
 でのこと・・
日本銀行本店が竣工した(1896年2月29日)
  設計:辰野金吾
  そして、永代橋のたもとから、新築された東京都中央
 区日本橋本石町へ移転した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:スエズ運河パナマ運河も・・特定の国の利権の
   ために使われた・・
.
紀元前20万年頃~紀元前19万年、ホモ・サピエンス(現在
 のヒト)が出現した。
.
紀元前12万年、デニソワ人の旧人が日本列島に居た。
.
紀元前12万年前、島根県出雲市の砂原遺跡
  砂原遺跡の前期旧石器などの遺物が発見されている。
.
紀元前10万年頃、現代人(ホモ・サピエンス)が、アフリ
 カを出て、世界各地に拡がった。
  日本列島での人類の足跡は、9〜8万年前(岩手県遠野
 市金取遺跡・中期旧石器)に遡(さかのぼ)る。
  現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前にアフリ
 カを出発した(別説)
.
紀元前7万年~紀元前1万年、ビュルム氷河期
  この時、ヨーロッパは氷の中だった。
.
紀元前7万年、ヒトが、衣服を着るようになった。
.
紀元前6万年~紀元前5万年、アフリカを出た私たちホモ・
 サピエンスの祖先は、6万年前〜5万年前頃には、東アジ
 アにまで到達していたと考えられている。
.
紀元前6万年~紀元前4万年、大陸と地続きだった日本列島
 に、あらゆる方向から人類がやって来た。
.
紀元前5万年、ホモ・サピエンスが全地球的な拡散をはじめ
 たのは、今から5万年前頃であった(別説)
.
紀元前5万年、日本の遺跡・竹佐中原遺跡
  長野県飯田市で、竹佐中原遺跡が発掘調査された。
  この遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が
 出土した。
.
紀元前4万年、この頃になるとこのホモ・サピエンスがアジ
 アへ到達する。
  大陸の形は現在とほとんど変わらないが、氷期・間氷
 期の氷床の拡大・縮小による海水準変動に伴って、海岸
 線の位置が移動した。
  更新世の後期では、海水準にして百数十メートルの変
 動があった。
  海水準が低下した時期は、現在、浅い海である海域の
 多くが陸地となっている。
  また、日本列島は、氷床によって大陸と陸続きだった。
  完全に渤海は氷床に埋まり、また、黄海も完全に氷床
 に埋まり、東シナ海も北半分は氷床に埋まっていた。
  また、対馬海峡も氷床で埋まり、台湾も大陸と氷床で
 埋まり地続きだった。
  人類は、容易にこの氷床上を歩いて日本に渡って来れ
 た。
  また、樺太と大陸は地続きで、樺太から北海道、本州、
 四国、九州は、氷床があり歩いて渡れる状態にあった。
.
紀元前4万年、研究者の多くは、4万年前頃に、旧石器時代
 の遺跡が急激に増えることから、現代人につながる人々
 が少なくともこの頃に日本で暮らしていたと考えている。
.
紀元前4万年、日本へアフリカから出発した人類が到達した。
  そして、共通の祖先を縄文人とする日本人が形成され
 て行った。
  アイヌも沖縄も「同じ共通の日本人の祖先を持つ」と
 証明されている。
  政府が、アイヌを日本人の祖先と議決したことは大間
 違い。
  「是非、訂正の議決を再度する様に提言する」。
  現代にいたる4万年という長い年月、この人類は日本列
 島を縦横無尽に行き来し、交雑し、日本人を形成して行
 った。
  この交雑の仕方に少しづつ差異はあるものの、アイヌ
 を含む沖縄の人びとも縄文人としての共通の祖先を持つ
 人種と証明された。
.
紀元前4万年、こんなに遠い昔に・・日本人は日本列島にや
 って来た・・
  ウルム氷期と言われる約7万年前~1万年前のこの氷期
 の中の紀元前4万年に、日本人は日本列島に来た。
.
紀元前4万年~紀元前1.5万年、モンゴロイドの人々がアメ
 リカ大陸へ渡った。
     ・
     ・
紀元前3世紀~紀元前2世紀頃、この頃の弥生時代早期の新
 町支石墓群で、弥生人縄文人は融合したことが確認さ
 れた(争っていたのではない)
  福岡県糸島市の新町支石墓群(しせきぼぐん)。
  玄界灘の入江、引津湾の砂浜に営まれた弥生時代早期
 ~前期の墓地で、1986年度の発掘調査で、支石墓や甕棺
 (かめかん)墓など57基が確認された。
  支石墓は、墓穴を覆う大きな上石を数個の石でテーブ
 ル状に支える朝鮮半島の墓制で、水田渡来期の九州西北
 部に分布する。
  副葬品にも、半島系遺物が多いことから渡来人の墓だ
 と理解されていたが、ここから見つかった人骨は、低顔
 (丸顔)、低身長で抜歯痕がある縄文系だったことが驚
 きもって発表された。
  「この遺跡の発見を契機に、弥生文化は、渡来人が縄
 文文化を駆逐したのではなく、渡来人と稲作を受け入れ
 た縄文人との融合によって成立したと見れることになっ
 た」。
  ただ、この融合に至る過程で争いのあった痕跡もある。
  そして、融合に至った。
  この新町支石墓群は、2000年に、国の史跡に指定され
 た。
  ちなみに、弥生時代の終わりは3世紀。
     ・
     ・
1650年頃、イギリスは、一度、共和国になった。
  その時、王室は?
  (イギリス王室の上に君臨するデンマーク王室)
  スペインは、何度も共和国になった。
  王室は、その都度、有為転変が激しかった。
  20世紀だけでも、何度か共和制になった。
  それ以外(ベルギー王室、オランダ王室、スウェーデ
 ン王室、ノルウェー王室)は、歴史が短い(せいぜい150
 年~170年、そして、その由来が、公爵や伯爵などから成
 り上がった王室)。
  イギリスとデンマークは、男子優先を断固として変え
 ていない。
  女帝は多くおいでになっても、明白に『中継ぎ』に徹
 しておられた。
     ・
18世紀、オーストラリア(シドニー湾)に上陸したキリス
 ト教徒のイギリス人は1200人で、すべてが囚人だった。
  この後、オーストラリアは、イギリスの政治犯やコソ
 泥などの囚人が、宗主国イギリスの国から送られる流刑
 地としての歴史が始まる。
  当時、オーストラリアには、先住民のアポリジニの方々
 が、推定で100万人が生活していた。
  しかし、南米・中米・北米メキシコ、および、それら
 の離島で繰り広げられたキリスト教徒スペイン人と、同
 行したキリスト教聖職者らによる殺戮・全滅の愚行と同
 様なことを、この地・オーストラリアにおいても、キリ
 スト教徒イギリス人は行なった。
  100万人が居ただろうという先住民アポリジニの方々は、
 またたく間の内に、このキリスト教徒イギリス人に虐殺
 され、駆逐されてしまった。
  狩猟でもやる様に、アポリジニの方々は撃たれ、殺さ
 れていった。
  先住民のアポリジニの方々は、4万年前、一説で、6万
 年前から住んでいて、立派な先住権があったが、まった
 く無視され、先祖代々の土地は奪われてしまった。
  キリスト教は、古い歴史の史料に、アフリカ黒人を「
 人とは見ない」というキリスト教聖職者の言葉が残され
 ているが、キリスト教の判断基準・教義からこのオース
 トラリアのアポリジニの方々の人権も無視された。
  今、約1900万人の人口のオーストラリア。
  その95パーセントは、アングロサクソン(コーカシア
 ン)で、アポリジニの方々は、その中の1パーセント(
 19万人)にも満たない。
  3分の2以上ものアポリジニの方々は、当時、殺戮され
 た。
  今、不毛の砂漠地帯に追いやられている。
  環境の悪さから、平均寿命が白人より20歳も短い50歳
 であり、失業率も白人の4倍以上と悲惨な状況となってい
 る。
  是非、「日本を捨てて、日本を知った」林秀彦著をお
 読みください。
.
1808年、スペイン国内に反乱が起きた。
  イギリスは、先行しているスペインを乗り越えたかっ
 た。
  また、同様に、イギリスには、乗り越えたい国にオラ
 ンダがあった。
  イギリスは、太平洋ではオランダを意識し、また、南
 アメリカではスペインと戦い、対立した。
  南米は、まだ、スペインの勢力圏だった。
  しかし、1808年に、スペインに国内反乱がおきると、
 スペインの国力は衰微し、衰弱した。
  そして、南アメリカの国々が次々と独立した。
  19世紀の初め、ボリビア、コロンビア、エクアドル
 ベネズエラ、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグ
 アイなどが独立した。
  そして、この頃、太平洋では、オランダが、インドネ
 シアの植民地の方々に対して、「強制栽培制度」という、
 オランダに都合の良い有利な農奴的な植民地支配をして、
 搾取政策で虐(しいた)げていた。
  インドネシアの方々は苦しめられていた。
  オランダにとっては、着々と植民地の収穫が上がると
 いう状況だった・・その分、インドネシアの方々は苦し
 んだ(これを助けに行くのが日本だった)。
  イギリスは、この時、中国(支那)で儲けたいという
 触手を伸ばして行く。
  そして、1840年~1842年に、アヘン戦争をけしかけた。
  また、1856年~1860年には、第二次アヘン戦争(アロ
 ー戦争)を卑劣にも仕掛け、何度も戦争を仕掛けた。
  そして、その度に、イギリスは利権を拡大し、勢力圏
 を拡大していった。
  そして、南アメリカには、スペインの勢力圏から逃れ
 て独立した国々があった・・残ったのが「キューバ」と
 「プエルトリコ」だった。
  この時点で、スペインの勢力を、また、権力を、もう
 一度、復活させようとする動き・・取り戻したいという
 活動が始められた。
  利害が一致するヨーロッパ諸国は、スペインに同調し、
 協力した。
  「独立などもってのほかだ」と南米諸国を元のスペイ
 ンの植民地状態に戻そうという反動が起きた。
  この時に、アメリカは黙っていなかった。
  この南米の地は、アメリカの利権が働く地で、勢力圏
 だと主張した。
  1823年、アメリカが「モンロー宣言」を発した。
  アメリカのジェームズ・モンロー大統領は、教書で「
 アメリカ大陸は、南も北もヨーロッパから独立した別天
 地だ」・・
  「ヨーロッパの干渉などは受け入れられない」と宣言
 した。
  このアメリカに同調したのが「イギリスだった」。
  アメリカとイギリスは利害が一致した。
  イギリスは、南アメリカ諸国を独立させた形で、スペ
 インから自由にさせて、自分の貿易相手国としたかった。
  ここへ、ロシアが迫って来る。
  シベリアに達したロシアは、アリューシャン列島から
 アラスカへ、そして、アメリカ大陸へと南下して来た。
  1588年、イギリスは、スペインの無敵艦隊を撃破して
 いて・・スペインの没落は始まっていたが・・南アメリ
 カからも衰退して行った。
  大西洋の勢力を失ったスペインは、まだ、太平洋では、
 マーシャル群島、カロリン群島、フィリピンなどを持っ
 ていた。
  1891年、日本は、硫黄島を領土に編入しようとした。
  この様な日本に、スペインは反対した。
  この時、日本は、尖閣諸島も領土に編入した。
  こちらは、どこの国からの異議は無く、何の問題も無
 く尖閣諸島の日本への編入は行われた。
  中国(支那)の清も何も異議を言わなかった・・当然
 という態度だった。
  「日本の領土だと記した中国(支那)の史料」も存在
 するくらいだ。
  硫黄島も、イギリスやアメリカとの意見のやり取りが
 あったが、「日本の領土が正当」となった。
.
1827年アメリカ政府が、1830年代に、小笠原諸島にアメ
 リカ住民ぞ送り込んだ。
  この行為に対し、イギリスが、アメリカに抗議した・・
 「小笠原諸島は、1827年に、イギリス人のティーチェ大
 佐という者によって占領済みだ」と。
  しかし、これも大間違いだった。
  このイギリスの言う1827年より遠い以前、230年以上も
 以前の1593年に、この小笠原諸島は、日本人の小笠原貞
 頼によって発見されていて、既に、日本の領土となって
 いた。
  小笠原定時は、小笠原の地に「日本領」の標識まで建
 てていた。
  アメリカは、この事を知っていて、イギリスにこの事
 を知らせ、了解させ・・この様な経緯もあって、小笠原
 は日本の領土となっている。
  しかし、ユーラシア大陸アムール川の流域や、樺太
 を探検した日本人探検家の間宮林蔵の事実は、ロシアは
 無視している。
  間宮林蔵は、何度も樺太などを探検し、樺太が島であ
 ることさえ発見している。
  この地は、実際は、日本の領土なのである。
.
1850年代、イギリスで「蒸気船」が発明された。
  それまでの「帆船」で、極東の日本に来るのは大変だ
 った。
  また、スエズ運河パナマ運の無い時代、アフリカの
 南端の喜望峰を回る以外、日本に至るルートは無かった。
  風待ちなどもあり、「極東」の名の通り極めて遠い日
 本だった。
  しかし、蒸気を動力として極めて自由な意思で日本に
 やって来ることが出来るようになった。
  日本の近海に、この期から頻繁に外国船が現れる様に
 なる。
.
1869年、スエズ運河が開通した。
  この恩恵を最大に受けたのがイギリスだった。
  この恩恵を最大に発揮させて、イギリスは、中近東を
 押さえ、インドを押さえ、チベット・ネパールを押さえ、
 ビルマ、オーストラリア、ニュージーランドなどを押さ
 えた。
  重要拠点のほとんどを、イギリスは押さえた。
  アメリカは・・出遅れた。
  植民地主義者の狡猾な侵略が始まった。
  この後、遅れて来たアメリカの帝国主義的な利権獲得
 のうごめきが始まる。
  これが戦争を起こさせる。
  また、残っている部分があった中国に、アメリカの自
 己主張が始まる。
  スエズ運河のような「アメリカの利権獲得、そして、
 利権拡大の運河」・・それはパナマ運河の開通を考えた。
  卑劣な画策の後、1914年、パナマ運河は開通した。
  スエズ運河から遅れること45年だった。
.
1944年、第二次世界大戦の帰趨が、連合国側の勝利で確定
 し始めるのに応じて、ユダヤ人難民問題が表面化し始め
 た。
  1944年末頃、ユダヤシオニズムとイギリスが、「マク
 ドナルド白書」をめぐって対立し始めた。
  ベングリオンは、ナチスの迫害によって生じた10万人
 のユダヤ人難民のパレスチナ移住を求めたが、イギリス
 政府の管掌する委任統治政府は受け入れを拒否した。
  ハガナーが救出したユダヤ人難民達は、パレスチナ
 キプロスの難民収容所に押し込まれてしまった。
.
1946年5月、第二次大戦後、パレスチナを調査していた米英
 合同調査委員会が、現地を視察し、ナチ・ドイツの迫害
 を逃れたユダヤ人難民10万のパレスチナへの即時受け入
 れを勧告したが、イギリスのベバン外相は、現地での抵
 抗は必死として反対した。
  ベバンは、「アメリカは、ユダヤ人を入国させたくな
 いのでパレスチナへの移住をすすめている」と拒否した。
  この頃、すでに、ユダヤ人の国家基盤は労働総同盟や
 ユダヤ基金ユダヤ機関を中心に、ほぼ完成していた。
.
2006年、エマニュエル・トッド氏へ、2006年の朝日新聞
 インタビューにおいて、
  「核兵器は、偏在こそが怖い」。
  「広島、長崎の悲劇は、米国だけが核を持っていたか
 らで、米ソ冷戦期には使われなかった」。
  「インドとパキスタンは、双方が核を持った時に和平
 のテーブルについた」。
  「中東が不安定なのは、イスラエルだけに核があるか
 らで、東アジアも中国だけでは安定しない・・
  日本も持てばいい」・・と述べ、日本の核武装を提言
 した。
  さらに、トッドは、ドゴール主義的な考えだとして、
 「核を持てば、軍事同盟から解放され、戦争に巻き込ま
 れる恐れはなくなる」と指摘した。
  被爆国である日本が持つ核への国民感情については、
 「国民感情はわかるが、世界の現実も直視すべきだ」と
 した。
.
2012年2月、NHKの編成局ディレクターが、大麻所持で
 逮捕された。
.
2013年9月、韓国で、旭日旗を法律違反とする法案が出され
 た。
  旭日旗など「日帝を象徴するもの」関連法案は、2013
 年9月発議されたが、19代国会の任期満了で廃棄された。
  当時、ソン・インチュン、セヌリ党議員が、日本帝国
 主義の象徴を使用する者に対し、1年以下の懲役、または、
 300万ウォン以下の罰金に処する内容の刑法改正案を出し
 た。
  しかし、改正案は、発議はされたか、2015年12月4日、
 所管常任委員会の法制司法委員会の法案審査制1小委員会
 にてやっと上程された後、他の法案が優先され、まとも
 に議論されなかった。
  法司委の検討報告書は、改正案について「憲法上の表
 現の自由を制限する側面はあるが、憲法第37条第2項の規
 定により国家安全保障・秩序維持又は公共福利のために
 (旭日旗を)制限することはできる」とし、立法者の判
 断に応じて旭日旗の禁止は、可能な立法だと評価した。
  ただし、刑罰に関する法律であることから、法条項文
 句が明確性の原則を厳格に遵守しなければならないと指
 摘した。
  また、刑法の「属地主義」の原則に基づいて、(刑法
 を改正した場合)日本人が国内で旭日旗など日本帝国主
 義の象徴を使用した場合にも、刑法第2条の規定により処
 罰の対象となる点も考慮する必要があると説明した。
  一方、旭日旗は、日本の自衛隊の公式の旗として使用
 されているだけに、全面的に禁止する法が作られた場合、
 日本との外交摩擦を避けることができないという指摘も
 ある。
  国交を結んでいる相手国の旗の使用に対する罰則規定
 を置くなら、必然的に外交紛争化するだろう。
.
2016年、日本人の平均寿命・・男:80.98歳、女:87.14歳
  参考に・・
  1947年、男:50.06歳、女:53.96歳
  未来の2060年、男:84.19歳、女:90.93歳、
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2017年3月7日、中国の鉄鋼の減産・・
  中国の鉄鋼の大生産が世界を大きく狂わせた。
  土俵から出されると負け・・相撲のルールである。
  出されても、また、自分から出ても相撲は負けという
 ルールである。
  そのように「相撲は、その様にルールを決めているか
 らである」。
  しかし、「土俵から出ても負けではない」という輩が
 現れたらどうなるのか?
  話は、がらんと変わるが、日本の製鉄業のトップの新
 日鉄が、過去に「とっておきの技術」を、中国へ教えた。
  その様なとっておきの『マル秘技術』を、果たして中
 国に教えて良いのか?
  この懸念が日本にあった・・が、しかし、種々の工作
 から、日本は教えなければならない羽目に陥(おちい)
 った。
  その技術を得た後の中国は、オーストラリアから、び
 っくりするほど大量の鉄鉱石を買った。
  国としてやる中国のやり方は、桁違いに大きかった。
  売る方も喜んで中国という国へ売った。
  世界の景気も良くなった・・が・・
  その鉄鉱石を運ぶ海運業界も潤った・・が・・
  しかし、数年後に・・中国に大量の鉄鋼製品の山の在
 庫で積み上がった。
  大停滞の時がやって来た。
  2017年3月7日の読売新聞は報じる、「中国、鉄鋼5000
 万トン減が目標」。
  「2017年の生産能力、2016年6500万トン減」とある。
  中国の過剰生産で余った鉄が海外に輸出され、世界の
 鉄鋼価格は不安定な値動きが続いた。
  それも・・長い・・長い期間、この様な状態に低迷し
 た。
  長期的に見れば、新日鉄は、自分の首を絞めていた。
  そして、その行為が、世界中の鉄鋼業界をこの様な状
 況に貶(おとし)めた。
  ルールを知っていても・・知らない振りして中国がや
 ったことだった・・ルールを破る中国がやった事だった。
  恩も義理も知らない中国、新幹線でも、日本に、後ろ
 足で砂をかけている。
  新聞は、中国の対応が「実効性が疑われている」と、
 「その様なデーターがある」と報じている。
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2017年3月18日、中国の資本規制、日本企業に影 海外送金
 ストップ続出(日本経済新聞
  中国の通貨である人民元と外貨の双方で国境をまたぐ
 取引を抑える中国の資本規制が、日本企業の活動に影を
 落とし始めた。
  現地事業の売却代金を受け取れなかったり、日本への
 送金が止まったりする例が続出。
  ごく一般的な資金管理すら難しくなっている。
  中国は、2016年に円換算で30兆円超が国外に流れた。
  当面は規制を優先せざるを得ず、習近平政権が掲げる
 人民元の国際化は揺らいでいる。
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2017年10月、アメリカで、60人におよばんとする大変多く
 の方々が、銃の乱射に合い亡くなられるという、なんと
 も痛ましい事件が起きた。
  この様な事件を起こした犯人・・どの様な経緯で、こ
 の様な想像もできない様な極悪の行為に及んだのか?・・
  この行為を・・最高に恨む。
  しかし、必ず、この行為に至る原因があった訳だ。
  何が、此奴(こやつ、この犯人)に、この様な極悪行
 為をさせたのか?
  例え、それが分かったと言っても、可哀想な亡くなら
 れた方々は戻っては来ないけれど・・しかし、再発しな
 いようにと願って、この犯人の大犯罪に至る原因は何な
 のだろうかと考えることは必要な事である。
  此奴には、当然、この様な大惨事を起こす肯定的理由
 になり得る訳があったのだろう。
  一般人には、当然、肯定的な理由になり得ない
  その理由があったのだろう。
  どんな理由があっても、勿論、当然、他人の方々の命
 を一人であってさえも、当然、奪う行為の肯定的理由は
 ない。
  「(キリスト教の)神の義があるなら・・」という前
 提で肯定するという低劣なキリスト教の教義があるが、
 この教義でさえ『肯定できる理由では、まったくない』。
  (キリスト教は、この教義で、何人の人々を殺戮して
 来た事か??・・)
  社会を見た時、このキリスト教の最悪教義の様に、こ
 の犯人の行為の様な行為を「誘発するようなことがある」。
  社会の中に、この様な行為を起こす因子が存在する。
  ヨーロッパでは、子供たちが集団で、突然、憑依(ひ
 ょうい)した実例がある・・
  それに似た「その様な行為」が、日本でなされている。
  ヨーロッパのこの実例は、一度ならず、また、あちこ
 ちの国で繰り返し起きていた。
  キリスト教が原因として起きていた。
  子供たちは口々にキリスト教のことを口走って罵った。
  魔女が天を飛び回っている・・などと、口走った。
  子供たちが、自分の心を制御できずに、行動も制御で
 きずに、制御できない状態で行動を起こしたのだった。
  今、日本で行われているキリスト教の祭り=ハロウィ
 ンがこの要因として挙げられる。
  奇怪な姿をして街中を徘徊する・・
  ハロウィンは長い期間に渡って心をむしばむ。
  長期間の内に、特に、感受性の強い子供たちをむしば
 んで行く。
  喜んでいる子供たちばかりではない。
  また、常に喜んでいる子供たちではない・・、急に、
 心が変化したりする・・憑依する怖さがある。
  日本政府内のある役所が音頭を取って行っている。
  経済的効果があるからとして・・行なわれているが・・
 経済的利益のためにやらせているという話では済まない。
  しかし、そのために、あの気持ちの悪いハロウィンの
 祭りに、そして、展示に、あちこちで出くわす。
  キリスト教という特定宗教の「巧妙なる伝道行為」に、
 日本の役所が加勢している。
  この政府の行動は、国際規約のISO26000の違
 反となっている。
  結局、ストレスの多いハロウィン祭りに、長い期間、
 出合い、向き合い、耐えなければならない状態に置かれ
 ている。
  ストレスが何かと多い現代社会の日本、『どや顔』が
 良いのだと、「どや顔」の嫌な顔がおおやけの中に表示
 され続けている・・その様な巷となっている。
  結局、この変で嫌な「どや顔」にも耐え続けなければ
 ならない状況になっている。
  結局、この様な心のストレス社会で、「アメリカの不
 幸な事件は起きてしまった」。
  ハロウィンの『儲けだけの商行為』はおかしい??
  長期間に渡って行うということも「たちが悪い」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)636E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)

題:(増補版)636E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年、科学
・1896年、小石川植物園の平瀬作五郎が、世界で初めてイ
 チョウの泳ぐ精子を発見した(1894年説あり)
  平瀬作五郎(1856年~1925年、植物学者)安政3年1月
 7日、越前国福井市)に生まれる。
  1872年(16歳)福井藩中学校(藩校)に入学、卒業後、
   図画術教授補助に任命される。
  1873年(17歳)東京に出て油絵を学ぶ。
  1875年(19歳)帰郷し、岐阜中学の図画教師となる。
   かたわら「小学用器画法」(1888年)ほか図画教科
   書を著した。
  1888年(32歳)帝国大学理科大学(現:東京大学理学
   部)植物学教室へ画工となる。
  1890年(34歳)技手となる。植物学に興味を抱く。
  1893年(37歳)助手となり、矢田部良吉教授の植物図
   を描く。イチョウの研究を始める。
  1894年(38歳)池野成一郎(この後、東京大学教授と
   なる。ソテツの精子の発見者)の助言で、イチョウ
   の花粉管内に精子を発見した・・裸子植物に初めて
   精子を発見・・受精過程を追跡した(イチョウの受
   胎および胚の発生研究)
  1896年(40歳)イチョウ精子発見を発表した。
   ソテツの発見と共に、これらの発見は、植物分類学
   細胞学・進化学上の一大事件であった・・海外の学
   者にも称賛された。
   平瀬作五郎は、当時、助教授だった池野成一郎に、
   精子を発見した時、寄生虫だと思って見せた・・そ
   れを見るなり池野は「精子だ」と直感したという。
  1896年9月9日、「花粉管端より躍然精虫の遊動して活
   発に転々突進する状況を目撃」となる。
  1896年10月、「いてふノ精虫に就テ」という論文を発
   表する(裸子植物の世界初の精子の発見)・・なお・・
   1894年1月、最初の論文「ぎんなんノ受胎期二就テ」
   を「植物学雑誌」に発表という史料もある。
   そして、1896年に、イチョウ精子を世界初でプレ
   パラート上で確認したの史料もある。
  1897年(41歳)東京大学を退職し、彦根中学へ転出、
   一時、研究も断念する不幸の時期があった。
  1912年(56歳)池野と共に学士院恩賜賞を受ける。
   初めは、平瀬作五郎の授与は予定されていなかった
   と言われている・・が、しかし、池野成一郎が、「
   平瀬が貰わないならば、私も断らせて戴く」と言い、
   二人の同時受賞となったという。
   後半生は、平野は、花園中学校で教鞭をとった。
  1918年(62歳)クロマツの受精に関する報告をする。
  1924年(68歳)肝硬変で花園中学校を退職する。
  1925年1月4日、京都市右京区御室の自宅で永眠された。
  尚、平瀬作五郎の精子発見のイチョウの木は、今でも、
 東京都文京区白山東京大学理学部付属植物園に保存さ
 れている。
  1956年、その記念のイチョウの木の下に記念碑が建立
   された。「精子発見六十週年」と刻まれた。
  1996年9月9日、「イチョウ精子発見百周年記念市民国
   際フォーラム」が東京大学安田講堂で開催され、広
   瀬作五郎の功績が讃えられた。
.
1896年、教育
・1896年7月8日、東京美術学校に西洋画科・図案科の2科
 が新たに設置された。
  この年、西洋画科が新設され、黒田清輝藤島武二
 横山大観らが指導にあたった。
  東京美術学校は・・
  1884年7月、文部省に図画教育改良を目的とする図画調
   査会が置かれ、調査が行われ、官立美術学校を設置
   することに決定されたことに始まる。
  1885年12月、文部省学務一局に図画取調掛が置かれ、
   そして、アーネスト・フェノロサ、岡倉覚三、狩野
   芳崖、狩野友信らが委員となって設立準備が進めら
   れた。
  1886年2月、図画取調掛の事務所が小石川植物園内に移
   され、岡倉覚三がその主幹となった。
  1886年9月、文部省と宮内省が協議し、フェノロサと岡
   倉を委員とする欧米の美術及び秘術教育視察が行な
   われた。
  1887年10月、二人の報告に基づき、勅令によって、図
   画取調掛及び工部大学校内「工部美術部」を統合・
   改編して東京美術学校が設立された。
   また、校則も定められた。
  1887年12月、東京都台東区上野公園の現在地へ移転す
   る。
  1889年2月、開校される。
   5年制の学校として、普通科(2年)、専修科(3年)、
   特別の課程(1年)を置いて、授業を開始した。
   普通科:絵画・造形、専修科:絵画(日本画)・彫
   刻(木彫)、美術工芸(金工・漆工)に分かれてい
   た。
  1890年、岡倉覚三が就任し、事実上の初代校長となる。
   副校長はフェノロサが務めた。
   開校時の教官は、他に、黒川真頼・橋本雅邦、小島
   憲之であり・・
   後に、川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲
   を加えた。
  1892年、鋳金科を設置。
  1893年、第1回卒業式が挙行される。
   横山大観らの卒業生を送り出す。
  1895年、鍛金科を設置。
  1896年、西洋画科と図案科を設置。
   西洋画家の教官には、黒田清輝藤島武二・和田英
   作・岡田三郎助、
   図案科の教官には、福地復一・横山大観・本多天城
   らが就任した。
  1898年、美術学校騒動が起きた。
   岡倉覚三の学校運営が問題とされ、岡倉をはじめ、
   橋本、横山、下村観山、菱田春草らの多数の教官が
   退任し、日本美術院を結成した。
  1899年、塑造科を設置。
  1902年、図案科に建築教室を設置。
  1905年、学科を再編成し、日本画、西洋画、図案、彫
   刻、金工、鋳造、漆工の7科とする。
  1907年、図案師範科(3年制)を設置。
  1914年、製版科(3年制)を設置された。
   (図案科が第一部(工芸図按)と第二部(建築装飾)
   に分離の史料もある)
  当時は、年限1年の予科、年限3年~6年の本科(絵画科、
 彫刻科、工芸科、建築科)と師範科、年限2年の研究科か
 らなった。
.
1896年、報道
正岡子規が、ベースボールの解説文を連載(日本新聞)
  1884年正岡子規は、東京大学予備門時代にベースボ
   ールを知り、野球に熱中したといわれる。
   正岡子規は、野球を題材とした短歌、俳句を数多く
   詠み「野球(のぼる)」の雅号も使っている。
  1889年7月、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、
   松山中学の生徒らにベースボールを教えた。
  1890年2月、「筆まかせ」の雅号の項に「野球」が初めて
   見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。
  1896年、「日本」新聞に連載された「松蘿玉液」の中
   で野球のルール、用具、方法などについてくわしく
   解説した。
   野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自
   分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献を
   した。
   「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見
   れど飽かぬかも」
   「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打
   ち騒ぐかな」
  2002年に、正岡子規野球殿堂入りをした。
   野球を愛した明治の俳人歌人とされている。
  (参照:野球殿堂博物館ホームページ)
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、韓国の若者が反日教育を受けて、その様なことをまったく
   知らずに、当時の事をお年寄りに聞くと、予想に反して
   「良かったよ」と想像とまったく違う返事にびっくりする。
    その様なお年寄りが朝鮮の地に減って来ているが、
   日本は、朝鮮・韓国の国づくりを誠実に努めて来た。
.
16世紀末、日本の捕鯨が始まり、そして、鯨文化が広まっ
 て行った(江戸時代)
  この頃の16世紀の末頃、日本に本格的な捕鯨が始まっ
 た。
  そして、17世紀には屏風絵に描かれるようになってい
 る様に、庶民の間に完全に根付いている。
  1500年代末には、日本は捕鯨を始めていて、食糧とし、
 また、鯨を文化としていた。
  初代のアメリカ大統領のワシントンは、1789年4月30日
 に在任したが・・この200年も前に、既に、日本は鯨と関
 わっている・・
  キリスト教の宗教観から、日本の捕鯨を禁止する西欧
 諸国・・この日本の歴史の重みをよく見極めなさい!
.
18世紀半ば、日本は、アメリカのペリーの来る1世紀も前か
 ら、独自に、近代化への道を歩き始めていた。
  ペリーが来たから、その時に目覚めて、それから慌(
 あわ)てて近代化への道を歩み始めた・・という自虐史
 的に言う輩が居るが・・大間違い。
  日本の夢を覚ます黒船来航・・何て言う話は眉ツバ!
  日本は、「勉学への欲求」「知識への目覚め」から近
 代化へアクセスして行った。
  元々、勤勉だった日本人・・すでに、世界的な業績を
 残す天才数学者の関孝和(1642年~1708年、西欧より早
 い時期に数々の数学的業績を残した)や平賀源内(1728
 年~1780年本草学者、地質学者、蘭学者、エレキテル
 や鉱山開発)等を輩出している日本・・
  18世紀のフランス革命の頃のフランスよりも識字率
 高いという日本だった。
  私塾の寺子屋が流行るという日本だった。
  識字率は5割前後で、私塾は全国で何と5万校もあった。
    (参考)因みに・・1910年の日韓併合で、日本が
       朝鮮・韓国の学校の少なさにびっくりして、
       学校を造り始める時には、5校しか小学校が
       無かった・・
  そして、農民が作物を市場で売り、利益を得るという
 生産面と流通での革命も起きる。
  都市へ広がる勤勉とともに、19世紀の初めには、家内
 制工場があちこちに出来るという日本だった。
  産業資本が大阪で興り、農民が労働者となる・・この
 形が日本各地に広がって行った。
  これらすべてが、日本独自の動きだった・・
  それと共に、江戸や大阪には、歌舞伎や相撲興業とい
 う大衆の人気を博す文化も盛んとなり華やかとなった。
  浮世絵の商品なども盛んに刷られ宣伝媒体となり・・  
  日本は、西欧に何も学ぶ事なく独自に、近代化への歩
 みをいち早く始めていた『優秀な国民だった』。
  犠牲者の少ない「明治の奇跡的な革命」を経て・・
  江戸時代の時から・・日本は、西欧列強のアジアにお
 ける私利私欲の横暴な行動を目にして来て、富国強兵の
 必要性を痛感していた・・
  その中で、特に、イギリス・ロシア・中国の脅威に、
 接していた。
  その一つが、巨艦の艦隊を長崎にまで威圧行動した中
 国に縮こまる日本・・そして、長崎の街で大暴れをする
 中国水兵の艦隊の強さを誇示し見せつける行動などを経
 て、日清戦争へ至って行くという道となる。
.
1846年4月25日、アメリカ・メキシコ戦争米墨戦争)が始
 まる(~1848年2月2日)
  アメリカ合衆国ではメキシコ戦争と言われる。
  また、メキシコでは、アメリカ合衆国のメキシコ侵略、
 米国の対メキシコ戦争、北部の侵略戦争としている。
  アメリカ軍:78,700名、メキシコ軍:40,000名
  戦死:アメリカ13,271名、メキシコ5,800名(病死を
 除く)
  この戦争で、アメリカ側に、9,200名の脱走者、または、
 亡命者がでている。
  この戦争の発端は、アメリカ人のメキシコ領への流入
 (不正な移民、不法流入)から始まった。
  ルイジアナは、先住民のアメリカ・インディアンの方々
 の地であるが、1803年、アメリカは、この地をフランス
 から買った(何もフランスの土地ではないのに、フラン
 スから買った・・白人同士の演技?)・・これによって、
 アメリカに、テキサスの地も得たいという欲望・意識が
 強まった・・メキシコの地であるのに??
  この頃、メキシコは、長い独立革命の戦いで弱体化し
 ていた・・
  この様な状態で、自国の領土を守る余裕のないメキシ
 コという状態でもあった。
  アメリカの『テキサス』などのメキシコ領の奪い方は
 移民だった。
  初め、アメリカ人が不法な国境越えをして『メキシコ
 領のテキサス』などに入って行った・・そして、メキシ
 コ領テキサスに定着(不法滞在)した。
  その内、その様に越境をした「元アメリカ人たち」が、
 「メキシコ領テキサス住民の様な顔」をして不平を漏ら
 す。
  その不平の声がだんだん大きくなる。
  そしてまた、越境組の元アメリカ人たちの数も多くな
 ると・・その勢力も侮(あなど)れなくなる。
  ますます、その元アメリカ人たちの勢力が大きくなる
 と、メキシコも軍隊の出動もやむを得ないと判断する。
  この様な「不穏な事態」が、たびたび起きる。
  この地の不穏さが、さらに、「きわどくなる」。
  すると、隣国のアメリカも見てはいられないと「アメ
 リカの介入が始まる」。
  内政干渉の「ちょっかい」なのだが、正義の顔をして
 介入行為をする。
  そのアメリカの介入・ちょっかいも度々となる。
  そして、アメリカのやり方の程度が大きくなる。
  そして、「正義を錦の御旗」として、アメリカが軍隊
 を出す。
  メキシコは、軍隊を出さざるを得ないと思っても、戦
 争になってはいけないと「自重はする」。
  しかし、アメリカ軍の行動は、度々となる。
  また、アメリカの介入が大きな行動となって来る。
  そして、多くのアメリカ人不法移民に占領され、テキ
 サス共和国がつくられ、1836年、メキシコからの独立を
 宣言する。
  メキシコもやむなく「ファイトバック・反抗」をする。
  このメキシコの行動を「待っていたアメリカ」は、「
 この時とばかりに大軍隊を送り込む」。
  当然、これが戦争となる。
  アメリカ人の違法行為の越境から始まって、「メキシ
 コ領内で元アメリカ人」となり・・、
  この「元アメリカ人の騒ぎ」から発展したこの戦争の
 実態は、「アメリカの正規軍のメキシコ領の侵略戦争
 という戦いとなる。
  アメリカは、この様な戦争の起こし方で『メキシコ領
 テキサスを手に入れた』。
  そして、このやり方で、テキサスの隣のメキシコ領も、
 結局、「アメリカ領となってしまった」。
  また、その隣のメキシコ領も同様に、アメリカ領にな
 ってしまったメキシコは、自国の領土の「半分以上」も、
 この様にして、アメリカに奪われた。
  アメリカは、ハワイもこの様にして奪った。
  樺太が、また、日本にもこの様な事が起きた。
  樺太にはロシア人が居ないで、日本人だけが居た。
  それから、ロシア人がどんどん入って来た。
  樺太の日本人は中央政府(幕府)にこの状況を伝え、
 日本人もどんどん樺太に来ないと「ロシアに樺太が盗ら
 れてしまう」と伝えた。
  この様な歴史が、「日本の領土の樺太」の歴史の初め
 にある。
  ロシア人の「ロ」の字も無いころ、間宮林蔵という日
 本人の探検家は、樺太はおろか、ユーラシア大陸まで探
 検をしていた。
  コロンブスが、西インド諸島を発見し探検したことと
 同等である、もしくは、それ以上の事をしている。
  このコロンブスの事を思えば、間宮林蔵が探検したア
 ムール川流域のユーラシア大陸の地は「日本領である」。
.
1884年、海軍予備員制度が発足した。
  採用は1886年からなされた。
  この制度は、西郷従道農商務卿がイギリス海軍予備員
 制度を例にして発案した。
  海軍予備員は、海軍兵籍を有し、戦時などの有事の際
 には召集されて軍務に服するが、平時は民間において船
 舶職員などの海事に従事する者をいう。
  海軍予備学生などの身分は、海軍予備員たる海軍予備
 少尉となるための教育を一定期間受ける者で、海軍予備
 学生と海軍予備生徒があった。
  1935年からは、飛行科や整備科の予備学生も採用され
 た。
  この海軍予備学生・・
  木馬座の人形劇団をつくり活躍した藤城清治氏は、読
 売新聞の「時代の証言者」欄に、第二次世界大戦時に居
 た海軍予備学生時代のことを書いていた・・
  「海軍予備学生時代に、海軍でディズニー映画を見せ
 てもらい。感動しました。戦争中ですが、視野を広げさ
 せようとしたのでしょう」・・と。
  これ以来、藤城氏は、「ディズニーの様になりたいと
 思い、理想郷となった」と語る。
  しかし、この同じ頃、ディズニーは、アメリカで、「
 日本は黄色い猿だ」と日本を蔑視し、馬鹿にした映画を
 作っていた。
  日本の飛行機が、盛んにアメリカ機に撃墜される映画
 を作っていた。
  アメリカの国民の方々に、「日本に対する敵意を植え
 付け、沸かす工作映画を作っていた」。
  盛んに、アメリカ国内でプロパガンダ工作をしていた。
.
1910年8月22日、日韓併合条約(韓国併合条約)
  この日、漢城府(現:ソウル)において、日本側・寺
 内正毅統監と、大韓帝国側・李完用総理が調印した。
  そして、1910年8月29日、裁可され、公布し、発効し、
 日韓併合が成立した。 
  (参考)大韓帝国李氏朝鮮(朝鮮王朝)を改称した国
     号。
      国号変更の動機は・・、
      それまでの李氏朝鮮の朝鮮王朝が、日清戦争
     の日本勝利の結果の日清平和条約により、清朝
     の属国関係(宗属関係)も消滅したとして国名
     変更を行った。
  また、日露戦争の結果、日本勝利で調印されたポーツ
 マス条約の第2条や・・、
 1902年に結ばれた日英同盟の第3条において、日本の朝鮮
 半島における政治上、また、経済上などの卓絶した地位
 が、世界的に承認されていて・・
  この条約も、世界的に当時の国際法上おかしいと判断
 されるところはまったく無く・・、
  「国際法上合法である」と判断されている。
  大韓帝国は「保護国」とされていて・・、
  条約に基づいて、「日本の対外関係の処理を引き受け
 る」と約定されている。
  近年でも、ケンブリッジ大学のJ・クロフォード教授
 (国際法)が言及されるように・・
  「(大韓帝国のように)自分で生きていけない国につ
 いて、周辺の国(この場合、日本)が国際的秩序維持の
 観点から、その国を取り込むということは、当時よくあ
 ったことである・・
  日韓併合条約は国際法上は不法なものではない」とい
 う意見が「国際的な一般的な判断」となっている。
  今・現在になって、大韓民国(韓国)が違法であると
 違法論を展開しているが、国際的に、無理な主張となっ
 ている。
  この日韓併合条約は、17世紀からこの時まで、ヨーロ
 ッパで作られ発展して来た万国公法(国際法)と同じで・・
 何ら違法的な所は無い。
  また、日本と大韓帝国李氏朝鮮)は、正式な文書で
 条約を交わしていて、国際社会に「公認されている」。
  また、最近、日本のメディアが・・、
  例えば、読売新聞が、2019年3月2日の社説で、日韓併
 合を「植民地支配」と書くのは間違っている。
  この時の李氏朝鮮大韓帝国)は、条約に基づいた被
 保護国であって「植民地ではない」・・
  また、日本は、欧米的な植民地支配はしていない。
  日本には、キリスト教の教義で説く様な「異教の地の
 民を絶滅させて、そこにキリスト教会を建てる」という
 植民地支配の考え方はまったく無い。
  その様な精神で経営する植民地経営や植民地支配の精
 神はない。
  日本は、古事記の「治らす」の精神で朝鮮を栄えさせ
 た。
  何故?・・と、キリスト教的な植民地支配の洗脳を受
 けた人には思えるだろう。
  日本は、何故、赤字になってでも現地を発展させたの
 か?・・と、思うだろう・・考え及ばないだろう。
  古事記に記された精神が、昔から日本が培ってきた・・
 その精神だった。
  古事記に・・、
  天孫が降臨するときに、その降臨する神へ神勅(しん
 ちょく)を与える。
  それは、降臨する国「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂
 (みずほ)の国に、就(ゆ)きてしらす」という、その
 「しらす」は「治らす」であって・・
  この「治らす」が、「その国に産業を興し、栄えさせ、
 国全体としてまとめて行く」という意味で・・、
  キリスト教植民地主義の「鎮圧して支配する」では
 ない。
  天孫から国を栄えさせよと使命を授けられた神が、日
 本にあった。
  その精神で日本はずーっと生きて来た。
  朝鮮の地に鉄道を張り巡らせ・・小学校から大学まで、
 日本と同等に、いや、それ以上に学校を造り、道路も造
 り、山に木を植え、産業も興し、衛生状態を改善し、経
 済も大発展して来た・・人口は倍増し、平均寿命も倍増
 した・・
  今、若者が反日教育を受けて、その様なことをまった
 く知らずに、当時の事をお年寄りに聞くと、予想に反し
 て「良かったよ」と想像とまったく違う返事にびっくり
 する。
  その様なお年寄りが朝鮮の地に減って来ているが、日
 本は、朝鮮・韓国の国づくりを誠実に努めて来た。
.
1917年4月6日、アメリカの対ドイツの宣戦布告(第一次世
 界大戦)
  第一次世界大戦は、1914年7月28日に始まっていたが、
 アメリカは、なかなか、ドイツに対して宣戦布告はしな
 かった・・が、しかし・・
  その2年6ヶ月後の1917年2月3日に、アメリカはドイツ
 と断行し・・、
  そして、その2ヶ月後の1917年4月6日に・・アメリカは、
 ついに、ドイツに宣戦布告した・・ここにアメリカ国民
 の方々への世論工作があった・・
  アメリカは・・力を持つ国、武力を持つ国、そして、
 金を持つ国・・
  第一次世界大戦で、ドイツが勝ちかけていた頃、敗け
 そうなイギリスは動いた。
  第二次世界大戦の時も、まったく同じような展開が起
 きているが・・この戦争の時も、同じ様な展開が起きた。
  イギリスの外務大臣のバルフォアが、イギリスのユダ
 ヤ社会へ働きかけた。
  アメリカに参戦させるために、「ユダヤ人の国をつく
 る」と約束して、アメリカが参戦へ動く工作を頼んだ。
  イギリスの外務大臣バルフォアは、「パレスチナに、
 ユダヤ人による民族的郷土の設立」をユダヤ系金融資本
 家に約束した。
  バルフォア宣言への動き・・
  (参考)バルフォア宣言:1917年11月2日、イギリス外
     相 A.バルフォアが、パレスチナにおけるユダヤ
     人の民族的故郷の建設を支持した宣言。
      バルフォアは、それをシオニズム運動の財政
     的な後援者であった L.ロスチャイルドにあてた
     書簡のなかで明らかにした。
      この内容は、1916年に、フランス、ロシア、
     イギリス間で結ばれた秘密条約であるサイクス
     =ピコ協定とは明らかに矛盾するものであった
     が、イギリス政府のねらいはユダヤ人世論を連
     合国側にひきつけ、あわせてユダヤ人のパレス
     チナ入植を通じて中東政策の布石を固めること
     だった。
      同宣言は、1920年のサン・レモ会議でイギリ
     スの正式政策とされ・・
      1922年に、国際連盟パレスチナ地方をイギ
     リスの委任統治領としたとき、その前文に同宣
     言が含められた。
  このバルフォア宣言により、ユダヤ人の方々の社会が
 動き、アメリカの世論操作・世論工作が進められた。
  アメリカの大統領府の広報委員会も動き出した。
  この部署にいたユダヤ人のリップマンとバーネイズが、
 大いに働いた。
  この時なされたドイツについてのプロパガンダが・・
  ドイツが残虐行為をしているとか、妊婦が切り裂かれ
 たとか、ベルギー婦人を殺したとかの、世論操作の嘘宣
 伝がなされた。
  アメリカ国民の方々は繰られて行く・・
  比較的、ドイツに好意的だったアメリカ国民の方々の
 気持ちは変えられて行った・・
  そして、結局、アメリカは参戦することになって行く。
  アメリカのメディアを牛耳っていたのがユダヤ資本だ
 った・・それが大きかった。
  イギリスの「ロイター」もユダヤ人が設立した通信社
 だった。
  ユダヤ系列の団体・組織の繰る「資金」と「情報」の
 力は大きかった。
  この時、大きな役割を果たしたリップマンは言った・・
  「大衆に対し、自らが民主的権力を行使しているとの
 幻想を抱かせなければならない」と。
  これは、アメリカは、民主主義国家の様に見えても、
 幻想だと言っている・・「繰られた民主主義的な意見」
 で動いていると・・
  最近、中国は、盛んにアメリカのメディアを買ってい
 る。
  そしてまた、日本も、やってもいない南京事件を中国
 にプロパガンダ(嘘宣伝)されて、やってもいない虐殺
 をしたと虚偽の嘘宣伝をされた。
  ユダヤ人のリップマンを支えた、やはり、ユダヤ人で
 あるバーネイズは・・「プロパガンダ」という本を書い
 たが、その中で書いている・・
  「世の中の一般大衆が、どの様な習慣を持ち、どの様
 な意見を持つべきかといった事柄を、相手にそれと意識
 されない様に知性的にコントロールすることは、民主主
 義を前提とする社会において非常に重要である」と。
  この様な中に「目に見えない統治機構がある」と指摘
 した。
  これが、アメリカの「真の支配する者だ」と指摘した。
.
1944年7月1日、ソ連が、日本に攻めてくる前のこの日から、
 アメリカによる対ソの兵器援助の引き渡しが行われてい
 た・・『第二次世界大戦の不正な、卑怯な行為』。
  スターリンが、アメリカに要求した武器提供は「マイ
 ルポスト合意」として成立した。
  アメリカは、1945年、中立国(日ソ中立条約があった)
 だったソ連の船を使って日本海を抜け、ソ連のウラジオ
 ストクに武器弾薬を陸揚げした。
  このアメリカの援助した武器を使って、ソ連は、日本
 を攻撃し、侵略した。
  まったくソ連国際法違反、及び、日ソ中立条約違反
 であった。
  アメリカは、ソ連をそそのかして、中立条約違反をさ
 せているが・・
  アメリカのルーズベルト大統領のやったそそのかし行
 為だった。
  日本は、一旦、条約を締結すると誠実に、その条約の
 約束を守ったが・・ソ連は条約を破る常習犯だった・・
  ルーズベルトは自分でも言っているが、『自分が有利
 になるなら、嘘だってつく』と言った。
  国の信用・信頼をまったく軽いものにしている、「軽
 蔑すべきアメリカ」だった。
  また、ルーズベルトの嘘つき体質・裏切り体質が現れ
 るのが、中国に関することだった。
  ルーズベルトは、秘密裏に中国に支援する命令を出し、
 また、アメリカ正規軍に日本を攻撃させている。
  ルーズベルトは、日本の真珠湾攻撃以前に、日本を攻
 撃させている。
  これこそ、アメリカの「日本への奇襲攻撃」であった。
  また、金や武器を、中国に支援するということもして
 いる。
  アメリカの大義名分は、「日本が、侵略行為をしてい
 る」だった。
  満州は、日露戦争に勝利し、ロシアから移譲された(渡
 された)ので、侵略ではない。
  また、アメリカ・イギリスは、日本に、「シベリアへ
 出兵してくれ」と頼んできている・・侵略ではない。
  アメリカこそ中国のあちこちの権益を欲しがった国だ。
  そして、アメリカは、日本が侵略していると罪に落と
 しながら、ソ連が中国領を欲しがったら「いいよ」と許
 可する行為をする。
  中国には、秘密にして、こんなことをするアメリカな
 のである。
  ソ連の「中国への主権侵害」に、許可を与えているア
 メリカなのである。
  中国の大連を、「国際港」という誤魔化しの「名目の
 言い方」で、実質、ソ連の港になることを認めたアメリ
 カだった。
  南満州鉄道も、同じ様に、「中国と共同管理で」と言
 いながら、実質は、ソ連のものとして認めている。
  ルーズヘルトは、子供だましの様な事を言った、「中
 国に知らせると情報が漏れるからだ」と・・、
  ルーズベルトは、このことを、強く秘密にすることを
 スターリンに要求した。
  この秘密は、破廉恥な事に、アメリカの国務長官のス
 テティニアスにも秘密にされた。
  この一連の会談について、ルーズベルトは、「欲しい
 ものは、すべて手に入れた」と言ったという。
  すべて嘘と秘密で手に入れる詐欺師やペテン師の如く
 のルーズベルトに、「何を言うのかと、喝を入れたい心
 境だ」。
  こんな輩たちによって、何百万人もの命が亡くなされ
 たのである。
  (参考)レンドリース法(武器貸与法)という法律が
     アメリカにある。
      第4協定期間は、1944年7月1日から開始された。
      1945年4月17日に署名され、公式には1945年5
     月12日に終了したとされた・・が・・
      ソ連への援助は、日本に対する戦争の期間(
     ソ連の対日参戦は1945年8月8日)「マイルポス
     ト合意」に基づいて1945年9月2日まで続けられ
     た。
      そして、1945年9月20日にすべての対ソ連「レ
     ンド・リース・プログラム」は終了した。
      ソ連に対して出荷された軍需物資の概要は・・
     航空機14795、戦車7056、銃8218、機関銃131633、
     爆発物345735トン、化学物質842000トン、
     輸送船90、対潜艦105、魚雷艇197、軍靴15417001足、
     ジープ51503、トラック37503、オートバイ35170
     など・・
      輸送は、北極海の輸送船団、ペルシア回廊、
     太平洋ルートで行われた。
      アメリカは、卑劣にも日本と停戦合意した後
     までもソ連に武器を与え続けていた。
.
1969年1月20日、第36代アメリカ大統領にリチャード・ニク
 ソンが就任した。
  この大統領は、ベトナム戦争を拡大した。
  また、この大統領は、1974年、ウォーターゲート事件
 で任期満了を待たずに辞任している。
  ニクソンは、キッシンジャー外交問題特別補佐官に
 任命し・・
  1969年7月、外交方針の原則としてニクソン=ドクトリ
 ンを発表した・・
  これで、海外への過度な軍事介入の抑制に転じ、対共
 産圏戦略で同盟諸国に肩代わりの強化を要求したりした・・
 が・・一方・・、
  パリ和平会談の有利な展開を狙って、1970年~1971年、
 ベトナムでの主導権を維持するため、アメリカは、カン
 ボジアへ侵攻し・・また、ラオス空爆も始め・・、
 介入を拡大し、ベトナム戦争インドシナ全域に拡大し
 た。
  この戦費の重みは、アメリカ経済に重くのしかかった。
  この様なベトナム戦争の時、この北ベトナムを支援し
 ていたのはソ連だった。
  しかし、「北ベトナムを支援するのは中国だ」と間違
 って見ていた。
  アメリカや世界は、その様に見ていた。
  ベトナム戦争をやらせているのは中国だと見て・・ニ
 クソン・アメリカ大統領の理解も、完全に間違っていた。
  逆に、北ベトナムと中国は、仲が悪かった。
  ソ連北ベトナム支援の物資を、中国は中国領土を通
 させないという事をした。
  また、異常なハラスメント(いやがらせ)をした。
  アメリカは、中国が「革命の輸出」をしたいため、北
 ベトナムを支援しているものと、まったく間違った見方
 をしていた。
  種々、中国に煮え湯を飲まされる北ベトナムの事情を、
 アメリカは知らなかった。
  北ベトナムは、民族統一をしたいから戦っていた。
  この点を大きく見られないというアメリカの大きな間
 違いがあった。
  アメリカは、ソ連に金を渡しているが、そのソ連が北
 ベトナムへ武器などの支援をしている。
.
1979年、中国とベトナムの戦争(中越戦争)が始まり、中
 国とベトナムが、こんなに仲が悪かったのかと世界がび
 っくりした・・
  中国の嘘と諜報とプロパガンダで、世界は誤魔化され
 ていた。
  実は、ベトナムと中国は、仲が悪かったのだった・・
  世界は、周恩来毛沢東の詐術(さじゅつ、通常の知
 能を有する一般人を欺罔(ぎもう)するに足る術策)が
 うまくて、誤魔化す術が長けていたので、仲が良く見え
 ていた。
  あたかも、中国がベトナムをコントロールしているよ
 うに見えた。
  しかし、この1979年に、中国とベトナムの戦争「中越
 戦争」が始まって、世界はびっくりする。
  中国とベトナムは、こんなに仲が悪かったのかと・・
  こんなプロパガンダ(嘘工作)された見方の中で、アメ
 リカ外交は動いていた・・
  キッシンジャー外交も動いていた・・
  それで、中国は、アメリカからとるものを取ってしま
 った・・まったく大きく価値あるものだった・・
  実は、中国は、1970年~1971年頃は、最悪だった。
  アメリカとも、また、ソ連とも対立をしていた。
  ニクソン訪中前であった・・
  中国共産党は、崩壊直前の状態にあった。
  しかし、アメリカは、中国と手を結んだ・・1933年に、
 ソ連を承認したように・・
  中国は、息を吹き返した・・力を取り戻した・・経済
 も良くなった・・
  この時・・毛沢東が、先にアメリカに打診したという。
  中国は、国境を接しているソ連の方が、アメリカより
 脅威という状態だった・・
  アメリカは、『一つの中国』を認めたわけではないが、
 その様な印象は与えてしまった。
  そして、今、南シナ海を無断で自国の戦略基地とし・・
  また、「太平洋を半分ずつにしよう」とアメリカに言
 うという中国になっている・・
  今、アメリカは、中国に抜かれると言う人が多くなっ
 ている・・
.
1990年、中国は、完全に外国情報に触れられない国となっ
 ている。
  この年、海外衛星放送の受信が禁止となった。
.
1994年、中国は、海外情報が得られない国で、政府によっ
 て完全に管理されている。
  この年に、国外テレビ番組の輸入が政府の管理下に
 置かれた。
  また、放送も完全に管理されるもとにされ、管理規定
 ができた。。
.
2000年、中国は、中国国民の情報を得る自由を拘束してい
 る。
  この年に、さらに厳しく、インターネット放送に関す
 る監督管理をし始め・・
  また、海外アニメ番組の購入や放送に関する通知が規
 定されたり・・
  さらに、外国テレビ番組や映画の輸入に関して政府の
 管理下に置かれた。
.
2013年5月19日、日本の防衛省は19日、国籍不明の潜水艦が
 沖縄県南大東島の南の接続水域内を潜航するのを確認
 したと発表した。
  13日と同様に、防衛省は国籍を公表していないが、政
 府関係者は中国海軍の潜水艦と見ている。
  中国籍と見られる潜水艦が日本の接続水域に入ったと
 日本メディアが大々的に伝えたのは今回が初めてではな
 い。
  中国の海軍軍事学術研究所法律研究室の邢広梅主任は
 19日、「環球時報」に対し、「南大東島沖縄本島の東
 400キロの太平洋上にある孤島で、潜水艦を含む各国の船
 舶と航空機はこの島の周辺を自由に航行、飛行できる。
  島の位置から見て、最も近いのは中国ではない。
  日本側が確認が取れていないのに『中国の潜水艦によ
 る威嚇』と大げさに主張するのは、明らかに中国を敵視
 し、顔に泥を塗る行為である」と述べた。
  また邢広梅氏は、「日本が国籍不明の潜水艦の潜航を
 頻繁に報道している点から、日本の対潜能力は非常に高
 いことがわかる。
  潜水艦をキラー兵器としている中国海軍にとっては大
 きな脅威であり、中国海軍は大いに重視する必要がある」
 と語った。

2015年10月25日、K-324は、米海軍に屈辱を与えたソ
 ビエト潜水艦
  高価な機密装備を損傷させたことにより多くの米海軍
 高官が免職されたが、とりわけ米国が憤懣を募らせたの
 はそれら装備がソビエト海兵の手に渡ったというニュー
 スだった。
  1983年の秋、多目的原潜K-324(NATOのコードネームは
 ヴィクトル3、ソビエトではシューカ)が西大西洋を巡視
 していた。
  10月31日、ソビエト潜水艦がサルガッソー海に米海軍
 の最新鋭巡洋艦マックロイを発見。
  同船は最新鋭対艦探知システムTASS(Towed Array
 Surveillance System)の試験を行っていた。
  演習上の標的として選ばれたのは米国の原潜フィラデ
 ルフィア(SSN-690)。
  米艦の乗組員らは演習にもう一人の参加者がいること
 など疑ってもみなかった。
  ソビエト潜水艦K-324だ。
  同船は航行音を消して隠密裏に米巡洋艦に近づき、そ
 の頭部にとりついた。
  それから14時間というものソビエト潜水艦は技術的諜
 報を行い、秘密の潜水艦アンテナのパラメーターを測定
 した。
  熱帯暴風雨で米艦の演習は困難になり、中止された。
  マックロイ号は急に方向を変え、基地へと急ぐ。
  ソビエト潜水艦の船体に奇妙な振動が走った、と長年
 ののち、当時の一級船長アレクサンドル・クジミン氏は
 記者らに語っている。
  「メインタービンが故障した。原子炉もタービンも、
 非常用防護装置が作動。浮上せざるを得なかった。
  浮上し、熱帯暴風雨の真っただ中に入った」。
  こうなった原因は浮上してはじめてわかった。
  潜水艦に、探査機のついた長大な金属製のケーブルと
 いう形状の、米艦の機密アンテナが巻き付いていたのだ。
  この遭難船の救助にハバナにいたソビエト船アルダン
 が出動した。
  しかし、先にそれを見つけたのは米駆逐艦ピーターソ
 ン、および、ニコルソンだった。
  両艦は紛失した機密装置の捜索を行っていたのだ。
  潜水艦が拿捕されることを危惧したK-324の船長は、自
 爆準備を整えるよう命じた。
  しかし、事は公海上で起こっており、米艦は潜水艦の
 周囲でしか行動できず、不運なアンテナをネジで断ち切
 ろうと遠巻きに試みるしかなかった。
  やがて、この危険なゲームに米潜水艦フィラデルフィ
 アが駆け付ける。
  同船は、ソビエトの潜水艦に近づき、その真下に入っ
 た。
  そして、どうやったものか、ソナーつきのケーブルを
 船体に巻き付けることに成功した。
  そうして悲喜劇じみた状況が出来上がった。
  敵対する2隻の原潜が、まるで綱引きを争うような格好
 になった。
  終いには強化ケーブルが引き千切られ、フィラデルフ
 ィアは自らの船体に巻き付けたソナーつきカプセルを丸
 ごと奪い去ってしまった。
  しかし、K-324のネジにはまだ400mにもおよぶ機密低周
 波アンテナが残されていた。
  急行したソビエト船アルダンがK-324を牽引し、キュー
 バに連れ帰った。
  ネジから巻き取られた米国のアンテナは特殊軍事航路
 でモスクワに送られた。
  K-324は、再び、大西洋のパトロールに復任した。
  のち明らかになったところでは、当時のロナルド・レ
 ーガン大統領は、この件について報告を受けると、海軍
 の高官数名を解雇するよう命じた。
  議会は、翌1984年度の軍事予算で、海軍の学術調査諜
 報の割り当て額を25%削減した。
  ロシアに機密のすべてを渡してしまうような海軍の活
 動に渡す金などない・・という。
.
2016年12月21日、なぜ中国は米軍の潜水ドローンを拿捕し
 たのか・・との表題で日経ビジネスが伝えた・・
  以下、その抜粋・・
  中国の人民解放軍海軍が南シナ海で米軍の無人潜水探
 査機(ドローン)を「違法に奪取」した。
  12月15日のことである。
  米国側は、すぐさま返還を要求、
  18日には中国側も返還に応じることを決定したが、い
 ったい中国側は何を考えて、このような大胆な真似をし
 たのだろうか。
  米国防総省の発表では、15日、アメリカ海軍の海洋調
 査船「バウディッチ」が南シナ海のフィリピン・ルソン
 島沖、スービック湾から北西93キロの地点で、無人潜水
 探査機(ドローン)2機による海洋調査を実施、
  探査機を回収しようとしたところ、中国海軍の潜水艦
 救難艦がボートを出して1機を奪ったという。
  バウディッチは無線で返還を要請したが、救難艦は応
 答せずに探査機を持ち去った。
  米国側によれば、ドローンは、海水の塩分濃度や透明
 度などを調査するものだが、これは、潜水艦航行時のソ
 ナーデータに役立つ情報でもある。
  潜水艦の航行、作戦に必要とされる情報といえば、軍
 事情報になるが、機密というほどのものはない。
  国防総省の発表でも、今回の調査は、民間用のドロー
 ンを使って非機密情報を収集していたという。
  無断でこのドローンを拿捕した中国国防部は、「中国
 海軍は15日午後、南シナ海海域で正体不明の装置を発見
 し、船舶の航行の安全と人員の安全を守るために、救難
 艦の責務として、この装置の識別検査をしたのだ」と主
 張した。
  だが、目の前に米海軍の調査船があり、無線で返還を
 呼び掛けているのに持ち去ったとなれば、この主張も口
 実にすぎないとわかる。
  中国国防部側は、識別検査の結果、無人潜水探査機で
 あると判明したので米国に返還すると決定した、と説明。
  「中国側は、米国側とずっと連絡を保っているのに、
 米国側が一方的に問題を公開し、騒ぎ出したのは不適当
 であり、問題をスムーズに解決するのに不利となった。
  我々は、このことに遺憾を表明する」と開き直った。
  さらに、中国国防部は、「強調すべきことは、長年、
 米軍は頻繁に中国当面海域で偵察や軍事測量を行ってき
 ているが、中国はこのことには断固反対しており、この
 種の活動を停止することを米国側に要求する。
  中国側は、引き続き米国側のこうした活動に対し警戒
 を維持し、必要な措置をもって対応する」とけん制した。
  米海軍海洋調査船が寄港していたスービック湾沖とい
 う現場は、本来、フィリピンの排他的経済水域内だが、
 スービック湾西200キロの地点にあるスカボロー礁はフィ
 リピン、中国が領有権を争う係争地である。
  米国側は、この周辺海域を国際水域、つまり、公海や
 自由海に準ずるものとして認識しているが、中国側にす
 れば現場は、中国の排他的経済水域ということになる。
 (中略)
  中国側がいきなりドローンを無断で拿捕するというこ
 とは、これは実力行使、戦闘行為に発展してもおかしく
 ないぐらいの挑発といえる。(中略)
  トランプ(大統領)は、この件について、そんなドロー
 ンなど中国にやってしまえ、とツイッターで発言したの
 は、そこに軍事機密として保護を優先させるものはなく、
 中国の挑発に乗らないことを優先させた、ということか
 もしれない。(後略)
  (追伸)米国防総省20日、中国が南シナ海で先週拿
     捕した米海軍の無人潜水機が返還されたと明ら
     かにした。
      潜水機は、拿捕された場所の近くで米国側に
     返還されたという。
      国防総省は発表文で、国際法で認められた南
     シナ海の海域で、今後も「飛行し、航行し、活
     動する」と述べた。
      中国は15日に、フィリピンのスービック湾か
     ら北西92キロの国際海域で潜水機を海から取り
     上げた(フィリッピンに本当に近い海域)
      これを機に両国は対立し、ここ数十年間の両
     国関係でも特に深刻な事態のひとつと言われる
     状態にあった。
      中国国防省20日の発表文で、「中国と米国
     が友好的な協議を行った結果、引き渡しは正午
     に滞りなく完了した」と述べた。
      20日の発表文で国防総省は、無人機の拿捕は
     国際法海上における海軍間の行動規範に沿っ
     ておらず、事実関係の調査を今後も続けると述
     べた。
      専門家らは、今回の対立が、中国が南シナ海
     で軍事活動を活発化させていることへの米国の
     懸念をさらに高めるだろうと指摘した。
.
2017年2月15日、中国が法改正、外国の潜水艦に浮上航行を
 義務付け・・露メディア
  15日、全ロシア国営テレビ・ラジオのチャンネル「ロ
 シア1」は、中国の海上交通安全法改訂について取り上げ
 た。
  領海内を航行する外国の潜水艦には浮上航行を義務付
 けるとの項目が注目を集めている。
  2017年2月15日、全ロシア国営テレビ・ラジオのチャン
 ネル「ロシア1」は、中国の海上交通安全法改訂について
 取り上げた。
  現在、改定案で注目されるのは外国の潜水艦に関する
 規定で・・中国領海を航行する際には必ず海面へ浮上航
 行し、また、中国当局へ航行ルートの申請も必要だとい
 う。
  専門家は、昨年の南シナ海における米軍潜水ドローン
 拿捕(だほ)事件を念頭に置いた改訂だと指摘している。
  改定案では、外国籍船舶が法律、規定に違反した場合
 には当局が違法行為禁止を命令し、領海から排除できる
 と定めている。
  南シナ海尖閣諸島近海では、中国が領海を主張して
 いるが他国が認めていない海域が多く、海上交通安全法
 改定案は新たな火種となりかねない。
  とりわけ、南シナ海は、大規模な軍事衝突が起きかね
 ないとの懸念が高まっている。
.
2019年頃(2010年代後半)中国海軍は、アメリカ海軍の大
 型空母やイージス艦を撃沈できる精密弾道ミサイル長距
 離巡行ミサイルを、着々と増産してきた。
  これらのミサイルを多数、同時に発射されると、アメ
 リカ海軍のイージス・システムは対抗できない。
  2010年代の後半期になると、アメリカ海軍の空母や駆
 逐艦は「危なくて、東シナ海に近寄れない」という状況
 になる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)635E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)

題:(増補版)635E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年、演劇
明治座で歌舞伎役者の初世市川左団次一座が興行した
 (1896年9月25日)
  ちなみに、これが大評判で、25日間の興業切符の全部
 を売り切った・・
  このとき、近所のそば屋の印を押した切手を袋に入れ
 て頭取から配った・・これが、。
  明治座は、1893年に新築されていて、市川左団次(初
 代)は、座元(劇場所有者兼興行総責任者)として近代
 的な劇場経営を行っていた。
  そして、新作物中心の興行を推進していた。
川上音二郎が、東京神田に川上座を開場した(1896年7月
 2日)
  川上 音二郎(1864年2月8日~1911年11月11日)は、筑
 前黒田藩(福岡藩)出身。
  「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、
 新派劇の創始者
  この新派劇は書生芝居、壮士芝居と言われ、やがて新
 派となり、旧劇(歌舞伎)と人気を競った。
  1895年に、歌舞伎座の舞台で「威海衛陥落」を上演し
 た。
  歌舞伎の殿堂に素人あがりの役者が出るのは異例のこ
 とだった。
  劇通の人々を驚かせ、市川團十郎は、川上が歌舞伎座
 の桧舞台を踏んだことに激怒し、舞台を削り直させたと
 いう。
  1895年末に、泉鏡花の小説を舞台化した「滝の白糸」
 を浅草座で上演した。
  この作品は新派劇の代表的な演目となった。
  そして、1896年に、東京市神田区に川上座を開場する。
.
1896年、建設
日本銀行旧館(本館)の建物が完成した(1896年2月29日)
  当初は永代橋のたもとにあったが、手狭のため中央区
 日本橋本石町に移転し、建設された。
  この日本橋は江戸時代から両替商が軒を連ねていた場
 所で、金融機関が集まっていた。
  また、商業の中心地ともなっていた。
  設計:辰野金吾(工科大学:現東京大学工学部)教授
  構造:石積みレンガ造
  外装:花崗岩貼り
  工事費:112万円(当初予算は80万円であったが、この
 時期、物価上昇した)
  着工:1890年9月
  1891年に発生した濃尾地震の被害から建物の軽量化が
 図られた。
  1923年の関東大震災でも被害は無く、建物はびくとも
 しなかった・・ただ、近隣に発生した火災によりシンボ
 ルだった丸屋根が焼け、その後、復元したの屋根が現在
 に至っている。
  ちなみに、2階の廊下には代々の総裁の肖像画が展示さ
 れていたが、関東大震災ですべてが焼失し、現在の肖像
 画は、その後、再製されたもの。
  故人になられていた方は、写真から模写された。
  エレベーターや水洗便所など先進的な設備を取り入れ、
 また、防火シャッターやスチールサッシなど外国製品も
 採用した。
中央東線の笹子トンネルを着工した(1896年12月9日)
  長さ:4657,3メートル
  幅:4.58メートル
  煉瓦トンネル・石積坑門
  竣工:1902年10月
  日本人技術者による最新技術を駆使した鉄道トンネル。
  日本で初めてトンネル工事用の発電所を設けた。
  それにより、坑内に電灯を点灯し、電話も設備された。
  また、その電力による空気圧搾の削岩機を、はじめて
 電動機の使用によって掘削した。
  また、掘削土砂などの運搬車の牽引を電気機関車を運
 転して行った。
  明治政府によって、当初、東京~京都間の幹線鉄道計
 画は、東海道中山道の2つのルートが比較検討された。
  その結果、中山道の計画が選択された。
  1871年から踏査され、
  1874年、1875年とイギリス人建築師長R・V・ボイル
 が実施調査を進めた。
  しかし、資金不足のため建設は停滞する。
  1883年に測量を着手し、建設に着手すると、中部山岳
 地帯であること、および、碓氷峠が予想以上に難工事で
 あることが判明した。
  トンネルの掘削、そして、急こう配を克服しなければ
 ならない技術的課題が解決できなかった。
  この頃、トンネル掘削は手掘りで掘られていた。
  1890年代に入ると、工部大学校や東京大学の日本人技
 術者が育って来た・・お雇い外国人に代わって活躍する
 ようになる。
  1892年、鉄道敷設法が公布され、日本の鉄道建設の基
 本方針が確立した。
  また、鉄道の敷設は、経済的観点や軍事的観点からも
 その重要性が確認された。
  海岸線を通る東海道は、海から攻撃される弱点がある
 ため、東京から名古屋へ至る「第二の鉄道建設」が重要
 視された。
  そして、碓氷峠アプト式鉄道は開通し、新たな長い
 トンネルとなる笹子峠を貫くトンネルが計画・検討され
 た。
  建設費は400万円(現在の金額で230億円)と見積もら
 れた。
  鉄道庁は、トンネル掘削技術が未熟なことから1600メ
 ートルを越えるトンネル工事は避けて来ていた。
  また、アプト方式の経費は4分の1だった。
  しかし、アプト式の欠点は、輸送力が大幅に落ちる事
 だった・・
  碓氷峠で軍事輸送試験まで行った(東京日日新聞
 1893年8月29日)
  この結果を受け、政府は、中央線の鉄道建設を決定し
 た。
  1896年から中央線の建設工事が始まった。
  そして、この4656メートルの最難関工事の笹子トンネ
 ルの工事の成功か否かが、日本の鉄道建設事業の成功の
 命運を決める工事となった。
  日本の将来の鉄道網の計画に深くかかわる工事となっ
 た。
  大量輸送手段を方針とした鉄道建設事業だった。
  笹子隧道建設工事は、工部大学校を卒業した古川阪次
 郎の設計と監督(監督長)のもとで進められた。
  当時としては、まったく考えられない長い距離の掘削
 だった。
  トンネルの両側から進められた掘削・・古川は積極的、
 そして、意欲的に新しい技術を導入した。
  工事用の自家水力発電所をトンネル出口付近に建設し、
 前記したように、この電力を大いに活用した。
  電気雷管を用いた掘削も用い、三角測量にトランシッ
 トも初めて用いた。
  硬い岩盤と湧水に妨げられ、悩まされ、一昼夜の掘削
 進行がわずか30センチメートルという状況が数か月も続
 いた。
  しかし、予定工期が8年間のところを6年間で完成させ
 た。
  建設費は予定より少ない220万円であった。
  しかし、忘れてはならないことは、難工事だったこと
 もあって、この工事にあたって命を捧げた方が多かった。
  この工事犠牲者の方々の御冥福を祈らなければならな
 い・・この方々の命を犠牲にしてこの難工事は成就した。
  この命のお蔭で成功があり、今・現在の超電導リニア
 モーターカーの日本の誇る最新鉄道技術へとつながって
 いる。
  また、あなた方が、その便利さを、今、享受している
 「この記念碑的な難工事であった笹子トンネル工事で犠
 牲となった方々は100名を超えている」・・この尊い命を
 捧げて戴いた方々のこの人数も、記録から簡単に知る事
 が出来ない状況にと置かれている・・工事に殉じて亡く
 なられた方々をないがしろにしている。。
  また、その後、不運な事に、2018年12月2日、このトン
 ネルの天井版落下事故で9名の方々が亡くなられた。
  『津波の様に天井版が落下して来た』とNHKのニュ
 ースで、この事故に遭遇した方が証言していたが・・
  この証言の事実から分かる様に、隣の天井版が落下す
 る「その天井版を支えきれず」に、その隣の天井版とと
 もに、次々に落下して行ったという事が分かる。
  隣の天井版が落下したからといって、津波の様に次々
 に落ちるような天井版は欠陥である・・問題である。
  これは、天井版を吊るしていたアンカーボルトの耐力
 不足だと明らかに言える。
  ここに問題の根幹があると明らかに言える。
  一か所が落ちて、その隣も一緒に落ちるという支える
 役目のアンカーボルトの性能設計が欠陥である・・最悪
 である。
  このアンカーボルト部を含む吊り下げ部の設計ミスが
 原因である。
  まず第一に、アンカーボルトを上向きに使わせること
 を良しとした規準が良くない・・
  今後、アンカーボルトの上向き使用はさせないように
 しなければならない。
  特に、このトンネルの重い天井版の様な所に使わせた
 という「設計に問題がある」・・
  この重い天井版が、常に車の振動を受け・・
  また、走り去る車の風圧の変化をも受ける・・
  この様な作用による上下動を、常に受けて上下し、ま
 た、振動している。
  この様な作用を受け続けているアンカーボルト・・重
 い天井版は地球の引力も常にかかり、振動と、風圧変化
 の上下動の、それらの促進劣化が、耐力劣化が、進ませ
 られるという状況下にずーっとあった・・
  それが、経年において、アンカーボルトの耐力の維持
 の限界に達して行った・・限界に達し、維持されずに落
 下した・・そして、事故に至った・・
  接着剤で止めるアンカーボルト工法を「上向きに使っ
 て、支える機能を要求した設計の罪」である。
  どんな接着剤や糊でも・・経年において、剥がれるも
 のである・・それに振動などという促進劣化・促進因子
 が働いている・・そして、使われている向きが上向きで
 ある・・
  また、点検を目視検査とさせていたのもミスである。
  目視で分かるはずがない。
  明日、引き抜け落ちるボルトが分かるのだったら、こ
 の目視点検方法を教えてあげなくてはならない・・目視
 で分かるわけがない。
  結局、点検作業のミスにされた不合理がこの事故にあ
 る・・可哀想に・・濡れ衣である・・点検作業の会社に
 罪が着せられてしまった・・この誤った判決も歴史に永
 久に残るだろう。
  「接着剤のぬれ」の問題もある・・科学が進んだとは
 いえ接着剤の工法は信頼性が低いのだ・・など・・
.
  (今日の言葉)
.
  題:経年劣化しない接着剤があったら『奇跡だ』・・
    いつかは剥がれ・・いつかは落下する・・
.
1910年8月29日、日韓併合条約が公布された。
  日韓は、下記の条文の如く、対等の併合をした。
  NHKや読売新聞などは、「日本が、植民地支配をし
 た」と、日本や、韓国・朝鮮を貶(おとし)めるが・・
 間違い。
  日本は、日本と同等の国となった朝鮮・韓国を、大々
 的な資金投資して、日本と同じような国づくりを目指し
 行った。
  条文・・
  日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下は両国間の特殊にして
 親密なる関係を顧ひ相互の幸福を増進し東洋の平和を永
 久に確保せむことを欲し此の目的を達せむか為には韓国
 を日本帝国に併合するに如かさることを確信し茲に両国
 間に併合条約を締結することに決し之か為日本国皇帝
 下は統監子爵寺内正毅を韓国皇帝陛下は内閣総理大臣
 完用を各其の全権委員に任命せり因て右全権委員は合同
 協議の上左の諸条を協定せり
  第1条:韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権
    を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す
  第2条:日本国皇帝陛下は前条に掲けたる譲与を受諾し
    且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す
  第3条:日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太
    子殿下並其の后妃及後裔をして各其の地位に応し
    相当なる尊称威厳及名誉を享有せしめ且之を保持
    するに十分なる歳費を供給すへきことを約す
  第4条:日本国皇帝陛下は前条以外の韓国皇族及其の後
    裔に対し各相当の名誉及待遇を享有せしめ且之を
    維持するに必要なる資金を供与することを約す
  第5条:日本国皇帝陛下は勲功ある韓人にして特に表彰
    を為すを適当なりと認めたる者に対し栄爵を授け
    且恩金を与ふへし
  第6条:日本国政府は前記併合の結果として全然韓国の
    施設を担任し同地に施行する法規を遵守する韓人
    の身体及財産に対し十分なる保護を与へ且其の福
    利の増進を図るへし
  第7条:日本国政府は誠意忠実に新制度を尊重する韓人
    にして相当の資格ある者を事情の許す限り韓国に
    於ける帝国官吏に登用すへし
  第8条:本条約は日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下の裁可
    を経たるものにして公布の日より之を施行す
  右証拠として両全権委員は本条約に記名調印するもの
 なり
  明治43年8月22日 統監子爵    寺内正毅
  隆煕4年8月22日  内閣総理大臣  李完用
.
1943年頃、アメリカは、この頃から、国際法違反と知りな
 がら日本に対する戦争の戦術を変えた。
  国際法違反の「じゅうたん爆撃という爆弾を大量にば
 らまく戦術」・・一般市民の非戦闘員が、大勢、死ぬと
 分かっていても、この戦術を取るようになった。
  また、「集中砲火という弾幕を張るという戦術を取る
 ようになった・・
  それまでは、銃弾の命中率を上げるというやり方をし
 ていたが、それを放棄した。
  誰が死のうが構わないという戦術を取るようになった。
  また同様に、「火焔放射器という何もかもを焼き尽く
 すという戦術を取るようになった・・
  自分以外は何でもよいから焼き払ってしまえという戦
 術を採用した。
  スペインが、南米などで「人ではない」とキリスト教
 のローマ法王教皇)に言われて先住民のインディオ
 有色人種の方々を殲滅し全滅した考え方とまったく同じ
 考え方の方法だった。
  アメリカは、この様な挙げ句に「原爆を投下した」。
  当然、すべてが、何もかもが、蒸発して無くなった。
.
1943年、日本の努力・貢献で、大韓帝国(朝鮮王朝)の平
 均寿命が倍増した・・また、人口も倍増(2.6倍)した・・
  朝鮮・韓国の種々の事々が、目覚ましく改善した・・
  小学校数は、何と860倍となった・・
  NHKは、日本を貶(おとし)めてばかりいるが・・
  NHKは、日本が朝鮮・韓国を植民地支配したと放送
 をする・・これは大間違い。
  植民地支配は、英語で「コロナイゼーション」
 (colonization)と言い、文明の劣ったところへ行って
 収奪・搾取(さくしゅ)すること。
  ここには、現地を繁栄させるという考え方は、まった
 くない。
  日本が、朝鮮・韓国でしたことは「アネクゼーション」
 (annexation)であり、併合で、合併の意思があったが、
 当時の朝鮮・韓国の国力が劣り過ぎていて、この合併の
 形がとれず、この国力のあまりに違うことから併合とい
 う形となった。
  これは、植民地の形とはまったく違う。
  併合された地域と人々が繁栄する様にして、一つの国
 として運営された。
  ヨーロッパやアメリカが、アジアやアフリカでやって
 いたことは「コロナイゼーション(colonization)」で
 あり植民地支配で、植民地の人を使役して、搾取した。
  日本は、世界で唯一、『植民地支配しない国』であり、
 朝鮮や台湾で植民地支配をしていない。
  現地を繁栄させようとした日本だった。
  その結果、経済が発展し、また、教育や人口なども飛
 躍的に大きく発展した。
  日本は、日本の資金を持ち出し、必死に、資本を赤字
 覚悟で投下した。
  朝鮮・韓国の人口が、980万人から2500万人にびっくり
 するほど増加している(2.55倍)
  また、平均寿命は、24歳から48歳と倍に伸び、日本人
 並みになった(2倍)
  また、経済も年平均4%の経済成長率を記録した。
  また、日本は、教育熱心な国であり、分け隔てなく学
 校・教育へ投資した。
  併合時は、たった5校に過ぎない朝鮮・韓国の小学校数
 は、1943年には、約4300校の860倍という驚くべき増加ぶ
 りを示した・・
  すべての朝鮮・韓国の村々に、小学校を建設して差し
 上げた。
  また、兵役への志願状況を見ると、1938年に、朝鮮の
 志願兵制度が導入されたが、この年は、志願者が3000人
 に対して、合格者は406人で7倍の競争率だった。
  1944年の徴兵制施行の前年の志願者は、約30万人、合
 格者は6300人と50倍という高い競争率だった。
  この徴兵制度で徴兵された朝鮮の兵士は、ほとんど実
 戦の経験をすることなく終戦となった。
  尚、靖国神社には3万柱の朝鮮兵士が祀られている。
  日本と朝鮮は、同等の立場で一体となって戦った・・
 それを、卑劣にも戦後になって、韓国政府は「戦勝国だ」
 と何度もしつこく主張した。
  しかし、この主張は、アメリカに、その度ごとに何度
 も退けられた・・当然である。
  韓国という国は、この様に明らかに筋が通らないこと
 (嘘を)を言う国である。
  この様に、嘘を言うことを恥ずかしいと思わない国で
 ある。
  3・1に戦争反対・朝鮮独立のデモがあったとされる
 が・・デモを許す日本の公平さ・自由さもあったのだろ
 うが・・
  あまりにも針小棒大に誇張して、韓国政府が音頭を取
 って誤認混同させている。
  大多数のほとんどは、朝鮮・韓国の兵士の志願者数の
 データーを見る如く・・
  朝鮮・韓国は大挙して日本と一体となって戦っていた
 状況であった。
  何しろ、日本は、誠実に、何事も分け隔てなく朝鮮・
 韓国の国づくりをしていて、日本は、何処の国も植民地
 支配など微塵もしていない国である。
  NHKが、日本が植民地支配をしたと放送するのは、
 日本を貶める行為となっている。
  NHKは、この様な放送の仕方で日本を貶め、世界を
 繰っている。
.
1971年10月25日、国連の中国代表権は、中華民国政府(台
 湾)が有していた・・
  しかし、国連総会で中華人民共和国の中国代表権が認
 められ、台湾は追放されてしまった(アルバニア決議)
  1971年10月、国連総会で、アルバニアが提案した中華
 人民共和国の中国代表権を認め、中華民国政府(台湾=
 国民政府)を追放する決議が採択された。
  これによって中華人民共和国は、国連の常任理事国
 して国際社会に登場することとなった。
  1949年、中華人民共和国が成立すると国連の代表権が
 問題となり始めた。
  安全保障理事会常任理事国という重要な地位に、わ
 ずかに台湾だけを支配するにすぎない中華民国政府がつ
 いているという事態が問題とされた・・戦勝の歴史があ
 る台湾・国民政府がないがしろにされた・・戦勝国と敗
 戦国の理念で出来ている国連の根幹が無視された・・大
 きいとか小さいとかの問題ではない。
  ソ連は、中国代表権をただちに新政権に変更すべきで
 あると安保理で主張した、
  それに対して、アメリカは、強硬に台湾支持を続けた。
  ソ連は、安保理をボイコットする戦術をとったがその
 間に朝鮮戦争が勃発した。
  1953年の停戦後も、ソ連は代表権変更、台湾追放を主
 張した。
  1950年代の東西冷戦の深刻化した中で、中国代表権問
 題が激しい対立点となった。
  1956年、平和共存の状況となり、日本その他の諸国が
 国連に加盟した。
  加盟問題は安保理の事項であるが、代表権の変更であ
 るので、舞台は総会に移されることとなった。
  アメリカは、日本などと結んで総会で重要議案(議決
 に3分の2以上が必要)に指定し、台湾追放を阻止しよ
 うとした。
  しかし、1960年代に、新たに独立したアフリカ諸国な
 どの加盟によって、アメリカ・日本は少数派に転落した。
  カナダなどの諸国の寝返りの中国承認が続き・・
  ついに・・1971年の総会で代表権変更、台湾追放が採
 決された。
  こうして中華人民共和国は、安保理常任理事国とな
 り、世界の大国の一つと位置づけられることとなった。
  国連の中で、アメリカとそれに同調する日本などのグ
 ループが少数派になった・・その様な転換の中にあった。
  このような時、アメリカの外交戦略を練っていたキッ
 シンジャーは、その状況を予測し、日本には同意を得ず
 に(日本の頭越しに)米中の関係改善をはかった。
  同年・1971年、北京を訪問し、さらに
  翌・1972年、ニクソンの訪中が実現して・・中国を一
 つの国家と認めてしまった。
  そして、今、中国は、国際司法裁判所が否定しても南
 シナ海を占領し、軍事基地化はしないと表明していても、
 結局は、その言葉を嘘として、「しっかりした中国軍の
 基地としてしまった」。
  アメリカ軍も近づけない領域としようとしている。
  そして、1971年に、安保理常任理事国から中華民国
 (台湾)が外された時をもって、第二次世界大戦後の国連
 という『そもそもの理念が消えた』・・
  そして、この時から別の国連が始まった・・
  もはや、戦後ではなくなったのだった・・
  ならば、国連も、戦後ではないという国連にならねば
 ならない・・
  化石のように存在する「敵国条項」を廃棄せよ!・・
  日本やドイツを「敵国とする条項は陳腐化している」。
  むしろ、覇権主義の中国や北朝鮮敵国条項に入るべ
 き様相となっている。
  この不合理が解決しないならば、日本は、国連分担金
 の支払いを再考せよ・・もしくは、停止せよ!
.
2005年5月、犯罪の多NHK・・NHKの番組制作局の美術
 デザイン職員が自分で制作したコンピューターグラフィ
 ックスを装って制作費約470万円を着服した。
.
2014年9月初め、ウクライナ政府と親露派の間で停戦合意が
 成立したにもかかわらず、東部ウクライナは戦闘が散発
 的に続くという状態にあった。
.
2014年9月、アメリカ(有志連合)による「イスラム国」へ
 の空爆が始まった。
  中東は一挙に戦争状態となった。
.
2017年1月4日、中国での通州事件で、大勢の日本人住民が
 殺されたが、この日の産経新聞が、この事件は中国共産
 党の関わった、中国共産党に先導されて起きたことが判
 明したと報じた。

2019年2月27日、アメリカ国債をせっせと「買ってあげてい
 る日本」。
  アメリカは、国債を売って金を得ないとやって行けな
 い赤字国だ。
  日本が、その国債を買って支えている。
  しかし、このアメリカ国債が始末が悪い。
  値下がりするからである。
  円高ドル安で「どれだけ日本は損をした事か?」。
  逆に、アメリカは得をしている。
  日本に支えてもらっているアメリカとなっている。
  アメリカから買ってあげたアメリカ国債は、大雑把に
 言って『半値以下』になっている。
  そして、2019年2月27日の読売新聞に・・
  トランプ大統領の政策の影響で、アメリカ国債が売ら
 れていて、その金(かね)で金(きん・ゴールド)が買
 われているという・・
  経済アナリストの豊島逸夫氏が、以下の文を書いてい
 る。
  題:国家的「金・ゴールド」保有増に走る中国・ロシア
  中国、ロシア、そして、新興国が、外貨準備の中で、
 金を買い増し、ドル保有を減らしている。
  基軸通貨ドルへの信認が低下しているからだ。
  トランプ大統領の政策の結果、アメリカ国債が増発さ
 れる可能性が強いと考えられている。
  アメリカ国債の格下げのシナリオも語られていて、ロ
 シアや新興国が、ドルに代わるものとして、金を買って
 いる。
  さらに、中国は3兆ドルを超すダントツの世界最大外貨
 準備保有国となっていて、その大半が、対米貿易で稼い
 だドル。
  その結果、中国はアメリカ国債の最大保有国となった。
  そこで、中国人民銀行は金準備を増強させている。
  尚、アメリカ国債は、米中貿易戦争で中国の「武器」
 にもなっている。
  中国が、アメリカ国債ニューヨーク市場で売れば、
 ドル金利は急騰し、マーケットは大混乱に陥る。
  中国側の視点に立てば、金は発行国が無い「無国籍通
 貨」ゆえ、ナショナリズムの臭いがしないので、外貨準
 備として保有するには好都合・・
  大統領の言動で発行国通貨の信認が揺らぐこともない。
  ユーロ危機の時は、欧州国債が売られる中で、国際金
 価格が市場最高値をつけた事例もあった。
  そもそも金本位制は、過去の遺物となったが、各国は、
 下の表のごとく大量の金を外貨準備として保有している。
  アメリカは、「金廃貨(金は通貨にあらず)」を掲げて
 いるのに、外貨準備として8000トン以上の金を依然保有
 している。
  対照的に、外貨準備における金の割合が異常に低い国
 が日本。
  アメリカ国債保有を減らし、「金買い」に走ること
 を控えて来た(誠実な日本・・忠実な日本)
  トランプ大統領は「ドル安」を好んでいるが、アメリ
 カ国債を売られても困る。
  米国に遠慮することなく、金で資産防衛できるのが、
 個人投資家
.
  国別公的金保有量ランキング
.............金準備..外貨準備に占める金の割合
....米国......8133(t).....74.8%
....ドイツ....3369........70.1
....IMF....2814........----
....イタリア..2451........66.3
....フランス..2436........60.2
....ロシア....2113........18.5
....中国......1852.........2.4
....スイス....1040.........5.4
....日本.......765.........2.5
....オランダ...612........65.6
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)634E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)

題:(増補版)634E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1896年、出来事:
・第5代第2次伊藤博文内閣(~1896年8月31日)
伊藤博文の単独辞任により黒田清隆が臨時兼任(1896年
 8月31日~1896年9月18日)
・第6代第2次松方内閣(1896年9月18日~)
 松方内閣第十議会(氷川清話)
・拓殖務省台湾府を置く(氷川清話)
  台湾事務局関係事務と北海道拓殖事務を統轄する機関
 として拓殖務省(たくしょくむしょう)が設置された。
・日清通商航海条約調印(1896年7月21日、10月20日実施)
  下関条約に基づいて結ばれた。
  領事裁判権・協定関税・最恵国待遇を含む欧米諸国と
 同一内容の条約。
  日清両国人の共同経営事業についての規定、日本人の
 登録商標著作権保護の規定などを定め、追加条約も締
 結した。
・北海道鉄道敷設法の公布(法律第93号)(1896年5月14日)
  北海道の予定線6路線が制定された。
  「北海道官設鉄道」を整備するなかで、十勝線・天塩
 線・釧路線・富良野線根室本線・宗谷本線などが次々
 と開通した。
  産業の発展、人口の拡大とともに鉄道は、北海道全域
 へと広がりをみせた。
民法が公布された(1896年4月27日)
  明治29年法律第89号によって、民法第一編・第二編・
 第三編(総則、物権、債権)が定められた。
・郡司成忠(ぐんじしげただ)らが、再び、千島列島の最
 北の占守島(しゅむしゅとう)に上陸した(1896年8月)
  (参考)郡司成忠:日本海軍軍人、探検家、開拓者。
     1860年12月28日~1924年8月15日、
      開拓事業団「報效義会」を結成し、北千島の
     探検・開発に尽力した。
      小説家の幸田露伴は弟。
.
1896年、世界情勢
・朝鮮で露館播遷(ろかんはせん)(1896年2月11日)
  (参考)播遷:はせん、遠くさすらうこと。
  朝鮮国王がロシア公使館に移らされる・・
  朝鮮政府に好き勝手をしていたロシアの横暴。
  朝鮮の政治家の金允植(キム・ユンシク)は、穏健な
 開花的な人物だったが(科挙の試験にも合格し才能ある
 人物)・・、この時、朝鮮に親ロシア政権が成立させら
 れると、親日派だとして済州島に流刑された。
  この年、朝鮮民衆の抵抗行動が起きる。
・小林・ウェーバー覚書が成立(1896年5月14日)
 ソウルにおいて、日露間で朝鮮問題に関しての討議結果
 の覚書が締結された。
  ロシア公使館に幽閉的に居る朝鮮国王の還宮(げんぐ
 う、宮を元にもどす)の実現について・・など
・日露で山縣・ロバノフ協定(1896年6月9日)
  ロシアの干渉などで、李氏朝鮮の不安定な政治情勢が、
 日露間に種々の軋轢となっている・・そこで・・
  日露間で協定を結び、互いに朝鮮の独立を確認し合い、
 そして、朝鮮の立場を保証することを約した。
  また、朝鮮財政の悪い状態の改革を促進することを約
 した・・その他・警察・軍事・電信線維持などを約した。
・朝鮮の改革派が、独立協会を組織し、ロシアの横暴に対
 して立ち上がった(1896年7月)
  ロシアの横暴に対する反動・・
  軍事、財政、人事権にまで干渉するロシアを排除する
 ため、市民も参加し、万民共同会が開催され、多くの成
 果を上げた・・最初、懐柔策がとられるが・・しかし、
 結局、弾圧を受けて行く・・
・露清密約(1896年6月3日)
  李鴻章・ロバノフ協定ともいい、ロシアと清との間で
 秘密条約が結ばれていた。
  (ロシア側の代表は、外務大臣のロバノフと、財務大
 臣のヴィッテ)
  内容は、ロシアと清のいずれかが、日本と戦争になっ
 た場合、参戦の義務を負うという秘密条約だった。
  この条約の結果、この後に起きる日露戦争に、中国も
 参戦していて・・故に、実際は、日露戦争ではなく、日・
 露中戦争の状態となっていた。
  この秘密条約は、日露戦争(日・露中戦争)の原因の
 一つとなっている。
  ロシアは、この秘密条約の締結によって、大幅に満州
 地域の権益を中国・清に認めさせた・・不平等な条約(
 ロシアが東清鉄道敷設権を獲得)
  これは、ロシアが三国干渉で日本から遼東半島を取り
 返したことへの見返りという要求の仕方で、実現したも
 のだった。
  この東清鉄道は、シベリア鉄道のチタ(ザバイカリエ
 地方の首都)から分岐して、満州の西北の満洲里(まん
 しゅうり)から東南の綏芬河(すいふんが)の間を横断
 し、ウラジオストックに至る本線と、中間のハルビン
 ら遼東半島の旅順・大連を結ぶ南満州支線からなってい
 る・・ロシアの広域な作戦行動ができる計画・・ロシア
 の支配権を強烈に実施し得るように計画された。
  この年に、ロシアは本線の施設権を得て・・そして・・
  支線は、この後の1898年に、イギリス・フランス・ド
 イツ・ロシアの列強4か国が、中国分割をした時、ロシア
 が得た遼東半島南部の租借権とともに、敷設権を清に認
 めさせた。  
  (参考)中国分割:ドイツは膠州湾、イギリスは威海
     衛と九竜半島北部地域、ロシアは旅順・大連、
     フランスは広州湾というように・・
      この列強4ヶ国が、中国のそれぞれの租借地
     好き放題に獲得した。
・プレッシー対ファーガソン裁判
  黒人の方々の努力して得た既得権利を無効化して人種
 差別を認めた裁判(1896年5月18日)
 「分離はするが平等」の屁理屈判決だった。
・イエロー・ジャーナリズムの競争が熾烈となる・・
  日本も、この嘘報道に大いに影響を受けた。
  「イエロー」は、「ニューヨーク・ジャーナル」と「
 ニューヨーク・ワールド」が「イエローキッド」の色刷
 り漫画を奪い合って掲載した事から名付けられた・・が・・、
  煽情的な、そして、興味本位の新聞編集と記事を売り
 物として・・嘘も交えて記事にするという破廉恥な報道
 だった。
・アラスカで金鉱が発見された。
  アラスカを、アメリカはロシアから購入(1867年3月
 30日調印)したが・・、
  そのロシアへ投資した720万ドルで買ったアラスカで、
 1896年、金鉱が発見された。
  また、この金鉱だけではなく「資源の宝庫」であるこ
 とが判明した。
  買った当時、国務長官のウィリアム・H・スワードは、
 「巨大な保冷庫を購入した」とアメリカ国民に非難され
 た。
  当然、資源の発見でスワードの評価が高いものに変わ
 った。
・フィリピン革命(1896年8月23日)
  フィリピンでカティプーナン党の反乱
  アメリカの卑劣な裏切りの嘘つき行為が行なわれた・・、
  フィリピンの方々は、一生懸命にスペインと戦い、ア
 メリカの味方をした・・血を流した・・が・・アメリ
 の裏切りで、フィリピンの方々は、この卑劣なアメリ
 とまた戦うということとなった。
・フランスがマダガスカルを植民地化した(1896年8月6日)
  フランスは、自国な強大な武力を背景に、アフリカ西
 部、インド洋上の島々、東南アジアなどをフランス領と
 し、また、植民地とした。
  その解放は、第二次世界大戦後の日本の戦いの後とな
 る。
・イギリス・ザンジバル戦争(1896年8月27日)
  この戦争は、38分から45分で終了し、史上最短の戦争
 と言われている。
  この様に武力差の大きい状態の弱小相手を牛耳るとい
 う卑劣さだった。
  イギリスが、国益を得ようとした戦争。
・第一次エチオピア戦争: アドワの戦い(1896年3月1日)
  イタリアのエチオピア征討軍が、アドワで大敗した。
  エチオピア軍の輝く勝利・・白人の横暴を挫(くじ)
 いた。
.
1896年、データー
・都市の人口:東京134万2,152人(別データ136万5,068人)、
 大阪49万人、京都33万9,896人、名古屋20万9,270人
華族の数:2,745人、
・紡績工場の数:63、
・米一石の値段:約9円~10円、
・電気事業者:火力発電23カ所、水力発電7カ所、水・火力
 併用3カ所、
・電灯数12万余
特許法を施行して十年が経た。出願は1万に達した。
  (時事新聞が、くだらないものばかりと報じた)
.
1896年、産業
川崎造船所(後の川崎重工業) が設立された(1896年
 10月15日)
・日本で初の電力会社・東京電灯が営業を開始した(1896
 年7月5日)
・東京電灯・浅草発電所で国産初の発電機を使用した。
・電気事業取締規則が公布された(逓信省令第5号)
  電気事業の創業当初は,電気工作物に対する保安取締
 りが主たる行政だった。
・電気事業者の監督行政が全国統一化
.
1896年、経済
・ダウ平均株価が初めて発表される。
 ダウ・ジョーンズ社が開発した。
 当初は12銘柄による平均株価としてスタートした。
 この頃から今でも残っているのはGEの1銘柄だけ・・
 でも、長い歴史の中で、GEは構成銘柄から2回外れた。
.
1896年、交通
台湾総督府鉄道局告示(1896年7月3日)
  台湾鉄道会社を、1896年5月に発起し、南北縦貫鉄道建
 設を請願し、政府もこれを許可したが、株式募集は進展
 しなかった。
  総督府後藤新平民政長官は、重要事業の鉄道建設は、
 民間会社では不可能と判断し、公債を募集したりして積
 極的に進めた。
東海道線の本格的な改良工事に着手した。
  この年度から7か年継続事業として可決された。
衆議院議員・望月右内は、政府提出案と並んで鉄道敷設
 法第2条の改正案を議会に提出(未成立)
・軌制取調委員、広軌狭軌の得失をはじめ広軌改築の方
 法および経費など審議。
・仙石貢「広軌鉄道ニ関スル意見」、南清「広軌鉄道ニ係
 ハル意見」、白石直治「広狭軌道比較論」を軌制取調委
 員に提出。
・東京中野に鉄道大隊編成(陸軍)
山陽鉄道兵庫工場で1B1形タンク機関車(のちの850形)を
 製作。
日本郵船が、欧州定期航路を開設した(1896年3月15日)
  そして、日本郵船は、また、豪州航路を開設(1896年
 10月)
  2年間の激しい競争の末、日本郵船ボンベイ航路は、
 国際的に認められ、近海の海運から遠洋の海運へと事業
 は拡大して行った。
  続いての挑戦したのが・・欧州航路だった。
  日本郵船は、1896年、ロンドン支店を設置し、土佐丸
 をヨーロッパに向け出航させた。
  しかし、またしても欧米の海運会社による組織が、既
 得権を主張し、復路(東航)のロンドン、往路(西航)
 の上海寄港を阻止してきた。
  最大の貨物集積地に寄港できないことはビジネス上大
 きなマイナスだったが、その相手を刺激すればビジネス
 そのものができなくなる。
  屈辱的な条件のもとで、運航を続けながらも、日本郵
 船は船隊の拡充を進めて行った。
  信濃丸を含む13隻が揃い、総トン数で欧州海運会社に
 匹敵する体制ができあがって行く。
  こうなっては対抗相手側も、日本の海運を対等の競争
 相手と認めざるを得なかった。
  1902年、日本郵船は、欧州極東往航同盟への正式加入
 を果たした・・これを契機に、海外への航路網を飛躍的
 に伸ばして行った。
.
1896年、論・文学・本
宮沢賢治岩手県に生まれた(1896年~1933年)
・立花銑三郎がダーウィンの著作を「生物始源(一名種源
 論)」という題で、日本初翻訳した(1896年3月22日)
  夏目漱石と同級生で、また、行く時期はずれたが、共
 に、ドイツとイギリスへ留学している・・そして、その
 翌年(1900年)、遅れて来た漱石と対面している。
樋口一葉が亡くなる(24歳)
  才能ある女性・・その才能が輝いた一時を「奇跡の14
 ヶ月(1年2ヶ月)」と言われている。
  才能の輝くこの女性は、母より2年も早く、惜しくも24
 歳の若さで世を去った・・樋口家の菩提寺である築地本
 願寺別院で眠っている(後に、杉並区永福の築地本願寺
 和田堀廟へ)
  一葉の妹・くには、一葉の草稿・日記・反古紙の保存・
 整理に尽力されている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:満州人が居なくなった理由は、中国は人民浄化を
   していた・・不明だったことが判明した・・
.
325年、ニーケア公会議
  公会議は、キリスト教の最高の会議である。
  この年、ニーケア公会議という会議が開かれて、何を
 討論し、何を決めたのか?と言えば・・、
  「イエスは、人か?」、または、「神か?」という議
 題だった。
  討論の結果、「人だ」としたアリウス派は、異端とさ
 れ、キリスト教ではないと放逐された。
  そもそも、神らしさのないイエスに問題があったのだ
 ったが・・この後、イエスの神格化が進められた。
  そもそも、イエスを書いた「福音書」が、「ただの人
 間のように書いているから問題があったのであって」、
  最近でも、キリスト教は、「尊敬語」や「丁寧語」に
 福音書を書き改めようと、最近になって書き改める事を
 決めたくらいであった。
  キリスト教の信仰の基本であるキリスト教の聖書は、
 「無謬だ」と言って「間違いは少しも無い」と言ってい
 ながら、よく書き改められる。
  ある宗派は、キリスト教の聖書を、全面的に書き換え
 たくらいである。
  4つある福音書も、イエスの捉(とら)え方は、まち
 まちで、皆、好き勝手な立場でイエスを描いている。
  故に、書かれてから200年以上も経って、公会議を開
 いて、討議し、決定しなければならない羽目になったの
 だった。
  イエスは、「主(神)」を祈った。
  故に、この一神教で良い訳なのだが?
  この300年も後に、イエスも神となった。
  キリスト教の神だとされた。
  二神教である(主とイエス)。
  しかし、キリスト教とは、この様に、キリスト教の根
 本が、コロコロと代わる宗教なのだが?
  (何が無謬だと問いたい・・が?)
  だが・・この後・・また・・
  「聖霊」なる不思議なものが浮かび上がる。
  「この聖霊も放っておけない」という話になった。
  この聖霊は、「主(神)の意思を、奇跡の形で伝える
 不思議なものなので、放っておけない」という訳だった。
  そして、三神教となる。
  しかし・・このおかしさ?を・・一神教に戻す話を、
 アタナシウスが行なった。
  あみ出されたのが、「三位一体神」である。
  「三つの神は一神なのだ」という話(説?)である。
  今・現在、キリスト教は、この形の神をキリスト教
 神だとしている。
  しかし、キリスト教の最高の立場にいるローマ法王が、
 銃弾に撃たれて倒れた時、命は取り止めたが、この時、
 このローマ法王の言った言葉が、「黒マリア様に命が救
 われた」だった。
  ローマ法王は、「三位一体神のお蔭だ」とは言わなか
 った。
  毛また、次なる一つの神が、キリスト教に出現した瞬
 間だった。
  325年のニーケア公会議で決定がなされたが・・、
  それ以後のキリスト教の内部では、この様な大事な根
 本の信仰対象の神に対して、この様にごたごたと揉めて
 いた。
  その最初が、約60年後の381年に、再度、コンスタンテ
 ィノーブル公会議で、再確認がなされなければならない
 という状態がすでにあった。
  やはり、キリスト教の信仰の根本の神の形のごたごた
 話しだった。
  この後、キリスト教という宗教によって、多くの有色
 人種を含む「種々の人々」が、殺戮されるという歴史が
 展開する・・
  このようになるとは、誰も予測はしていなかった・・
.
15世紀、ヨーロッパに魔女裁判が起き、盛んになって行く。
  拡大するキリスト教の資金集めからの行為だった・・
  ヨーロッパの中世の末の15世紀には・・、
  悪魔と契約してキリスト教社会の破壊を企む背教者と
 いう新種の「魔女」の概念が・・
  キリスト教聖職者によってつくられ・・生まれた。
  そして、それとともに、最初の大規模な魔女裁判が、
 キリスト教の教会内に作られ、起った。
  初期近代の16世紀後半から17世紀にかけて・・
  『魔女熱狂』とも、『大迫害時代』とも、呼ばれる魔
 女裁判の最盛期が到来した。
  (資 料ー1) : 
  女性の悲劇の到来だった・・
  ヨーロッパ・キリスト教国の女性には、拷問を伴う魔
 女裁判という怖ろしい、そして、悲しい歴史がある。
  中世の女性方は、震え怯えて過ごしていた・・
  今、日本では、「美魔女」などと、安易に魔女という
 言葉を使っている・・が・・
  題:キリスト教国における、キリスト教による魔女裁
 判
  16世紀のなかば、トレドのキリスト教の異端審問で、
 エルヴィラ という人妻に対して行われた「尋問」のその
 経過を、忍耐強い書記が、被告の悲鳴や絶叫にいたるま
 で、細大洩らさず書きとめた長文の記録がある。
  そのキリスト教の裁判には、拷問が必ず行われた。
  以下その『一部』・・
  ・・(エルヴィラの両腕を縛った綱がさらに締め付けら
 れ、捻じられる。悲鳴。)
  「裁判官さま。何を申し上げたらいいか、言ってくだ
 さい。私がどんなことをしたのか私にはわからないので
 す。綱をゆるめてください、本当のことを申しますから。
  何を言えとお望みなのか、私には分かりません。おっ
 しゃってください。その通りに申します。」
  (さらに綱が締められる。「真実を言え」と迫られる。
 「どう言ったらいいか教えてください。何でも申し上げ
 ますから」と彼女は繰り返す。)
  (「おまえは豚肉を食べただろう」と誘導される。)
  「いいえ、食べた事はありません。豚肉を食べると私
 は気持ちが悪くなるのです。豚肉は好きじゃないんです。
 私は何も悪い事はしていないんです。どうぞ放して下さ
 い。何でも申しますから。何を申し上げれば宜しいので
 すか。何を言ったらいいのか分からないんです。言って
 下さい。何でも申します。放して下さい。何でも申しま
 す。・・・言って下さい、言って下さい。」
  (綱はゆるめられず、「キリスト教カトリック教会に
 そむく事をしただろう」と尋ねられる。)
  「放して下さい。・・・(うめき声)・・・ここから
 おろして下さい。何を言ったらいいか、言ってください。
  ああ・・・苦しい。
  お望み通りのことをみんな申し上げますから・・・。
  裁判官さま、もう腕が砕けます・・・。ゆるめてくだ
 さい・・・」
  (「お前がした事を詳しく言え」と迫られる。)
  「何を申し上げたらいいのか・・・。そうです、いた
 しました。
  なんでもいたしました。・・・ああ、ゆるめて下さい。
 申し上げねばならない事が、私には思い出せないんです。
 弱い女の身です。腕が砕けそうです。弱い女に、憐れみ
 をお持ちではないのでしょうか。・・・」
  (裁判官は、「本当の事を言えば憐れみを持つであろ
 う」と言う。)
  「裁判官さま、言って下さい。本当の事というのを教
 えて下さい・・・。
  (泣きむせぶ)・・・分からない・・・何を言ったら
 いいのか・・・。」
  (同じ言葉の繰り返しと拷問が続いたのち、「おまえ
 は土曜日に麻の着物を着替えただろう」と尋ねられる。)
  「はい、着替えました。着替える時が来ていたからで
 す。悪意があっての事ではありません。何をお考えにな
 っているのでしょう。・・・」
  (裸にして拷問台に寝かされる。四肢は四方に、綱で
 引っ張られる。口に水管が差し込まれ、水差しから水が
 注がれる。その合間合間に彼女は前と同じことを繰り返
 えされる。ここで、拷問は一時「中断」。)
  それから4日後、拷問は再開された。              
              岩波新書魔女狩り」より
  (資 料ー2):
  魔女にした女性を裁くキリスト教裁判所・・、
  そのキリスト教聖職者の裁判官は、魔女にされた女性
 が、焚刑になる前の日、「天国へ召されるように」と、
 魔女にされた女性の体を奪う。
  結局、自分の子と一緒に魔女にした女性を殺す事をす
 るキリスト教聖職者。
  キリスト教聖職者の子を宿して魔女にされた女性は、
 公衆の面前で焚刑で殺される。
.
16世紀、キリスト教宗教改革派は、聖母崇拝を廃止し、
 禁止した。
  しかし、逆に、キリスト教カトリックは、これを奨励
 した。
  ローマ・バチカンから発信された聖母像が世界的に伝
 播させる行為を行なった。
  そして、それが、日本に入って来た。
  また、キリスト教カトリックのスペイン人は、その聖
 母像を持って、南アメリカなどメキシコからアメリカ大
 陸の南端まで50年間におよぶ、殺戮の侵略をする。
  土着文化を破壊し、先住民の住民の方々を殲滅して行
 く・・そして、先住の民を奴隷にし・・自己の利を求め
 て「征服し」「土地を奪い」「奴隷取引をした」。
  16世紀半ばから末に、日本へ聖母像(マリア像)を持ち
 込んだ。
  16世紀~17世紀、布教において聖母像を多く利用した。
  それは、それが効力を発揮するからと・・やった。
  また、それは、節操なく土着の宗教と習合した・・
  自分の宗教を守ることに対して、節操なく破った・・
 キリスト教は大地女神信仰となった。
  自らのキリスト教教義には無頓着だった・・都合が優
 先した。
  そして、マリア像も節操なく変形を遂げた。
  キリスト教が、ヨーロッパへ浸透する際も、あちこち
 の土着のヨーロッパの土着の宗教と習合し、同時に、土
 着のケルト人の方々を駆逐し殺戮した。
.
1776年7月4日、アメリカの独立を宣言する文書が採択され
 た。
  イギリスによって統治されていた北アメリカの13の植
 民地が、独立したことを宣言する文書が、この日(1776
 年7月4日)、大陸会議によって採択された。
  7月4日は、「アメリカ合衆国独立記念日」とされて
 いる。
  そして、アメリカの歴史が始まる・・が・・
  アメリカの歴史は、アメリカ政府とロスチャイルド
 どイギリスの銀行家との通貨発行を巡る戦いだった。
  18世紀のこのアメリカの建国以来、20世紀の初頭まで
 その長い戦いはなされた。
  しかし、巧妙に戦ったロスチャイルド側の勝利に終わ
 った・・アメリカ政府は敗れた。
  1913年に、ロスチャイルド系銀行を中心とする国際銀
 行家たちが、中央銀行の設立に成功してドルの発行権を
 握った。
  アメリ中央銀行は、FRB連邦準備銀行、連邦準
 備制度理事会などの呼び方がある。
  これは、100パーセントの民間銀行である。
  株主は秘密にされているが、種々の情報から「ロスチ
 ャイルド系銀行」が主な株主である。
  これが、世界の基軸通貨の米ドルを印刷し、発行権を
 持つ者となっている。
  どんどん刷ってもよく、そして、刷って世界の皆に渡
 している。
  毎日、値動きする交換レートで日本円にも替えられる。
  「打ち出の小槌(こづち)」現象となっている。
  あなたの家にも、この様な輪転機があったら、嬉しい
 でしょう・・?
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1895年11月28日、春生門事件
  朝鮮の露米両公館に潜伏していた李範晋・李学均・李
 允用・李完用、侍衛隊教官アメリカ人ダイ、アメリカ人
 宣教師等は、朝鮮王・高宗を強引に奪った・・、
  また、金弘集総理らを殺害しようとしたカウンター・
 クーデターをした。
  親衛隊大隊長の李軫鎬の内通により、失敗に終わり、
 ロシアの公使館やアメリカの公使館に逃げ込んだ。
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2019年、満州人が居なくなった理由は、中国は人民浄化を
 していた・・不明だったことが判明した・・
  それは、満州人の男だけを移住させて・・、
  女性だけが残った満州へ、漢民族の男を送り込んだ。
  そのことを強制的にしたので満州人が居なくなってし
 まった。
  それを、今・現在、チベットウイグル内モンゴル
 がやられているという。
  https://www.youtube.com/watch?v=u2xw-Ma9ysY
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2019年2月19日、杉原千畝の記念碑が撤去された。
  キリスト教が、杉原千畝キリスト教徒だとして美化
 して来た杉原千畝イスラエルの記念碑が撤去された。
  「ユダヤ人の恥だ」という批判があった。
  この日の読売新聞が伝えた。
  ナチスの迫害から多くのユダヤ人を救ったとして、イ
 スラエル中部ベトシェメシュに設置されていた外交官の
 杉原千畝の記念碑などが撤去されていることが判明した。
  地元メディアは「ユダヤ人の恥」などと批判した。
  記念碑の設置は、イスラエル政府が1985年、戦時中に
 ユダヤ人を救った人として杉原千畝を顕彰した事を受け
 て行なわれた。
  松なども数百本を植樹した。
  式典には、杉原氏の親族ら約40人が出席した。
  しかし、今年1月、記念碑などが無くなっていることに
 ユダヤ人関係者が気づいた。
  調査をすると、約10年前に記念碑は撤去され、植えた
 林の一部も伐採されていたことが分かった。
  施工業者はすでに倒産していて、経緯は不明で、記念
 碑は廃棄されたとみられている。
  イスラエル政府はこの経緯を把握していたとみられる。
  地元主要紙やテレビ局などは「ユダヤ人として恥ずべ
 き事実だ」などと批判した。
  生存者の親族は「信じがたい事実だ。恩人に申し訳な
 い」との声、また、杉原氏の四男は「植林を通じて悲劇
 の歴史を次の世代に伝えたいという思いがあった。撤去
 は大変ショックだ」と話した。
  (意見)この杉原千畝の話は、事実が最初から捻じ曲
     げられていて、特に、嘘を交えて、恣意的に美
     化されている問題点がある・・そして・・
      キリスト教の運動方針から、同時に、日本と
     いう国を貶(おとし)めているという卑劣な行
     為がある。
      故に、事実が判明して、この様な嘘行為や貶
     め行為が明らかになると、全体が汚い行為とし
     て現実化して来た。
      最初から、誠実に、真実を伝えなかったツケ
     が、今の姿となっている。
      この様な事態になっても、まだ、これを伝え
     た読売新聞でさえ「何かに遠慮しているのか?」
     嘘解説を報じている。
      読売新聞が・・
      「日本政府の意向に反して独断で通過ビザを
      発給した」と記しているのは「嘘記事である」。
      杉原千畝は、「ビザの発給権限を持っていな
     かった」。
      その様な立場・役職の外交官だった。
      その権限を越える行為をしようとするから、
     日本政府がその様な行為はするなと言ったまで
     の事で・・、
      大切なことは・・この時、日本の大使館は、
     どこでもユダヤ人の方々にビザを発給していた。
      読売新聞は嘘を思わせるヨタ記事となってい
     る。
      満州に逃げて来たユダヤ人の方々を歓迎して
     日本の軍隊が迎えに出ている・・出迎えの車を
     差し向けることまでして・・そして、日本の取
     り計らいで神戸まで安全に来てもらって、歓待
     し、安全に居住して戴き、処遇させて戴いてい
     る。
      日本を貶める者たちを糾弾する。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/